【5】最大の敵は

 「本社に僕のことを照会されてもかまいません」

 神崎有人は、いかつい衛星携帯電話イリジウムをテーブルの上にゴトリと置いた。

 ――それは彼なりの作戦だった。一刻も早く彼女を救うための。



     ◇◇◇



 地方に出かけていた麗の父親が、週末になってようやく東京に戻って来た。心待ちにしていた時が、やっと訪れたのだ。

 これで麗を救える。早く麗を安心させてやりたい。

 神崎は焦っていた。


 週末の午後、病院の談話スペースで、神崎と麗の両親の三人による、麗の転院に関する話し合いが始まった。

 麗の父親、四十代半ばで中肉中背の塩野義しおのぎ氏は薬剤師ということもあり、個性的ではないが温厚で知的な人物に見えた。

 ――その彼が警戒心を全開にして神崎を見ている。

 当然だ。

 どこの馬の骨……と言われるほど身元がいい加減ではないものの、神崎の登場はあまりにも唐突過ぎる印象を塩野義氏、つまり麗の父親に与えてしまったのだから。

 奥方から話だけは聞いているものの、不審者を見るような目で己を見る麗の父親には、一から身の証を立てねばならなかった。

 だいたい、自分の嫁を引き取るのに、どうして許可が必要なのか。今生のことしか知らぬ両親にとっては、神崎こそが強奪者なのだが、長い目で見れば理があるのは神崎の方で……。

 と、ひどくややこしい状況になっている。


     ◇


「本日はお忙しいところ、お時間を割いて頂きありがとうございます。今日はプライベートなので、一人で参りました。無粋なSP連中は連れておりませんのでご安心ください」

 何がご安心くださいなのかわからないが、神崎はいかにもな台詞を吐いてみせた。無論SPなど最初から連れてはいない。これは麗のパパへのハッタリなのだ。

 普段は自分がSPをやっている側なのが可笑しかったが、実際、親会社の「GBI社グリフォンバイオロジカルインダストリーの副社長」として、兄に見世物にされる場合には、そんな自分にもSPが付くのだから愉快な話だ。

 神崎は、速やかに信用を勝ち取るべく、上着の内ポケットから役員名義の名刺と役員の顔写真入りIDカードを取り出して、ご機嫌ナナメなパパに手渡した。これが、余程のことがなければ使わない、彼のもう一つの「不本意極まりない」肩書きを証明するものだった。

 神崎自身としては、この肩書きの使用は非常に本気の本気で不愉快だった。しかし一般人を手っ取り早く信用させるには、巨大多国籍企業の役員という肩書きは絶大な効果がある。

 これがもし、ただの平の商社マンという肩書きだとしたら、両親の説得にあまりにも時間がかかり、最悪タイムアップで彼女を救えなくなってしまう。

 父親は、ほぉ、と声を上げながら渡されたIDの裏表をまじまじと見ている。未だに目の前の青二才が大会社の重役だということが飲み込めないでいる様子だ。

 世事に疎い母親ならともかく、一般社会人である父親は、神崎の会社がどれほどまでに巨大なのかということを漠然と理解しているために、余計に実感がわかないのだろう。

 GBI社は、およそ一般人が知るグローバル企業が束になってかかっても一瞬で当たり負けするほどの超巨大企業なのだ。この企業が日系である事実が日本の国益を多大に守っていることを国民のほとんどは知らない。


「日本支社に僕のことを照会されてもかまいません。今日のスケジュールも報告済みです」

 神崎はそう言うと、ベルトのホルダーからいかつい衛星携帯電話イリジウムを取り出し、テーブルの上にゴトリと置いて対面に腰掛けるパパに促した。

「イ、イリジウム……ですか」

 本物の衛星携帯電話を目の当たりにして、父親は怯んだ。

(よしっ! 怯め怯め!)

 本当は金さえ出せば誰でも所持できるものだが、素人相手なら威嚇効果は十分だった。麗の父、塩野義氏は、ここまで来てやっと少しは事態を納得する気になったようだった。

「済みません、今はこれしか持っていないのです。あの……何か不都合が?」

 礼儀正しく、落ち着いた雰囲気で語る神崎青年からは、確かに肩書きに相応しい振る舞いを感じることはできる。それこそ、どこかの王侯貴族だと言っても通用するような品格があった。無論それは、神崎が意図的に、社長の弟の顔を見せたに過ぎなかったのだが。

 とにかく今は手段を選んでいる場合じゃないのだ。時間がない。

「いや……そこまでしなくとも、君の身の証は、もう結構だ。……私が知りたいのはそれじゃぁない」

(じゃあ何なんだよ、こっちゃ急いでるんだ)

 父親は神崎の手を取り、そっとIDカードを返した。そして手を握ったまま彼の目を真っ直ぐに見つめ、

「どうしてそこまで娘に入れ込んでいるのか、ということだ」

(ああ、そこですか……)

 第一関門は突破したように見えたので、次は悲劇の王子を演じる段取りだ。神崎は、以前母親に語ったのと同じことを、今度は父親に語って聞かせた。

 ひととおり説明をした後、父親が口を開いた。

「娘とはネットで知り合った、という話のようだが……」

 真摯な神崎を前に、父親の心中には疑問や不安が沸き出していた。

 ネットという得体の知れない世界が結ぶえにしというものは、理解出来ない人間にとっては奇異にしか映らない。

「それで、娘の何が分かるというのかね」と、父親は神崎に不安をぶつけた。

 神崎は小さく頭を左右に振り、

「出会い方に、ネットもリアルも関係ありません。ネットを介していても、相手の気持ちや人となりはちゃんと分かるんです」

 父親は若干訝しげな顔をしていたが、神崎はそのまま言葉を続けた。

「長い時間、僕は麗さんと様々な事を語り合いました。病院での日々、ご両親のこと、僕の仕事のこと、好きな動物や花、色、音楽、本、子供のころのこと、天気のこと、今日食べたもの……、テキストで、携帯で、テレビ電話で、他愛のない事から悩み事まで、長い時間、僕らはいろんなことを語り合いました……」

 神崎は遠くを見るような目をして、更に話を続けた。

「我が国でも古の時代には、貴族が文を交わすことから交際を始め、そして婚姻に至る故事が伝えられています。彼等は婚姻の際に初めてお互いと逢うのです。ある意味、文通での交際というのは、我が国の伝統と言えるかもしれません。ネットという特殊な世界を、すぐに理解しろとは申しませんが……。でも僕は、心から彼女を愛し、そして救いたい、ただそれだけを願っているのです」

 神崎が沈痛な面持ちで唇を噛んでいると、母親が助け船を出した。

「あなた、いい加減な気持ちで神崎さんが、わざわざ麗のために遠路はるばる中東からやって来られると思う? 麗が、どれだけ彼に元気付けられたことか……」

 父親は、ふーむ、と唸って腕組みをした。微妙に腑に落ちないものを感じながら、目の前の見目麗しい、セレブの青年を信じようと試みていた。時折、妻をチラチラと伺っているのは、家庭における力関係が故だろうか。

「僕の方で麗さんの病状について調べさせて頂きましたが、この病院では麗さんに万全の手当てが出来ているとは到底思えません」

「それは私達も重々承知ではあるが……これが精一杯なんだ……」

 父親は苦渋の表情を浮かべた。いまの麗に本当に必要とされる医療は、一般家庭の子女である彼女が望むべくもなかった。

「差し出がましいようですが……、うちの系列に獅子之宮ししのみや総合病院という私立病院があります。そこなら彼女に、もっと高度な治療を受けさせてあげられる。必要なものを全てご用意できるのです。どうか、その病院へ彼女を転院させては頂けないでしょうか」


 獅子之宮総合病院は、世界最高クラスの高度な医療を提供するセレブ御用達、悪く言えば金さえ積めば何でもしてくれる、と有名な病院だ。

 日本国内以外にも主要各国に展開しており、高度な医療を提供している。

 ――薬剤師の塩野義氏が知らぬはずはなかった。

 公にはされていないが、親会社のお家芸、バイオテクノロジー部門や化学薬品製造部門の強力なバックアップで、最新の高性能薬品や最先端医療を患者に提供する。

 なにより世界中の戦場で培った高度な外科技術もこの病院の売りだった。つまり子会社であるGSSグリフォンセキュリティサービス社の社員は、親会社の高度医療を受けられるかわりに、薬品開発や新規治療、義肢などの実験動物でもあり、そのフィードバックで最高の医療を提供しているのが、この獅子之宮総合病院でなのである。

 その獅子之宮でなら、麗を確実に救うことが出来る。

 無論、臓器移植も思いのまま。

 今ならまだ間に合うのだ。


「獅子之宮……そ、そんな高級な病院、いくら金があっても……」

 神崎は父親の言葉を遮った。

「費用は僕が全て負担します」

「全て……って、君」

「お願いです、僕は、僕は麗さんを救いたいんです!」

 神崎は立ち上がって、必死の形相で訴えた。

「このまま彼女を死なせたくないんだ!」

「神崎君、落ち着いてくれ。私とて……同じ気持ちだ」

「申し訳ありません……つい」

 神崎は椅子に腰掛けると、悲しげに視線を落とした。

「しかし、気持ちは有り難いのだが、会ったばかりの君が、どうして娘にそこまで?」

 自分が麗をどれだけ本気で想っているかなんて「地球が丸い事」と同レベルに当たり前なことを、今さらこの男に納得させなければならない。それがひどくもどかしく思えた。

(俺は、あんた達よりも、ずっと昔からあいつと一緒なんだ。当たり前だろう……)

 父親は渋い顔をして言った。

「神崎君。確かに、麗が君を支えにしていた事は知っているし、私も感謝している。しかし、これは捨て猫を拾うのとは訳が違うんだ」

 娘を救いたいが、納得出来ない形での援助は受けたくはないのだろう。

「……確かにそう、麗さんは捨て猫とは違う。でも、僕には彼女を救える可能性がある」

 神崎は、床に置いていた二つのジュラルミンケースをテーブルの上に、ドンッドン、と置いた。病院の安物のテーブルは、ケースの重みに一瞬たわんだ。

「こんなことは、本来の僕の主義には反するのですが……」

 そう言いながら神崎は、バチン、バチン、とロックを外し、ケースの蓋を二つ同時に開けた。

「どうかこれで、僕の誠意を信じて頂けないでしょうか……」

「! こ、これは…………」

 麗の両親は、目を丸くして驚いた。

 ジュラルミンケースの中身は、びっしりと詰まった新札の現金だったのだ。

「日本円で二億あります。中身を改めて下さい。当座はこれで間に合うと思います。足りなければあとで追加をお持ちします」

 父親は、息を飲み神崎の顔を見た。

「僕には使い道のない金です。彼女のためなら、僕の財産を全て差し出したっていい」

 神崎は、淡々と答えた。

 下衆な方法ではあるが、相手が交渉を渋る場合、現ナマを突きつけるのは定石だ。金で釣るもよし、身の証にするもよし、とかく大量の現金というものは、見せつけるだけでも威力がある。

「一体君は……」

 父親はそのとき、神崎の澄んだ目に、一瞬痛いほどの苦悩を見た。

 神崎は唇を噛み、目を閉じて深呼吸をひとつ。

 そして父親を悲壮な目で見つめ返して、

「彼女は、長い時間ずっと探し求めていた、僕の――」

 そのとき神崎の言葉を遮るように、彼の携帯が鳴った。すみません、と言って両親に背中を向けて電話に出る。

 ……どうせ自分にかけてくる奴なんて仕事の関係者だろう、神崎はそう思った。

「yes...」

 数十秒の英語でのやりとりの後、彼は急に声を荒ららげた。

「よ、吉岡さんが死んだ?! 本当なのか!!」

 思わず日本語で怒鳴ってしまい、慌てて英語で言い直した。背後から不安そうに麗の父が顔を覗かせる。

「何かあったのかね?」

 神崎は軽く頭を下げて、英語で二、三言話すと電話を切った。

「すみません、仕事先で大きな事故が発生しました……。話の途中で申し訳ありませんが、僕はすぐに戻らなければなりません」

「事故は、かなり深刻な状況なんだね?」

「ええ。死者が多数出ています。急いで戻らなければ。申し訳ありません、塩野義さん。僕はこれで失礼します」

 病院にヘリのローター音が近づいてきた。神崎が傍らの窓から見ると、彼を迎えに来たGSS社東京支社所有の真っ白なヘリが、病院のヘリポートに着陸するところだった。慌てて身支度をする神崎に、麗の母親が言った。

「あの、神崎さん、せめて麗に顔を見せてやってくれませんか。お別れを……」

「いえ、このまま失礼します。彼女には後ほど連絡しますので」

 彼は深々と麗の両親に頭を下げると、父親に病院の電話番号を書いた名刺を手渡した。

「転院の件、どうか本気で考えて下さい。先方に僕の名前を出してもらえれば、全て手続きが取れるよう手配済です。……では」

 言い終わると同時に、神崎はトランク二つと塩野義夫妻を残して駆け出した。


 病院の外に出ると、ヘリが神崎を待っていた。回転し続けるヘリのローターは周囲に騒音と強い熱風を撒き散らし、紙くずを宙に舞い上げている。その真っ白なボディには、青と金のラインが入り、GSS社のロゴとグリフォンのエンブレムが描かれている。

 神崎はふと、気配を感じて病棟の方に振り向いた。三階の病室の窓から、カーテンに手を掛けたうららがこちらをじっと見ている。彼女の訴えるような視線は、彼の胸をキリキリと締め上げた。

「……ごめん」

 麗は悲しげに彼を見ると、小さく頭を左右に振った。彼は唇を噛み、彼女に背を向けてヘリに駆け寄った。機体の前では待機した、GSSのロゴ入りジャンパーを着た東京支社の支社長、菊池一平がドアを開け、インカムを持って待ち受けていた。

「すぐ戻るから……」

 そう小さく呟くと、神崎は断腸の思いでヘリに乗り込んだ。



     ◇◇◇



「こんなつもりじゃなかったのに……」

 NYの高層ビルの最上階、広い執務室で爪を噛む男がいた。

 神崎有人の兄、玲央は苦虫を噛み潰したような顔で、大きな窓から摩天楼を見下ろしていた。

 弟に休暇を取らせるつもりで僻地まで御用聞きに行かせたのに、また鉄火場に送り返すハメになった。

 おまけに、弟の嫁が百五十年ぶりに見つかったのに傍にいさせてやることも出来ず、さらにダメ押しで、自分が可愛がっていた技術者もテロで失ってしまった…………。

 まったくもって、何から何まで裏目に出るときはある。それが今なのだが、後悔が次から次に沸いてくる現状に、玲央は眩暈がしそうだった。

「何故なんだ……。私が何をしたというのだ? 可愛い弟一人、甘やかせてやることも出来ないなんて……。いるか?」

「はい、社長」

 美人秘書のレイコが隣室から現れた。

 玲央は彼女に向き直ることなく話しかけた。

「済まないが面倒を見に行ってくれないか」

「はい、仰せのままに」

 レイコが退室するのも見送らず、彼はNYの街を見下ろしていた。

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