第4話 森の番人

「おいこらルーグ! いつまで眠っている。さっさと出発するぞ」


 リセルは眠りこけている黒髪の神殿騎士に向かって呼びかけた。

 が、騎士は銀の剣を大事そうに抱いたまま、木の幹に背中を預け眠っている。


『見張りは私がやるから安心してくれ』

 頼もしい言葉をいっておいてこのざまとは。


 リセルはルーグの顔を覗き込んでから、やはり彼がまだ眠っているのを確認して、やおらその向こうずねをブーツのかかとで蹴り飛ばした。


「……ぐはっ!」


 ぱっとルーグは青灰色の瞳を見開き、信じられないと言う顔でリセルを見つめた。


「なっ、なんていう起こし方をするんだ、君はっ! 痛いじゃないか」


 蹴飛ばされたすねを押さえて、ルーグの目に涙が光る。

 けれどリセルはそしらぬ顔でぱたぱたとチュニックの裾の埃を払い落とした。

 心の中で、これは勝手に人の服を脱がした時の礼だとつぶやきながら。


「ううむ。陽の光が恋しいな。こう暗くてはどうも朝が来たという気がしない」


 立ち上がり、四肢を伸ばすルーグのぼやきを聞きながら、リセルは小さくため息をついた。


 そう。

 この世界は今日を含め、三日、太陽の姿が隠されてしまっている。

 王都にいるリセルが喚び出してしまったアルヴィーズの『半神』が、一方的にその力を抑えてしまっているからだ。

 『半神』はアルヴィーズの『善』の部分を嫌い、その象徴ともいえる陽の光を嫌い、瞬く間に空を暗い雲で覆ってしまった。


 けれどリセルにはわかる。

 アルヴィーズの力が抑えられているのは一時的なものだということを。

 太陽神は完全に不意を突かれたのだ。

 リセルが『アルヴィーズ』ではなく、あの者をんだからだ。

 地中に封じられていたアルヴィーズ神の『負』の心。


 その名を旧き言葉で『ルディオール』という。

 氷のような白銀の髪を闇夜に靡かせ、自らそう名乗ったかの神の目は、凍るような紅に染まっていた。自分の存在を切り捨てた、アルヴィーズに対する憎悪に満ちた忌わしい赤に――。

 

 

「リセル。軽く朝食をとろう」


 ルーグが火を起こして、あの苦い茶を作る準備をしている。


「わたしはもう行く。早く神殿にたどり着いて、早く本当の自分の姿に戻らないといけないんだ!」

「あっ、待て」


 リセルは漆黒の闇に包まれた森の中を急ぎ足で歩いた。昨日ルーグに作ってもらったアマランスの茶のせいだろうか。心なしか足の疲れが取れて軽く感じる。


 よく考えてみれば、王都のはずれまで母に飛ばされて、それから『ルディオール』の使い魔達にずっと追いかけられていたのだ。食事らしいものも一切とらず、途中山の中で見つけた無人の炭焼き小屋の井戸水で喉を一度潤しただけだ。


「食事――か」


 リセルはふと思い出したかのように周囲の木々に視線を投げた。

 夜の闇に覆われた森の木々はすべてが黒く、何の色彩も目にする事ができない。なにより生物の気配がしない。ここは太陽神に最も近付ける「神の山」のふもとにある『聖なる森』であるというのに。


 アルヴィーズの力が遠い――。

 人間に活力と生命力を与えてくれる、あの暖かな日差しが恋しい。


 リセルは再び気力が萎えてくるのを感じた。

 『ルディオール』にかけられた呪われし紅き瞳は、夜の闇の中でも真昼のように見通すことができるが、かの瞳の力をもってしても、この森の中には木の実一つ、小動物の姿一つ見つける事ができない。


(まるで『死の森』を歩いているみたいだ)


 ひょっとしたら、ここを歩いている自分はとっくの昔に死んでいて、森の中を彷徨っているだけじゃないだろうか。


 リセルはゆっくりと頭を振った。

 急に足が何かに掴まれているように――重い。

 泥沼を歩いているように、徐々にその一歩を踏み出すのが困難になっていく。

 びっしょりと汗に濡れた額を拭い、リセルはふと歩くのを止めた。

 いや、ついに動く事ができなくなったのだ。


(どうして――?)


 リセルは辛うじて動く首を動かし足元を見つめた。

 何かが足にからみついている。茶色い干涸びた蔦のような植物が足元の地面から幾つも生えて、リセルめがけてつるを伸ばしてくる。


「……はっ!」


 それらはあっという間にリセルの体を包み込み、つたでできた檻となった。

 リセルを捕らえた蔦は容赦なくその首や腕にも絡みついた。


 息ができない。

 リセルはなんとか絡み付く蔦から逃れようと、有効な呪文を脳裏に浮かべようとした。だが蔦の生命力はまるで大地のそれを相手にしているかのように強大で、山を素手で動かそうとするくらいの力の差がある。


(だめだ……わたしじゃ、この蔦を枯せ……ない)


 体が浮いているような不安定な感覚を覚えながら、リセルの意識はどんどん濁っていった。誰かが子守唄を歌っているのが聞こえる。


 ――眠れ。

   呪われし闇の子よ。

   我が蔦の揺り籠の中で。

   とこしえに。

   ここは汝らのにあらず。


 これは警告だ。

 リセルはぎりと歯を噛みしめた。迂闊うかつだった。


 アルヴィーズの力は今は弱まっているが、決して消えたわけではない。

 ここはかの神に、最も近付ける神殿へと通じる『聖なる森』。

 リセルは自分が今呪われている身であることを思い出した。

 だから森の力がリセルを排除しようとしているのだ。

 アルヴィーズの嫌うルディオールの眷属けんぞくを神殿に近付けないように。


 ――眠れ。

   呪われし闇の子。


『違う』


 リセルはあらんかぎりの意志の力を集めて叫んだ。


『通してくれ。わたしは、アルヴィーズに、会わなくちゃ……ならないんだ』

『行かせてくれ、頼む!』


 その時、頭の中に直接響いていたけだるい子守唄の声が絶えた。


「リセル! リセル、どこだ? 返事をしろ!」


 若い男の声。

 誰かを探している。


 ――るぼーぐ。

 ――ルヴォーグ。


『ルーグ』


 リセルは無意識の内に唇を動かした。

 声は出たかどうかわからない。ただその名を呼んだ。


「ここ、だ。ルーグ……」


 びっしりと絡み付いた蔦の壁が、不意にぴしぴしと鋭利な音を立てながら崩れ落ちていく。森の中は相変わらず日の光が射さないが、それに似た銀色の光が確実に蔦の壁を浸食していくのが見える。


 光は蔦の壁を壊している黒髪の神殿騎士が、右手に振るう銀の剣から発せられていた。リセルは目を閉じ思わず呻いた。その光は自分にとっても眼球を焼くように強烈なものだったからだ。


「リセル……! もう少し我慢しろ」


 ばりばりと蔦の壁を剣の柄で突き崩しながら、力強い手がリセルの小さな体をつかみ引っ張り出す。ルーグが胸にリセルの顔を押し付けて抱きかかえた。直接剣の光を目に当てないためである。リセルの瞳はルディオールの呪いのせいで、闇の中しか見通せない。

 だからアルヴィーズの祝福を受けている剣の光を見る事は、太陽を直視するのと同じ行為なのだ。


「私はアルヴィーズに仕える神殿騎士ルヴォーグ。この銀の剣がその証。森を通してもらうぞ。番人よ」


 ルーグは煌々と輝く銀の剣を松明のように掲げ、隙あらば、その腕に抱きかかえているリセルの体に蔓を伸ばそうとする蔦を牽制しながら歩き出した。


「大丈夫か、リセル」

「……」


 リセルは体を縮こませたまま返事をしなかった。けれどゆっくりと頭を動かした。

 ルーグの掲げる剣の光が全身を貫く槍のようで、痛みに声が出せなかったのである。


「後もう少しで森を抜ける。アルヴィーズの神殿の入口は見えているんだ」


 ルーグはリセルを抱いたまま駆け出した。後ろからは侵入者を決して聖なる森から出すまいと、再び意志を持った蔦のつるが幾重も重なり、巨大な手となって追いかけてくる。


 だがルーグはそれらに追いつかれることなく森の外まで疾風のごとく走り抜けた。

 賊を取り逃がして悔しがるような、低く、くぐもった唸り声が森から響いた。




 ◇




「よし。ここまで離れたら大丈夫。ひと休みできそうだ」


 ルーグは左手に抱えていたリセルをそっと足元の草むらへ下ろした。

 淡い光を放つ銀の剣を鞘へ戻す。


「気付くべきだったこと、その一。私から離れない方がよかったな、リセル」


 リセルは目を覆っていた手を下ろし、ぶすっとした顔で草むらに座っていた。


「またしても恩を売ったつもりか?」


 ルーグはやれやれという風に肩をすくめ、機嫌の悪いリセルの隣に腰を下ろした。


「まさか。私は『神殿騎士』として、当然の使命を果たしたまでのこと」


 リセルは返事をせず膝を抱え、じっと前方を睨み付けていた。

 聖なる森に入る前、遥か遠方に感じられた「神の山」が、黒い雲の下、青白く光る雷鳴によって白くくっきりと浮かび上がる様を。同時にそのふもとで、旧き時代に作られた二本の水晶柱が、天に向かって高くそびえているのを。


 そこは太陽神アルヴィーズに最も近付けることができるという神殿の入口を示す。山のふもとまでは一直線に草の生えていない白い道がついていて、三十分とかからずに神殿の門まで歩いていく事ができるだろう。


 それを黙って見つめるリセルの横顔は、十を過ぎた幼い少女とは思えない程大人びていて、おいそれと声をかけられない緊張した雰囲気が漂っていた。

 何かを決意したかのように、リセルが急に立ち上がった。


「ルーグ。もういい」

「えっ?」

「ここからはわたし一人で大丈夫だ」


 ルーグは眉をひそめた。漆黒のマントを揺らし、静かに立ち上がる。


「確かにここはもうアルヴィーズの領域だ。『彼奴』の使い魔も簡単には入ってこれないだろう。だがリセル。神殿には――」

「ルーグ」


 リセルがルーグの言葉を遮るように名を呼んだ。

 白い手袋をはめた彼の手を小さな両手で握りしめる。


「その代わり頼みがある。『神殿騎士』であるあんたにしかできないことだ」


 リセルの顔は白銀に輝く髪の様に色を失っていた。

 ルーグは目を細め、自分の手を掴むリセルのそれが震えているのを感じ取った。


「頼み?」


 リセルはこっくりとうなずいた。


「そうだ。ルーグ、あんたは王都へ戻って、母さんを……リスティス=アーチビショップを探し出して欲しい」


 ルーグは意外そうに言葉を返した。


「リスティス様を?」

「ああ」

「それは何故?」


 リセルはきゅっと唇を噛みしめ、ルーグから手を離した。


「頼れるのはもう母さん。母さんが生きていれば、アルヴィーズを喚んでもらって、あいつを……『ルディオール』を地の闇へ戻す事を頼める」


「リセル。それは『彼奴』を喚び出した君がすべきことだろう!」


 ルーグは背を向けたリセルに向かって低い声で呼びかけた。

 リセルは振り向かないまま、小さくうなずいた。


「わかってる。わたしだってそのつもりだ。でも……」


 小さな両手がぐっと握りしめられる。


「神殿騎士のあんたならわかるだろう? 今のわたしは、ルディオールの呪いに穢されている。奴の姿だ。そんなわたしが『無事に』アルヴィーズの神殿に入れるとは限らない。もしもわたしの呪いが解けなかったら、母さんしかアルヴィーズを喚べないんだ。いや、むしろそっちの方が確実かもしれない」


 ルーグは言葉を詰まらせた。リセルの言う事は正しい。

 現に聖なる森の番人は、ルディオールに呪われたリセルを闇の眷属と認識し、彼女を排除しようとした。


 ルーグは青灰色の瞳を細め、リセルのうつむいた顔がさらに青ざめていくことに気がついた。何か大きな重圧に耐えているかのように、両手で自らの腕を抱き締めている。神殿に近付いたせいか、アルヴィーズに護られているような、胸の奥から勇気が湧いて活力に溢れるルーグとは対照的だった。


「ではなおの事、私が同行するべきだろう。君をまもるために」

「ルーグ!」


 三つ編みを舞わせながらリセルが猛然と振り返った。

 紅の瞳が怒りの光に満ちている。


「その必要はないと言っている! あんたが神殿まで来たってすることは何もない」

「でも折角ここまで来たんだから、追い払わなくてもいいじゃないか。ねえ?」


 ルーグは鼻歌を歌いながら、雷鳴の光に青白く輝く二本の水晶柱に向かって歩き出した。


「ちょっと、おい! ルーグ。何、先に行こうとする……」


 リセルはよろめきながらその後を追った。

 が、慌てて駆け出したのがまずかったのか、リセルのつま先は草むらに隠れていた小石に当たった。


「――!」


 黒髪の神殿騎士は不意に足を止め、振り返りざまに右手を伸ばした。

 小石に足をとられ、上半身をふら付かせたリセルの肩を片手で支える。

 はっとリセルが顔を上げた。

 見下ろすルーグの瞳は笑ってはいなかった。


「じゃあこうしようじゃないか。強情な魔法使いどの。君がアルヴィーズの神殿に入れなかった時は王都へ戻り、リスティス様を一緒に探そう」


 ルーグに体を支えてもらいながら、リセルはじっとその瞳を見つめていた。


「なぜわたしのためにそこまでする」


 ルーグは唇に淡い笑みを浮かべた。


「私は馬鹿がつくほどのお人好しでね~。こんな小さな子がひとりで健気にがんばっている姿をみると、涙腺がゆるんでゆるんでそりゃーもう大変なんだ」


 リセルが顔を引きつらせて溜息をついた。


「本当にどうしょうもない馬鹿バカだな。でも……ありがとう」


 ルーグはリセルの肩を黙って叩いた。


「じゃ、行こうか。アルヴィーズの元へ」

「ああ」

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