第12話 雨宿りと『さわやかな臭い』

 慈悲の雨はまだ降り続いていた。それは聖なる森に燃え広がった炎を消した後、柔らかな霧のようなものへと変わって大地をぬらし続けていた。

 ルーグとリセルは「神の山」を下った山道から外れ、二人の背丈を優に超える巨石と巨石の間にできた、小さな空洞を見つけてその中に入りこんだ。


 日没が間近に迫ったので周囲は急速に薄暗さを増している。

 雨も止まないことだし、今日はひとまずここで夜を明かそう。

 ルーグの言葉にリセルは小さくうなずいた。いや、ルーグの言葉を半ば聞いているようで実はあまり聞いていなかった。

 気付いたらルーグに手を引かれて、巨石の作り出した空間に足を踏み入れていた。そこは決して広くはないが、ルーグが背中を丸めずに立つことができる高さがあった。


「ありがたい。ここは地面が乾いてるな」


 ルーグは食料と水が入った小さな皮袋を地に置き、濡れぼそった前髪をかきあげて雫を払った。


「……くしゅん!」


 リセルはルーグが白い手袋をはめている方の手――左手で、口元を覆うのを見た。リセルの視線に気付いてルーグが気まずそうに肩をすくめる。


「すまん。ちょっと土ぼこりを吸ってしまったようだ。そうだリセル。火を起こしたいから枯葉が落ちていたら集めてくれないか」


 ルーグはしゃがみこんで、空洞の入口に吹き寄せらせていた細い小枝や枯葉を拾い集めている。

 リセルは言われた通りにしようとして、だが、全身濡れ鼠になっている状況に我慢がならなくなった。何より髪や服が濡れているせいで寒い。

 ルーグがくしゃみをしたのも埃ではなく寒さのせいだろう。

 こんな状況になったのはリセルのせいだが、僅かばかりの枯葉や枝を燃やしたところで、服を乾かすほどの火力が得られるとは思えなかった。


「ルーグ。ちょっと」

「何だ?」

「そのまま立っていてくれ。動かずに」

「ええっ?」


 リセルはルーグの肩に触れないように指一本分ほど離れた所で右手をかざし目を閉じた。

 一瞬でも気が逸れると、彼を丸焼けにしてしまう。

 リセルは蝋燭を吹き消すように、そっと火を司る精霊の名を呼んだ。


「ウィル・リト・エルド」

「……リセル?」


 狼狽するルーグの声と共に、リセルは暖炉の前にいるような熱と暖かさを感じた。それは春風のように二人を包んで外へと通り抜けた。リセルは軽く息をついて目を開けた。


「何をしたんだ? 今?」


 ルーグはすっかり乾いた黒髪やマントの裾を引っ張り、不思議そうにリセルの顔を見つめている。リセルも肩にかかるセピア色の髪を払いのけながら、服の乾き具合を確かめた。

 

エルドの精霊の力で乾かしただけだ。どこか服が焦げている所はないかみてくれ。時々加減を間違えて燃やしてしまうことがあるんだけど、今日は炎上しなかったな」


 リセルの言葉を聞いてルーグがぞっとしたのか顔を青ざめさせた。


「炎上って……どういうことだ」

「どういうことって、炎上といえばにきまってるだろ。炎の魔法を使う時は、その火力に応じた呼び名で精霊に力を借りるんだけど、『吐息』じゃ弱すぎて服が乾くほどじゃない。だけど『息吹き』じゃ火に当る時間が長過ぎて焦げてしまう。取りあえず『溜息』ぐらいがいいと思ってやってみた」


「……溜息。炎の精霊の『溜息』で服が乾いた……」


 ルーグが肝を潰したように身震いした。


「雨の日の洗濯物はなかなか乾かないから便利なんだけど、その加減を知るために今まで結構な枚数を燃やして、師匠によく怒られたよ」

「そ、そうか。何はともあれ、炎上しなくてよかった。もうはこりごりだ」


 ルーグは服の乾き具合に満足しながらそう言ったが、リセルは彼の眉が一瞬引きつったようにしかめられるのを見た。

 彼は平静を保っているが、だらりと体の横に添えられた右手は重度の火傷を負っている。

 いや、手だけではないだろう。

 ルーグの滑らかな黒いマントにもそこここにいくつか焦げた痕がある。

 服を乾かす前からそれらがあったのをリセルは知っている。


「ルーグ、すまない。わたしのせいであんたの利き手が……」


 ルーグは右手を庇うように体の後ろに回し、意図的にリセルの視界からそれを隠した。


「雨で冷えたから今はそれほど痛まない。気にするな。それより私の方がお前に謝らなくてはならない。お前は警告したのに、私の不注意で農民達にお前の体を触れさせてしまった」


 ルーグはリセルの様子をうかがうように、その瞳を覗き込んできた。


「お前こそ大丈夫か? 疲れただろう。すぐ火を起こすから座って休め」

「……いや、ちょっと出かけてくる」


 リセルはルーグの横を通り過ぎて、まだ細かな雨が降りしきる外を眺めた。日没は間近だが、灯がなくてもぎりぎり出歩ける明るさだ。


「リセル、お前、出かけるって……」


 外に出ようとしたリセルの腕をルーグが掴んだ。

 リセルは小さく溜息をつきながらルーグを見上げた。

 彼は優しい。

 『神殿騎士』の義務感なのかもしれないが、彼は何度もリセルのことを助けてくれた。彼がいなかったら、果たして「神の山」の神殿にたどり着けたかどうかとても怪しいだろう。

 ルーグには多くの借りがある。

 だから少しでもそれを返したかったし、騎士である彼の利き手をなんの治療もせずに放っておくことには抵抗があった。


 けれど魔法は万能ではない。リセルにはルーグの火傷を癒すことができない。

 自らの魔力を媒体に、生気を分けてくれる地の精霊に掛け合ってもいいが、魔法は一種の『交渉』と同じで、相手が同意してくれないと発動しないのだ。力で言うことをきかせる場合もあるが、今日は魔法の大盤振る舞いをしたので、ただでさえ気難しい地の精霊と『交渉』する気力も集中力もない。となれば残った選択肢は現実的なものだった。


「軟膏にする薬草を採ってくるだけだ。「神の山」を下った山道で、サキキュロックが群生しているのを見たんだ。すぐ戻る」

「リセル、おい!」


 ルーグが絶句している間に、リセルは小さく『飛翔』の呪文を唱えていた。

 薬草が生えている場所ははっきりと覚えている。

 考え事に耽っていたせいで転落しかけた、あの急角度に曲がった山道だ。

 その映像を脳裏に強く念じてリセルは『飛んだ』。

 

 

   ◆◆◆



 三十分も経たないうちに、リセルは薬草と腕一杯の枯れ木を抱えてルーグの所に戻った。黒髪の神殿騎士は集めた小石で小さなかまどを作り、枯葉や小枝を燃やしてリセルの帰りを待っていた。


「リセル」


 ルーグが入口に現れたリセルの姿を認め、立ち上がった。


「魔法の使い損じゃないか。またこんなに濡れて」

「ついでだから燃やすものも拾ってきた。今、乾かす」


 雨が止まないのでリセルは再び濡れ鼠になっていたが、先程と同様に火の精霊の『溜息』で濡れた髪や服を乾かし、今夜の暖をとるための、濡れた枯れ木の水気も飛ばした。


「ふう……」


 リセルは思わず息をついた。

 こんなにあれこれ魔法を使ったのは久しぶりだ。

 体が気だるく眠気を感じる。


 だがリセルは軽く頬を両手で叩いて、チュニックの間に入れておいた薬草の長細い葉を取り出した。つんと青くさい臭いが漂う。服につく虫を寄せつけないために入れる香木のそれに似ている。この臭いはリセルの服にもうつっているかもしれない。悲しい事に。


「なかなかさわやかなだな」


 『香り』と言わない所にルーグの皮肉を感じた。


「ルーグ、少しお湯が欲しいんだけど。それとこれをすりつぶすための容れ物を」

「わかった」


 ルーグはお茶を湧かすための小さな鍋に水を注ぎ、アルディシスから「もう一人分必要でしょ?」ということで借り受けた木の椀を取り出した。

 旅装のルーグはともかく、王都のはずれに飛ばされたリセルは何も持っていなかった。今になって思い返してみれば、「神の山」に向かう行きの道程は無謀な行為だった。

 あの森でルーグに出会わなければ。


「湯が沸いたぞ。この中に入れればいいか?」


 片手鍋を手にしたルーグに、リセルはうなずいた。

 椀の底にほんの少しだけお湯を入れ、小さく千切った薬草サキキュロックの葉を入れる。

 リセルは薬草をすりつぶすために拾った小石を袖口から取り出し、(これも山道を下りた所に湧き出ている清水で浄めてある)薬草が原形を留めずどろどろとした液状になるまで丹念にすりつぶした。


「さわやかな臭いが一段と強まったようだ」


 ルーグがひきつった笑みを浮かべながらつぶやいた。


「この臭いは王都の『いい男』の間できっと流行る」

「嘘つけ」


 リセルは自分の携帯用の袋を開けて、アルディシスからもらった清潔な布を取り出し、すりつぶした薬草をたっぷりと染み込ませた。


「右手を出してくれ、ルーグ」

「いや、リセル。お前の気持ちはありがたいが……」


 リセルはしりごみするルーグの右手をつかんだ。

 たき火の明かりで火傷の状態を確認する。

 手全体が赤くなって熱を持っている。まるで炎の中に手を突っ込んでいたかのように。酷いのはてのひらの方だ。こちらは焼けた鉄を押し当てたように爛れて水泡ができている。これでは当分剣を握ることができないだろう。

 リセルはルーグの手に薬草を染み込ませた布を巻いた。


「サキキュロックは熱を吸収し、傷の表面に膜を作って化膿止めの役割を果たす。できたら明日の朝、もう一度塗布した方がいいな」


 ルーグの頬がぴくぴくと引きつった。


「確かに冷たくて気持ちがいいが、どうも……この臭いは……」


 リセルは黙ったまま薬草をすりつぶした椀を持ち上げ、空洞の外へと持って行った。外に置いておけば雨が綺麗にしてくれる。


「すまない、ルーグ」


 すっかり暗くなった外をみつめながらリセルは口を開いた。

 そこは闇の帳が降りて何も見えない。ただ、しとしとと細かな雨が降るばかりだ。


「わたしが正神官なら、アルヴィーズに祈る事であんたの手を癒すことができただろう。でもわたしは違う。わたしは神を呼び出すためだけに、奉り上げられた『偽者』だ。祈りの言葉も知らないし、神への信仰心もない。アルヴィーズを否定するわけじゃないが、神は……気紛れなものだ。片手で救済の手段を持ちながら、同時に身を滅ぼす剣も突き付ける」

「リセル」

「そうだろう? ルーグ」


 リセルは急に疲れを感じて振り返った。


「自分達がこの世界を創っておいて、そして地中にあんな恐ろしいモノを封じたくせに、いざとなったらその始末は『お前』がつけてくれと言う。確かに『あいつ』を喚び出したのはわたしのせいだが……では、何故わたしにはそんな力があるんだ? わたしはそんなもの……望んではいないのに」


 リセルはアルヴィーズから託された剣が宿る右手を握りしめた。

 こんなことをルーグに話したところで、何も変わらないとわかっているけれど、何故か彼の深い青灰色の目を見ると言いたくなった。


(そのせいでルーグ、あんたに怪我をさせてしまったから。わたしはひょっとしたら、この世からいないほうがいいんじゃないだろうか。そうすれば『ルディオール』も地下でずっと眠っていた。起こすものが他に存在しないかぎり)


 不安がせきを切って溢れる水のように募ってきて、リセルは我が身をひしと抱きしめた。けれど今度は膝の震えが止まらない。

 立っているのが辛くなって、リセルはごつごつした岩の壁に手をついた。

 まぶたが重い。先程とは違う、強烈な

 頭を殴られたように急速に意識がにごる。

 振り払えない急な眠気は、これ以上術者に魔法を使わせないようにするための自己防衛反応だ。遠方から魔法の師であるエンジェステッド老のざらついたしゃがれ声が聞こえた。


「リセル、おい」


 肩を揺さぶられ、リセルは閉じかけた目蓋を意志の力でこじ開けた。

 鼻を刺激する香木のような臭いがする。

 まったくもってこのは傑作だ。ルーグが側にいるのがすぐわかる。

 リセルはルーグの膝の上に頭を載せたままほっとして息を吐いた。しばし意識を失っていたらしい。


「……ルーグ」

「もういい。眠るんだ、今は」


 ルーグの声は優しかったがどこか抗えない厳しさもあった。

 目蓋が再び重さを増してくる。

 今度こそ本当に眠ってしまう。


「アルヴィーズは……わたしが『ルディオール』を封じるのに失敗したら、この世界を救ってくれるだろうか」


 リセルはうわごとのようにつぶやいた。


「ルーグ、教えてくれ」


 意識が眠りの泥沼にはまっていく。

 ルーグが何か言ったような気がしたが、リセルにその声は聞こえなかった。

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