夏霞の融点
麿枝 信助
第1話
普段より広がる視界に、柔らかな光が差し込む。
橙から紅へとその色を変え、敷かれる暖かな絨毯も徐々に輝きを失っていく頃。
数多の生命が燃える音。じっとりとした空気と共に香る、草木の匂い。どれをとっても、いつも通りの風景。
の、はずだった。
「……っ、大丈夫……だよね」
玄関の扉に手をかける前に、何度も何度も鏡を見た。
美容室で普段はしないウェーブをかけてもらい、ボブカットの毛先を軽やかにしてもらったし、予約した浴衣専門店で着付けもしてもらった。
沢山の人に可愛い、似合っていると言われ、背中を押されたのにも関わらず、この鼓動の速さはまだ緩んでくれそうにない。
(どうしよう……緊張する……)
ただでさえ汗をかきやすい体質の陽乃であるが、緊張とこの湿気のせいで余計にハンカチを額にあてる回数が多くなってしまう。携帯している小型扇風機がなかったら、家にある化粧道具を一式持ってこなければならなかっただろう。
普段であれば、ここまで入念に自分の見た目に気を使わないし、緊張もしない。このような催し事に足を運ぶのも、小学校低学年の時以来だから、という訳でもない。
「……っ」
脳裏に浮かぶ、あの優しい笑顔。
何しろ。大好きな彼、
楽しみな気持ちは勿論ある。だが、その楽しみなことを自分の準備不足で台無しにしてしまうのではないか。時が迫るたびに、増え続ける緊張が身体の中を暴れ回る。
「……あ〜! やめやめ! 考えると緊張しちゃうからとりあえず考えるのをやめよう、うん! そういえばちょっと天気心配だったけど、今日晴れて良かったなぁ~!」
虚しく辺りに響く自分の声。周りに人がいなくて助かった。能天気な独り言がふと口に出てしまうのは良くない癖だな、と頬が紅潮する陽乃だった。
「……」
静寂からか、ふと意識が向く。
肌に触れる、普段と違う質感の着物。カラ、カラと、地面と擦れるたびに出る普段はしない音。
その服を見るたびに、その音を聞くたびに、用意してきた物の多さが浮き彫りになる。
(……本当に、大丈夫かな)
いつもと違う自分がそこにいるのは確かではあるが、自己肯定感の低さから来る焦燥感がどうしても顔を出して、邪魔をしてしまうのだ。いくら準備しても、どこか足りない気がする、何か忘れている気がする。
べったりと張り付くような不安を抱え、緊張している心とは裏腹に足は前に進んでいく。
「……あ」
建物と人の気配が少し増えてきたと思っていると、いつもの待ち合わせ場所に着いていたようだ。
もうすぐ始まるという高揚感と、着いてしまったという引き返せない緊張感が複雑に混在し、顔から吹き出そうになる。
「流石に十五分前は早すぎた、かな」
駅の近くの曲がり角を少し歩いたところにある、自販機の隣のスペース。そこが、二人のいつもの待ち合わせ場所だった。
人目の多くつく場所や開けた場所ではなく、どちらかといえば大通りから枝分かれしている小道のような狭いところがお互い待っていて落ち着くのだろう。特に今日は目立つ服装なのだから、人通りの少ないこの場所で良かったと胸を撫で下ろす陽乃であった。
基本的に、いつも自然と五分か十分前にはお互いこの場所にいる。陽乃の家は待ち合わせ場所までのんびり歩いて十五分ほどの場所にあるが、輝樹の方は一駅ほど離れている。
陽乃は毎回歩いてくるのが大変だから、待ち合わせ場所を変えようかと打診したことがあるが、少しは運動しないと太ってしまうとのことで、輝樹は毎回散歩の要領で歩いてくる。今まで遅刻を一度もしてこない真面目な彼の性格上、十分前に来る事も全然有り得る事態だ。
輝樹は少し離れた曲がり角を曲がってくるので、彼が来た時はいつもすぐ気づく。
それまでに少しでも身なりを整えておこうと、手鏡を使って前髪を確認しようとした、その時。
「……あ」
見慣れた人影が角から現れた。
「「……っ⁉︎」」
そして、お互いの姿を見た瞬間固まる二人。
片や、二週間ほど前からしっかり計画を立て、頭のてっぺんからつま先まで入念に身だしなみを準備してきた陽乃。
片や、サプライズと称しあえて浴衣で来ることを黙っていた輝樹。
お互いの見た目が持つ破壊力が想像の域を遥かに超えていたためか、陽乃は思わず呼吸を忘れてバッグを落とし、輝樹に至っては陽乃の姿を直視できず、また角に身を隠してしまった。
「「…………」」
数瞬の沈黙が流れる。
しかし、その静けさとは裏腹に、陽乃の内心は大変なことになっていた。
(えっ、浴衣⁉︎ テルくん浴衣で来てるよね⁉︎ え、浴衣で来るなんて聞いてない‼︎ 男の子ってこういうのは私服で来るって聞いてたけど……な、なんでええっ⁉︎)
一方、輝樹の脳内には宇宙が広がっていた。
(え、待って……い、今のは……?)
情報量が多すぎる。浴衣で来るとは聞いてた。だが、これほどか。これほどなのか。
いつもと違う服装と髪型から来る新鮮さ。初めて見る彼女のコンタクト姿。普段はつけないであろう、大きめのひまわりの髪飾り。
いや、いや。もうとにかく。
「め、めっちゃ可愛い……」
右手で口を抑えても、それでも自然と漏れてしまうその言葉。
それ以外に形容すべき言葉はいくらでも思いつくが、まずその四文字で脳内が埋め尽くされてしまうのだ。
一瞬、普段の陽乃と違いすぎて、本当に彼女かどうか疑ったが、この時間にこの場所で浴衣はまず陽乃である。
「……ま、待て待て。一先ず、深呼吸をしよう」
彼方へ吹っ飛んでしまった平静を少しでも取り戻そうと、曲がり角で身を隠しながら目を閉じ身体の空気を入れ替える輝樹。
瞑想にたっぷり十数秒かけ、落ち着いた後に陰から覗こうと再び顔を出してみると、目の前に陽乃がいた。
「うおおっ⁉︎」
思わず身体ごとのけぞってしまう。もう少しで転びそうになるところを、何とか自力で持ち直した。
「あ。だ、大丈夫⁉︎」
(大丈夫じゃねぇ~〜っ‼︎)
ただでさえ眩しい顔が、さらに近くなる。
可愛すぎる彼女のせいで、心身ともに全く大丈夫ではないのだが、そんな彼女を心配させないべく首を縦に振る輝樹。
「……あ、良かった。なら、いいんだけど」
意図的ではないにせよ、急に来る不意打ちは心臓が持たないので本当にやめて欲しいと彼は運命に訴えた。
「あ、あの。テルくん。それ、浴衣……?」
ふと、陽乃の目線が下に落ちる。
今まで見たことがなかった、輝樹の浴衣姿。もし彼が浴衣を着てくるなら、金色の髪は浴衣に合うのかと陽乃は疑問に思っていた。だが、それを踏まえて色を選んできたのだろう。全く違和感がなく、むしろ自然にまとまっていた。
「え? あ、うん……」
対する輝樹は、いざ普段着ない服を他人……それも、最も見られて気にする人に見られるのは案外緊張するものなのかと顔が強張る。
「し、知らなかったよ……! 何も言ってなかったから、びっくりしちゃった。すごく似合ってるね」
「……! お、おう。ありがとう。夏だしな。今まで、こういうの着たことなかったから。今回、丁度いいかなって」
予想以上に陽乃が喜ぶ姿を見て、頬をかく輝樹。彼女の反応からして、サプライズは無事に成功したようだ。
「あ。ひ、陽乃もその……浴衣。ほんと、すげえ似合ってる。めっちゃ可愛い。うん」
「……っ‼︎」
先程まで陽乃が抱えていた不安が一気に消し飛び、その代わりに何倍もの嬉しさが込み上がってくる。
(美容室のお兄さん、着付けをしてくれたお姉さん。
この一言。この一言のために、女の子は時間とお金をかけ、何よりも、様々な想いを背負いながら努力をしてくるのだ。
安堵からか、嬉しさからか。思わず陽乃の口角が緩んでしまう。
「陽乃……?」
「っ! な、なんでもない! なんでもないよっ!」
一番言って欲しい人に一番言って欲しい言葉を言われて、顔が酷いことになっているだろう。いくらお化粧をして可愛くして貰っても、流石にこんなだらしない顔は見せられない。
そう危惧した陽乃は表情と顔の色を隠すべく、さっと背を向ける。上昇する顔の温度を手で仰いで何とか下げながら、ふわふわする気持ちを深呼吸をして落ち着かせた。
「ふぅーっ……」
「え、えっと。大丈夫か、陽乃?」
「ふぇ⁉︎ あ、う……うん! 全然大丈夫! え、えと。じゃあ、行こっか……!」
「お、おう……!」
再び沈黙が支配する中、二人の足は駅へと向かう。
陽乃はいつもと違う彼の横顔を見て、ある事を思い出していた。
(い、今でもヤバいのに……絶対無理だよぉ〜っ‼︎)
せっかくクールダウンしかけた熱が再び上昇してしまう陽乃。
ええ〜⁉︎ と驚いた声が彼女の脳裏にフラッシュバックする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます