3-7 愛してくれなくてもいいから、傍に居させて。
それは、ある日唐突に始まった。
切なげで、悩ましげな女性の声。切羽詰まったように狂おしく、時に甘やかに艶を帯びて響く。
――ああ、まただ。
ベッドに横たわった俺は、両手で耳を塞いだ。
金属の壁を越えて隣室から届くそれは、紛れもなく情事の嬌声だった。ドライが女性を自室に連れ込んでいるのだ。
翌朝顔を合わせると、彼は一々俺に昨夜の感想やらをニヤニヤ笑いで聞かせてくる。おそらくは、嫌がらせなのだろうと思う。
ドライは知らない。この報復が、どれだけ効果的に俺を苛んでいるか。
この声を聞いていると、強制的に感覚が昔に引き戻される。思い出したくもないのに、当時の記憶が生々しく蘇ってくる。
――
神父様の熱に浮かされたような呼び声が。
何度も、何度も。
耳元に囁かれては、呪いのように爪痕を残す。
耳を塞いでも逃れられない。
現実の女性の声が、次第に過去の自分のそれへと変じていく。
悲鳴にも、泣き声にも似た、淫らな喘鳴。
「もっと」「きもちいい」……強要されたオネダリの台詞。
何度も、何度も。
――いやらしい子だ。
「ッ……!!」
堪らずに飛び起きた。全身に冷や汗が伝う。鼓動が早鐘を打ち、呼吸が荒く乱れていた。
――気持ち悪い。
えも言われぬ吐き気と嫌悪感。気が付けば、肌に食い込むほどに強く己が腕に爪を立てていた。ぶつりと皮膚を裂き、血が流れる。そこから、ドロリと白濁した汚い粘性の液体が溢れだしてくるような幻覚に慄いた。
――汚い。穢い。
ガリガリと掻き毟る。血に……白濁に
――駄目だ。
声が聞こえてくる。絶え間無く、俺を責めるように。
もう、聞きたくない。もう、やめてくれ。
――助けて。
助けて、アイちゃん。
縋るような想いで、俺は部屋を抜け出した。
◆◇◆
最初は怖かった。拒まれるんじゃないかって、嫌われるんじゃないかって。
インターホンを押す指が震えた。
だけど、アイちゃんはこんな俺でも受け入れてくれた。眠れないと助けを求めた俺を、部屋に上げて宥めてくれた。
首筋に、牙を突き立てる。弾力のある肌を一息に穿った。溢れ出した蜜を吸い上げると、
アイちゃんの匂い。アイちゃんの熱。アイちゃんの。綺麗なもので、全身が満たされていく感覚。穢い俺の血が、身体が、浄化されていくような深い安堵感に酔いしれた。
目を開くと、恍惚とした表情の彼がそこに居る。潤んだ瞳、上気した頬、乞うような眼差しに、背筋に強い衝動が走った。
――もっと。
もっと、その先が見たい。傷付けたくない。汚したくない。硝子ケースの中の宝石のように、丁寧に大事にしたいと思う一方で、ぐちゃぐちゃに汚して壊して俺の所まで引きずり下ろしたくなるような、後ろ暗い感情が湧き上がってくる。
相反する矛盾した想いがぐるぐると渦を巻き、全身を駆け巡る。
――いけない。これ以上は。
その領域を越えたら、もう戻れなくなる。
意志の力で、口を離した。名残を惜しむように甘い液体が牙に絡み付いて、唇を汚していく。それを舌先で舐め取り、余韻に浸った。
気怠い熱が支配する。ゆっくりと呼吸を繰り返して、平静を呼び覚ます。やがて、アイちゃんが俺に問い掛けた。
「……落ち着いたか?」
掠れた、酷く色っぽい声だった。
「うん……ごめんね」
俺は微苦笑を湛え、玄関扉に寄りかかった彼に手を差し伸べた。
本当は、分かってる。こんなこと駄目だって。負担をかけているだけだって。
なのに、アイちゃんの優しさに甘えてしまう。縋りついてしまう。――弱い俺で、ごめん。
きっと、呆れられてるよね。それでも、お願いだから。
――愛してくれなくてもいいから、傍に居させて。
アイちゃんの手は熱かった。俺の手を取って、それでも凛とした態度で自力で立ち上がる。そのまま寝室まで連れ立って、ベッドに身を投げ出すようにして二人して
その後は、何もしない。朝までただ寄り添って眠るだけ。アイちゃんは、他の奴らとは違う。絶対に俺を傷付けたりなんかしない。
「眠れそうか?」
「うん、おやすみ、アイちゃん」
微かな囁きを交わし合う。アイちゃんの部屋、アイちゃんの匂いと体温に包まれて、俺は肺いっぱいに息を吸い込んで、瞼を閉ざした。
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