第75話 忠誠
私が恐怖に硬直していた時。突然、男性の大きな叫び声がした。
「止まれ!! この者は、貴殿らの手には負えない!! 『古より 緑陰を生きる 白霧の精よ 我に御力を与え給え!
突然、辺りに真っ白な霧が立ち込めた。手ですくえるほどの、クリームみたいな濃密な霧。けれど私は、この濃密な霧でさえ、難なく見通すことが出来るらしい。私には、軍事院の重装兵が一様に視界を失い彷徨っているのが、鮮明に見えていた。そして、この魔法を放った人物の姿も……!
「マイルズ補佐官! この霧は一体?!」
軍事院の司令官らしき人が、床に片膝をついて印を結んでいるマイルズに叫んだ。マイルズは、額からも肩からも出血しながら、荒い息の下で応える。
「この異形を閉じ込めるための檻です! 貴殿らは下がって下さい!! この異形の者は、魔力無き者の命を瞬時に刈り取る闇魔法を行使する!! そんな重装備で魔法盾も無く突撃するなど、自殺行為だ!! 近づけば、全員即死ですぞ!!」
軍事院の人々が、ぎょっと後ずさりした。マイルズは畳みかけるように続ける。
「ここは魔術院の我らにお任せ下さい!! 魔術院の威信にかけて、この者を打ち破ってみせる!! 軍事院の貴殿らは、急ぎ王城へ戻り、万一の時に備えて国王陛下の御身をお守り頂きたい!! あなた方がこの場で全滅してしまったら、陛下は一体誰がお守りするのです!!」
立派な魔法衣の半身を鮮血に染めたマイルズの訴えには、聞いている者が震えるほどの凄みがあった。軍事院の司令官は柄にもなく後ずさりしながら、それでも必死に威信を保とうとしつつ、厳かに答える。
「あ……相分かった!! この得体の知れぬ異形は、貴殿ら魔術院に任せよう!! 貴殿らの武運、祈っておる! ……行くぞ!!」
重装兵はホッとしたような様子で、指揮官に続いて一目散に部屋を出て行った。鎧の鳴る音が遠ざかり、辺りは今度こそ静寂に包まれる。私は、濃い霧の中で、どうしたらよいか分からず、じっと立ち尽くしていた。マイルズが、ほう、と深い息を吐いて立ち上がる。そして、小声で何事かを呟き、素早く印を結んだ。途端に、辺りを包み込んでいた真っ白な濃霧が消え去る。マイルズは、よろめきながら、しかし真っすぐに、私の方へと歩みを進めて来た。私はびくりと体を強張らせたが、彼は私を見つめ真剣な表情を見せる……その瞳には、恐怖も嫌悪も浮かんでいない。
「……奥様。この度は、私共をお救い下さり、ありがとうございました。貴女様は、私共の命の恩人です」
そして、深々と頭を下げる。私は、何と言っていいのか分からずに、右手で左肘を掴んだ姿勢で、ふるふると首を振った。そんなことをしても、この体は隠せないと分かっている。けれど、そうでもしないと、いたたまれない。私は、顔を上げられなかった。この場にいるこの人達に、一体なんと説明すればいいのだろう……。だが、俯く私をよそに、マイルズは昨夜と同じ落ち着いた声で続けた。
「レイン。奥様のお怪我を治癒して差し上げろ。奥様のお体は、傷だらけだ」
「は……はいっ!!」
「下の空いている部屋を使え。内側から鍵魔法をかけて、誰も入室させないように。お前は暫く、奥様と共にいてくれ」
レインは「はい!」と元気よく答え、崩壊した壁下に転がっていたタペストリーを拾って走って来た。
「……奥様! こんなものしか無くて申し訳ありませんが……下の部屋に行くまで、どうぞこちらをお使い下さい!」
そして、私の頭から、優しくそれを着せ掛けてくれる。私は、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「……皆さん……私は……」
喉が詰まって、言葉が出てこない。マイルズが、震える私の声を遮り、胸に手を当てて言った。
「何も仰らなくて結構です、奥様。姿かたちが
真摯な瞳、温かな声。気付けば、私の瞳から、大粒の涙がこぼれていた。
「……私……私は、こんな……」
私にぼろぼろのタペストリーを羽織らせてくれていたレインが、そのまま私の体に抱き着き、こらえきれないように嗚咽を漏らした。テオが一歩前に進み出て、淡々と言う。
「……レイン。早く奥様をお連れした方がいい。ここに倒れ伏している者達も間もなく意識を取り戻すであろうし……彼らを早く治療してやらねばならないのだ、すぐに下から人もやってくるだろう」
そしてテオは、背を伸ばし、私に頭を下げる。その態度に、いつもと変わったところは
「奥様。ご入用の物がございましたら、何なりとお申し付け下さいませ。すぐに別邸より届けさせますゆえ」
「テオ……私……」
「マイルズの言う通りです、奥様。私共に、ご説明など不要。このテオの忠誠、見くびられては困る。貴女様のことは、天地神明にかけて、口外することも詮索することもございません。……さあ、レイン。早く」
レインは鼻をすすりながら「はい……!」と答え、そっと私の背に手を当てる。フロガーを載せたニコが、私の傍に寄り沿って鼻面を擦り付けて来た。私はニコの首筋を撫でてやりながら、皆に頭を下げた。
「……皆さん……ありがとう……」
ぼろぼろの布越しに、それだけ言うのが精いっぱいだ。マイルズとテオが深々と頭を下げる。私は顔を俯けたまま、レインに促されて、この崩壊した部屋を後にする。下から、怪我人を救護しに来たであろう人々の足音が聞こえていた。
レインは人目に付かないよう、巧みに人気のない廊下や階段を辿って下の階へと私を連れて行ってくれた。やがて廊下奥の一室に私を案内すると、マイルズに言われた通り室内から鍵魔法をかける。レインは明るい声で言った。
「これで良し! 仔馬ちゃんと蛙くんも一緒だね。ちょっと狭いけど、大丈夫?」
ニコがぶるる、と鼻息を上げ、フロガーはぴょん、とその背の上で跳ねた。レインは、私を飴色の木の椅子に座らせて言う。
「奥様、失礼します。僭越ながら、私の治癒魔法で手当てさせて頂きます。あの。宜しければ……こちらの布を、お取りしても?」
言いながら、レインは私の羽織っている布に控えめに触れる。私は頷いた。
「ええ、平気よ。……その……あなたが、嫌でなければ」
「嫌だなんて、とんでもありません!! ……では、失礼して」
レインはそう言って布を取り、私の肌を手早く検分する。私は少し身じろぎするも、大人しく彼女に従った。ここで怯えたり嫌がったりして、彼女の好意を踏みにじるわけにはいかない。レインの真剣な目つきは、人間の姿をしている時の私に向けるものと何も変わらなかった。
「あちこちが傷ついていますね……奥様、お痛みはありませんか」
「大丈夫。私の肌は……見ての通り、頑丈なの。少しの傷くらい、平気よ」
「少し、じゃありませんよ、これは! お待ち下さいね、今、治癒魔法を……まずは腕からですね!」
そう言って、レインは両手を私の腕の傷に向け、詠唱もなく目を閉じて集中する。魔力が彼女の手のひらに集中するのが分かった。見る間に彼女の両手に白く柔らかな輝きが宿り、それが私の傷を包んで行く……が。
「き……効かない?! なぜ……!!」
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