epilogue
4-1 真意
耳を疑った。今、こいつは何と言った?
見下ろした紫電の瞳は、澄んだ夜の空を思わせる静けさを湛えていた。真っ直ぐにこちらを見据えるその眼差しに、いつものように揶揄う色はない。
「なんてね、冗談だよ」と、
「……笑えない冗談だな」
焦れて、私がそれを口にする。一方で、これは嘘などではない、本当の話だと悟っていた。
ツヴァイの胸元。白い陶器のような肌に、痛々しく残る傷跡。それは、今尚治癒の兆しを見せることなく、そのままの形でそこに在る。――〝吸血鬼〟の彼には、本来あってはならないものだ。
ツヴァイは私の発言に応えることなく、別の質問を被せてきた。
「アイちゃん、〝眠り姫〟のこと、覚えてる?」
虚を衝かれた思いがした。
「覚えているが……それがどうした?」
〝眠り姫〟、もしくは〝幻の七人目〟……それは、例の感染実験で密かに生き残っていた、七人目の適合者のことだ。
初日に見せしめとして処分されてしまった鳶色髪の双子の兄を六人目、No.06〝
その女性は、当初死体と思われていた。感染実験後、他に生存者は居ないかと研究員達が場を検めた時に見つかったらしい。
呼吸も脈拍もあるものの、意識不明の昏睡状態だったという。傷を付けると瞬時に自己治癒する様を見せたので、細菌の適合者であることは確かだった。故に、血液を与えてそのままの状態で保管されていたそうなのだが、それがある時、突然死亡した。
気が付いたら、死体になっていたのだそうだ。
彼女の存在に関しては、研究所所長こと眼鏡で白衣の男から、既に彼女が亡くなった後に聞かされた。私達は今までそんな仲間が居たことも知らなかったし、
「遅効性の拒絶反応で死亡したのではないかと言われていたけれど、彼女の死体からは
唐突なツヴァイの問いに、私は再び面食らう。
「どういうことだ」
「彼女は、
長い睫毛を伏せて、ツヴァイが告げた。
「俺も、彼女と同じだったんだよ」
言葉の意味を理解するのに、時間が掛かった。
同じ。……それは、
「人間に……戻ったのか?」
唖然とした心地で、ツヴァイの顔を見る。その魔性めいた白皙の美貌は以前と変わらない。彼は困ったような
「正確には、戻りつつある……といったところかな。まだ完全に戻った訳じゃないよ」
「それは……めでたいことなんじゃないのか?」
不老不死の呪縛が解かれて普通に生きられるということならば、むしろ慶ばしいことの筈だ。なのに、何故そんな……。
――アイちゃん。俺……もうじき死ぬんだ。
ハッとした。確かに、ツヴァイは先刻そう言った。それは……その言葉の真意は。
「俺の身体から、完全に
それが、ツヴァイの答えだった。私は再度衝撃を受けた。
「……何故だ」
「だから、〝眠り姫〟と同じだよ。耐えられないんだ、身体が。考えてみれば当然だよね。〝吸血鬼〟の時は、
「っ……耐える可能性は、無いのか?」
「残念ながら。……もう、結構ガタが来てるんだ。こう見えてもね。時々身体が言うことを聞かなくなる」
そんな……。
「……いつからだ?」
「一年前くらいかな。傷の治りが遅くなり始めたのは。アイちゃんに気付かれないように、苦労したよ」
脳裏に色鮮やかな光景が蘇る。夜闇に浮かび上がる、ピンクの花霞。黄金の月明かりの中、悪戯っぽく微笑う長年の相棒の姿。
――ねぇ、アイちゃん。もし、俺が居なくなったらどうする?
喉の奥が詰まったように、苦しくなった。
――ツヴァイが死ぬ?
嘘だろう? 嘘だと言ってくれ。
思わず口元を抑えて、よろけた。
「お前が……私の前から去ったのは、その所為か。私に、自分の死を隠したかったから?」
人知れず、独りで生を終える気だったのか? 死期を迎えた猫のように。
しかし、ツヴァイは私の予想に否を唱えた。
「違うよ。それも少しは考えたけど……もっと、最低な理由だよ」
私は問う代わりにツヴァイの方を見た。彼は言った。
「どうせ死ぬのなら、君に殺されたかった」
風が吹いた。割れた硝子窓から、冷たい冬の空気が入り込む。そこに、白い花弁が舞うのを見た気がした。
それは、桜ではなく雪だった。いつの間にか外では雪が降り始めていたのだ。
「人を殺めたことのない綺麗な君の手に、生涯ただ一人、俺という汚点を刻みつけたかった。君の中の消えない傷になって……その心に永遠に残り続けたかった。ちゃんと罪悪感でぐちゃぐちゃになって欲しかったから、俺が放っといてもどうせ死ぬっていう情報は出来れば伏せたままにしておきたかった」
「ほらね、最低でしょ?」そう言って、彼は自嘲の笑みを刻んだ。
「君のことを悲しませたくないとか、綺麗なままでいて欲しいとか、守りたいとか思っていた筈なのに……いざ自分が死ぬとなると、これだもん。我ながら呆れたよ。俺が居なくなれば、まず間違いなく君に捜索及び抹殺の命令が下る。君ならきっと、俺がどこに隠れてても見つけてくれると信じてた」
――だって、誰にも散り際を見て貰えないなんて、寂しいでしょ?
脳裏を過ったのは、いつかの桜の季節のツヴァイの台詞だった。私は胸中でそっと頷きを返した。
――ああ、そうだな。
「さて、疑問も解けたところで、そろそろいいかな。アインス……君の手で、俺を殺して」
両腕を広げて、ツヴァイが微笑んだ。それは、華が綻ぶような、ふわりと柔らかい笑みだった。
「……お前は、こんな時だけちゃんと呼ぶんだな」
皮肉な笑みを口元に刷きながら、私は軍服の上着の内部に手を差し入れた。そこから短剣を取り出して、雪明かりの反射光に
もう、覚悟は決まっていた。――私がすべきことは、一つだ。
紫電の瞳を見据えて、刃を胸に突き立てた。
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