第7-2話

「三嶋さん、どうしたんです? 今日お休みじゃ」

 資料管理室には白猫だけでなく新人氏もいた。休日に紅緒が現れたことに驚いたようだが、お互いさまだ。

「武藤さんだって。今日はお休みじゃないんですか」

 部屋の中央に置かれた作業台――主のような顔をして、巨大な白猫が陣取っている。

「家よりここのほうが落ち着くんです、猫ちゃんもいるし」

 彼はにこにこしながら白猫の首に腕をまわし、体重を預けていった。白猫がのどを鳴らす音が、紅緒のところにまで聞こえてくる。

「べにぃ、みやげ?」

 白猫は鼻をそよがせ、ひすひすと音を立てる。

「ええ、水饅頭です。猫ちゃんだけじゃなく、武藤さんもどうぞ」

 紙箱を取り出すとき、紅緒は先にリリちゃん人形を手にしていた。新人氏と白猫の目がそちらに吸い寄せられる。

「あそぶか?」

 白猫の双眸が見開かれる。瞳孔がまん丸くなった瞳は美しい。

「遊ばない! 噛まないで!」

 リリちゃん人形の声が資料管理室に響き渡る。悲痛なその声に、白猫の表情が嬉しそうなものになった。

「かむぅ?」

「駄目! いや! 噛まな……噛まないで!」

 白猫は巨大で牙は鋭い。本気でなかったとしても、リリちゃん人形は大破しそうだ。

 彼女が気にしている三本目の足だけ噛み砕けないだろうか。リリちゃん人形が傷つく姿は想像して楽しいものではなかったため、紅緒はそれを頭から追い出す。

「猫ちゃん、三嶋さんにありがとうってして」

 新人氏が引き出しのひとつから紙皿を取り出し並べはじめると、白猫は作業台から降りていく。

 並んだ紙皿は四枚だ。

 ひとつはリリちゃん人形の分で、彼は怪異に対する心構えが鷹揚である。時々心配になるほどだ。

「べにぃ、きがきく」

 ちゅるりと水饅頭を吸いこんだ白猫の髭が、満足そうに広がっていく――まではいいが、それ以降はじっとリリちゃん人形を見つめていた。

「これおいしいですね、どこのお店のです?」

「駅前でたまたま見つけて」

 駅からは距離のある店舗から、休日だけ自転車で売りにきていると話していた。教えてもらった場所は、平日の仕事帰りでは間に合わない立地だ。週末に足を運べるなら、また入手したくなる味だ。

 目を離したわずかな隙にリリちゃん人形はお菓子を食べているが、今回はそうもいかないようだ。

 ずっと白猫が見つめている。

「猫ちゃん、そんなに見たらお人形さんが食べにくいよ」

「おまえ、食べろよ」

 新人氏の言葉を無視し、白猫はリリちゃん人形に低い声を放つ。

「リリちゃん、こちらの猫ちゃんはかわいいですし、乱暴はしないはずです。安心してください」

 紅緒が囁くと、白猫はふふん、と鼻を鳴らした。

「俺はかわいい」

 水饅頭を口に入れた新人氏が、同意に頭を上下させている。

「俺はかわいくて、アラといる」

 いつ見ても白猫の顔は自信に満ち溢れている。

 いやなこと、煩わしく思うことに一切気持ちを向けない生き物特有の、厭世的な空気をたたえていた。

「俺とアラはなかよしだ」

 リリちゃん人形の呻く声が聞こえた。

「なかよし、なかよし。俺はアラを噛まない、おまえは?」

 そういって白猫は新人氏の肩をそっと噛んだ。新人氏の手が白猫のマズルをつかみ、揉むようにする。おたがいの領域に入った信頼がそこにあった。

「ちっこいの、おまえは?」

 微動だにしないリリちゃん人形に鼻先をくっつけるようにし、白猫が問いかけていく。

「おまえは? べにぃを噛むのか?」

 紅緒は手に残っていた水饅頭を頬張った。

 白猫はリリちゃん人形が安全か確認している。

 怪異として白猫は強いものではないか――なんとなくの印象だったが、人面犬の態度から紅緒はそう認識している。

 強いものの前で、怪異は嘘をつくだろうか。

 リリちゃん人形がどれほどの強さなのか知らない。

 紅緒は作業台にすわっているリリちゃん人形の頭頂部を見下ろした。

「わ、私は……紅緒ちゃんのこと、呪いたくない……」

 呪いたくない。

 その言葉に紅緒は耳をそばだてるようにした。

 三本足のリリちゃん人形にまつわる呪いは、彼女の意図するものではないのだ。

 ――意図せずとも、起きてしまう。

 不憫なことだ。

「紅緒ちゃん……私のこと不気味がらなかったもの」

 不気味に思うものを思い浮かべようとしたが、これといって思い浮かんでこない。

「こちらのお人形さん、リリちゃん人形ですよね。呪いがどうのって話されてますけど、都市伝説のお人形さんです?」

 口を挟んできた新人氏の声は明るい。

「知ってるんですか、武藤さんは。そういう話にお詳しい?」

「詳しいというか、マチマチャンネル見てるユーザーだと知ってるんじゃないかな、有名な話ですよ」

 マチマチャンネル――きさらぎ駅探訪ツアーを取材に来ていた一団だ。

 あれ以降紅緒は、ネットでくだんの話題を調べることもなかった。ネットに流れる中川たちに関する暴言を見たくなかったし、あちら側に行ってしまった男性が戻って来たという話もないからだ。

「本物でいらっしゃる? 握手してもいいです? リリちゃん人形自体、さわるのってはじめてなんです」

「アラ、こいつと遊ぶ?」

 白猫の牙が新人氏の肩口に食いこみ、まわされた前脚の爪が腹部を包みこむ。新人氏は気にした様子がなかった。

「ご挨拶するだけだよ。僕、猫ちゃんみたいなことって、あの犬とこちらのお人形以外遭ったことなくて」

 独り言のような彼の言葉に、紅緒は唸る。怪異に遭わずに済むならそれに越したことはないし、三件も遭ったなら十分過ぎるだろう。

「……武藤さん、如月さんは」

「如月さん? 昨日猫ちゃんにお菓子を差し入れてくれましたよ」

 とくに如月に対して思うところはないのか。

 闇を頭から滴らせているのだ、もし新人氏にもそれが見えているなら、まず如月のことも怪異にカウントするだろう。

「はじめましてリリちゃん、武藤といいます」

「あなた、その猫と友達なの?」

 そっと新人氏が自分の手に乗せると、リリちゃん人形はそんな質問をした。

「はい、親しくさせていただいています」

「あなたも紅緒ちゃんとおなじで、私のこと怖がらないのね」

「あ、もしかして怖がらないのは、失礼に当たったりは……」

「気にしないでちょうだい」

 新人氏の態度が丁寧なものだからか、リリちゃん人形はどこか尊大な返事をしていた。白猫が新人氏の肩からリリちゃん人形をのぞきこみ、瞳孔の真円がブルブルとふるえている。

「前にいたやつ、どこにいったの?」

 如月と人面犬、双方が思い浮かんだ。

「私のこと捕まえたやつ」

「おもしろいやつ!」

 白猫が首をのばす――そして欠伸をした。

「あいつはおもしろい。よく逃げる」

「人面犬の方ですよね、リリちゃんが言ってるのは」

 紅緒は新人氏からリリちゃん人形を引き取る。彼女用の水饅頭は、紙皿の上でぐずりと溶けていくところだった。

「顔が人間で身体は犬の、ですよね?」

「犬じゃ……あ、あんなの犬じゃない!」

 リリちゃん人形の否定の叫びに、紅緒は人面犬が憐れになった。しかし確かにあれを犬とするなら、この世の犬はすべて犬ではなくなりそうだ。

 あれが犬でないなら、この人形はどうだろう。白猫は。誰も彼も、確かだと断言していいものか。

「リリちゃんはどこであのワンちゃんに捕まったんですか?」

 出会ったのか、捕まったのか。

「私、普段はふわふわしたところで、ふわふわしてるの」

「ふわふわ」

 お人形が口にする「ふわふわ」だ。綿アメでできた空間を想像するべきかもしれないが、紅緒は身体が弛緩する暗い空間を想像した。

「リラックスできそうですね」

「できるよ! ふわふわしてて、でもときどきこっちに来られるから、ちょっと遊びに来てたの」

 彼女の声が沈み、白猫が退屈そうに作業台にあごをもたせかける。

「いつもそのときに、不気味っていわれたりして……今回は変な犬モドキに捕まっちゃうし。でも紅緒ちゃんに会えてよかった」

 一緒にいたのはわずかな時間といっていい。すでにリリちゃん人形は、紅緒と過ごす時間に終わりを見ているようだった。

 ふわふわしていたというその場所が、おそらくリリちゃん人形の暮らしていた場所だろう。

「リリちゃんがいた、そのふわふわという場所はどこにあるんですか? わかりますか?」

 沈黙があった。

 説明に困っているのかもしれない、と思いつくほどの長い沈黙の果てに、リリちゃん人形がみしりとかすかな音を立て、紅緒を見上げた。

「わかんない、けど……紅緒ちゃんといたあの男のひと、見かけたことあるよ」

「如月さんですね」

 怪異であるリリちゃん人形がいた、ふわふわした場所。それだけでは紅緒にはなにがなにやらわからない。

 だが如月なら知っているかもしれない。

 どうするか。

 取り出したスマホを紅緒は見つめる――こればかりは仕方がない。

「ちょっと電話かけてきます。リリちゃん、ここで待っててください」

「そうだ、海苔巻きがあるんだけど食べます? あと苺もあります……ちょっと苺洗ってきますね」

 新人氏が苺のパックをどこからともなく取り出した。

 紅緒は彼と廊下に出る。総務部では見せなかったような笑顔で、新人氏は苺のパックを紅緒に示した。

「最近出回りはじめた新種なんですよ、甘いって評判で。三嶋さんの分も取っておきますね」

「ありがとうございます」

 ニュースになっていた苺だ、紅緒も知っている。贈答品としてつくられた高級苺で、一パックあたりではなく一粒あたりの値段が報道されていた。

「いただきます、ぜひ」

 新人氏と反対方向の廊下を進み、紅緒はエレベーターホールで足を止める。

 つい先日知ったばかりの番号を液晶画面に表示する。

 ――如月瑞穗。

 まさかこちらから電話をかけることになるとは。

 紅緒はため息を噛み、発信ボタンを押した。

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