西条花蓮邸——強行突入10分前——

 た、助かった……。


「……ご主人様」

「う、うわ!?」

 

 いきなり背中を鈴羽さんに触られたため、俺は思わず素っ頓狂な声を上げて、後ろを振り返る。

 

 と、そこには鈴羽さんがあられもない姿で俺を見ていて——


「も、申し訳ありません。勝手に触れてしまい……」


「い、いや……それはいいんだけど、えっと……鈴羽さん、その……」


「はい? ご主人様」


 なんというか俺はその時点で、半ば自身の頭の処理が限界を迎えてしまっていた。

 

 鈴羽さんの様子がおかしいのは間違いない。

 

 俺の回復魔法のせいだとは思いたくないが、現状ではそれ以外の合理的な理由が考えつかない。

 

 頭を強く打った……ということもなかったしな……。

 

 いやもう……深く考えるのは後にしよう。


 とりあえず、今はこの場……中年のオッサンとうら若き女性が裸で浴場にいるという色々な意味で危険な状態……から早く離脱しなければ——。


「あの……鈴羽さん。とりあえず話しはまた後で——」


「かしこまりました! ご主人様!」

 

 と、鈴羽さんはやけに嬉しそうな表情をしている……。

 

 正直なところ今までの鈴羽さんの様子を知っている俺からすると、その豹変ぶりは不気味に見えてしまう……。


「あの……鈴羽さん。ご主人様っていうのは……さすがに……」


「ダメ……でしょうか?」

 

 と、鈴羽さんは一転して、今にも泣き出しそうなくらいに悲しい顔を浮かべている。


「いや……ダメというか……その……人がいる前でその呼び方は……周りの目もありますし……」


「で、では……ご主人様と二人っきりの時だけなら……お許し頂けるでしょうか?」


「はあ……まあ……」


「ありがとうございます!」

 

 俺はその場を取り繕うために、生返事をして、そのままそそくさと退散しようとする。


「あの……ご主人様……」

 

 と、後ろから再び鈴羽さんに呼び止められる。

 

 その口調はやけに真剣で俺は思わず緊張してしまう。

 

 やはり俺は何か失敗してしまっていたのか……。

 

 が、鈴羽さんの口から出た言葉は、


「ここでのことは花蓮様に秘密にした方がよろしいでしょうか?」

 

 と言う全く予想外の事柄であった。


「そ、そう……ですね。そうしてもらえると助かるというか……」


「……わたしとご主人様だけの秘密……ということですね」


「はあ……そういうことになりますかね……」


「二人だけの……秘密……」

 

 鈴羽さんの目はますます焦点が合わなくなり、一層様子がおかしくなっていた。

 

 俺は申し訳ないと思いつつ、そんな鈴羽さんの異変を見て見ぬふりをしてその場から去る。


 申し訳ない、鈴羽さん。

 

 もしも、俺の回復魔法のせいだったら、必ずなんとかするから……。

 

 大浴場から出た俺は、体を拭き、自身の服に着替えようとする。

 

 が……俺の愛用の安物のTシャツとチノパンはどこかへと消えていた。

 

 代わりに、折りたたまれた小さな紙片と着物が置いてあった。

 

 俺は首をかしげながら、その紙片を開く。


『差し出がましいようですが、服が先ほどの一件で汚れていましたので、こちらの着物をお使いください 花蓮』

 

 俺のような人間ですらひと目で違いがわかるほどの達筆な字で書かれていた。

 

 さすが……花蓮さんだな……。

 

 と、俺は感心しながら着物を手に取り、少し戸惑う。

 

 着物か……何十年ぶりだろうか。

 

 何かますます高級旅館にいるような非日常的な気分になってきた。

 

 本来ならば着方にも正式な所作があるのだろうが、残念ながら俺にはそんな教養はない。

 

 まあ……異世界での教養ならこれでも25年間いたから、それなりに身につけたのだが、この世界では役に立たないからなあ……。

 

 と、俺はそんなことをぼやきながら、鏡の前で着物を身につける。

 

 それにしても肌触りが滑らかで、素人の俺でも何か高級な素材で出来ているのだろうと想像がつく。

 

 いつも着ているチノパンのゴワゴワぶりとは大分違う。

 

 いやまあ……この着物と比べるのは、さすがにチノパンに申し訳ないな。

 

 あのチノパンは着心地は劣るが、丈夫さは十分な訳だし。

 

 なにせ毎日着ていても、未だに破れずに使えるわけだしな。

 

 俺は最低限見苦しくない程度に、着物を我流で着付けて、髪を乾かして、着衣所から出ようとする。

 

 と、不意に鏡に映った着物の背に描かれている紋様が目に入る。

 

 そこには何か龍のような動物が描かれていた。


 俺が身につけている着物は、落ち着いた濃い紺の色合いなのだが、その紋様だけは不自然なくらいに派手に見えた。


 家紋か何かなのだろうか……。


 少し気になりはしたが、今は早く花蓮さんのもとに戻りたかった……というより鈴羽さんから離れたかった……。

 

 日本庭園と呼ぶにふさわしい見事な中庭に面した長い廊下を歩きながら、俺は外を見る。

 

 いつの間にかすっかり日は沈み、夜になっていた。

 

 中庭からそよぐ夜風が頬にあたり、心地よい気分になる。

 

 が……そろそろ帰らないとな……。

 

 花蓮さんの好意に甘えて風呂まで入ってしまったが、さすがに長居しすぎてしまった。

 

 そういえば花蓮さんはこの後、誰かが来ると言っていたが……。

 

 俺はそんなことを脳裏に浮かべながら、最初に案内された居間へと戻る。

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