第12話 その、秋の日の夕方は……2/3
九月も中ごろに入ったある日、サシャは、一高を休んだ。
欠席が二日続いた日の夕方に、サシャの部屋の扉を叩いた者があった。
「入るぞ、サシャ」
「祥太郎……!」
ベッドに横になっていたサシャは、寝間着のまま、上体を起こそうとした。
「い、いいから寝てろよ……。フランツから聞いたよ。風邪ひいたんだってな? 見舞いに来たよ」
「わざわざ来てくれたのか……」
祥太郎が、タイプライターが載っているサシャの机の上に、古新聞で作られた、何かの入った紙袋を置いた。
「焼き芋持ってきた。腹が減ったら、食べてくれ」
「すまない……ありがとう」
窓の外では、すっかり冷たくなった風が、木の葉を散らしているのが見えた。
「……少し気温が下がってきたからな。無理もないさ」
「祥太郎に風邪がうつったら大変だ。あまり長居はしないでくれ」
「ああ」
そう返事しつつ、祥太郎は、サシャの机に目をやった。
「サシャは、タイプライターを打てるんだな?」
「空いた時間に、父の仕事を手伝ってるんだ。コピーづくりがほとんどだけど」
「そんな……じゃあ、俺たちのドイツ語なんかみてる場合じゃなかったんじゃないのか?」
「心配はいらない。父の手伝いも、もうほとんど終わってる」
「そ、そうか……。でも、その仕事って、どんな仕事なんだ……?」
サシャは、しばらく天井を見つめていたが、ややあって悪戯っぽそうな眼を祥太郎に向けた。
「……祥太郎たちが、いつまでも平和な世界で生きていけるための仕事さ」
「……? そっか。よく分からないけど、さすがサシャだな」
「それよりも、受験勉強は順調か?」
サシャの問いかけに、祥太郎は自信ありげにうなずいた。
「ああ。このままいける……と信じたいな」
「良かった。でも、気を抜くんじゃないぞ?」
「そうだな。自分で言うのもなんだが、何しろ東京帝大の法学部だからな。入学希望者も殺到するだろうから、さすがに無試験入学というわけにもいかないさ。文学部ならともかく、な」
「でも……一高に入れたんだ。祥太郎なら大丈夫だろう?」
「まあ……どれだけ門が狭いかについて言えば、東京帝大よりも一高だしな。他の二高や三高の受験生たちには、負けられないよ」
そう言って、祥太郎は何か考えるようにしていたが、やがてまた口を開いた。
「サシャも、東京帝大を受けてみたらいいのに。受かるかもしれないぞ? そしたら、大学を卒業するまで、留学期間を延ばしてもらうことができるかもしれないし……」
「それができたらいいんだけどな……」
「やっぱり、来年の春以降も留学を継続するのは無理そうか?」
「ああ……さすがに大学進学までは想定されていないみたいだ」
「そっか……」
祥太郎は残念そうにうつむいた。
しばらく静かな時が流れたが、ややあって祥太郎が沈黙を破った。
「なあ……入試が終わったら、また皆で旅行に行こうぜ! 箱根あたりで温泉に入って、のんびり過ごすんだ。悪くないだろう?」
「ああ……そうだな」
サシャは、祥太郎に笑顔で応えた。
*
佐川執事がサシャの部屋に夕食と寝間着を持って訪れたのは、祥太郎が帰り、薄暗くなったときのことだった。
「お嬢様、冷めないうちにお召し上がりください」
「ああ……。でも、あまり腹は減ってない」
「おや? まだ食欲が戻りませんか?」
「いや……実は祥太郎が焼き芋を持ってきてくれたんだ」
「そう……ですか……」
佐川は、机の上に几帳面に折りたたまれている古新聞を見た。
「……木下様ですか。やはり、いい青年ではありませんか?」
「その通りだが……なんだ、何か言いたいのか?」
訝しむ様子のサシャに、佐川は向き直った。
「なのに……お嬢様は、あの国防軍の陸軍少尉とご結婚しようというのですか?」
サシャは、佐川から顔を背けるように、寝返りを打った。
「前にも言ったろう……それが義父の意向なら、従わないという選択肢はない」
「……さようですか。私めには、もう、何も言えないという訳ですな」
「そう言うな……お前の忠心は、僕にはよく分かっているから……」
佐川は何も言わなかった。
そんな佐川に、サシャは問うた。
「……お前との執事契約も、僕たちが日本にいる間だけだ。それ以降はどうするんだ? 古巣の陸軍に戻るのか?」
「今さら、万年大尉だった予備役が戻ったところで、陸軍にとっても、穀潰しにしかならないでしょう。また、新たな旦那様を探すことになりますな」
「お前は良く仕えてくれた。感謝している」
「まだ少なくとも半年は、おそばにいさせていただきますぞ」
サシャと佐川は、小さく笑いあった。
「ところで、佐川……」
「何でしょう?」
「……お前は、陸軍予備士官学校というのを知っているか?」
「はい、存じております。私が行ったのは本流の陸軍士官学校ですが、予備士官学校は、その本流に対する、あくまで付随的な存在ですな」
「士官学校だろうが予備士官学校だろうが、前線に出る将校を育成することには変わりがないんだろう?」
「ええ……そうです。それが何か……?」
「いや……」
サシャは、布団の中で独りごちた。
「だったらなおさら、防共協定は重要だな」
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