第11話 その、夏の避暑地は……2/3







 それから、はや十日ほど、祥太郎たちは思い思いに避暑の日々を過ごしていた。


 仁川はテニスコートに出かけて、避暑に来ている上流階級のご令嬢たちの相手をして仲良くなったりしていた。


 フランツも、他の軽井沢滞在の外国人の少女たちといつの間にか仲良くなるなどして、手前勝手に満喫していた。


 田原と鴨井は仁川やフランツほど軟派ではなかったので、別荘で涼みながら、哲学議論を戦わせたりするなどしていた。


 この日、祥太郎とサシャが散歩がてら連れだってやって来たのは、軽井沢のほぼ中心と言っていい地域にある、軽井沢合同教会ユニオンチャーチだった。この特に宗派を設けていない合同教会は、様々な国や地域からやってくる外国人を拒まず受け入れる、門戸の広い教会だった。


 とはいえ、この快晴のおりでもあり、さらに言えば日曜日でもないこの日は、教会に人の姿はなかった。


 キリスト像もなければマリア像もない、ただ、荒削りの長い丸太で作られた、無骨な白塗りの十字架が、説教壇のほぼ真上から吊り下げられていた。


 その十字架を見上げるようにしながら、祥太郎とサシャは長椅子に腰かけた。


「この軽井沢旅行も、もう折り返しを迎えちゃったな……」


 祥太郎の言葉に、サシャもうなずいて言った。


「ああ、そう考えると名残惜しいな」


 十字架を見上げて言ったサシャの顔を、祥太郎は見た。


「……何だ? 僕の顔に、なにかついているのか?」

「いや……相変わらず、綺麗な顔をしているなと思って」


 とりあえずの弁明に、おそらくは「ふん……」とばかり返ってくるものと思っていた祥太郎だったが、その予想は裏切られた。


「…………やめてくれよ。照れるだろ……」

「サシャ、最近、自分の気持ちを率直に出せるようになったな」

「……気に障ったか?」

「全然。俺は嬉しいよ」

「どうして?」

「そりゃあ、友だちだからさ」

「ご学友だから……じゃないんだな」

「ご学友ってのは、もう今に至っては、過去の役目に過ぎないよ」

「そうか。友だちか」


 どこか嬉しそうに言ったサシャが、言葉を続けた。


「なあ、祥太郎……」

「ん?」

「将来は、どうなりたい?」

「将来……か。深く考えたことはないけど、法学部を出て、官僚か法律家になりたいかな……」

「東京帝大……の法学部か?」

「ああ、そうさ」

「法律を勉強したいのか?」

「うん、法律って面白いと思うんだ。ただの文章の羅列なんだけど、そこには社会の安寧を求めるという理念がある。その理念の前では、誰もが平等なんだ……まあ、建前かもしれないけどさ」

「平等……か」

「俺たちの日本は、いちおう、法治国家だ。法律を無視して迷走しだしたら、それこそ日本の終わりだよ……」


 二二六事件を肌で知っている祥太郎とサシャは、眼を合わせてうなずき合った。


 サシャが、口を開いた。


「……祥太郎から見れば、我がドイツの現行法は、あまり面白くないだろうな」

「去年のクリスマスパーティーで話してた、ニュルンベルク法のことか? ……別にあれは、サシャが作ったものじゃないだろう」

「まあ、それはそうだけど……」

「ああ。サシャはサシャだ」

「しかし……僕や祥太郎がどうでも、もし、日本がこのまま大戦争に突入していくとしたら?」

「え?」

「今は総力戦の時代だ。学生だったり、高学歴だったとしても、兵役は免れないようになるかもしれない。万が一……そうなったら?」

「そのときのことは、もう決めてる」

「えっ……?」

「俺は、陸軍予備士官学校を出て、陸軍将校になる。むろん、きちんと大学を出たあとでな」

「……! 祥太郎が……軍隊に……それも、陸軍に行くっていうのか?」


 衝撃を受けた様子のサシャに、祥太郎はうなずいた。


「ああ。俺は、陸軍が嫌いだ。戦争も嫌いだ。だが、嫌いなものから、逃げたくはないんだ」

「どうして、そんな考えに至った……?」

「サシャは覚えてるかな、あの山崎教官だよ。山崎教官には俺たちも手ひどくやられたけど、まあ、今じゃあ、いい反面教師だったと思ってるんだ。嫌な存在は、逃げるより変えるべきだって……。だから、サシャが自分なりの教練をやってみせたとき、俺はすごいなって思ったよ」


 山崎が、反面教師であることをことまでは、祥太郎は言わなかった。


 サシャは、山崎と聞いたとたん、目を伏せてしまった。


「そうか。情勢がどうなったとしても……戦う覚悟はできているってことだな」

「……まあ、そんなことにならないように、祈ってるよ」


 祥太郎の言葉をじっと聞いていたサシャだったが、やがて唇を噛み、ゆっくりと、懺悔するように口を開いた。


「……祥太郎に、白状しないといけないことがある」

「何だ?」

「あの山崎教官だが……一高から外れるように圧力をかけてもらったのは、僕なんだ」


 祥太郎が、眼を少し見開いたが、やがてサシャにうなずいた。


「……そうじゃないかって、思ってたよ。タイミング的に見て、そう考えるのが自然さ」

「そうか……。祥太郎には、分かっていたか……」

「でも、どうして……? あの教練を否定されたことが原因か?」

「違う」

「違う? じゃあ……」

「……山崎教官は、祥太郎のことを何発も殴っていた。それが許せなかっただけだ」

「そう……だったのか……」


 祥太郎は、意外な思いでサシャの言葉を聞いていた。留学してまだ間もない頃だったのに、まさか自分があのサシャに庇われる対象とされていたとは、思いもよらなかったからだ。


「……だけど祥太郎は、僕なんかよりずっと大人だったんだな。あんな教官からも、何かを学び取っていたなんて……」

「いや、そんな大したもんじゃないよ……」


 サシャは、嚙みしめるように言葉を続けた。


「でも……今となっては悔やまれる。もし、山崎教官が戦死でもしてしまったら……その遠因は僕だ」

「遅かれ早かれ、過去に現役だった将校は、前線に呼び戻されることになっただろうさ。サシャが気に病むことはないよ」

「……祥太郎は、優しいな」


 仕切り直しだとばかりに、祥太郎が明るい声を出した。


「ところで、サシャは、将来はどうなりたいんだ?」


 サシャが何か言おうとした、そのときだった。


 どこかの別荘から、ドイツ民謡のレコードが……「故郷Derを離るletzteる歌Abend」のメロディが、風に乗って聞こえてきた。


 祥太郎とサシャは、自然と、それぞれ日本語とドイツ語で、その歌詞を口ずさんでいた。


 ……その、原文のドイツ語と、翻訳作詞された日本語では、まるで意味の異なる歌を、祥太郎ははっきりと、そしてサシャは……祥太郎に聞こえないくらいの、微かな声で口ずさんだ。








 此処に立ちて、さらばと、別れを告げん。


 (最後の夜を思い出すときWenn ich an den letzten Abend gedenk あなたに別れを告げたときAls ich Abschied von dir nahm


 山の蔭の故郷、静かに眠れ。


 (ああ空の月だけが、とても明るく輝いていたAch, der Mond, der schien so hell。)  


 夕日は落ちて、たそがれたり、さらば故郷。


 (あなたと別れなければならない心はIch musst scheiden von dirいつもあなたと共にあるDoch mein Herz bleibt stets bei dir。)

  

 さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。


 (さらば恋人Nun ade, ade, adeさらば恋人nun ade, ade, ade恋人さらばFeinsliebchen lebe wohl。)

 

 さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。


 (さらば恋人Nun ade, ade, adeさらば恋人nun ade, ade, ade恋人さらばFeinsliebchen lebe wohl。)








 歌が終わると、サシャは言った。


「祥太郎は……いつか、いい旦那さんになるよ」

「お、結婚の話か? まあ、まだいつになるか分からないけど……そうなったらいいな」

「ああ、そうなるさ」

「でも、サシャも、いい夫になりそうだな」


 だがサシャは、祥太郎の言葉を、やんわりと否定した。


「それは、あり得ない」

「そっか?」

「ああ……それはないよ」


 サシャは、遠い眼をしながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「いずれにしても……祥太郎が、平和な世界で生きていければいいな」

「何言ってんだよ。サシャもだろう?」

「僕も……か?」

「当たり前さ」

「そうか……ありがとう」


 サシャは、十字架を見上げて目を閉じ、静かに両手を胸の前で組んだ。


 その両手が再び解かれるのを見た祥太郎が問うた。


「あれ、サシャってクリスチャンだったんだな?」

「……そういうわけじゃないけど、僕だって、たまには神に祈りたくなる時もある」

「そっか。じゃあ今は、何を祈ったんだ?」


 サシャは、憂いを帯びたような微笑を、祥太郎に見せて言った。


「……ないしょ」






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