2-11 夜桜

 風に白い花弁が混じり始めた。微かな甘い香りと、濃い水の匂い。褪せた廃墟と瓦礫の山の中、それは不意に姿を現す。直線に走る土手の上、ずらりと立ち並ぶ無数の桜木が今を盛りと咲き誇っていた。間に挟まれた黒い川の水面に反射して、無限に広がる花のトンネルを上下に生み出す。

 頭上には、冴えた月明かり。暗闇を見透す吸血鬼の瞳にはそれだけで充分。程なくして、探していた白銀を捉えた。


「ツヴァイ」


 背後から声を掛けると、土手に腰掛けた彼がおもむろに振り向く。


「アイちゃん」

「アイちゃんではない。アインスだ」

「はいはい」

「ここに居たのか」


 夕飯時になってもツヴァイが食堂に現れなかったので、念の為探しに来たのだった。

 熱心に訓練を重ねる私達に多少の信頼が生まれたのか、このところは限られた範囲内ならある程度の外出行為も許可されていた。いつも模擬戦闘訓練で使われているこの町は、どうやら研究所の管轄下らしく、自由に出入りが出来た。その為、ツヴァイはよくここを訪れていた。

 春になると川べりに桜が咲くことを発見したのも、彼だった。人気の無い荒廃した廃墟の町中にこんな生命力に満ち溢れた幻想的な空間が存在し得たとは、誰が思うだろう。

 人工物は廃れても、自然は決して朽ちることはない。改めて、その強さを知った。

 ツヴァイは言う。


「これから遠征ばかりで、もうここに来ることも無くなるかなって、見納めにね」


 私達は訓練生の卒業をもう数日後に控えていた。実戦を前に、もしかしたらツヴァイは感傷的な気分になっているのかもしれない。


「好きなのか? 桜」


 我ながら幼稚な質問が飛び出たものだ。ツヴァイは霞のように広がる淡いピンクに視線を向けて、


「んー、好きだけど嫌いかな」


 何とも煮え切らない答えを寄越した。


「何だそれは」

「だって、すぐ散っちゃうから。何だか切なくなるよね」

「それでもわざわざ見に来るんだな」

「うん。誰にも散り際を見て貰えないなんて、寂しいでしょ?」


 ツヴァイの横顔には、どこか憐憫の色があった。桜が寂しがる……その発想は、私には無かった。だから、何だか新鮮で、


「そうだな。それなら、私も少し見ていこう」


 宣言すると、ツヴァイの隣に腰を下ろした。

 そのまま暫し無言で風が花弁を散らす様を二人して眺めていたが、やがてツヴァイが思い付いたように口を開いた。


「ところで、アイちゃんって、もしかして童貞?」


 何と言われたのか理解するのに数秒要した。


「……何だ、藪から棒に」

「だってアイちゃん、全然そういう話しないんだもん。彼女の話とかも聞いたことないし」

「そんなものは居ない。居たら、こんな所来ないだろう」


 思わず溜息が零れる。ツヴァイは食い下がってきた。


「そうかな? 元カノとかは?」

「居ない。というか、恋人は作ったことがない」

「え? 何で? モテそうなのに」

「別にモテはしないが……家族の仇を討つことしか考えていなかったからな。他のことにかまけている余裕は無かった」


 言ってから、私は思い直し、


「……いや、違うな。特別な存在を作ることを無意識に避けていたのかもしれない」


 両親や妹のように、また失ったらと思うと怖かった。今更のように己の心情を悟って、その弱さに苦笑した。誤魔化すように、相手に話題を振る。


「そういうお前はどうなんだ? お前こそモテただろう」

「俺? 俺も恋人とかはぜーんぜん。下心満載の相手しか寄って来ないんだもん。心を許せるような人には出会えなかった」


 軽い口調でツヴァイは言うが、そこには自嘲の響きが含まれている。

 僅かな月明かりの下でも際立って見える彼の美貌からは、察するものが余りあった。美人というのも色々大変なのだろう。


「でも、アイちゃんは違うよ。真面目で実直で裏表が無くて……こんなに信じられる相手は、君が初めてかな」


 振り向いて、ツヴァイが柔らかく微笑む。その言葉に内心面映ゆさを感じていると、彼は続けてこんなことを言い出した。


「ていうか、もしかしてアイちゃんのファーストキスって、俺とのだった? ごめんね、奪っちゃった?」


 これまた不意打ちに絶句した。初対面時の血の味の接吻。あの時の彼の唇の感触やら熱やらが思い出されて、心が乱れる。ツヴァイは揶揄うような意地の悪い笑みにシフトチェンジして、こちらの反応を窺っていた。その口元に目が行きそうになり、ついと逸らす。


「……いや、あれは人口呼吸みたいなものだろう? ノーカウントだ」

「えー、じゃあもう一回ちゃんとやっとく?」

「何でそうなる」

「卒業記念に? あ、ついでに童貞も卒業しとく?」

「アホか。冗談も休み休み言え。もし、私が〝うん〟と言っていたらどうするつもりだったんだ、お前は」


 流石に苦り切って頭を抱えた私に、ツヴァイはさらりと宣った。


「俺は、アイちゃんとならいいよ」


 良いのか。


「良くないだろう。そういうのは、好きな相手とするものだ。もっと自分を大事にしろ」

「あ、そこなんだ? 〝男同士とか有り得ない〟ってツッコむところじゃないんだ?」

「同性間でも恋愛感情を抱くことはあるらしいからな」

「成程、そこは寛容なんだね。ふむふむ」


 私が憮然と返すと、ツヴァイは何故かしら感心したように自身の顎先を撫でて唸った。それから、つかつめらしい表情で、


「じゃあさ、もし俺が……」


 何かを言いかけて、途中で気が変わったように辞めてしまう。


「……いや、いいや。やっぱり何でもない」

「何だ、そこまで言ったら気になるだろう」

「今言うことでもないかなって。いずれ時期が来たら言うよ。たぶん」


 たぶんとは、心許無い。しかし、私には「分かった」と言う他無かった。

 ツヴァイがこの時言いかけたのが何だったのかは、結局いつまで経っても分からず仕舞いだった。思い出してこちらから訊ねてみてもはぐらかされるばかりで、余程言い難いことなのだろうと了解した。

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