第10話 その、初夏の五月祭は……3/3








 一週間ほど経った夜、ドイツ大使館。


 サシャは、自室でタイプライターに向かっていた。


 一度伸びをしたサシャは、タイプを再開しようとしつつ、思い直したように、胸元に手を入れた。


 サシャの手に絡みつくように、金色のロケットペンダントが揺れた。サシャはその蓋を開き、中の写真を、遠い眼をしながら眺めていた。


 そのとき、ドアを叩き、無遠慮に部屋に入ってきた者がいた。フランツだった。


『なっ……何しに来た?』


 慌ててロケットを閉じて、胸元に隠しながら、サシャは闖入者に振り返った。


『そんなに驚かないでくれよ……』

『何をしに来たか聞いている!』

『国防軍による防共協定の妨害工作だよ。君のタイプ打ちを邪魔しにきた』


 そう茶化しながら言ったフランツは、許しもなくサシャのベッドに腰かけて、深呼吸をした。


『はあ~。女の子の部屋は、やはりいい匂いがするな』


 それを聞いたサシャが立ち上がり、怒り始めた。


『本当に気持ち悪い! ここから出ていけ!』

『おお怖え。まあ、そう言うなよ……』

『ここは僕の部屋だぞ!』


 怒っているサシャをものともせず、フランツは両手を広げてベッドに寝っ転がった。


『……君が望むなら、俺はいつでも君に全てを捧げるよ。女を悦ばせる手練手管は、いくらでもある』


 真顔で言っているフランツに、サシャは腹の底からのため息を吐いた。

 フランツが、思い出したように口を開いた。


『そうそう、祥太郎から伝言を預かってる』

『何……?』


 サシャが顔色を変えた。


『さっき、ここに来てたんだよ。君は忙しいと言ったら、帰っていったけどね』


 それを聞いたサシャが、フランツに詰め寄った。


『何を勝手なことを……! どうして嘘までついて帰してしまったんだ……?』

『忙しいのは本当だろう?』

『祥太郎が来たのなら話は別だ……!』


 サシャが真っ赤になって怒声をあげた。

 それを見たフランツは、いきなり笑い出した。


『あははははっ! 嘘だよ、全部俺の作り話だよ!』

『なっ……!』

『そうか。やはり、君は木下祥太郎に熱を上げているようだな。となると、さぞや、この間の五月祭は嬉しかっただろう?』

『っ……』


 そこへ、ドアが折り目正しく三つノックされて、佐川執事がゆっくりと入室してきた。サシャの寝間着を持ってきたのだ。


「……おやおや、フランツ様ではありませんか」

「やあ、執事さん」

「未婚の女性の部屋にぬけぬけとお入りになるのが、貴族の作法ですかな?」


 佐川の眼に射貫かれて、フランツはやれやれといった表情で頭を振った。


「はぁ……招かれざる客ということか。分かったよ。今日のところは退散する」


 そう言って、フランツは立ち上がった。


『じゃあな、サシャ。おやすみ』


 サシャは返事を寄越さなかった。


 去り際に、フランツは、寝間着をベッドに置こうとしている佐川を見た。佐川は自分の手元を見ているはずだったが、すぐに身をこわばらせた。


 それを見たフランツは、感心した様子で再び歩き出した。


 フランツが退室するのを見計らって、佐川が口を開いた。


「フランツ様のことですが、私は好きにはなれませんな」


 サシャは、特に驚いた様子もなく、机に戻って腰を下ろした。


「…………そうか」

「……本当に、よろしいのですか?」

「よろしいのか、とは?」


 サシャが顔を上げた。


「旦那様は、最近、しきりにフランツ様とお嬢様が結ばれたらどれほどいいかということをおっしゃっておられます」

「義父は、お前にまでそう言っているのか。そうか……」

「しかし、お嬢様の本心としては……?」


 そこまで聞いたサシャが大声を上げた。


「よろしいも何もないだろう! フランベルグ家に拾われてここまで生きてきた以上、僕はフランベルグ家の恩を仇で返すわけにはいかないんだ!」


 佐川は、サシャを黙って見ていた。サシャはうつむいていた。


「……僕という蝶は、奴の毒牙にかかるしかない運命だったんだ」


 そう言いつつ、サシャは胸から下げたロケットを手に取り、両手でそっと握りしめた。


「……最近、そのロケットをよく見ておられますな。よほど大切なものでしょうか?」


 それには答えず、サシャは言った。


「……これ以上は口を挟むな。いずれにしろ、僕の運命は決まったんだ」

「…………」

「だが、大切な思い出だけは、持ち続けていたい」

「お嬢様……」

「一人にしてくれ、佐川」






 *






 佐川が退室すると、廊下の壁によりかかっているフランツが、佐川を待ち構えるようにしていた。


 フランツはドイツ語で佐川に話しかけてきた。


『……君、かなりできるな』

『はい?』

『さっき俺が殺気を向けたとき、その上着の中で、俺に銃口を向け返しただろう?』


 呆気にとられかけた佐川だったが、すぐに微笑を浮かべた。


『お褒めに預かり、光栄ですな』

『さすが、若い頃は日本陸軍の将校だっただけはあるな? 日本の陸軍士官学校のドイツ語教育も、なかなかのものだな』

『……よく、お調べで』 

『腋の下に吊っているのは、十四年式拳銃だろう?』


 佐川は否定も肯定もしなかった。


『お嬢様に悪い虫がつかないようにするのも、私めの仕事です』

『残念だが、ノルベルト大佐も、僕とサシャが結ばれることを望んでいる』

『……とうのお嬢様は、望んでおられますまい』

『これは貴族の家同士の問題だ。いち令嬢の意向がどうこうではない』

『この国では、貧しい女が、金のために知らない男に抱かれざるを得ない現状がございます。お嬢様には、その轍を踏んでいただきたくはありません』


 それを聞いたフランツは不快そうな表情を浮かべたが、ややあって疲れたように頭を横に振った。


『口の減らない執事だな』

『ありがとうございます』


 フランツは、手をひらひらさせながら、佐川に背中を向けて、自室へと戻っていった。





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