letters 03

 不安を胸に抱えたまま、約束の日を迎えた。


 自分が感じた胸騒ぎはきっと勘違いだと言い聞かせながら、指定された駅の前に立っていた。あの日、渡しそびれたプレゼントの入った紙袋を手に持ち、ホームを行き交う人々を見つめる。


「あの……朋美さん?」


 背後から聞こえた声に慌てて振り返った。

 目線の先に、爽やかな青年がこちらを窺うようにして立っている。少し躊躇しながら、わたしは小さく頷いてみせた。


「はい」


 清潔感ある黒髪のショートヘア、少し細長のシンプルな眼鏡を掛け、知的な大人の雰囲気を漂わせる。想像していたよりもずっとかっこ良くなっていた兄。そう信じて疑わなかった。夢にまで見た再会に、さっきまでの不安が嘘のように吹き飛んでいた。


「お兄ちゃん……ですか?」


「ごめん、違うんだ……俺は君のお兄さんじゃない」


 思わぬ返答に、わたしは相手を凝視する。


「俺は雅樹まさき洋平ようへいの……お兄さんの友達で」


 気まずそうに話し出した見知らぬ男性・雅樹は、急に焦り出し、わたしの腕を勢いよく掴んだ。


「時間がない。急ごう!!」


「あの、時間がないって? どういう事か説明してください!」


「いいから、今は急いで!」


 そう言って強引に引っ張られ、わたしは理由も分からないまま彼に付いて行くしかなかった。


 駅から走り、息を切らしながら辿り着いたのは大きな病院。


 また嫌な予感が頭の中を過ぎる。しかし、彼に手を引かれているせいで、立ち止まることは許されない。


 それでも心は拒絶を叫ぶ。

 この先へ行ってはいけないと、本能が訴え掛ける。


 不安定な気持ちを抱えたまま、長い廊下を歩いていく。ようやく彼の足が止まったのは、病室の前だった。目の前のドアを開けると、ベッドを囲む白いカーテンが目に映る。その前に立った途端、足が小刻みに震え出した。


「起きてるか?」


 雅樹の掛けた声に反応し、カーテン越しに映った人影が微かに動いた。


「雅樹? そんなところに居ないで入ってくればいいだろ」


 返ってきた声に、雅樹はわたしの顔を確認しながら手を伸ばす。ベッドを囲んでいたものが一瞬で取り払われ、わたしの瞳に声の主が飛び込んできた。そして、その人と目が合う。


 酸素マスクを付け、片腕は点滴に繋がれ、その側で機械が心拍数を刻む音を鳴らす。体は痛々しいほど痩せ細り、力なく横たわっていた。掛ける言葉が見付けられず、どうしたらいいのか全くわからない。出来ることなら、これは夢だと思いたかった。この人がわたしの兄なんて信じたくなかった。


 でも、これは現実で、目の前にいるこの人がわたしの会いたかった人。


 目線が重なった瞬間、気付いてしまった。

 幼い頃の兄の面影がうっすらだけど残っていた。


 間違いない。彼はお兄ちゃんだ。


「雅樹、その子は?」


 不思議そうにこちらを見つめてくる彼は、わたしが妹だと気付いていない。ひどく動揺しているわたしを気遣うように、彼は優しく微笑む。その笑顔は、昔の兄のままだった。


「もしかして雅樹の恋人? 俺に紹介しに来てくれたのか? わざわざこんな所へ連れてこなくたって良かったのに……ごめんな。こんなんで驚いたでしょ?」


「……洋平、よく見ろ」


 そう言って、雅樹はわたしの背中を押した。兄は首を傾げながら雅樹に言われた通りこちらをじっと見つめる。


「……え? 俺、どこかで会った?」


 笑いながら話していた兄の瞳が大きく揺らぐ。


「まさか……朋美か?」


 その声は震えていた。


「お兄ちゃんなの?」


 その問い掛けに、彼は切なげに顔を歪ませる。


「なんで、黙ってたの? こんなになるまで……どうして、教えてくれなかったの?」


「ごめん」


「あの日だって言ってくれれば、わたしから会いに行ったのに!」


「本当にごめん。傷付けるつもりじゃなかった」


 兄の目から、涙が零れる。


「こんな姿、見せたくなかった。見せたら、もっとお前が傷つくと思って」


「知らない方が傷つくよ!」


 少し間を空け、兄は呟くような声で告げた。


「俺はもうじき、死ぬかもしれない」


 その告白に、わたしは言葉を失う。


「俺は末期の癌だ。いろんなところに転移して、手遅れだそうだ」


 視界が歪み、兄の顔すらはっきり見えない。


「朋美、おいで」


 手を伸ばす兄に導かれ、ベッド脇に置かれた椅子へと腰掛けた。兄の手にそっと触れる。その手はひんやりと冷たかった。


「綺麗になった。公園に行けたとしても、きっと気付けなかった」


「でも、もうこれで分かるでしょ? これからはいくらだって会えるよ」


「そうだな」


「この間、お兄ちゃんの誕生日だったの気付いてた? 誕生日プレゼント渡せなかったから、ちゃんと持ってきたんだよ」


 紙袋から取り出したプレゼントをベッドの側に寄せて、兄に分かりやすいように見せる。それに目線を移し、洋平は嬉しそうに目を細めた。


「誕生日おめでとう」


「ありがとう、朋美」


 そう答えると、兄は瞼をそっと閉じる。


「お兄ちゃん?」


 異変を感じた瞬間、心拍数が弱まっていることを知らせるアラーム音が病室中に響き渡った。後ろに立っていた雅樹が慌ててナースコールを押す。その様子を見て、わたしは瞼を閉じた兄の手を強く握った。


「お兄ちゃん!」


 返事はない。

 目を開けてくれる様子もない。


 次に体を揺さぶってみるが、なんの反応も示さない。


「待ってよ! 会えたばっかりなんだよ!」


 目を開けない兄に訴え掛けるわたしを見兼ね、雅樹の手が制止を求めるように肩へと乗せられた。それども、わたしは自分の行為が止められなかった。


「こんなの望んでない! こんな別れ方は嫌だよ!」


 そう言い放った直後、医師と看護師が一斉に病室へと入ってきた。


「離れてください!」


 兄から引き離され、またカーテンで視界を遮られる。雅樹の手に引かれ、廊下へと連れ出されたが、叫ぶことをやめられなかった。


「やっと会えたのに、わたしを置いていくなんて絶対に許さないから! だからお願い……わたしの為に生きてよ!」


 その言葉は、儚くも宙に消え去っていく。

 耳に届くアラーム音が再び規則正しいリズムを取り戻すことはなかった。


 わたしは愁嘆し、泣くことしかできない。

 大事な人を失って泣くのは、あれで終わったと思っていた。なのに現実は残酷で、簡単にわたしから家族を奪っていってしまう。



 兄との再会は、この日が最後になった。



 それからの記憶がない。



 どうやって病院から出て雅樹と別れたのか。どんな状態で家へ戻ったのか、全く思い出せなかった。覚えているとしたら、わたし以上に辛そうな表情をした両親の姿だ。



 ふたりが泣いているところを見たのは、その日が初めてだった。

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