第13話 田沼雅成

 三原杏奈さんのしっかりしたところがおれはとても好きだった。

 杏奈さんと初めて会ったのは言語学の講演会だった。これは言語学の教授たちが一般人向けに企画した講演会で、色んな大学から学生たちがサクラとして単位を餌に集められていた。大きなホールは大勢の人が埋まっており、一見して大盛況に見えたが、教授たちの本来のお目当てである一般人は見当たらない。皆おれと同じ学生のようだった。杏奈さんはおれの隣の席に座った女の子だった。

 単位取得にはこの講演会で配られるプリントに名前と学生番号を書いて提出する必要があった。一人一部しか貰えない上にその場での提出になるので油断はできない。しかしおれはあろうことかこのプリントを紛失してしまったのだった。

 ホールの受付で貰ったばかりだ。途中トイレに寄ったわけでも友達と談笑したわけでもない。まっすぐ席に向かったので失くしようがない。新しく一部貰えるだろうか、いやそれはない。不正だと疑われてしまう。

 おれは反射的にリュックサックを逆さまにして中身をぶちまけた。ノートや筆箱や丸まった紙屑がどさどさと溢れていく中、半開きだったらしい財布がどっと弾け、ぎゅうぎゅうに押し込まれていたポイントカードが色の洪水のように席の通路に広がっていった。何人かの女子学生が驚いて悲鳴をあげた。しかしおれはそれに見向きもしなかった。そんなことよりもプリントの方が大事だった。

 プリントはいくら探しても見つからなかった。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう」

 リュックサックをかき回すおれの腕が前の席にぶつかったらしい。男子学生が心底迷惑そうにうめき声を漏らした。それでもリュックサックから例のプリントが出てくる気配はない。

「あの、探してるものって、ひょっとしてこれじゃないですか」

 杏奈さんがおれに声を掛けた。杏奈さんの指先はおれの座席を示していた。座席は映画館によくある収納式の座椅子で、例のプリントは背もたれと座る部分の間に半分くらい埋まっていたのだった。

「あっ、これ、これです。ありがとうございます。すみません」

 杏奈さんは優しい笑みを浮かべていた。杏奈さんはおれにカードの束を差し出した。

「見える分はすべて回収したんですけど、薄暗いので回収できなかったものもあるかもしれません。念のため保険証とか学生証とかきちんと確認してみてください」

「いいんですいいんです、全部ポイントカードなんです。失くなっても問題ないですよ」

 おれは杏奈さんからポイントカードの束を受け取った。改めて見返すと見覚えのない店のものだらけだ。おれは気が弱いのでたった一度行った店でも断り切れずにポイントカードを作ってしまう。改めて自分の性格が嫌になった。今だって周囲を顧みずリュックサックの中身をぶちまけている。おれの座席周りは今や品の無い露天商みたいになっていた。

 おれが暗い気持ちになっていると、杏奈さんは慈しむような声で言った。

「ポイントカードが多い男の人って、優しい人が多いんだって聞いたことあります。ひょっとしたら、あなたもそうかもしれませんね」

 そのときの杏奈さんの笑顔は俺の心の柔らかい部分に刺さり、ぐっとそこを貫いた。

 貫かれた部分から温かくてくすぐったい気持ちが湧き上がり、おれの身体中を駆け巡った。幸福な気持ちだった。おれはのぼせた頭で自己紹介をして杏奈さんのことを尋ねた。

 杏奈さんはおれの一つ上の学年だった。杏奈さんはおれよりずっと頭の良い大学に通っていた。おれは素直に杏奈さんの優秀さに感動した。この人は優しくて、しっかりしていて、頭がよく、そして可愛い。おれは杏奈さんに恋をしたのだった。

「田沼雅成っていうんですね。皆からは、たぬって呼ばれてるんだ。じゃあ、私もたぬくんって呼びますね」

 杏奈さんはおれの初めての彼女になった。

 おれは発育が遅く、子供のような見た目と中性的な声をしていたので、かわいいかわいいと言われて思春期を過ごしてきた。これは決して褒め言葉ではない。ばかにされているのだ。家でも学校でもぬいぐるみやペットのように扱われ、おれは周囲から求められるかわいさを演じて過ごした。そうすることでしか自分の地位を守ることができなかったのだ。

 女子の友達は多かったが、それはおれが異性として認められていない証に他ならなかった。好きな女の子は当然いたが、おれがそういう素振りを見せようものなら、ショックを受けて去っていくのだった。おれもショックを受けるとは微塵も思っていないようだった。

 杏奈さんはおれの気持ちに初めて応えてくれた女の子だ。おれは杏奈さんに夢中だった。おれは初めて誰かに選んでもらえたという幸福感に溺れていた。杏奈さんの傍にいるだけでおれは無敵でいられた。杏奈さんがいればおれは他に何も要らなかった。

 しかし二人の距離はなかなか縮まらなかった。手を繋ぐことにすらなかなか進めなかった。ぬいぐるみとはそういったことができないのかもしれない。おれは少し焦ったが、杏奈さんならきっといつか自分を受け入れてくれるはずだと信じていた。

 杏奈さんは優秀で、しっかりしていて、色んなことができた。対しておれは色んなことができなかった。おれが何か失敗をするとそれを補うように杏奈さんが解決した。危なっかしいおれを杏奈さんは常に支えてくれた。

 しかし杏奈さんのしっかりしている部分が、次第におれを傷付け始めていた。杏奈さんの優しさはおれが何もできない存在であることを証明し始めていた。杏奈さんの気遣いと慈しむようなまなざしが真綿で首を締めるようにじわじわとおれを苦しめた。特に例のまなざしを見ると、おれはたぬきのぬいぐるみ時代の自分を思い出して胃の底が重くなるのだった。



 夏休みに入り、おれはコンビニバイトのシフトを増やした。これで金を貯め杏奈さんと旅行に行き、二人の距離を縮めようと考えていた。こうすることで杏奈さんとの問題は解決すると信じていた。

「たぬ、品出し途中やったの忘れとるやろ。籠に置きっぱなしになっとるぞ。気を付けてくれや」

 同シフトに入っている山根隆がおれに言う。おれは品出し途中でレジに入りそのまま忘れてしまったのだ。

「ごめん、すぐ戻るわ。教えてくれてありがとう」

「まったく、たぬは中学時代から何も変わらんなあ。ほんと、ぬいぐるみのままやわ」

 山根は中学時代のおれのクラスメイトだった。おれと違って頭が良く、何をやってもよくできた。山根は偏差値の高い高校に行き、おれは平凡な高校に行った。山根とはそれっきり合わなかったが、夏休みに入ってから山根がこのコンビニで働き始め再会を果たしたのだった。

 山根はおれのやりかけの品出しを手伝ってくれた。要冷蔵の商品なので早く陳列しないといけないのだ。山根は最近入ったばかりだというのに、二年目のおれよりずっと仕事ができる。品出しをしながらおれと山根は雑談を始めた。

「山根はなんでこのバイト始めたん。夏だけって聞いたけど」

「うーん、大学の課題が大変でなあ。小川未明の演習授業なんやけど、課題量が多くてな。でも夏休みに入ったからちょっと余裕できてん。それでチャンスやと思ってバイト始めたんや」

「そうなんや」

 おがわみめいってなんだろう、とおれは思ったが、馬鹿にされるのが怖くて聞くことができなかった。山根は鮮やかな手つきで陳列を終え、おれの並べた商品をチェックし始めた。おれは賞味期限順に並べるというルールを忘れて陳列してしまうことがあるのだ。

「たぬもこの夏シフト増やしたって聞いたわ。何か欲しいものでもあるん」

「うん、彼女と旅行に行こうと思っとるげん」

 おれは誇らしい気持ちで言った。少し声が大きくなってしまった。山根に張り合う気持ちが表れてしまったかもしれない。しかし山根がおれに称賛や羨望のまなざしを送ることはなかった。

「彼女? たぬ彼女おるんか? はあ、え、たぬが? ぬいぐるみが彼女を? まあでもよく考えたらマスコットキャラって大概彼女キャラもセットでおるからな」

「うるっさいわ」

 山根は写真を見せろとしつこく言った。店内に客がいないことを確認し、おれは尻ポケットからこっそり携帯を取り出した。今日は店長が不在なので特別だ。

 山根はおれの携帯を奪いにやにやしながらスクロールした。しかし写真を見るなり表情を曇らせた。おれが期待した顔ではなかった。

「うそやろ」

 山根の声が深刻だったのでおれは急に心配になった。山根は何度も画像を確認していた。

「え、三原さんやん。やっぱそうや。たぬ、この人、三原杏奈やろ」

「そうやけど……、山根知っとるん?」

「知っとるよ。だって同じ研究室の先輩やもん。え、三原さんがたぬと? 信じられん」

「杏奈さんやとまずいけ」

 おれは思わず言った。おれが不安そうにしているのに気が付いたのだろう。山根は明るい顔と声を作っておれに向けた。

「なあん、何もまずいことないよ。驚いただけや。三原さんしっかりしとるし、黙っとれば可愛いし、彼女としてなんもまずいことないわ。でもほら、三原さんイカホロ好きやろ。イカホロの話いっぱいしてくるんやろうなあって思ったら大変やなって思ってん」

 おれは山根が何かを隠している気がした。しかしそれよりも先に気になったことがあり、反射的にそれに飛びついてしまった。

「イカホロ? イカホロって子供の頃にやっとったやつ? 杏奈さんイカホロ好きなん?」

「うそやろ」

 おれの発言を聞くと山根は火がついたように笑い始めた。

「三原さんのイカホロに気付かんなんてそんなことある? お前三原さんの彼氏やろ。彼女の好きなもんくらい知っとけや。しかもよりによってお前、イカホロやぜ。あの人の鞄、イカホロぎっしりついとるやろ。初対面から気付くことやぞ」

 そのとき客が一斉に店内に入って来た。駅から少し離れたところにあるこの店は電車到着の時間に合わせてどっと客が押し寄せるのである。おれと山根は雑談をやめレジに立った。

 それからのおれはミスを連発しまくった。客からおしぼりを投げつけられ、レジで千円以上の不足を出して店長に電話で怒鳴られた。おれのミスをカバーしきれなかった山根は勘弁してくれとばかりに深くため息をついた。その間もおれはずっと杏奈さんのことを考えていた。杏奈さんがイカホロを好きだなんて、まったく知らなかった。

 バイトを上がってから、おれはすぐに杏奈さんに電話した。

「あの、今日杏奈さんの知り合いから聞いたんだけどさ、杏奈さんがイカホロ好きって本当?」

「イカホロ? ううん、世代だから知ってるけど、別に」

「そう」

 杏奈さんは素っ気なかった。隠しごとをしているなら問い詰めてやろうかと思ったが、彼女の白けた空気からはそんな感じはしなかった。ここで電話を切るのも変な感じだったので、おれは今日のバイトでやらかしたミスを面白おかしく杏奈さんに報告した。

 杏奈さんは楽しそうな声で相槌を入れ、ときどき笑い声をあげた。優しくて守られている感じがした。たぶん、電話の向こうで杏奈さんは例の慈しむような表情を浮かべている。なんだか携帯を握る手が汗ばんでいる気がした。

 おれが話を切り上げたとき、杏奈さんは慈愛に溢れた声でこう言った。

「たぬくんって本当に何もできないんだね。たぬくんに私がいて本当に良かった。できないたぬくんと、できる私。私たちちょうどお似合いだね」

 おれは返事が上手くできなかった。杏奈さんは電話の向こうで嬉しそうに笑っている。ピアノのような軽やかに弾むよう声だ。

 おれは曖昧な相槌を打ってから適当な頃合いで電話を切った。その後、携帯の画像フォルダから杏奈さんの写真を探して一枚一枚確認した。杏奈さんの鞄が写り込んでいる写真がいくらかあった。しかしどの画像の杏奈さんの鞄にもイカホロどころかキーホルダー一つだってついてはいなかった。


 次に山根に会ったらもう一度尋ねてみるべきだろうか。そう悩んでいたが山根とシフトが同じになることはなかなかなかった。


 山根と一度も会わない内に、店長が新しいバイトの子を連れてやって来た。眉毛の濃い大人しそうな女の子だった。春に高校を卒業してそれから何もしていなかったらしい。生まれて初めてのバイトということで、今にも死んでしまいそうな青い顔をしていた。

「この時間は客が少ないから新山さんの練習にぴったりだよ。田沼くんはお手本にはあまり向かないけど一応先輩だからわからないことがあったら聞いてみて。田沼くん、間違ったことは新山さんに教えないでね。不安だったらボクを呼んで聞いて」

 店長はそう言うと新山さんに掃除と大まかな仕事の流れを説明するよう言った。今日はまだレジは触らないそうだ。おれは言われたとおり掃除と品出しと温度管理の簡単な説明を彼女にした。彼女は一生懸命メモを取り、はい、はい、とか細いながらも溌溂とした声で返事をした。

 おれはだめな人間なのでだめな人間のことはすぐにわかってしまう。新山さんは生命力を振り絞って無理に溌溂な声を出している。彼女は本当はここに立つだけで気を失ってしまうような人種だ。そう思うと彼女の健気さに心を打たれた。

 おれが一通り説明し終わると、彼女は顔をゆでだこのようにして言った。

「田沼さんって何でも知ってるんですね。頼りになります。これからもいろいろ教えてください」

 新山さんとおれは同じシフトに入ることが多かった。あとで言われて気付いたが、店長はおれが失敗続きなのを見越して混雑する朝や昼におれを入れるのを避けていたらしい。簡単な時間帯にしか入れてもらえなかったおれは必然的に新山さんと同じシフトになったというわけだ。

 新山さんはいつも一生懸命だが、おれに輪をかけて仕事ができなかった。レジの押し間違いはしょっちゅうだし、宅配便の手順もしょっちゅう忘れた。ソースをつけたまま商品を電子レンジに入れて爆発させることもしょっちゅうだった。メモをたくさん取るくせに客に話しかけられると混乱してメモの存在を忘れてしまう。メモ帳とボールペンをおにぎりの棚に置きっぱなしにすることもあった。

 おれは何度も新山さんを助けた。新山さんはその度にありがとうございます、ありがとうございます、と消え入りそうな声で繰り返し言った。小さくなって頭を下げる新山さんを見ていると怪我を負った小鳥のように見え、そっと掌で包んであげたいような気がした。

「田沼さんって本当にすごいと思います。尊敬です。いつも優しくしてくれて、助けてくれて、ありがとうございます。毎日すごく辛いけど、田沼さんがいるから頑張れます」

 新山さんは小さな瞳を涙で潤ませながら言った。おれは新山さんと一緒にいると、なんだか自分が強くなれる気がした。守ってあげたい、傍に居てあげたいという思いがそうさせたのかもしれなかった。


 大学の夏休みもそろそろ終わる頃、おれは杏奈さんと映画を観に出かけた。

 大学があるときはおれと杏奈さんは途中まで一緒に通学する。毎日顔を合わせていた杏奈さんとは夏休みに入ってからは殆ど会っていなかった。おれがコンビニのシフトを増やしたせいでもあった。

 おれ達が観たのはアクション映画だった。爽快なアクション映画だと聞いていたから選んだのに、背景に複雑な世界情勢が絡んでいたから内容をよく理解できなかった。おれは歴史がわからないから歴史ものの映画は避けている。同様にシリアスな家族映画も観ないようにしている。おれはあまり深い心情が読み取れないし、電話を切る動作が主人公の拒絶を表すのだと言われても理解できない。電話を切る動作は電話を切る動作だと思う。

 映画が終わってから、おれはカフェで杏奈さんからさっき観た映画の解説を受けていた。杏奈さんはやっぱりいつもの慈しむようなまなざしをおれに向けていた。

 杏奈さんから解説を受けるのが嫌だから、おれはなるべく杏奈さんと映画を観ないようにしていた。それなのに今日はなぜ選んでしまったのだろう。喋らなくて済むからだろうか。

 杏奈さんの解説が終わったのを見計らって、おれは自分を奮い立たせるように言った。

「あのさ、今度泊まりで旅行行こうよ。おれ、夏シフト増やしたじゃん。このために頑張って金貯めたんだ。杏奈さんの分もおれが出すから」

「泊まり……」

「和倉温泉とか行こうよ。海きれいだよ。夜の街とか、静かですごく良いんだって」

 杏奈さんの顔が急に曇った。おれは背中にいやな汗をかく。中学高校と、好きな女の子に想いを打ち明けると彼女たちはいつも決まってこの表情をした。

「私ね、たぬくんのことが好き。初めて好きになった男の子よ。たぬくんは他の男の子とは全然違う。優しくて、かわいくて、一緒にいると安心するの。私、たぬくんとの今の関係がとても好き。このままでいたいわ。今のたぬくんのままでいてほしいの」

 杏奈さんは言い聞かせるような口調で言った。まるで保育園の先生のようだった。おれは無性に腹が立った。

「よくわかんないけどさ、それっておれと旅行行きたくないってこと?」

「魂で繋がれたらって、思うよ。たぬくんと私、身体じゃなくて魂で繋がるんじゃだめなの。身体は傷ついたり汚れたりするよ。でも、魂の美しさって変わらないはずなの。そこで通じ合えればそれでいいじゃない。ううん、そこで通じ合うのが一番の方法なんだよ」

 杏奈さんの言っていることの意味はよくわからなかった。俺の頭が悪いからよく理解できないのかもしれない。

「杏奈さん、おれは、杏奈さんのことが好きだから、その先に進みたいって思うんだ。それはだめなことなの。杏奈さんがもしも先に進みたくないって言うのなら、それはもう、杏奈さんがおれのこと、好きじゃないってことじゃない。だったらもう、おれ達一緒にいる意味はないんじゃないの……」

 こんなのほとんど脅しと一緒だと自分でもわかっていた。でも言わずにはいられなかった。杏奈さんは俯き、押し黙ってしまった。

 その後は二人で駅をぶらぶら歩いて時間を潰した。おれが鞄を欲しいと嘘をついて、見たくもない鞄を二人で眺めた。鞄でふと思い出し杏奈さんの鞄を見たが、女の子の持つ普通のバッグだ。やはりイカホロなんてついていない。


 会話は弾まず空気も良くなかったがずるずると夜まで駅で過ごした。このまま別れるとそのまま本当の別れになる気がする。お互いその空気を感じ取っていたが上手く繕うことができずにいた。無言でうどんを食べて結局終電の時間になった。

 終電が来るまでの時間をおれ達はバスターミナルで潰した。たまにタクシーがやって来るくらいで他には誰もいない。白くて寂しい光がぽつぽつと遠くに見えるだけだ。

 ふと、杏奈さんがおれの手を握って来た。とても強い力だった。杏奈さんの手は震えていて上手くおれの手をつかめないようだった。細い指がおれを離すまいと必死にもがき、綺麗に切り揃えられた爪はおれの皮膚に強く食い込む。痛い、と顔を顰めたが杏奈さんは必死で気が付かない。こんなに強く掴んでいるのに、手の震えがひどいために何度もおれの手を落としそうになっている。

 杏奈さんの震える手がおれの手から滑り落ちた。おれは杏奈さんの手を拾ってから杏奈さんを自分の方に引き寄せた。そして映画やテレビで見たのを思い出しながら杏奈さんの唇に自分の唇を重ねた。

 瞬間、おれの身体は物凄い力で突き飛ばされた。おれは漫画に出てくる冗談みたいなふざけた体勢でどでんと転び、仰向けになった。おれは真っ黒な夜空を見ながら自分に何が起こったのかをぼんやりと考えていた。もう何が何だかわからなかった。右手首と背中が痛い。頭も少し打ったかもしれない。

 月明りにうっすらと照らされた黒い雲がゆっくりと流れていく。それを眺めていると、妙な音が聞こえてきた。ホイッスルの音だろうか。か細い笛の音が途切れ途切れに鳴って、夜空に吸い込まれていく。身体を起こすと杏奈さんがしゃがんで笛を吹いていた。

 杏奈さんは泣きじゃくっていた。子供みたいにわあわあ泣きながら、首から下げた虹色の笛をぴーいぴーいと吹いているのだった。杏奈さんがしゃくり上げるのに合わせて笛はぴいぴい鳴る。


 気持ちわる。


 おれは素直に思った。ひょっとしたら声にも出してしまったかもしれない。何でもできるしっかり者の杏奈さんが急に泣き出して夜中笛を吹いている。この奇怪な情景がおれはなにひとつ理解できない。まるで知らない怪獣でも見ているみたいだ。

 おれは泣きじゃくる杏奈さんに駆け寄り、事情を聞いて慰めるべきだった。わからないなりに彼女の心に寄り添うべきだった。そうすることが恋人として正しいことだと頭ではわかっているのに、冷たい夜空を見過ぎたせいだろうか、おれの心は何一つ動かなかった。


 次の日バイトに入ると、新山さんがバックヤードで泣いていた。ミスをして客に怒鳴り散らされたらしい。しゃくり上げる新山さんを見ているうちに、おれの心の底から熱い気持ちが沸き起こった。おれはいつの間にか新山さんを強く抱きしめていた。新山さんはおれの胸に顔を埋めてわあわあ泣いた。おれは新山さんの顔に自分の顔を近づけたが、新山さんはおれを突き飛ばしたりはしなかった。

 あれから杏奈さんとは二度と会っていない。杏奈さんにはメールで別れを告げたが、返信が来る前に着信拒否をしたので杏奈さんの反応はわからない。昔の彼女のことを考える時間があるなら今の彼女のことを考えたい。

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