第9話 その、新たな留学生は……1/3







 一九三六(昭和十一)年四月。


 一高、新学期の朝。

 

 クラス替えもなくそのまま進級した、二年文乙あらため三年文乙の新たな教室に、朝から衝撃が走っていた。三年でも担任となった中澤教授が、新たな留学生を従えて、教壇に立ったのだ。


 その顔の整った白人留学生は、サシャとほぼ同じ格好……ネクタイを巻いたシャツと、乗馬ズボンにブーツだった。


 金色に輝く髪は襟足まで伸ばしており、サシャよりも長いように感じられた。


「こんにちは! 俺は、フランツ・フォン・ハイデルベルグといいます! ドイツから来ました!」

 

 流ちょうな日本語で挨拶をした留学生。『フォン』がつくからには、このドイツ人……フランツもまた、貴族であろうことは疑いなかった。


 フランツは、サシャの留学初日の態度とはまったく違い、笑顔いっぱいで、フレンドリーだった。


 祥太郎は、この新しい留学生に好印象を持った。


 はきはきとしているフランツを見て、中澤は言った。


「ご学友は……必要なさそうだな……」


 そのフランツが、中澤に尋ねた。


「先生、俺の席はどこになりますか?」

「フランツ君は……サシャ君の後ろだ。そこを使いなさい」


 フランツは、クラスメイトたちに愛想を振りまきながら、自分の席へ歩いていった。新学期とはいえ、特に席替えもなかったので、サシャは窓際の最後尾で祥太郎がその隣だったが、フランツのために窓際の最後尾に席が新増された形となった。

 

 同じ祖国ドイツからやって来たというフランツに対して、サシャはどんな感じなんだろうかと祥太郎が見ると、サシャは、ものすごく不機嫌そうな顔をして、自分の後ろの席へと歩いてくるフランツを見ていた。これほど不機嫌そうなサシャを、祥太郎は久しぶりに見た……と思った。


 フランツが席についたのを見計らって、中澤が言った。


「木下、フランツ君に教科書を見せてやれ。まだ準備が間に合っていないからな」

「わ、分かりました」


 そんな祥太郎に、フランツが人懐こく机を寄せてきた。


「すまないね、木下君。しばらくはよろしくね!」

「あ、ああ。気を使わないでくれ」

「ありがとう!」


 ふと、祥太郎は視線を感じた。サシャが、じとっとした眼で祥太郎を見つめていたが、ややあって前を向いてしまった……。


 そんな新学期初日も放課後になると、文乙の面々は、フランツのところに物珍しげに集まってきて、質問攻めが始まった。これも、サシャの留学初日には見られなかった光景だった。


「ドイツのどこから来たんだ?」

「ポツダムだよ! ベルリンの近く!」

「いつ日本に来たの?」

「つい先週だよ!」

「どこに住んでるんだ?」

「ドイツ大使館に住み込みさ!」

「へえ、じゃあサシャと一緒なんだな」

「そうなんだよ。なあ、サシャ君!」


 フランツの声掛けに、サシャはぴくりとしたが、特に振り返ることも返事もせず、黙って教科書やノートを鞄に詰めていた。


 微妙な沈黙ののちに、田原がフランツに質問を続けた。


「それで、日本はどうだ?」

「とても温暖で過ごしやすいね! 気に入ったよ!」

「そうかそうか。気に入ってもらえて何よりだ」

「しかも、まさか日本の超エリート校の一高に留学できるなんて、夢みたいだよ!」

「ははは、それほどでもないぜ? 中身はご覧の通り、どこの馬の骨か分からない変人の巣窟だ!」

「いや、俺だって同じだよ。考えてもみてくれ、新学期もそこそこに、いきなり外人がやって来たんだぜ。どこのどいつだよって話だよね!」

「ドイツだけに、か?」

「そうそう!」


 フランツとその周りに、爆笑が起きた。


 ひとしきり笑った田原が言った。


「いやあ、それにしても面白い奴だな! 今夜、さっそくフランツの歓迎ストームをやるか!」


 教室内に歓声が上がった。それを聞いたフランツが、首をかしげた。


「ストームって何だい?」

「まあ、酒を飲んで騒ぐのさ!」

「へえ、楽しみだな!」


 主賓が喜んでいるので、他の皆もうきうきした気分になった、その時だった。


 サシャが、ものも言わずに立ち上がった。フランツの席のすぐ目の前だったのと、なんとなくいら立ちのようなものがこもったような椅子の音がしたので、フランツとその取り巻きたちは、思わず、下校しようとするサシャを見た。


「おいサシャ、……まさか来ないのか?」


 田原の問いかけに、サシャは目を合わせずに口を開いた。


「別に、僕は……」


 明らかにストーム参加を拒否しようとしているサシャに、場がしらけそうになった。そんな一連のやりとりを見ていた祥太郎が、思わず割って入った。


「い、いや、二人とも同じ大使館住まいなんだし、もう顔合わせは終わってるんだよ、きっと……」


 当事者でもないのに汗をかきながら弁明している祥太郎に、サシャは思わず目を向けた。その瞳には、どこか憐れみのような色が浮かんでいた。


 やがてサシャは、蚊の鳴くような声で言った。


「……行かないとは言ってない」


 手にしていた鞄を机に掛け直したサシャに、祥太郎と田原たちは、心の中でほっとしていた。

 フランツは遠慮がちに苦笑していた……。





 *





 恒例のストームが、また中寮のホールで繰り広げられた。


 フランツは、半裸や全裸になった一高生たちに囲まれながら、酒瓶を片手にはしゃいでいる。


 そのフランツを、離れたテーブルについたサシャが、きつい眼つきでにらんでいるのに、祥太郎は気付いていた。


 サシャの奴、最近は表情が柔らかくなったと思ったが、今日はまるで最初の頃に逆戻りしたみたいだ……と祥太郎は思った。


 仏頂面をしているサシャに、祥太郎はおそるおそる話しかけてみた。


「なあ、今日は酒……飲まないのか?」

「前に、酒は控えると言ったはずだ」

「あ、ああ。そうだったな……」


 すげなくノックアウトされてしまい、祥太郎はすごすごと引き下がった。本当は、フランツと何かあったのか、馬が合わないか何かなのか……? と聞いてみたかったのだが、かなわぬ相談だった。


 そんな祥太郎のもとに、フランツが酒瓶を片手にやって来た。


「君は、サシャ君のご学友だそうだね?」

「あ、ああ。そうだよ」

「ご学友か。羨ましいなー。なあ木下君、俺のご学友も担当してくれないか? 頼むよー!」

「い、いや、それは……。俺は良くても、サシャが何と言うか……」


 祥太郎は、こわごわとサシャの様子をうかがおうとした、その時だった。

 

 突然、サシャが意を決したように立ち上がった。そして、酒をぐびぐび飲んでいるフランツのもとへ、詰め寄るように向かった。


「……少し、二人だけで話をしたい。いいか?」


 フランツは少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。


「もちろん。我が同胞」




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