アヲゾラ探偵局の四季
@hectopascal
第1話 空色の探偵局
〈1〉
ミストの漂う噴水のように、室内の隅々に浸透している陽差。
どこまでも明るい午後の図書館は、絵に描いたような春の静けさを体現している。とまあ、そのように言ってしまうと、校内でも最高の抜群な環境であるように聞こえるが、図書館自身にとってはこれが全くよろしくない。
紫外線にやられて本が劣化するので、年月を経ると、背表紙のタイトルが読めなくなってしまうのだ。赤色を使った印刷など特にひどい。のっぺらぼーな本がずらりと並んでいるのは、気持ちが良くないし、検索にも不便だ。
前期の校内委員選出も終わって、さっそく当番の回ってきた図書委員。行橋まどかはカウンターに置いてある未整理の新着図書を物色中だ。ただでさえ眠気との闘いである六時間目に、数学という、不得意科目ワーストワンの科目。終わってほっとしていたところである。さえない中年教師の西澤先生の授業が、悪質な子守歌のようにしか思えなかったのだ。さて、ストレスを解消しなくちゃ!
真新しい本を見ると、まどかは好奇心でわくわくする。だけど視野の片隅に見える、ひもで括られた廃棄予定の本が、ちょっとかわいそうな気もするのだ。背表紙も読めなくなった古い本。資料として、本を保存することが役割ではない学校図書館としては、図書の新旧交代は避けられないのだが。
「先輩、それって捨てちゃうんですか」
「そうね。まだまだ読めそうなんだけど、でも、もう古い、ってことになったからね」
顔を知らない女子生徒が、図書室に息を切らせて入ってきて、まどかに問いかけた。
入学したての一年生。ユニフォームのネームで「森川」という名前がわかった。六時間目が体育だったのだろう。いいなぁ一年生は。そのままの服装で来たということは、よっぽど急ぎの用があったのか、それともこのまま部活に行く気なのか。
「そこの本、見せてもらえませんか?」
「これを?」
廃棄のために取りのけた本だから、司書の川村先生がいるかなと思い、奥の準備室の方に目をやってみたが、あいにく姿が見えない。ちょっと判断に困った。でも、
「いいわ、あとで元に戻してね」
「ありがとうございます」
「どの本なの?」
「どれなのかは、わからないんです」
「は?」
「先輩、本を見せてもらえませんか?」
森川は、ひと抱えもある本をまとめて担ぐと、悠々と閲覧室に入っていった。
本を探っているように見えた。読もうという気はないらしい。二十数冊はあったが、一通り点検を終わったようで、もう一度本を担いでカウンターに帰ってきた。
「捨てる本ってこれだけですか?」
「今はそうよね」
「他に古い本ってないでしょうか?」
「古い本?」
「残念だけど、ただ古い本と言われても、それだけじゃわからないわね」
「そうですか……すみませんでした」
森川が背を向けて帰っていこうとしたので、まどかはあわてて止めた。
「ねぇ。ちょっと森川さん」
「はい。……えっ、どうして名前を」
まどかは、さりげなく彼女のゼッケンを指さした。
「あ、そうか。そうですよね」
「何か相談したいことがあったら、またあたしに聞いてね。きっと役に立つと思うから」
森川は二、三秒黙って、まどかの真意を測りかねるような顔をしていたが、どうやら言葉に裏はなさそうだと悟ったのだろう。
「じゃ、そのときはよろしくお願いします。行橋先輩」
あたしの胸の名札を見て趣旨返ししたわけか。やるじゃん。一年生。
一瞬空いた間、いや魔だろうか。そこへほぼ入れ替わりにやってきたあいつ。
「行橋ぃ~、何かいい本来てない?」
たったひとりなのに、やけに騒々しい。同じクラスだというだけで、無遠慮に図書館にやってきて、まどかの営業(?)を妨害していくのだから困る。
「吉見君、靴の泥を落としてね。バッグも」
「はいはい」
六時間目の数学の時間、眠りこけていた吉見は、放課後になるとやけに元気がいい。
「部活はどうすんのよ?」
「ちょっとだけね。遅刻する」
「よかないでしょ。それって」
棚に持ち込むスポーツバッグがドロだらけで、図書館としては大迷惑なのだが、この吉見祐介は全然意に介さない。しかしそれが大目に見られているのは、珍しく頻繁に利用する生徒として、川村先生に気に入られているからだ。
「で、今日はなにが目当て?」
「行橋さん」
「出口はあちら」
「……ミステリシリーズの新刊、でした。ところで、何でその本バラバラになってんの?」
祐介がまどかの背後、廃棄図書の束に視線を向ける。
「さっき、ここから本を探してた後輩がいたのよ」
「そんな古い本から?」
確かに誰も読みそうにない本ばかりだ。日焼けが激しいけど読まれた形跡もあまりない。
「不思議だな」
「でしょ」
「こんな本、とても一年生が読みそうには思えないし」
祐介がその中の一冊をとりあげてつぶやく。
二年生や三年生でも同じことだろう。
「なぁ、行橋。その子がどんな本を探していたのか、探ってみないか?」
「余計なお世話かもしれないよ。プライバシーだってあるんだし」
「だけど探偵局としては、一度引き受けた仕事は最後までやり抜かなくちゃ」
「探偵局ぅ?」
祐介はカウンターに人差し指を置くと、ニンマリとしてまどかに言った。「ここだよ~」
「じゃ、オレ部活に行って来るからさ。貸出、貸出!」
いつの間に確保したのか、まだ配架もしていないミステリシリーズの新刊が、しっかり祐介の手にあった。
「あっ、それは……」
「バーコード、よろしくな。それじゃ」
まどかがバーコードリーダーを本に当てるが早いか、吉見祐介は図書室を飛び出して行った。
とたんに廊下で激しい物音が。そして「すみませ~ん」という祐介の声。
叱る声は、あの「子守歌」西澤先生だ。これで祐介は確実に遅刻だ。苦笑するしかなかった。
それにしても残念なのはあの本だ。
「あたしが先に読みたかったのに……」
〈2〉
祐介が出ていってしまうと、図書館は元通りの静寂を取り戻した。
館内が静かになると、遠い音が周囲のあらゆる方向から浸みこみ始める。部活ならではのボールの弾む音に交わる鳥の声。窓の方に目をやると、若葉の間隙を透して、ツバメが飛び去った航跡が見えた。
「ファイトォ」
ザッザッザッ。砂を踏む音。ランニングしているのは何部だろう? 貸出も返却もそんなに頻繁にはないので、まどかは室内から手を振る。D組の松崎静佳、しぃちゃんが近づいてくる。
「おっす!」
まどかが声をかけると、ユニフォーム姿の幼なじみも手を挙げる。汗だくで、手を挙げる以外の余裕はなかったらしい。視線を戻して行ってしまった。
(あぁ、そうだったんだ……)
しぃちゃんが通過してしまったあと、一瞬だけさっきの森川の顔が見えたのだ。まどかの頭に小さな企てがひらめいた。
「ソフトテニスか。よーし」
図書館は五時閉館という決まりである。図書委員の任務もそれで終わるが、部活はその時間にはまだ盛んにやっている。その時間差を利用しよう。 生物の授業をやり過ごすために、カウンターの上に演習問題集を開いた。明日の範囲の解答を、何とか仕上げたところでタイムアップになった。移動式書架から、祐介に先取りされてしまったシリーズの別の巻をゲットして、バーコードを通す。赤外線よありがとう。今日はこれでがまんします。
「帰りまーす」
まどかはダッシュした。まず第一に確かめたいこと。それは駅前の古本屋に行けばわかるはずだ。
窓の向こうに続く並木の列が、まどかの走りに同調して流れていく。廊下があたかも長いトンネルのように見えた。図書館から玄関の靴箱までの階段と廊下に、鈍い足音があたふたと反響する。急がなくても古本屋が逃げるわけもない。タイミングの問題なのだ。まだソフトテニス部がグランドにいたら、森川に姿を見られるではないか。と、そう思ったのだが、
「あ、そうか」
あわてて損した。
森川があたしを見ようと見まいと関係ないのだった。まどかと祐介が、森川の探している本が何なのか、「捜査」を始めたことなど、まだ何も知らないのだ。急ぐことなかった。
校門を出たところで、すぐに敷地外のテニスコートに出くわす。
まだソフトテニス部は練習中だ。しぃちゃんがコートに出ていた。練習試合かな。対戦中に会釈する余裕などあるはずもないが、まどかはしぃちゃんのいる方に向かって、歩きながら手を挙げた。途端にぎくっとした。ベンチにいた森川が、まどかに一瞬視線を向けたように感じた。いや、気のせいか。
駅前までは約五〇〇メートル。高校生なら五分もかからない。
生徒が電車に乗るとしたら、必ずこの道を通るはずだ。古書店の「夏冬書房」は、ちょうど駅前通りのアーケードに面して店を構えている。立ち読みのふりをしていれば、森川がここを通るところを見られるだろう。森川が探している本が、単に古い本だというのなら、それを入手する方法としては古書店が近道だろう。
新古書店というのも最近多くなっているが、彼女がさっき図書館で探していた本の束は、そういうチェーン店では扱いそうにないほど古いのだ。
古書店の品揃えが日替わりで一変することなどありえない。学校の図書館に本がなかったのなら、ここを覗きに来るだろう。しかし、目当ての本が店になければ、すぐに店を出ていき、そして二度とここへは足を運ばないに違いない。
ひと世代もふた世代も時代の違う、くすんだ色をした背表紙の壁に圧倒されながら、とりあえず欲しい本を物色するふりをした。古書店とはいうものの、それなりに比較的新しい本もある。物珍しげに背表紙を見ていくだけでも飽きない。
あっと気がつくと、時間がかなり過ぎていて、部活を終えた生徒たちが、ちらほらアーケードを通っていくのが見えた。
「いけない!」
森川はどうしたのだろう? 店の前を、顔を知っているソフトテニス部の生徒が二人連れだって通った。そろそろだろうか。
「!」
あっさりとその瞬間が来てしまったので、かえって心臓がドキンとしてしまった。森川が同じ部活仲間と並んで何気なく通っていった。しかし古書店にはなにひとつ目もくれず、そのまま店先から見えなくなった。
えっ、そんなのあり?
大きなガラスのドアを押して、こっそりと駅の方向を見た。森川の姿がまだ近くに見えた。
だけど森川は振り返らない。全然そういう素振りもなかった。
(それじゃぁ……?)
まどかの仮説はまちがっていたのか。森川は単に古い本を探しているのではなかった。図書館にある本を求めていたのだ。まどかが今年度の最初の当番だ。初めての開館日に森川はやってきた。入学したばかりの一年生が最初の日にやってきて、カウンターの背後にある古そうな廃棄図書から探し始める。括られていたひもまで先輩に解かせて。
それって普通はありそうにない行動じゃないだろうか?
しかし、第一段階はこれで終わってしまった。
次の日、休講になった四時間目、まどかは図書館へ行ってみた。自習のためではあるのだが、その一方で、森川に会えるかもしれないという期待があった。もし森川が今日も図書館に来ていれば、古書店の線は消えるだろう。ドアを開けてみると、同じように休講だった生徒たちの姿がちらほらと見えていた。その中に。
いた。
森川は昨日と変わらず、古そうな本を探している様子だった。もう間違いない。
「よぉ、行橋、何してんの?」
そのデリカシーのない声は、顔を見なくてもわかる。教室から遅れて来たばかりの吉見祐介が、図書館中に聞こえてしまうように話しかけてきた。
まどかは人差し指を立てて、祐介に注意を促す。
「自習よ! 図書館では静かにしてね」
「ごめん。ところで例の件ってどうなった?」
もう返事はしない。指の向きを微妙に変えて、森川の方を漠然と指し示した。
「あっ、あーそう……」こいつやっと理解したか。
祐介はまどかと対面して座席に着いたが、視線を微妙に例の一年生の方に向けている。
いつからそんなものを使うようになったのか、祐介がのり付きの付箋紙を取りだした。シャープペンシルで、さっと何かを書いたと思ったら、まどかに向けて差し出した。
― あの子がそう?
と書いてあった。返事の代わりにゆっくりうなずく。祐介が第二弾を書いてよこした。
― ふーん
そんなのいちいち書くなって! まどかは祐介から付箋紙を数枚ぶんどって、自分も書き始めた。傍目には、勉強のためにメモを取っているみたいには見えるだろう。
― 放課後に話ができる?
祐介からの返事は、「日曜日、駅前のブラウニーへ行こう」
ブラウニーとは、最近できたハンバーガーチェーンの店だ。ちょうどいい。新聞の折り込みから切り取った、ドリンク一〇〇円の期限付きクーポンを持っているし。
― わかった。ただしワリカンね
付箋紙を受け取った祐介の顔が、ちょっと不満そうに歪んだ。そこへ。
「行橋先輩、相談があるんですけど……」
あわわ。思わず二人とも、森川の目から付箋紙を隠そうとして、自習机の上に覆いかぶさった。
「いっ、今のは内緒よ。見てなかったでしょ?」
なぜか、森川がまどかの耳元にやってきて、そっとつぶやいた。
「大丈夫です。デートの約束のことは、黙ってますから」
そんなんじゃないっ!
〈3〉
気分的に、日曜日は早くやってきた。
授業のない気楽さ。襲いかかる眠気と闘う必要もない。午後から薄曇りになってきた空模様の下。全然想定していなかった成り行きで、三人組になったまどかたちは駅前に来た。
「言っとくけど、ワリカンだからね」
「はいはい。それじゃ、オレはレタスバーガーにしとくわ」
「あたしはアイスロイヤルコーヒーのミディアム……森川さん、どうする?」
「えっと……ミントチョコセーキ」
「なんだぁ、食うんじゃないのかよ?」
「あんたとは違うの!」
すでにカウンターの前で意見の食い違いだ。何を始めてんだか。
それぞれの行動範囲と時間帯がバラバラなので、現地集合にした。もっとも、それだけが理由ではない。まどかの考えでは、森川の本探しがどこまで本気なのか、その点がいささか怪しいと思ったからである。もし約束の場所に現れなかったら、それはそれで祐介と「探偵局」として、情報交換をすればいいだけの話、と割り切っていた。だが、彼女は来てくれたのである。ということは、本探しはマジなわけだ。
それにしても不思議。同じ部活でもなく面識もなかったはずの一年生と、こうやって「ブラウニー」に来ているのだ。部活のないまどかは、自分にも後輩ができたような、そんな気分で、森川と「ブラウニー」の二階席へ上っていった。
三人分の結構なエネルギー源を満載したトレイは、祐介が持ってくれるので助かるけど、階段を先に登らせたくないので、まどかは森川にもかけ足をさせた。なにしろ廊下で西澤先生にぶつかった派手な事故歴は再現してほしくない。
しかし。
テーブル席を運良くゲットして落ち着いたものの、どうにも話がはずまない。まどかにしても、祐介とこんな場所に来るのは初めてである。体の良いデートの誘いのつもりだったのかもしれないが、何をどう切り出そう? 腹の空いていた祐介が早くもレタスバーガーを食べ終わってしまった。早く話を始めろよ、という表情が露骨に顔に出ていた。
(ちょっと! なんであんたがしゃべらないのよ。自分がここに来ようと言ったんじゃない!)
祐介をチラッと見たけれど、自分から話を始めようとする気配が全然ない。
ええい、しかたがない。
「で、見つかったの?」 祐介に期待するのはやめた。
「それが、まだ……」
「ふーん。聞いてみたいんだけどさぁ、どうして古い本を探しているのか不思議なんだ」
「不思議ですか?」
「図書館で本を探すなら、新しく入った本を見つけに来るのが、普通じゃないかと思うのよ。ちょうど吉見君みたいに」
「おぃおぃ、オレを引き合いに出すなよ」
「だったら、ミステリシリーズ第十二巻のことはどうするの? 弁解の余地はないでしょ?」
「……わかった、わかった。認めます。図書委員長!」
「入学したばかりの一年生なら、学校の図書館にどんな本があるのか、ちょっと物色してやろう、なんて考えもあるとは思うの。だけど、いきなり廃棄する予定の本から、ひもを外させてまで調べよう、というのは普通じゃないよね? 何か特別な目的があるんじゃないか、と思われて当然なんじゃないかしら?」
まどかの言葉に、森川はうなずいた。
「その通りです。探しているのは本ではないんです」
確かに、片っ端から古い本に目をつけては探っているのは、本そのものが目的ではないだろう。調べ物が目的だというのなら、本の分野もある程度範囲が限られているはずだ。ところが、観察していた限り、森川の調べていた本は、分野も何も、手当たり次第としか言いようがなかったのである。
「本じゃなかったって? だったら、何?」
森川は少しためらっているようだった。だが、決心したのか、口を開いてくれた。
「探しているのは手紙です」
「手紙?」
「どんな手紙。ひょっとしてラブレターかな? 今どき」祐介が横から口を出す。
「はい」
「へぇ、隅に置けないもんだ。一年生でも」
「あたしじゃありません。伯母さんなんです」
「伯母さん?」
まどかと祐介が同時に叫んだが、残念なことにハモらなかった。
森川の話はこうだ。
森川の伯母さんも、この美郊ヶ丘高校―略してB高、の卒業生だった。好きな先輩がいたのだが、在学中、とうとう彼に告白できずに三年間が過ぎてしまった。ところが、出す勇気もなく、ひそかに書いておいたラブレターを、図書館の本に残したまま卒業してしまったことに、後から気がつき、おそろしく後悔した。手紙をどうやって取り戻せばいいのか。卒業後、そればかりを考えてきたそうだ。この春、姪が自分の母校に進学することがわかったとき、伯母さんは、わざわざ森川を呼んで、ぜひ手紙を探してほしいと頼んだのだ、という。
「でもねえ」事情の説明が一通り終わると、まどかが口を開いた。
「ラブレターのひとつやふたつ、そんなに恥ずかしいものかな? あたしだったら平気だけど」
「行橋とは違うんだよ!」こら祐介、逆襲をするな。
「『ボヘミアの醜聞』だよ。つまりは」
「何よ、それ?」
「シャーロック・ホームズを知ってるだろ? 『冒険』の中の最初の短編。人には知られたくない秘密ってものがあるんだよ。人はとにかく、自分には恐ろしく恥だと思える話が、さ」
ふーん。まどかは、当然の疑問を森川にぶつけた。
「それなら、伯母さんにどの本にはさんだのかを聞けば、話が早いじゃないの」
「えぇ、そうなんですが……」
「?」
森川が言うには、伯母さんもどの本か忘れてしまったうえに、伯母さん自身が、この三月に亡くなってしまい、もはや聞くことができなくなったのだそうだ。
「だったら、もう本人がいない以上、手紙を探す必要なんかないんでしょ?」
「そうなんですけど……」妙に歯切れが悪い。
「私は伯母さんの代わりになろうと思ったんです」
「代わり?」
「伯母さんは手紙を残して卒業しました。今さら手遅れだとは思うんですけど、それを承知で、片想いの彼に手紙を渡してあげようかと」
「おせっか……いてっ!」
祐介がまどかのアンダーテーブル・キックに、思わず顔をしかめた。
「そうなんだ。話はわかったわ。あたしたちが力になる!」
「本当ですか?」
「こう見えても図書委員長の初仕事。がんばらせてもらうわよ」
すっくと立ち上がりかけたまどかの背後に光が輝いた。
間、髪を入れる間もなく大音響。まどかが驚きの声で叫んだ。窓を破るような激しい雷の音とともに、大粒の雨が、テーブル席越しのガラスを打ちつけるように降ってきた。
「とうとう降ってきたね」祐介が平然とつぶやいた。
「とうとう?」
「今朝の天気予報を見ていたからね」
結局、雨が話を終わらせた。森川がトレーをダストボックスに持っていってくれた。
「先輩。じゃ、あたしはこれで帰ります」
彼女も天気予報を知っていたらしく、自動ドアの前で、ピンクの折畳み傘を取り出した。
「それじゃ、気をつけてね」
彼女に何を気をつけさせるというのだろう。やっぱり雷?
森川はさっと先に帰って行った。ひょっとして、気をきかせた。のかしら?
まどかはしかたなく祐介の傘に入って、駅までの道をなんとか助けてもらうことにした。いきなり、こんな展開になるとは思わなかった。でもまぁ……。
「行橋」「え?」
考え事をしていたので、タイミングが悪い。返答する言葉が出てこなかった。
「明日は手紙探しかな?」
「そう、よね。きっと」
黒い傘の下、改札口がすぐそこに見えてきた。
冗談ぬきに「探偵局」の初仕事となりそうな予感がしていた。
〈4〉
翌朝はみごとに晴れ上がった。
きっと寒冷前線が通過したのだろう。涼しげな風が木を揺らしている。雷雨の名残りがあちらこちらで鏡のように雲を映し、うっかり足を踏み入れたら、空に落ちてしまいそうな明るい罠が地面に覗いていた。
まどかは二時間目の日本史が休講になったので、図書館の状態を確かめたくなった。
本当にこの空間のどこかに、森川の伯母さんの形見があるのだろうか? 自分たちが捜索に乗り出せば、手紙の有無はわかるだろう。だがそれは、ちょっぴり故人に畏れ多いような気もする。なにしろ二度とない青春の痕跡だ。このまま学校に残る伝説にしておいたら? 謎が謎のままであり続けることで、B校の大先輩を、この世にとどめておけるような気がする。
いや。そうはいかなかった。
扉をあけて、館内に足を踏み入れたとたんに、ロマンチックは消え失せてしまった。正面の丸い閲覧テーブルに森川が陣取って、本を積み上げて調べていたからだ。
待て。彼女も休講なのか? 職員室前の連絡板には、あたしのクラスの分しか、休講の連絡は書いてなかったはずだ。
「お早うございます。行橋先輩」
「あのねぇ、森川さん」
「何ですかぁ?」
「あんた授業は?」
「今日はいいんです。先輩も手伝ってください」
「あたしはいいわよ。あなたは休講じゃないんでしょ」
「でも」
「手紙ならあたしが探すわ。一時間だけしかないけど」
「おっす。行橋、早いな」いきなり吉見祐介が現れた。やっぱり来たか。
「おっ! 探偵局全員集合完了したな」
「だれが全員なのよ。第一、森川さんは依頼者でしょ?」
「細かいことにこだわるなよ。じゃ、さっそく探そうぜ」
「手がかりでもあると言うの?」
「古い本を探せばいいんだ。少なくともそれでかなり探す範囲は限定されるはずだよな」
それじゃ、森川の主張から、全然一歩も前進していない。そうは言っても学校図書館の規模だから、どうにもならないほどの冊数があるわけではないだろう。手当たり次第でも、かなり大丈夫な気はするが。
「それじゃ、森川さんはラストの〈文学〉の方から頼むわね。あたしたちは〈総記〉から」
二手に分かれて捜索を開始することにした。まどかはしゃがみ込んで、書架の最下段を探っている祐介に、こっそり耳打ちした。
「何か、もっと手がかりがあれば、早いのにね」
「いいんだよ。お楽しみは長いほうが」
「あんた、そんなつもりだったの?」
祐介の本音がわかって、探す気がなんとなく削がれてしまった。しゃがむのは止めて、立ち上がって伸びをした。ふと、まどかの目に止まったのは、古そうな本のぎっしり詰まった資料コーナーだ。川村先生のテリトリーの雰囲気に満ちた領域が、城壁のように聳え立っていた。天井近くまで階層をなしたそれぞれの書架には、汗をかきそうなくらいに隙間なく、分厚い年代物の本が並んでいる。それでもいつかの出番を待っているように、古い脚立が折り畳まれていた。
そうか! あの一角を忘れていた。
そこまでチェックするとなると、かなり大変そうだ。あたしや祐介の手に負えないかもしれない。でも、まさかあの中に? そんなことはあるまい、とは思う。それこそ一見しただけで、高校生にはほとんど用がないと思えるような本ばかりなのだ。
まどかは必死で考える。
森川の伯母さんが、資料コーナーに手紙を隠すような可能性はあるだろうか。
ここにある本ならば、よほどの特別な用事がない限りは、取り出されたり、読まれたりする可能性はなさそうに思える。単なる隠し場所として考えれば最適の場所だろう。だが、伯母さんの手紙の存在を知りつつ探そうとする何者かが、もし来るとしたら? まずはここを探すのではないだろうか。
隠そうとする方の心理を考えれば、見つかりにくそうに思える場所から探すと良いわけである。しかし万が一の可能性までは否定できない。生前の伯母さんが森川に手紙を探すことを依頼したのなら、手紙の存在は、まだ誰にも知られていないと、そう伯母さんが思っていたことになるだろう。誰にもって、一体誰のこと?
あたしたち……いや違うな。そもそも伯母さんは何のために手紙を隠したのか。
「隠した」は、こちらが勝手に、そう思っているだけじゃなかったかな。
森川は何と言ったっけ。手紙を「残した」と言ったのだ。手紙をはさんだまま、忘れてしまったということか。ならば、伯母さんという人は、何だって最近になって思い出したのだろう。
「先輩」
「あ、見つかったの?」
「いいえ、まだ」
ふたたび屈みこんで、必死で考え中だったまどかを、森川は少しがっかりした表情で見下ろした。自分の手には負えない、と感じたのだろうか。行き詰まった空気とはうらはらに、図書館は午前の爽やかな光であふれている。まどかは、さりげなくうながすように、資料コーナーに顔を向けた。森川もつられてコーナーに顔を向け、その分量に圧倒されたのか、目が丸くなった。 本はパルプからできている。元々は木だったことを誇示するかのように、どこまでも続く奥深い活字の森の入口を示していた。
森川が、なぜか場違いな、見るからに新しい本を手にしているのに、まどかは気がついた。
「何よ、それ?」
「あ、これ。何でもないですっ」
あわてたように、森川は本を背中に隠して、さっきまでいた文学の棚にとって返すと、本を戻した。そこへ祐介が「ないよねぇ……」と、つぶやきながらやってきた。まどかは祐介を手招きして言う。
「あいつ、あたしたちに探させておいて、ラノベなんか読んでるのよ!」
「へー。ついにあきらめたのか」
「冗談じゃないわよ」
「ほんと。九巻が読みたいよなぁ」
「え?」
「あの本さぁ、八巻から相当待ってるのに、まだ九巻が出ないんだ。新しい敵の魔法が……」
「吉見君!」
「あ、冗談ですってば」
結局、捜索は打ち切ることになった。こんなときに限って、一時間は早く過ぎ去ってしまい、チャイムは探偵を待ってくれなかったのだ。
まどかは意地になった。
放課後、祐介や森川が部活に出ている間も、図書館に閉じこもった。
(何で、あたしはこんなことをしているんだろう?)
一般の図書とは明らかに違って、醸し出す空気が重々しい資料コーナー。まどかは結局少しずつ、生徒を容易に寄せ付けない、このエリアにチャレンジすることにした。分厚いハードカバーをざっと点検する。パラパラとページを送り、違和感を確かめる。
しかし、見つかるものは、しおりだけ。何かの薄い紙が挟まっていたときは、一瞬ドキッとしたが、それは蔵書印を押すときに、インクで本が汚れないように挟んだ反故紙だった。かつての生徒たちに配布されたであろうプリントの一部も使われてあったが、もちろん裏には何も書かれていなかった。
脚立に乗って、高い視点から図書室を見ると、なかなかおもしろい。棚の最上部、一段目がまもなく終わろうとしていた。とある一冊を手に取ってみたとき、思わず本の重さにふらついてしまった。でもそれは、今までと違った感じがした。危ない危ない。姿勢を立て直して、まどかはページの間を探った。何かの紙の束が挟まっている感触が。
「これは……一体?」
〈5〉
挟んである紙の束を取り出そうとした、そのとき。
「行橋ーぃ!」
「わぁっ!」
まどかを乗せた脚立がゆれた。
書架の谷間に投げ出された本が一瞬、皆既日食のように蛍光灯を覆い隠したかと思うと、重力加速度をつけながら、不必要に大声で呼びかけた吉見祐介を目がけて墜落し始めた。まどかは姿勢を取り直そうと、腕を必死で振り回してバランスを取ろうとしたが、スニーカーの足を脚立の最上段に残したまま、背中から空中に自由落下した。祐介は反射的にまどかの背中に腕を回して彼女を支えようとしたが、まどかの背中が顔に落ちてきた。上着の粗い繊維が鼻から唇を激しくこすり、しかも体重を支えられる姿勢ではなかったために、床に自分の背中を打ちつけて崩れ折れた。咄嗟にそむけた顔面に、さらに次の瞬間、ハードカバーの本が音を立てて顔面を直撃した。
(ぐぇっ!)祐介は一秒間動けなかった。それでも、「行橋っ……だっ」
大丈夫か。とは声に出なかったが、とにかく叫んだ。
「痛ったーーいっ!よぅ……あれ??」
まどかが一瞬痛いと叫ぼうとしたが、痛くないことに気がついて。声が止まった。
祐介が下敷きになってくれたので、自分は打撲しなかったのだ。
「吉見君! 大丈夫なの!?」
「大丈夫じゃないよ。痛てて……」
祐介は思いきり顔をしかめた。
まどかの身体を支えたことは、別段何でもなかったが、硬い本が落ちてきたダメージが大きすぎた。なぜか目の下から暖かいものが流れる気持ちの悪い感触が。その感触がくちびるを伝わって、床に一滴の雫がこぼれた。
鼻血が出ていた。
「大変!」
まどかは急いで上着のポケットをさぐった。何でこんなときにティッシュが出てこないのだろう。指先にハンカチが触れた。
(ハンカチ!)
0・1秒でもためらわなかったと言えば嘘だ。だけど自分を助けてくれた祐介に、これを使わないわけには行かない。まどかは、祐介の鼻にハンカチを当てて「ごめんね」とつぶやいた。
「あ、ありがとう……」
動転していたせいで、そもそも祐介がいきなり大声で呼びかけたことが、事の始まりだったのに、まどかが気がついたのは、さらに数秒後だった。
「あとで洗って返すよ」
「あんたにあげる! で、何の用だったのよ」
さすがに話の本筋に気がついたのが、抜群のタイミングだったとは言える。祐介への語調が少しばかりとげとげしくなった点は、この際やむを得ない。
「ICT教室に行ってきた」
「部活動じゃなかったの?」
「ちょっとね。気になることがあったから……森川はここにいないのか?」
「今は来てないよ。今ごろはランニング中かもしれないわね」
「そうか。都合がいい」
「何が?」
「あと、そうだな、四十五分後に森川をここに連れてきてくれないかな?」
「あたしが?」
「オレが呼びつけるよりは、森川だって、ここに来やすいだろ? 頼むからさ」
祐介はそれだけ言って、この前のミステリ全集を返却するためにカウンターへ行った。
そして手続きをすませ、また次の本を借りて図書館を出ていった。
四十五分? 祐介は、何をやろうとしているのだろう?
そうだ!忘れていた。
さっきの、本に挟まっていた紙は? まどかは事故現場に戻って、祐介の顔面を張り倒した年代物の本を拾い上げ、折り畳まれていた紙の束を手に取った。残念なことに、それも全集などによく挟まれている月報でしかなかった。
時計の針が四時ぴったりを指していた。ということは四時四十五分に森川を呼べということか。しかし閉館の五時まで残り十五分しか残らない。十五分で何をするつもりなのか。
謎解き?
そうだったら、森川を確実にここに呼ばなくてはならない。祐介は本当に謎解きをするつもりなのか? うん。きっとそうだ。彼を信じよう。
わざわざ四十五分という、十分単位でない時間を決めている。それに、残ったわずかな開館時間でできることといえば、手紙を見つけたという成果の公表ではないだろうか?
まどかは決心した。
森川に伝言をするために、廊下へ出ていった。放課後の時間が白昼夢のように経過していった。人影が目立って減ってくる。これからどんどん昼が長くなっていく季節だ。夕方まだ明るい図書館の閉館時間を教えてくれるのは、残っている生徒の人数である。
四時四十五分。
待ちきれなくなったのか、約束の時間よりかなり早く、森川はやってきた。部活を途中で抜けてほしいと、どうやって説得しようかと思ったのだが、心配など全くの杞憂だった。二人とも、いつもの閲覧テーブルで祐介を待つことにした。円卓会議というわけだ。
「吉見先輩ってすごいんですね。どんな手紙でした?」
そう言われても、まどかには答えがない。すべては祐介がどう出るかだ。もしも祐介の目的が謎解きではなかったらどうしよう。謎解きが間違っているということはないのか? むしろ心配なのはそっちだ。
図書館のドアが開いて、祐介が現れた。
大きめのスポーツバッグをロッカーに押し込んで、音を立てて砂を手で払った。
「全員揃ったね。お待たせ! それじゃさっそく謎解きといこうか」
「先輩、手紙はどこにあるんですか?」森川が尋ねた。
「ここさ」
祐介は一冊の小説本をバッグから出した。
『風を待つ岬』。著者の名前が「山下恭次」と背表紙にあった。聞いたことがない。
なるほどかなり古い本だが、例の資料コーナーの本よりは新しく見える。特に本に特徴があるようにも見えないと、まどかは思った。それならどうして祐介に探し出すことができたのだろう? 森川は本に手を伸ばして、あせるように中身をパラパラとめくり始めた。
本からは何も落ちてこなかった。続いて本を下向けに振ってみたが、それでも何もなかった。
「吉見先輩、手紙は?」
「よく見ろよ、そこにある」
森川が本をじっくりとめくり始めた。まどかも横から首を長くして、森川の開いている個所を見つめていた。
「吉見君、何もないじゃない?……あれ、まさか」
「気がついたか。ワトソン君」
誰がワトソンだ!
「この本をよく見てほしい。ところどころ鉛筆でマークがつけられているんだ。活字を一字ずつ囲んで」
祐介が手を伸ばし、ちょうど森川の開いているページにある、○印を指さして言った。弱そうな筆跡でかなり薄く書かれている。次のページにも同じようにマークがされていた。
ページの同じ場所というわけでもない。同じ文字を選んで○で囲んであるわけでもなさそうだ。マークのないページもあるから、すべてのページに施されているわけでもない。消しゴムで消し残ったマークもあった。これは何の意味があるのだろう。
それに、なぜか〈36〉とか〈81〉などの数字が、小さく添えられている。
森川は黙っていた。まどかは続きをうながす。
「だから、それがどうしたの?」
「マークされた文字を拾っていけば……ひとつの文章になるのではないだろうか?」
「最初のページからでいいんですか?」森川が尋ねる。
「いや、字を拾っていく順番は違う。もしオレたちが書く方の立場だったとしたら、どうだろう。先のページに使える字が必ずあるとは限らない。まともに文章が作れなくなる可能性があるだろう。だから順序はランダムなんだ。行間に数字が書いてあるだろう?」
森川がうなずく。
「本の余白にさりげなく書かれた数字が、次の字のあるページを示しているんだ。だからその順に字を拾っていけばいい」
つまりは、暗号だったのか!
「でも、そうだとしたら、最初はどのページから拾っていくのよ?」
まどかがふっと思いついた疑問をぶつける。
「もっともな疑問だよね。その答えはここにあった」
祐介は森川の本のしおりひもを引っ張った。
「このスピンの付け根、背表紙の上に近いところに、インクで〈27〉と書かれている」
「スピン?」
「しおりひものこと。ここに数字が書いてあったのが発見のきっかけだった。本に落書きをするやつはいるが、誰もこんなところに字を書こうなんて思わないからね」
「それじゃ! さっそく書いていこうよ!」まどかは鉛筆を探そうとした。が、
「その必要はない。この吉見祐介が、無駄に放課後の時間を潰すはずがないさ」
「え?」
「解読結果だよ」
ノートの切れ端に鉛筆で書いた結果を見せた。
〈あと1か月であえなくなるんだよね。
だけどそつ業してもいっしょにいようよね。
絶たいれんらくするよ。ゆキ君へみかより〉
「漢字とかなが交じっているのは、適当な字を探せなかったからだろう。
この〈ゆキ君〉というのが、伯母さんの片想いの人だったんだろうね。本名は知らないけど。そして伯母さんの名前は〈みか〉なんだ。本当は〈みかこ〉なのかもしれないけど」
「美香子伯母さん!」森川がつぶやいた。
祐介は続けた。
「そういうことさ。手紙は暗号だったんだよ。誰が読むかわからない本に、手紙を挟んでおくわけにはいかない。だけど自分の思いは伝えたい。だからきっと彼の読んでいた本、読みそうな本にマークをしておいたんじゃないかな」
まどかは納得がいかなかった。そういうもの?
もっとも告白の手紙など書いたことがないから、森川の伯母さんの世代の心理までわかるわけはない。
「森川。これが探していた伯母さんの手紙だ。図書館の本だから、オレがやってしまうわけには行かないけど、借りて読んでみるか?」
解読結果の紙を手渡した祐介の言葉に、森川は喜ぶはずだった。しかし、
「わかりました。もういいです」
森川は『風を待つ岬』を祐介に返すと、図書室から出ていこうとした。
「そう言うなよ。伯母さんの形見だぞ」
「いいんです!」
森川は床のタイルを蹴るように出ていった。部活に戻っていく足音が小さくなっていった。
「何よ、あれ。せっかく見つけてやったのに」
まどかは森川の意外な態度にカッときた。
「予想通りだった。残念だなぁ」
祐介のつぶやきを、まどかは聞きとがめた。
「何ですって!」 最初からこうなることを知っていたというの?
「説明しなさいよ」
閉館時間も迫っている。しかし説明を聞かずにここを動くわけにはいかない。
「最初からおかしいと思っていたんだ。伯母さんの身代わりなんて、立派すぎる話」
「そりゃあたしだって、そう思ったわ。だけど……」
「森川の伯母さんって、かなり前の卒業生だろう? 少なくともオレたちの親の世代なんだ。その間に図書館の本だって、すっかり入れ替わってしまってもおかしくない」
まどかもうなずく。
「だとしたら、今ごろは本ごと処分されている可能性が大だし、学校の図書館の本って、廃棄されても古本には出回らないから、他人に読まれる心配も少ないはずだ」
「亡くなった伯母さんも、そんなに心配することはなかったんじゃない?」
「だとすると、森川の一連の行動をどう思う?」
「確かに説明できないよね。あんなに態度が変わるなんて」
「オレは思ったんだよ。建前と本音が違うんだろうって。伯母さんが手紙を探すように言ったというのは、おそらく嘘だ」
思わず耳を疑ってしまった。それでは話の前提が崩れてしまう。
「じゃ、何で、あんなに手紙を探したのよ。説明できないじゃない」
「伯母さんが手紙のことを森川に言ったことまでは本当だろう。だけど伯母さんはそれを探せとは言わなかった、と思うんだ」
「どうしてそんなことがわかるのよ」
「ICT教室で調べた」
「?」
「森川はオレたちが一生懸命探しているときに、ラノベを読んでいた。なぜだと思う? あれが探すためのヒントだったのかもしれない、とオレは思ったんだ。だからパソコン部の連中に頼んで検索させてもらった。結果はこれだ」
祐介がバッグから、プリンタで打ち出した用紙を取りだした。
〈森☆ぷろきお……日本の作家。19×6年生まれ。
代表作は『海の魔法城塞カロン』(未完、8巻まで刊行)。二〇一三年に……〉
森川の持っていた本のタイトルだった。
まどかの目が釘付けになったのは、その「森☆ぷろきお」がこの三月に亡くなったとの件だった。そしてそこには「本名、森川美香子」と書いてあった。
「吉見君、これって!」
「森川の伯母さん、だろうね」
「あいつ、どうしてこれを言わなかったのかしら」
「うん。言わないっておかしいだろ? ひょっとしたら手がかりになるかもしれないと思うのにね。だから言えなかった理由が何かあるんじゃないかと思った」
「理由?」
「伯母さんは有名な作家だ。もう亡くなってしまったけど、未完の作品が今でも歓迎されてるくらいだからさ」
「そんなに売れてるの?」
「このB高の図書館にさえ、現に本があったじゃないか。その伯母さんが、高校時代に片想いの彼に書いた手紙。これはその手のマニアにとっては結構な価値があるはずだ」
「そんなの普通、欲しいと思う? それにどうやって欲しがる人を探すのよ」
「ネットオークションがあるさ。それこそマニア価格になるかもしれない。不発に終わるかもしれないけど、まだ伯母さんの人気が続いている間に売ろうと思ったのかもな」
「それじゃ……」
「森川はお宝目当てで手紙を探していたんだ。いやオレたちに探させたんだ。伯母さんの正体を、名前ひとつオレたちに言わなかったことが証拠だ」
「そうだったの……」
まどかは猛烈に腹が立った。前歯に力がかかってきた。うーん、どうしてくれる。
「だけど残念だよね」まどかが言う。
「何が」
「手紙が図書館の本の書き込みじゃどうにもならない。それに、本当に伯母さんの字で便箋に書いてあっても、あの程度の文面でしょ。ザマミロだよね。その伯母さんって人も、パブリックな本に落書きするようなひどい人だし。それなのに作家だなんて……」
図書委員長としては、どうしても言っておきたいところだ。
「行橋」
「?」
「今までの話は真相の半分だ。まだ残り半分がある」
「えっ?」
「先生、第一幕は終わりました。第二幕の出番ですよ」
祐介は図書館の奥、いつも川村先生のいる準備室の扉に向かって呼びかけた。
曇りガラスの向こうから、人影がドアに向かって近づいてきて、ドアを開けた。しかしそれは川村先生ではなかった。
「話は聞いたよ。ずいぶんな話だ。あれじゃ美香子さんも浮かばれないねえ」
白衣を着た「子守歌」が立っていた。
「改めて名乗っておこうか。二年D組担任、数学の西澤行広です」
それじゃ、もしかして、〈ゆキ君〉ってのは!
西澤先生を加えて三人で話が再開した。
「森川が手紙を探すきっかけになったのは、もちろん伯母さんから話を聞いたからだ。だけど常識的に言って、そんな何十年も前の手紙を探しても何にもならない。それなのに、急に思い出したように、伯母さんがそんな話をしたのはなぜだろう? 姪が自分の母校に進学することが決まったから? それもあるかもしれない。母校に残した手紙が急に気になり出した」
「それだけ?」
「たぶんそうじゃない。これじゃないかなと思うんだ……先生、持ってきてますか?」
呼びかけられた西澤先生は、ポケットからカラー印刷のパンフレットを取りだした。
「吉見君が持ってきてくれ、と言うのでね。進路部から去年の余りを借りてきた。そうか、こんなものがねぇ」
公立校とは言うものの、最近は生徒・受験生を確保するために、パンフレットを作って中学校に配布することが多くなっている。このパンフも去年のそういった活動の一環だったわけだ。
パンフの六ページ目。学校の良さを印象づけようと、教科の紹介が載っている。
「数学は論理だ!推理力だ!」という、勇ましいタイトルの下に、西澤先生の写真が名前入りで書かれていた。〈私もB高の卒業生です……〉
「あくまで仮定だけど、姪がどんな学校に行くのかと、何気なく尋ねて、森川の伯母さんがこれを見せてもらったのだとしたら?」
「だとしたら?」
「想像をたくましくすれば、こうなる。あの西澤君が母校の先生になっている。もし図書館に残した手紙を見られたら、どうしよう? もし、他の誰かが先に見ていたとしたら? あのユキ君の立場はどうなるんだろう、って、そう思ったんじゃないかな」
「推理が大胆すぎるわよ。片想いの彼が西澤先生だった、という証拠はあるの?」
「このパンフに紹介されている先生で、森川の伯母さんと同級生に見えそうな人は西澤先生だけなんだよ。女性の先生と若い先生は当然除外される」
「そうなんだ……」
「それでも、まだ単なる可能性でしかないんだ。だから資料コーナーも探した」
「あそこに手がかりなんかあったっけ?」
「歴代の卒業アルバムだ。時代に見当をつけて森川美香子という名前を探し出して、同じクラスに西澤先生の名前を見つけた」
「吉見、お前そこまで調べたのか! 内緒話なんて、とうていこの学校じゃ不可能だな」
「子守歌」には似合わない大声で西澤先生が叫んだ。
「ここからが本題なんです。先生」
「ん、何だ?」
「ずばり聞きますが、森川美香子さんからの手紙を持っていますか?」
雫のゆっくり落ちるような沈黙が流れた。
「持っている」
「それはどうしてですか?」
「美香子さんの気持ちを思うと、捨てるわけにはいかない。これはぼくの青春でもあるんだ。誤解するなよ。姪のように手紙を売るつもりなど、毛頭ない」
「よかった。それを聞いて安心しました」
「ちょっとちょっと、それってどういうこと?」
「オレの口からは。先生、行橋に説明してください」
「そんなの、とてもじゃないが言いたくないなぁ。でも、もう何十年も昔のことだし。お前たち、誰にも言わずに黙っててくれるか?」
「約束します」
「ぼくも森川が好きだったんだよ。だけど、とてもそれは言えなくてね。そのままお互いに別々に進学したから、つい疎遠になってしまって」
「先生、そんなもったいない。いや情けない。何で言わなかったんですか」
まどかは食い下がった。
「時代のせい……いや、時代のせいにしてはいかんな。ぼくの責任だ。勇気が足りなかったんだよ。正直に認めよう」
西澤先生に頭を下げられては、こちらも認めるしかない。
待てよ? 手紙って?
「先生、手紙って、どこにあったんですか?」
「彼女がいつも読んでいた詩集の中だった。昔の図書館の本はカードポケットがついていたからな。今みたいにバーコードなんかない。カードに記入して貸し出していたんだ。彼女の名前も当然あったし、その中に折り畳まれていた。でもその本も、もうここにはないな」
「それじゃ、どうやって手紙を手に入れたんですか?」
「何も昨日今日のことじゃないさ。卒業した春の四月に、B高に立ち寄ってみたんだ。部活の後輩に会うためにね。そのとき、ふっと彼女のことを思い出して、ぼく宛の手紙を図書館で見つけたわけだ」
わずか二ヶ月たらず、手紙は詩集の中に眠っていただけで、無事に彼の手元に届いたのだ。
手紙は何十年も前に、図書館からなくなっていたのか。森川美香子さんの心配は、全く不要なことだったのだ。それさえ伝わっていれば……
すると!
「吉見君、あの暗号は何物?」
「えっ? あーっ、ついにバレたか。あれはダミー。ニセ物」
「何ですって!」
「森川の本心を確かめるために作ったんだ。ミステリシリーズを返すついでに、適当に古い本を借りて」
確かに、あんな形でだれにも見えるように何十年も放っておけるわけがない。解読しようという、好奇心の強い生徒が現れても、何の不思議もない。あれは、ほんの一時間ほど前に作られたニセ物だったのだ。
「それじゃ、わざわざあんな暗号を作るために、時間をかけたわけ?」
「違うよ。放課後、西澤先生と打ち合わせをしてたんだ。時間がなかったから、本への書き込みはデタラメなんだ。字数も足りないし、まるで文章にもならない」
「それじゃ、あの解読っていうのは、いったい?」
「創作。本当に本から拾い出したら、全くのデタラメだってバレちゃうだろ。森川の伯母さんという人なら、どう書くのかを想像してさ」
だから、解読を手伝おうと言う、あたしの申し出を断ったというのか。
「ちょっと聞きたいんだけど、もし森川がニセ暗号を正直に喜んで受け入れたとしたら、一体どうするつもりだったの?」
「そのときは、冗談だと謝って、西澤先生を呼んで真相を話してもらえばいいと思った。手紙が届いていることがわかれば、気持ちを試したことも、許してもらえると踏んだんだ」
だけど。「吉見君」
「は?」
「図書委員長として本の落書きは認めない。レッドカード!」
そんなわけで『風を待つ岬』の鉛筆書きを、全部きれいに消すことと、ミステリシリーズの次回配本は、まどかが先に借りる件を、祐介が約束させられたことは、言うまでもない。
5時のチャイムがスピーカから流れてきた。
「ありがとうございました」
「いや、なかなか楽しかったよ。やっぱり論理は力だね」
西澤先生は、自分のキャッチフレーズを宣伝して、職員室に帰っていった。
あの「子守歌」にも青春があったのか、と、当然のことに感心する二人が残された。
「あなたたち、閉館するわよ」
ドアの向こうから、カチューム姿の川村先生が現れた。ずっと話を聞いていたんだ!
「あ、大丈夫。誰にも言わないわよ。それにしても初恋の話って、なんだか香り高くて、ちょっぴり苦いって思うわよね」
先生、準備室でコーヒー飲んでたでしょ?
図書館に閉館のプレートを掛けるために、二人は廊下へ出た。
「帰ろうぜ」
「部活はどうすんのよ?」
「自主トレ」
「吉見君、いつだってそうじゃない」
「ところでさ、これ」
祐介が何か紙片を渡そうとした。また手紙?
開いてみたら、「ブラウニー」のコーヒー一〇〇円クーポンだった。
「行かない?」
「言っとくけど、ワリカンでね!」
二つの影が並んで歩き始めた。
長い廊下を、傾きかけた太陽がまぶしく照らしていた。
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