予期せぬ提案

「あなた、朝食の準備ができましたよ」

 姿見の前で着こなしをチェックしていたところだった。田島純一は鏡を見ながら妻に返事をした。

 鏡に映るダークグレーのスーツは、オーダーメイドだけあって、身体の線をきれいに見せてくれていた。姿見から離れて腕時計を左手に巻く。気持ちが自然と仕事モードへと切り替わっていく。身につけたのは、おもにビジネス用として使用しているパテック・フィリップだ。シンプルなデザインだが、世界三大高級時計メーカーならではの気品に満ちていた。経営者仲間にも愛用者は多かった。

 持ち物は人を変えると田島は信じていた。だからこそ、身につける物にこだわりを見せない人間を信用しなかった。ある程度の年齢に達したならば、無理をしてでも年相応のものを身につけるべきだという信念から、安物のクォーツや数千円程度のビジネスシューズで満足しているような中年男性を心底軽蔑していた。


 簡単な朝食を済ませたあと、田島はスマートフォンと財布だけを持って玄関を抜けた。軽装がいつものスタイルだ。妻と二人で暮らす邸宅は、瀟洒しょうしゃな建物が立ち並ぶ閑静な住宅街にあった。広い中庭を進み門扉もんぴを抜けて、待たせてあったハイヤーに乗り込む。久しく前からドアの開閉サービスは断っていた。すぐに馴染みの運転手と挨拶をかわす。車内はいつもながら清涼な空気に充ちていた。トヨタのクラウンが静かに走り出す。目的地までは十五分ほどだ。

 運転手の吉田が声をかけてくる。年は五十を過ぎている。

「田島さん、今日は少し冷えますね」

「ええ、そうですね」

 確かに、六月だというのに今朝はやや肌寒かった。ハイヤーは住宅街を抜けて、交通量の多い大通りに入っていく。すぐに小さな渋滞にはまり、蛇行運転になる。

 スマホで日経新聞の記事をチェックしていたところで、ふと窓の外に目を向けた。歩道を歩く制服姿の男子生徒が視界に入り、背中がこわばるのがわかった。気づくと右手が鼻の傷跡に触れていた。ストレスを感じたときの癖だったが、三十年近く経った今でも、この癖は直らなかった。

 鼻の傷跡は、右の鼻の穴から上に向かって縦に伸びているもので、それほど大きなものではなかったが、鼻先にあるということで、割と目立つ傷跡だということは自覚していた。

 こちらの緊張が伝わったのか、バックミラー越しに運転席からの視線を感じた。吉田が無言で心配してくれている様子だ。吉田は、ときたま気遣いの言葉をかけてくれる。そしてそのたびにこう言うのだった。

「経営者ともなると心労が絶えないでしょう。その点、運転手稼業は、気楽で面倒がなくていいですよ」

 田島はスマホを仕舞って目を閉じた。そして今日もまた、時が解決してくれぬ心の傷があることを痛感するのだった。



       *  *  *

 


「あ、田島さん、こんばんは」

 月明かりに照らされた白いビルのエントランスで、馴染みの男に声をかけられた。田島は男を見送ってからスポーツバッグを手にビルに入っていった。

 手狭なロッカールームで、ナイキのロゴが入った半袖短パンのトレーニングウェアに着替え、慣れた手つきで両手にバンテージを巻いていく。準備が整うと、ボクシンググローブとペットボトルを持ってトレーニングルームへ足を踏み入れる。すぐに顔見知りのスタッフ数人に笑顔で迎えられた。

 強い照明で明るく照らされた室内は、ハードなトレーニングで汗を流す男たちの熱気に充ちていた。太古の昔から人間に備わっている闘争本能が喚起されるのか、ここに来ると、自然と気分は高まった。空いたスペースで全身のストレッチを軽く行ってから、グローブをはめ、空いているサンドバッグの前に立つ。

 準備運動がてらシャドーボクシングを始めて、ゴングの音と同時にまずは軽めにサンドバッグに打ち込んでいく。三分後、再びゴングが鳴る。動きを止めてペットボトルの水を少し喉に流し込む。次のゴングまでの一分間、身体を脱力させてインターバルをとる。すでに身体は軽く汗ばんできていた。再開のゴングが鳴る。2ラウンド目も軽い準備運動に費やし、3ラウンド目から徐々にギアを上げていく。フットワークを使いながら、力強いパンチをリズミカルに浴びせていく。乾いた打撃音が小気味よく響く。パンチの衝撃は骨を震わせ、身体の芯に響く。高揚感は否応なしに高まっていく。リングに顔を向けると、スパーリングの様子が視界に映った。ヘッドギアをつけた選手同士が、本番さながらの気迫のこもったバチバチの打ち合いを演じている。プロ契約の選手で試合でも近いのだろうか、こちらも自然と気合いが入ってしまう。


 このジムに通いはじめたのは七年前、起業したばかりの会社を軌道に乗せるために奮闘していたころだった。起業後の生活は、サラリーマン時代とは打って変わって多大なストレスの連続で、重圧に押し潰されそうな毎日だった。仕事量は果てしなかった。朝から晩まで働きづめで、食事を取るヒマさえなかった。時間がいくらあっても足りない、そんな状況だった。そのような生活では心に余裕など持てるわけもなく、そのころは自然と周囲にきつく当たるようになっていた。表情は常に険しかったに違いなかった。そんな中で出会ったのがボクシングだった。サンドバッグを一心不乱に三十分も叩けば頭はまっ白になり、どんなストレスも吹き飛んだ。起業後は常に心的疲労で頭にモヤがかかったような状態だったのに、激しい運動のおかげで脳内は瞬時にクリアになった。田島は何日か通っただけですっかりはまってしまい、忙しい合間をぬって足を運ぶようになっていった。

 健全な肉体には健全な精神が宿るとはよく言ったもので、ボクシングをはじめたことでストレスは軽減され、自然と気持ちは前向きになっていった。当然、体力も飛躍的に上がった。常に活力がみなぎるようになり、性生活も一変した。妻を求める回数が増え、ときには失神させることさえあった。スポーツの恩恵を、仕事とプライベート両面で享受することができたわけだ。

 運動の多大な効果を実感したことで、ベンチプレスとルームランナーを自宅に設置した。ルームランナーは妻にも好評だった。サンドバッグはスペースの関係で断念したが、改装の際には、サンドバッグが設置できるトレーニングルームを作るつもりでいた。ジムに通うペースは、今では週一くらいに落ち着いていたが、ストレスを感じたときには今でも集中して通うことがあった。


 ゴングとゴングの間のインターバル時に水分補給を行いながら、三分間は鋭いパンチを全力で打ち込んでいく。顔面へのガードを保持しつつ、敵とみなしたサンドバッグの周囲を足のステップを使って軽快に動き、あらゆる角度から攻撃を繰り出していく。常に実践を意識し、単なるストレス解消以上のものを目指す。勇気が試されるとき、今度は怯えずに立ち向かえるように——。

 パンチを放ちながら壁に掛かる時計を確認する。次の予定が入っていたから、そろそろ切り上げどきだ。ちょうどそこで、ラスト三十秒を知らせる大きなブザーが二度鳴る。ここぞとばかりに最後の追い込みをかける。大きく顎を引き、接近戦を想定しての細かい連打をリズミカルに打ち込む。次に少し距離を取り、鋭いフックを右に左にと高低差をつけて打ち分ける。最後は渾身の右ストレートを、腰を入れて打ち抜いた。サンドバッグがひときわ大きく揺れ、それに呼応するように終了のゴングが鳴った。揺れるサンドバッグを両手で押さえて、荒れた呼吸を少しずつ整えていく。黒のスポーツウェアは汗でびっしょりだ。呼吸が落ち着いてきたところでグローブを外す。全身が爽快感で充ちていた。

 田島は空になったペットボトルを拾い上げると、顔見知りの者たちに軽く目で合図を送って、トレーニングルームをあとにした。



       *  *  *



「田島君、仕事は順調かな?」

 相手は開口一番そう聞いてきた。彼の隣には、二十代半ばくらいのホステスが座っていた。胸の谷間が強調された青いドレスを着ている。照明を抑えた店内は上質で落ち着いた空気が漂っていて、店の奥では赤いドレスを着た女性奏者が柔らかなピアノソナタを奏でている。

「仕事のほうは変わりなくって感じですね」

「そうか。あとそうそう、美里君は元気にしとるのかな?」

「ええ、おかげさまで。また近いうちに、ぜひお越しください。家内もよろこびますから」

 こんな会話から接待はスタートした。接待の相手は、徳間とくま重治しげはるという初老の男で、サラリーマン時代から世話になってきた人物だ。起業後も多大な援助を受けていたため、接待はその恩に報いるためのものだった。こうして数か月に一度、恩師をもてなすのが恒例となっていた。徳間は長らく会社経営にたずさわってきたが、数年前に経営からは身を引いており、今は名ばかりの会長職に就き、悠々自適の生活を送っていた。久しく前に喫煙の習慣を断ち、酒の量を減らし、毎朝二時間のウォーキングを日課にするなど、実に健康的な生活を送っているらしい。頭髪は薄くなっていたが、肌は若々しくつやがあり、六十を超えた今でも活力の衰えはいささかも見られなかった。

 徳間は小柄で恰幅がよく、見るからに経営者然とした風体だったが、今夜の彼は、幅広のストライプが入ったグレーのスーツに、磨き込まれたコードバンのドレスシューズを合わせていた。スーツと革靴からでも徳間の高い経済力はうかがい知ることができたが、中でも彼の手に巻かれた腕時計は別格だった。リシャール・ミルというブランドのもので、それ一本で都心にマンションが買えてしまう。彼はこの他にも、数百万円から数千万円の腕時計を何本も所有していた。徳間は笑っていつもこう言った。田島君、時計にはまると、金がいくらあっても足りないよ、と。

 年配者には珍しく、徳間は自分のことばかり語らずに、人の話によく耳を傾けてくれた。人は年をとると、知っていることを教えたがる傾向にあるが、徳間にはそれがなかった。求めてもいない余計なアドバイスをしてくることはなかった。説教じみたことは一切言わず、こちらの発言を否定してくることは決してなかった。こちらが発する言葉を、すべて肯定してくれる人物といっしょにいるのは実に心地よかった。徳間の人間性は、実に理想とすべき姿だった。

 美しいピアノソナタが流れる中、田島は徳間に近況を語り、彼とともにホステスたちと談笑を続けた。徳間は軽い冗談を言って、度々ホステスたちを笑わせる。徳間は流行にも敏感で、時事ネタを交えて面白おかしく語って見せる。田島は時計を見る。早いもので、店に来て二時間が過ぎていた。徳間といると、いつも時間が経つのが早く感じられた。アルコールもほどよく回りはじめていて気分がよかった。

 そんな中、コニャックを飲み干した徳間が、とつぜん真剣なまなざしを向けてきた。

「田島君、場所を移さないかね。実は君に、話しておきたいことがあるんだ」



       *  *  *



 二人して麻布にある会員制のBARに場所を移した。通された深紅の個室は、照明がぐっと落とされていて、マイルス・デイヴィスの奏でるジャズが耳に心地よかった。互いに黒革のシングルソファに身をゆだねて、アルコールの入ったグラスを傾ける。

「田島君、君とはどのくらいの付き合いだったかな」

「そうですね。もうかれこれ二十年近く、お世話になっているかと」

 田島の言葉に、元経営者は感慨深げにうなずいて見せた。

「もうそんなになるのか……。今思うと、出会ったころの君は若かったなぁ。肌も艶々していて、しわの一つもなかったんじゃないのかね」

 田島が苦笑する中、徳間は続けた。

「だがあれだ。君はこうして成功を手にしたというのに、ぼくには君が幸せそうには見えないのだよ。いや、下手に否定せんでいい。他の人間は欺けても、このぼくはそうはいかんよ。ぼくくらいの年になるとね、目を見れば大体のことがわかるんだよ」

 予想外の展開に、田島はとまどった。銀座のクラブで場所を変えることを提案されたときから重い話になりそうだと予感していたが、これは想像の範疇を超えていた。

 徳間はさらに続けた。

「最初は、子どもができないことからくる苦悩かとも思っていたが、しばらく君のことを見てきて、どうやら原因は違うところにあると思うようになった。起業当初の、君の鬼気迫る顔は忘れられんよ。ぼくは、これまで起業した人間を何人も見てきたが、普通の起業家は、事業を軌道に乗せ、会社の規模を拡大させることを目標にしていくが、君は何かを成し遂げるための手段として、経営の道を選んだかのようにぼくには見えた。どうかな? ぼくは見当違いなことを言ってるだろうか」

 何も言えなかった。田島は平静を装うが、内心はかなり動揺していた。長きに渡って自分の内面を見透かされていたという事実に、羞恥心と、薄ら寒い恐怖を感じた。

「田島君。君にあることを話す前に、どうしても確認しておきたいことがあるんだが」

 真剣味を帯びた顔で徳間が聞いてくる。という言葉に、警戒心から顔がこわばった。心の準備が整う前に質問が飛んできた。

「では聞くが、君には、殺したいほど憎んでいる者がいるんじゃないのかね?」

「え——!?」

 徳間の問いかけに、頭の中がまっ白になっていく。危うく、右手に持っていたグラスを落としそうになる。放たれた言葉は、思考を一瞬で停止させるほど強烈なものだった。沈黙が続いた。沈黙が続けば続くほど、徳間の問いを肯定しているようなものだった。徳間が黙ったままグラスを口に傾ける。自分もそれにならう。だが、ことさら意識して口に運んでいく。気を抜いたら最後、一気に飲み干してしまいそうだったからだ。

「そう構えなさんな」

 徳間は、こちらの胸の内を計るかのように、打って変わって穏やかな表情を見せた。

「心配しなさんな。ぼくは君の過去を、とやかく詮索するつもりはないんだから」

 詮索しないという言葉にいくらか警戒心は解けたが、まだ安心はできなかった。いまだ相手の真意が読めなかったからだ。今はただ、黙って静かに、次の言葉を待つだけだった。再びブランデーを口に運ぶ。緊張で味も香りもわからなかった。

 徳間はグラスの中の氷の動きを思案げに眺めていた。表情には迷いの色が浮かんでいるようにも見えた。彼がどんな言葉を次に発するのか想像もつかなかったが、それなりの覚悟がいることのように思われた。

 そのまま彼の様子をうかがっていると、徳間はブランデーの入ったグラスを黒いテーブルに置いた。彼は顎に手をやり、やや身を乗り出してくる。それから下からこちらを見上げるように、若干、上目遣いに切り出された。

「田島君。君がぼくのことを、聖人君子だなんて思ってるとしたら、それは大きな間違いだよ。君よりも、ちょいとばかり物を知っているだけで、決して褒められるような人間じゃあない。ぼくも人の子だ。それを忘れちゃいけないよ」

 田島は緊張気味に、徳間の言葉に耳を傾け続けた。

「あのね、田島君。ぼくには昔、どうしても許せない男が一人いたんだ。今は詳細は語らずにおくが、もともとは信頼していた友人だったんだがね、その男に騙されたせいで、若くして多額の借金を抱えてしまった。自殺を考えたのも、後にも先にもあのときだけだった。きっと、当時小学生だった娘がいなかったら、迷わず死を選んでいたことだろう。それくらい何もかもがひどい状況だったんだ。そのときの状況を思うと、今こうして君と酒をみ交わしているのが不思議に思えるほどだよ。だがまあ、その後、妻の献身的な支えと何とか運も味方してくれたおかげで、経済的にはどうにか立ち直ることはできたんだが、極度の人間不信は改善されることはなかった。そりゃそうだよね、という人物に裏切られたんだから……。それでしばらくは、家族以外の人間は誰も信じられなくなってしまった。それに当然、経済的な状況が改善したからといって、ぼくを騙した男への怒りが消えることはなかった。むしろ、経済的な不安が解消されたことで、かえってその男へ意識が向いてしまい、とにかく非常に不快な気持ちで過ごす時間が多くなってしまった。起きている間は常にその男の顔が頭にチラつくんだ。ぼくにとってそれは生き地獄だった。また怒りが睡眠の妨げになるものだから、睡眠薬なしでは眠ることもできなかった。当時のことを思い出すとね、いまだに気持ちが悪くなるほどだよ。でね、そんな苦悩する日々が何年か続いたあと……」

 徳間がここで不気味に微笑んだ。許せない男がいると言っておいてからの不敵な笑みに、どうしても薄ら寒いものを感じてしまう。いったいこれは、どういうことなのか……。話の先行きが読めず田島は不安になる。

 徳間は顔に不気味な笑みを貼りつかせたまま続けた。

「だがね、田島君、ぼくは非常に運が良かった。その怒りを解消する方法を見つけることができたんだからね。今からそれを、君に伝えようと思ってるんだ」

 田島は頭が混乱してきた。この人は自分に、何を伝えようとしているのか? 怒りを解消する方法? まさか、何か怪しげな宗教にでも勧誘するつもりじゃ……。過去の経験から、田島は神の存在を全否定していた。結婚後に一度だけ聖書に救いを求めた時期もあったが、結局は気休めにしかならなかった。しかし、宗教の勧誘程度で、こんな重い話をするだろうか……。

 徳間が再度口を開く。不気味な微笑はすでに消えていた。

「田島君、これから君に話すことは、とても特殊なものだから、われわれの良好な関係に水を差しかねないとも危惧している。だからこの話は、これまで語らずにおいてきたのだ。ぼくは君のことを昔から気にかけてきたが、これからもこうしていつまでも酒を酌み交わしたいと思っている。だからこそ余計な真似をして、君との関係が壊れることをおそれているんだよ」

 徳間がこれから語ろうとしていることは、宗教の勧誘などではなさそうだった。徳間のような人物が、宗教の勧誘程度でここまで言い淀むことはあるまい。続きを聞くのがこわかった。知れば後戻りできなくなる。直感がそう告げていた。

 しばしの沈黙のあと、徳間はこれまで以上の真剣さをもって田島を見据えてきた。表情は心なしか、苦悩に歪んでいるようにも見えた。話の核心へと、ついに迫ろうとしていた。

「田島君、この話を聞いてぼくを軽蔑してくれてもいい。だがね、これから君に話すことは、すべて真実だからね——」



       *  *  *



 話を聞き終えたあと、田島は自分の顔から血の気が引いているのがわかった。気づくと鼻の古傷に触れていた。聞かされた話は常軌を逸していた。

 たっぷり五分は過ぎただろうか。田島は唇を震わせながら、ようやく口を開くことができた。

「徳間さん、私はあなたの人柄を存じてますから、当然真実を語られたのだろうと思います……。ですが私には、聞かされた話があまりにも突飛すぎて、どう答えていいのか……」

 徳間は大きく二度うなずいてから答えた。

「君の気持ちはよーくわかるよ。なぜならこのぼくも、話を聞いたときは君と同じように、とまどったことをよく覚えてるからね」

 ここで徳間はブランデーを軽く口に含んでから続けた。

「今話したそのサービスは、十二分な資産を有し、かつ、彼らが優良顧客と認めるVIPクラスからの紹介が必要なんだ。ちなみにぼくはVIPクラスだからね、君はこの二つの条件をクリアーしているわけだ。だからもし、君がそのサービスを利用する気があるのなら、ぼくは喜んで紹介するつもりだよ。だがもし、興味がないようなら、ここでの話はきれいさっぱり忘れてもらいたい。それと最後に一つ——」

 徳間の目がここで鋭く光った。

「ぼくから聞いた話を警察に話してくれてもかまわない。それを止める権利は、ぼくにはないからね。むしろ常識人なら、そうするのが賢明かも知れない。だがね、これだけは頭に入れておいてもらいたい。彼らはプロ中のプロだ。仮に警察が動いたとしても、犯罪の証拠を見つけ出すのはむずかしいだろう」

 そもそも警察に行くという考えは念頭になかったが、とはいえ、今すぐ回答できるものではなかった。ゆえに田島は、グラスを手にしたまま何も答えられずにいた。

「田島君、だいじょうぶかね?」

「え、ええ……。すみません、あまりにも突然のことだったので、何て答えていいものか……。あの、少し、考える時間をもらえませんか……」

「もちろんだとも」

 徳間は大きくうなずき身を乗り出してくると、こちらの肩に手を置いてきた。優しく置かれた大きな手が、動揺していた気持ちをいくらかやわらげてくれた。

「すぐに返事をする必要なんてない。君が納得するまで、とことん考えてくれればいい。この場で簡単に下せる決断ではないことは、ぼくも充分わかっているつもりだからね。だけど最後に、これだけは言わせてもらいたい」

 ここで徳間の目が妖しく光った。田島はつい身構えてしまった。

「田島君、心底憎む者の苦しむ姿を見るほど、人を満足させるものはないよ——」

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