第33話
次の日、つまり夏休み初日。
僕と海名は桐坂高校へと向かっていた。海名が「粥波さんが自殺した現場を見に行きたい」と言ったためだ。ちなみに海名は市外の女子高に通っているそうで、そこも今日から夏休みとのことだった。
行き先は昨日のうちに聞いていたため、僕は今、制服を着ていた。海名は桐坂高校の生徒じゃないし、どんな格好で来るのかと思っていたが、
「それ、海名が通ってる女子高の制服か?」
「ええ、そうよ。……似合っていないかしら」
海名は真っ白なセーラー服を着ていた。胸元の若葉色のリボンや紺色のロングスカートは上品で、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
似合っているかと訊かれたら、間違いなく似合っているのだが、僕が話題にしたかったのはそこではない。
「これから行く桐坂高校だが、女子の制服はブレザーなんだ」
海名の女子高もブレザーであれば、多少は誤魔化しも効いたかもしれないが、セーラー服となれば、見た目が明らかに違う。これから校内に足を踏み入れるわけだが、誰がどう見ても、彼女が桐坂高校の生徒だとは思わないだろう。
「他校の生徒が校内に入ってはならないという決まりはないでしょう? それに、もし誰かが私に気づいたとしても、生徒のあなたが一緒にいてくれれば大丈夫よ。『ガールフレンドに僕が通っている高校を見てもらいたくて案内している』とでも言ってくれれば尚更安心ね」
「……勘弁してくれ」
「ふふふ。冗談よ」
あれこれと雑談しているうちに、桐坂高校の校門に着いた。
時刻は十時過ぎ。グラウンドから運動部の生徒たちが練習する声が聞こえてくる。
僕らは下駄箱に行き、靴を履き替える。僕はいつも履いている上履きに、海名は鞄の中から取り出したスリッパに。家から持ってきたのだろう。さすが準備がいい。
「こっちが教室棟で、あっちが実習棟だ。どっちの屋上から見る?」
粥波が飛び降りた屋上を見ると一口に言っても、教室棟の屋上か、実習棟の屋上か、どちらの屋上から粥波が飛び降りたのかまで僕は知らない。昨日の時点では両方とも見て回ろうという話だったが――。
中庭のほうをじっと見ていた海名は、履いたばかりのスリッパを脱ぐと、
「先に中庭を見ましょう」
そう言って彼女は再び外靴を履くと、中庭に出た。
「どうして中庭を?」
靴を履き替えて彼女の後を追った。
「私の考えが正しければ、おそらくこの中庭のどこかに――」
海名は校舎のそばの草むらに目を落としながらしばらく歩き回る。昨日の夕立ちの影響か、草は所々濡れていた。
「あったわ」
彼女の視線の先にあったのは、小さな墓石だった。手のひらに載るほどの大きさではあったが、「粥波摩耶」と刻まれた立派なお墓である。
しかも、墓の前には白い花が供えられていた。
「この花は……」
「カモミールね。まだ新しいわ」
海名が言う。
確かに、ここに置かれてから一日も経っていないように見える。周りの草のように雨に濡れた跡がない点からも、昨日の夕立ち以降に置かれたものであることが分かる。
「誰が供えたのかしら?」
「校長だろうな」
今この学校に在籍している人物の中で、粥波と直接関わりがあったのは、当時彼女の担任教師をしていた校長だけと思われる。
「当時の彼女のクラスメイト、ということも考えられるんじゃない?」
「学校の敷地にわざわざ入ってか?」
「それほど仲のいいクラスメイトだったのかもしれないわ。お墓に花を供えたいと申し出たら、校長先生も無下にはできなかったでしょうし」
いずれにせよ、粥波がこの墓石のそばに落ちて死んだのは間違いなさそうだ。
となると――、
「飛び降りた屋上は、教室棟のほうか」
実習棟の屋上からは離れすぎている。人が飛べる距離じゃない。
僕は真上を見た。灰色の校舎は、今にも曇り空に呑み込まれそうなほどに脆く見える。
「――行きましょう」
墓石に両手を合わせていた海名が、立ち上がって、来た道を引き返す。
僕も後に続いて教室棟に入った。
校舎は三階建て。屋上へは三階からさらに階段を上る。これは実習棟も同じである。
屋上に続く扉は古く、所々に傷があった。ドアノブだけが妙に新しい。
ドアノブを捻って扉を押し開ける。普段から鍵はかかっていない。
「今、すごい音がしたけれど大丈夫?」
後ろにいた海名が言う。
扉を開ける際に、ギギッと異音がしたことを言っているのだろう。ここの扉は建て付けが悪いのだ。
そのことを彼女に伝えると、「そうなのね」と首を縦に振った。
僕らは屋上に足を踏み入れた。
「――夢がないわね」
屋上を見た海名の第一声はそれだった。
「どういう意味だ?」
「屋上と聞くと、開放感があって、空気が澄んでいて、空と一体になれるようなところを想像していたけれど、この屋上は違うわね。開放感はまるでないし、そのせいか空気も澱んでいるように感じられるし、空と一体になっている気分も味わえない」
海名がそう言いたくなる気持ちもよく分かる。事実、この屋上に人は滅多に来ない。生徒たちに不人気なのだ。
原因は、四方に張り巡らされたフェンスだ。背丈は五メートルを超える。頭頂部は内側に大きく曲がった鉤爪のような形になっている。生徒がよじ登るのを防止するためだろう。
「海名の高校に、屋上はないのか?」
「あるけれど、立ち入りが禁止されているわ。今日は屋上が見られると思って少し楽しみにしていたのに残念だわ」
海名は肩をすくめる。どこまで本気で言っているのか分からない。
「この辺りかしら」
中庭にあった墓石の位置から、屋上のどこから飛び降りたのかおおよその目安はつけられる。
「間近で見ると、かなり高いわね」
フェンスに近寄った海名は頭上を見てそう呟くと、突拍子もない行動に出た。
「ちょっ、何してるんだ!?」
彼女はスリッパを脱いで、金網の菱形の隙間に己のつま先を入れたのだ。
「見て分かるでしょう。登れるかどうか確かめるのよ」
海名はつま先に力を入れてフェンスにしがみつこうとするが、上手くいかないようだ。
「金網がつま先に食い込んで痛いの。スリッパを履いてだと、もっと難しいでしょうし……。綿鍵君、登ってみてくれる?」
「待ってくれ。その前に聞かせてくれ。どうしてフェンスに登れるか確かめる必要があるんだ?」
「粥波さんはこのフェンスを乗り越えて飛び降りたのよね。本当にこれほど高いフェンスを登れたのか確かめようと思ったの」
ああ、そういうことか。
だけど海名。その考えはおそらく間違っている。
「粥波さんが飛び降りたとき、フェンスはなかったんだ」
「フェンスがなかった……? このフェンスは実は取り外し可能で、文化祭最終日の夜には取り外されていたと、そういう意味かしら?」
「そうじゃない。粥波さんが自殺をしたのは二十八年前。そのときにまだフェンスは設置されていなかったんだ」
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