第4-2話

 バックレた。

 それが新人氏が消えたことに対する、大多数の感想だった。

 ひそひそと陰口が耳に入るものの、誰ひとりとしてそれを堂々と口に出すことはできない――最後に新人氏と顔を合わせたのが、専務だからだ。

 専務が語るに、新人氏は仕事を投げ出して消えるような人間ではない。エレベーターでの短いやり取りでも、彼がやっと総務部に居場所を見つけたようだ、と安堵したのだという。

 その意見に紅緒も賛成だ。投げ出すタイプだったら、とうに退職している。

 安堵した矢先に新人氏が消えたと知らされ、専務はひどく驚いたそうだ。

 新人氏は台車ごと消えている。受付担当者が必ず一階の受付席にいるが、出ていく姿は目撃されていない。

 案外ビルのどこかにいたりして、と誰かが軽口を叩くのを、紅緒は聞いていた。

 紅緒はそれに内心同意している。

 おそらく、新人氏は会社のどこかにいるのだろう。それが十階なのかどうかわからないが、それより先を知る方法を紅緒は持たない。

 ――如月に尋ねたら、たぶんなにかわかる。

 気がする。

 新人氏が消えてから、六階の共用スペースでは菓子が食い荒らされるようになっていた。退社するときにあった菓子類が、翌朝には食い荒らされた無残な状態となっている。

 新人氏が社内に隠れ住み、人目のないときにお菓子を食べて暮らしている――そんな噂も耳に入った。

 そんなわけがない。

 紅緒は食い荒らしている犯人を知っている。

 ふんすはっは。

「そちらは、いったいどういう」

 無視を決めこんでいた紅緒だが、残業で如月とふたりきりになったため、思い切って尋ねてみた。

 それはひょこひょこと机の影から現れた。

 最近では就業中でもフロアを歩き回っている。ほかの誰の目にも映っていないのか、騒ぎになることはなかった。もちろん鼻息をほかの誰かが気にした様子もない。

「世間さまでは人面犬とか呼ぶようですよ」

 如月はそういって大振りのファイルを閉じ、パソコンの電源を落としていく。

「まあ、確かに人面で犬ですね。はじめて見ました。ここに住んでるんですか?」

 人面犬は紅緒に笑顔を向けてくる。

「住めば都ってやつだよ」

 仕事はさておき、紅緒はスマホを使って『人面犬』を調べてみる。

 インターネットの検索結果では、人面犬は人間の顔を持ち、人語を解するということ。走行中の車に時速百キロメートルの速度で追いつく健脚を持ち、追い抜かれた車は事故を起こすそうだ。またゴミ箱を漁ることもあり、それを目にしたものに「ほっといてくれ」というのだとか。

「腹減ったな」

 人面犬がぼやく。

「けっこうな時間になってますね。三嶋さん、おなか空きませんか?」

 仕事が終わったなら先に帰ってくれ、と言いたいところだが、紅緒としても人面犬とふたりきりになりたくなかった。

「もうちょっとで終わりそうなので……そちらの人面犬の方、どちらからいらしたんですか」

「あっちでしょうかね、気がついたらいました」

 あっち――異界のことだろう。

「……返してこられないんですか?」

「どうでしょう、このあたりから離れませんし」

「いてもしょうがないでしょう」

 モニタから目を逸らし、眉間を揉む。疲れている。余計なものを見たくないし、関わり合いになりたくなかった。

「なんだい、冷たいねぇ」

 語尾はふんすはっは、という鼻息にまみれていた。

「会社にいても楽しくないと思いますが。なんというか……もともと暮らしてたところのほうが、人面犬の方だっていいんじゃないでしょうか。残業があるから私たちもまだいますが、それもなかったら真っ暗なフロアにひとりきりでしょう?」

 紅緒は慎重に言葉を選んでいた。異界の住人相手とはいえ、辛辣な言葉をぶつけたくない。

「……風の吹くまま、あてもなく暮らしてるからなぁ。どこが故郷かなんて、とっくに忘れちまったなぁ」

 風来坊とでもいいたいのかもしれない。それならさっさとどこぞに流れていってくれたらいいのに。

「俺、そこのコンビニいってきます」

「え、そんな」

 不意打ちのような如月の言葉に、紅緒は高い声を出していた。

「ちょっと買い物してきます。ふたりで待っていてください」

「気をつけてなぁ」

 スマホと財布を手にした如月が、上着も持たずに出ていく。ならばさっと出かけてさっと戻ってくるつもりなのだろう。

 いそいそと人面犬は如月の椅子にすわろうとしたが、キャスターが滑ってしまいうまく上れずにいる。

「なあ」

「いまのうちに、作業進めますね」

 助けを求めるような目をする人面犬に聞こえるようにつぶやき、紅緒はモニタに向き合っていった。



「いいもん買ってきたな!」

 如月が戻るなり、人面犬は椅子に体当たりをしながら駆け出した。ふんっすっす、と呼吸が荒くなる。

「戻りました」

 彼が手に下げたコンビニの袋は大きさがあった。人面犬は後ろ足で立ち、激しく尾を振りはじめている。

「うまそうじゃねぇか!」

「わかりますか?」

「甘いもんばっかで飽き飽きしてんだ、気が利くねぇ」

 顔が人間とはいえ、本分は犬らしい。買い物袋の中身がわかるくらいに鼻がきくのだ。

 共用スペースにある菓子を食い荒らす犯人は、やはりこの人面犬だ。これが生き物なのか違うのかは判じかねるが、腹が減るならそれこそ会社に留まらないほうがいいだろう。

 如月が買ってきたのは弁当の類いだ。人面犬の前には、塩辛を乗せた白米のトレイが置かれた。

 人面犬はそれを貪り、顔をしかめる。

「うっまい。これだけしょっぱい食い物がうまいんだ、俺もそうとう疲れてるな」

 甘い物に飽きていただけではないのか。

「名前はあるんですか? こちらとしては犬で構わないんですけど」

 単独で生きる怪異に名前は必要なのか。名前があるなら、それは単独ではないということか。

「そんじゃいっちゃんで……一番ってカンジでいいだろ、いっちゃんって」

 犬のいっちゃんか。紅緒はひとり納得していたが、顔中に飯粒をつけ微笑んでくる顔を前にしたら呼びたくなくなった。

「それはともかくですね、どうしてこちらに? いままでお見かけしたことはないと思いますが」

 人面犬に尋ね、紅緒は如月が奢ってくれた野菜スープをすする。如月は如月で、おにぎりを口に運んでいる――ようだ。闇のカーテンにおにぎりをつっこんでいるように見え、食事風景とは思えなかった。

「なんかさ、見たことない道があったから通ってみたんだ。そしたら、着いたのがここでな。ぐるっと散歩して戻ったら、もう道がなくなってた」

 危機管理とは縁遠い生き物らしい。紅緒はスープに入っていた肉団子をひとつ、人面犬の白米の上に乗せた。

「まだ熱いので、食べるとき気をつけてください」

「わりぃね。で、いまはさ、ストーカーっつうの? つきまわとわれてんだよな、俺。目立つからかなぁ」

 総務部を歩き回る人面犬に、誰も気がついていないようだった。

 紅緒はため息をつき、如月はおにぎりから出たゴミを丸めていく。

 他人の目に見えない人面犬――それを追ってくるというのは、果たしてこちらのものか、異界のものか。

 この人面犬につきまとってどうするのだろう。常人ならつきまとわず、さっさと逃げ出す類いのものだ。

 異界にいるものを、常人とおなじと見ていいものか。そこは紅緒にもわからない。

「あいつに捕まったら、俺なにされるかわかんねぇわ」

 相手に捕まえられる、と人面犬は危惧しているようだ。

 心配しながら如月の席の影に暮らし、総務部を徘徊し、共用スペースの菓子を食い荒らす――六階以外も出歩いているのだろうか。

 ただ、ここなら安全だと思っているのかもしれない。それを尋ねるか紅緒は迷った。その質問は人面犬に立ち入り過ぎだ。これ以上関わりたくない。

「あいつといいますが、相手の姿は見てるんですか?」

 尋ねた如月は、パック詰めのチーズを取り出した。ひとつを人面犬の前に置く。紅緒にも寄越そうとするが、まだ野菜スープを食べている、首を振って断った。

「四つ足だなぁ――これもしょっぱいな。いいねぇ」

「同類の方ですか」

 チーズを闇のカーテンに突っこみ、如月も「しょっぱい」とつぶやいた。

「やめてくれよ、あんなのと一緒にするなぃ」

「あんなの、ですか」

 如月が人面犬の相手をはじめたので、紅緒は食事に集中することにした。

 きさらぎ駅探索ツアー以降、紅緒が所属する総務部では残業が当たり前になってしまっている。

 帰りがけにコンビニで遅い夕食を調達することが多く、最近ではどのチェーンにどんな弁当があるか熟知していた。今日の野菜スープは、はじめて食べたものだ。紅緒としては当たりの味で、また今度自分でも買おう。

「最近はこっちに寄ってこねぇが、わりかし近いところをうろうろしてやがる。帰り道も探したいし、俺としてもここでタダ飯食ってる気はねぇんだ、ほんとほんと」

 口が閉ざされると、ふんすはっは、と人面犬の息使いが聞こえてくる。

「そのお相手と顔を会わせなくても、どのあたりにいるかわかるんですか? あ、ごちそうさまでした」

 紅緒は空になった容器を片づけはじめる。

「そらぁな、俺は鼻がいいから。あいつと鉢合わせたの、上の階なんだよ。においは覚えたから距離は取っていられるが、あいつもあいつで鼻がいい――まあ、俺ほどじゃねぇみたいだがな」

 彼の自慢の鼻が、ふんすはっはと鳴る。

 視線を感じ、紅緒は闇が滴っている如月に目をやった。彼がどこを見ているのかわからないが、それが自分に向けられていると感じる。

 頭にひとつの考えが浮かんでいた。

 それを口に出して、紅緒はどうするのか。

 ――関わり合いになりたくない、と切実なまでに考えているのに。

「すこし前に、このフロアにいた男のひと……わかりますか? 最近ここにいないんですが」

「あー、ぽやっとしたやつか。あれだろ、新人ちゃん」

 ぽやっとしたやつ。人面犬はそのように彼を捉えていたらしい。

「さっきタダ飯っていいましたけど、鼻を使ってみませんか? 彼のにおいを探しほしいんです」

 ビル内にいる確証はないが、鼻が利くというなら探し出せるのではないか。

 新人氏がビル内にいるのかいないのか、それだけでも知りたい。

 人面犬はこれ以上ないほどのいやらしい笑みを浮かべた。

「頼られちゃあしょうがねぇな。俺に任しときな」

 べつにそんなに頼っていない、と抗弁したかったが、紅緒は如月が豆大福を差し出してきたのでなにもいわなかった。

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