第6-2話

 更衣室でトートバッグをのぞきこむと、連れ出したはずのリリちゃん人形がどこにも見当たらない。包んでいたタオルだけがそこにある。

 リリちゃん人形は自分の好きなように移動できるらしい。今朝方はバスタオルの上ではなく、テレビに向き直るようにすわっていた。動き回れるのなら、自分の意思でどこかに行ってもおかしくない。

「おはようございます、三嶋さん」

 総務部のある六階に立った紅緒に、如月の声がかかった。手洗いから闇濡れした頭が出てくるところだ。

「おはようございます、練り切りありがとうございました。おいしかったです」

 如月がうなずくと、頭から被った闇がぼたぼたと落ちていく。

「三嶋さん、預かった人形ですが、見当たらなくて。なくしてしまったようなんです」

「なくしたって……私のバッグに入れたんじゃないんですか?」

 そしてつい先ほど、リリちゃん人形はトートバッグから消えていた。

「そんな真似しませんよ。会社に置いていったんですが、見当たらなくて」

 嘘はついていないようだ。

 ――自分で考え、動ける人形。

 好きなところに好きなように出かけられるなら、それはいいことだ。あの身体のサイズでは移動が大変そうだが、どこかで楽しく遊べる相手と出会えるよう祈ることにした。

 昼を前に、紅緒は居成にお使いを頼まれて外出することになった。目的地は郵便局だ。そのまま昼休憩に入っていいとのこと。

 まだ昼休みに入っていないオフィス街は、通行人も少なく歩きやすい。

 ここのところ和菓子を買うために頻繁に外出するようになり、散歩が楽しくなっていた。脚力も以前よりついた気がする。

 明るい道を進み、紅緒は昨夜目に留まったものにあらためて向き合った。

 道の両脇にほぼ等間隔に並べられたもので、昨夜とは打って変わり、いまはどこも滲んでいない。

 ただそこにある、といった印象を持ったものだが、紅緒は以前にもそれを目にしている。

 きさらぎ駅――あちらで見た。

 それは黒い紐で括られた、異界では夜の領域とそうでない場所を区別していた石だ。

 こちらの道に点々と置かれたそれは、やはり特徴のある結び目をしていた。蛇が鎌首をもたげた姿を連想させられる。

 どうしてこれがここに。目で追って歩くと、それは駅まで続いていた。

 昨夜の滲んだ光景から、ただの置物とは思えない。

 紅緒は昨夜同様に、そこから意識を逸らそうとする。だが見ないふりをしようとしても、目に入ってきてしまう。

 如月ならなにか知っているだろうか。

 尋ねるか考える。

 きさらぎ駅のことも口に出したくないのに、如月に尋ねるのは気乗りしなかった。

 考えているうちに石の列を通り過ぎ、目的地の郵便局が見えてきていた。



 それなりに午後は忙しく、引き出しに入れたスマホにさわる暇はなかった。

 夕方になって資料管理室に顔を出し、総務部に戻ってみるとひとり如月がコピーを取っている。

「ほかの方は」

 如月が壁の時計を指差した。定時は過ぎている。定刻に上がれるのはいいことだ。

「俺もそろそろ上がろうと思うんですけど、三嶋さんは」

「そうですね、急ぎのものはないので私も」

 帰り道が一緒になるなら、道端の石について尋ねてみるか。

 着席し紅緒が引き出しを開けると、そこに置いてあるスマホが着信を知らせたところだった。

「電話?」

 着信があったところで、すぐ手が出せない。

 紅緒のスマホの番号を知っているものはわずかで、そのいずれもが電話をかけてくると思えないからだ。着信はイコールで迷惑電話、と身構える。実際これまでそうだった。

 着信の表示が消え、スマホが沈黙する。

「どうしました?」

「あ、電話が……間違い電話かなにかだと」

 画面に表示された不在着信の件数に紅緒は口をつぐんだ――四十三件。

 かけてくる相手の番号を確かめるが、文字化けを起こしていて読み取れない。

「知ってる番号からじゃないんですか?」

「文字化けをしていて、ちょっと誰からだか……」

 相手が誰かより、件数が異常だ。

 如月の前にスマホを差し出そうとしたとき、ふたたび着信があった。

 一件二件ではない。

 ここまで不在着信を残し続けているとなると、間違い電話の上に緊急連絡の可能性がある。

 緊急事態かもしれないなら、出ざるを得ない。

 この番号は紅緒のもので、間違っていると教えなければ――紅緒は受信ボタンを押した。

『どうして電話に出ないの!』

 絶叫に似た声が飛び出てきた。

「仕事中でしたので……失礼ですが、どちらさまでしょうか。おかけになる先はこちらの番号で……」

『リリよ! 紅緒ちゃん、なんで無視してたの!』

 大きな声だ、スマホを耳に当てなくても聞こえる。紅緒にも、如月にも。

 まさかほんとうに、リリちゃん人形から電話がかかってきているのか。

「ですから仕事中で……あの、リリちゃんなんですか?」

 聞こえる声は昨夜聞いたものとよく似ている。

『そういってるじゃない!』

「カバンからいなくなったので、私にもう用はないのかと」

 訊きたいことがいくつも頭に湧いて出る。

 どうやって消えたのか、どうやって電話をかけてきているのか、電話番号をいつ知ったのか。それは怪異に尋ねることなのか、という疑問も同時に起きている。

『ちょっと散歩にいっただけなのに、紅緒ちゃんがどこだかわからなくなったんだもの!』

「あなたはいまどこに?」

『わかんない!』

 まだ幼さのある絶叫だ。道でそんな声を耳にしたら、出所がどこかと探してしまうような。しかし声の主はリリちゃん人形だ。

「まわりになにが見えますか?」

『わかんない……わ、わかんない……』

「ポストとか大きな看板とか、そういうものでいいんです。目立つものはありませんか?」

『う、ウサギとカエルが踊ってる看板が……』

 場所の見当がついた。美術書を専門に出版している、画泉堂という会社だろう。かなり近い。しかし看板が見えるということは、そこにいるわけではないはずだ。

「ウサギとカエルですね、それが見えるんですよね。看板の近くにいけますか?」

『うう……看板の下……下にいく……』

「そこにいてください。迎えにいきますから」

『はやくきてぇ』

 もう仕事を上がることはできるのだ、迎えにいけるはずである。

 通話を終えた画面には、もう不在着信を知らせる表示はない。確か四十三件だった。怪異なのだから、せっかくなら四十二などの不吉な数字に調整すればいいのに。

 紅緒はそばに立っている如月を見つめ、件数は四十三だったが、つながったのが四十四件目だと気がついた。

 十分不吉ではないか。

「如月さん、変なことをいってもいいですか?」

 闇が滴るばかりで、彼がどんな表情をしているのかわからない。

「どうぞ」

「もらい手を探してたリリちゃん人形、あったじゃないですか。あの子、しゃべったり動いたりできました」

「それはすごいですね」

 そうは思っていなさそうだ。

「私のカバンに入ってきて、昨日は一緒にアパートに帰ったんです。今朝会社に連れてこようとしたら、カバンから消えていて」

「まあ、いっちゃんが置いていったお人形さんですから、動いたりしゃべったりしても、べつにおかしくないですね」

 最初から知っていたような声である。

「どうしたらいいと思いますか?」

「どうにかできる気でいるんですか?」

「私がどうしたいか、わかるんですか?」

「迎えにいくんですよね?」

 如月が帰り支度をはじめた。紅緒もおなじく支度をする。制服から着替えなければならない。紅緒のほうが時間がかかりそうだ。

 フロアを出て階段から一階に下りたところで、如月が身振りで外をしめす。

「三嶋さんが着替えてる間に、俺が人形を回収しておきますよ。もし見つからなかったりなにかあったときのために、電話番号交換しましょう」

「電話番号ですか」

「そんなにいやな顔しないで。待たせてもかわいそうでしょう? ほら、スマホ出してください」

 渋々紅緒はスマホを出し、如月と電話番号を交換する。いままでは会社が使っているシステムを連絡網としていた。そちらがあるのだ、番号を交換したところで、使うことなど早々ないだろう。

 急いで着替えを済ませビルを出ると、道の先から如月がやってくる。頭から闇を被っている姿のため、見間違うことも見失うこともない。

 手になにか持っている――おそらくリリちゃん人形だろう。

「見つかったんですね」

「ええ、影になるところに落っこちてました」

 リリちゃん人形を差し出してきた如月に、紅緒は首を振る。

「私だと遊び相手になれませんし、いい相手も見つけられませんでした。ですので、あとを如月さんにお願いしたいんです」

「……俺が引き受けるんですか?」

「無理ですか?」

 如月は沈黙した。無理というより、いやなのか。そんな気がする。

「紅緒ちゃんがいい……」

 そのとき如月の手元から、悲痛な声が聞こえた。

「……リリちゃん?」

 呼びかけた紅緒は、口を半開きにして絶句する。

 絶句してしまうような壮絶な表情を、リリちゃん人形はそのちいさな顔に浮かべていたのだ。人形どころか、そんな顔つきした人間にだってなかなかお目にかかれるものではない。

「ご本人もこういってることですし」

 突き出されたリリちゃん人形を突き返すことはできなかった。今度その顔に浮かんでいたのはすがるような表情で、思わず引き受けたリリちゃん人形を胸に抱えこんでいた。

「と、とりあえずですね、リリちゃんは私が」

 それ以上の言葉を続けることができなかった。

 周囲の道で揺らぐものに、紅緒は目を奪われた。

「無事見つかってよかったですね。そろそろ行きましょうか」

 如月が足を動かしはじめる。向かっているのは駅だろう。紅緒の目は依然その揺らぎをとらえていた――道に沿って点々と灯るそれは、あの紐で縛られた石だった。

 目がおかしくなったのだろうか。足を動かしつつまぶたを揉んだりこすったりしてみる。結果は変わらない。そこで揺らぎ続けている。

 如月と別れ地元の駅に着いた紅緒は、もう揺らぐものを道に見つけることはなく、そのことにひどく安堵させられた。

 ――あれはなんなのか。

 考えてみても、こたえは出なかった。

 地元駅に到着すると、まだ駅前商店街は開いていた。

 紅緒は商店街にある百円均一ショップに立ち寄ることにした。

 そこでしか見たことのないティーバッグ型のルイボスティがあり、それを気に入っている。ほかのルイボスティとは似ても似つかない味で、おそらくよそでは手に入らないものだろう。

「紅緒ちゃん、あれ」

 さほど混み合っていない店内で、リリちゃん人形の声がする。あたりを見回すと、棚の一角がホビーコーナーと銘打たれていた。

 足を向けると、驚いたことに着せ替え人形やドレスが売られている。

「すごい、お洋服売ってるのね」

 一着百円だ。まさか着せ替え人形用の服が陳列されていると思っていなかった。

 紅緒はワンピースやドレスなどを手に取っていく。全部で四着、リリちゃん人形に合わせたサイズの小物や家具もあった。リリちゃん人形とおなじ体型の人形まである。

「お友達も……」

 目の大きな着せ替え人形に手をのばそうとすると、肩にかけたトートバッグがかすかに振動した。

「いらないっ」

「いいんですか?」

「紅緒ちゃんがいるもの」

 いずれ合った年頃の子供に譲渡したいのだが、それはひとまず置いておく。

 服や小物などを抱えて会計をした紅緒は、ルイボスティのことをすっかり忘れていたのだった。

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