セーフワード 狂気、増殖

TEPPEI

第1部

TRIGGER1

 いつもと変わらぬ、一日になるはずだった——。




 曇り空のもと、着いた先は、従業員が二十名ほどの町工場。山本忠浩ただひろは敷地内に自転車を停めて、小さなプレハブの事務所に足を向ける。

 横開きのガラス戸を開けて中に入ると、専務がいつも通り先に出社していた。山本は朝の挨拶を済ませ、カウンター脇のタイムカードを押し、仕出し弁当の注文票に自分の名前を書き入れる。

 事務所内には、カウンターと五つのスチールデスクが置かれ、天井から少し下がった位置には神棚があった。しばらくして経理の女性が姿を見せる。続いて、現場の従業員たちが、タイムカードを押すためにぞろぞろとやってくる。

 八時半、始業のベルが鳴った。


 専務を中心にして朝の談笑を交わす。昨夜の巨人の大勝を、専務は茶をすすりながらうれしそうに語っている。キャスター付きの事務用椅子にふんぞり返っていて、しばらく仕事に手をつけそうもない。山本も専務にならって談笑を続ける——。

 朝はいつもこんな感じだ。いやむしろ、一日中こんな調子で、終業時間を早めても問題ないほどだった。

 これは、現場の従業員にもいえることだった。


 数年前、大口の契約を失ったことで、山本が勤務しているこの西東京市の小さな町工場は大きな打撃をこうむった。以来、昇給はゼロ、ボーナスは一気に十万円を切った。今年の夏のボーナスはついに全面カットとなり、次の冬のボーナスも、奇跡でも起きない限り支給される見込みはなかった。今は、いつ減給されてもおかしくない状況で、従業員の解雇も予想された。

 もし、リストラが敢行されれば、まっ先に首を切られるのは自分だろうと山本は確信していた。そのときにはきっと、物分かりの悪い子どものように駄々をこね、必死に会社にすがりつこうとするに違いなかった。若い連中ならまだしも、自分のように大した経歴もないアラフィフでは再就職もままならないからだ。

 ゆえに、最近は以前にも増して、山本は社長の顔色をうかがうようになっていた——。


 勉強が苦手だった山本は、偏差値が四十程度の高校にしか進めなかった。当然そこから大学に行く者は少なく、よくて専門学校への進学、ほとんどの生徒が卒業と同時に就職していった。山本も就職組の一人だった。生菓子の製造会社に入社し、そこを十年近く勤めたあと今の職場に転職したのだが、今でもコンビニやスーパーなどで、前の職場で製造された商品を目にすることがあり、そのたびに当時を懐かしんでいた。

 在職中は不平不満ばかりだったというのに、前職を離れて二十年近くも経つと、当時抱いた負の感情は鳴りをひそめ、職場の同僚たちと飲み明かした夜の思い出や、社員旅行で羽目を外して大騒ぎしたときのことなどが思い出され、あのころは楽しかったなぁなどと思うのだった。今の職場では飲みにいくことは少なく、社員旅行などは、若い社員が参加したがらないという理由で、山本が入社してすぐに廃止された。そのため、社員同士の交流は、新年会と忘年会くらいに限られていた。

 かといって山本は、それを不満に思うことはなかった。年とともに他人との交流をわずらわしく感じていたし、安い小遣いでは飲み代もバカにならなかったから、今の状況は好ましくさえあった。五十を目前にして、今さら新たな刺激など求めることはなかった。今、心から願うことは、このまま平穏無事に定年を迎えることだけだった。それ以上を求めることはなかった。人生の早い段階で自分の限界というものを悟ったつもりでいたので、分相応ぶんそうおうでさえあればそれでよかったのだ。


 振り返れば、平凡を絵に描いたような、可もなく不可もなくといった人生だった。毎日決まった時間に出社しては退屈で単調な業務をこなし、毎月その対価として冴えない額の給料を受け取る。プライベートでは仕事帰りにたまに寄るパチンコくらいしか趣味を持たず、休日は一日中テレビを観て過ごすかで、何となく過ぎていく日々を、ただただ何となくやり過ごしてきた。身の丈に合ったマイホームの購入で満足し、変わらぬ顔ぶれと、ごくごく浅い付き合いを続け、家族を含め、誰からも尊敬されるわけでもなく、七三しちさんに分けた髪には白いものが目立ちはじめていたが、中肉中背の至って平均的な風貌は集団にあってはすぐに埋没した。

 特筆すべきことが何一つないそんな平凡な自分が、ある日突然姿を消しても、きっと世の中は何事もなく過ぎ去っていくはずで、認めたくはなかったが、自分は生まれた瞬間からその他大勢の一人としてこの世に生を受けたに違いない。この先どう転んでも、この社会の主役になることは叶わず、無数に存在する歯車の一つとして、これから先も生き続けていくのだろう——。


 だが、そんな山本にも、成功体験がなかったわけではない。過去に一度だけ、自分よりも上の世界に住んでいるような人間を、一時的にとはいえ完全に支配したことがあった。

 他人を暴力で完全に屈服させたときの喜びは、他では得難い特別なものだった。それは人間の根幹を揺さぶるような、激しい興奮をもたらしてくれた。

 その日のことは、今でも昨日のことのように思い出せた。それを思い出すたびに、自分が神にでもなったかのような高揚した気分を味わうことができた。そのときの体験は、それほどまでに強烈なものだった。二度三度と経験できなかったことが、いまだに悔やまれた。願わくは、大金を払ってでも、死ぬ前にもう一度体験したかった。あの異常な環境下で行われた、狂気に満ちた蛮行ばんこうを——。

 快楽をともにした仲間たちとは、進学や就職で散り散りになってしまったため交流は途絶えていたが、彼らもきっと、自分と同じ気持ちだろうと、山本は確信していた。



       *  *  *



 仕事を終えたときには、あたりは薄暗くなりはじめていた。日が沈むのが早くなったことを実感する。

 山本は自販機で缶コーヒーを購入すると喫煙所に足を向けた。喫煙所はプレハブの事務所の並びにあり、小さなトタン屋根がついた簡易なもので、雨の日には傘を必要とした。

 オレンジ色の西日を眺めながら煙草に火をつける。気持ちよく煙を吸い込むと、退屈な業務で発生した、一日分の疲労が今だけ消えてくれる。一日のうちで、もっとも至福な瞬間であった。手にした缶コーヒーを開けて少しだけ口に含む。これもたまらない。肌寒くなってきていたから、そろそろホットの登場が待ち焦がれる。

 ブリキ缶の吸い殻入れに煙草の灰を落としながら、しばし一人で解放感に浸っていると、工場のほうから仕事を終えた同僚たちがゾロゾロとやってきた。終業後、こうして一服しながら従業員同士で語り合うのが、ここでの日常の風景となっていた。煙草の煙に包まれながら会話を弾ませていると、夕暮れの寒さも自然とやわらいだ。

 後輩の、ガールズバー通いで金欠気味だという話を聞いているころには、三本目の煙草がだいぶ短くなっていた。そのころにはすっかり日は沈み、街灯の明かりが目立つようになっていた。そろそろ退散の時間だ。

「じゃあ、お疲れ」

 山本は同僚たちを残してその場をあとにした。



       *  *  *



 山本は短くなった煙草を吸いながら、周囲に工場が目立つ河川敷の土手に乗り入れた。犬を連れた初老の女が煙草を持つこちらの姿に眉をひそめたが、いさかいを警戒してか、すぐに視線を外す。山本はそれを見てほくそ笑む。

「人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。人を不快な気持ちにさせるほど、気分がいいことはないな」

 気を良くしながら自転車を止めると、山本は二本目の煙草に火をつけた。

 河川敷から離れて、街灯のない裏路地に入っていく。薄暗い路地を少し進むと、黒っぽいバンが停車していることに気づく。開け放たれた背面の扉の前には、パーカーを着た三人の男たちがいた。肌寒いからか、三人ともフードを被っている。

 とくに気にすることなくバンの脇を通り過ぎようとしたところ、すいません、と小柄な男に呼び止められた。男はフードの下に黒ぶちの眼鏡を覗かせていたが、人当たりのよさそうな青年であったため、山本はまったく警戒しなかった。

 道でも聞かれるのだろうと思い、男の前で自転車を止めた次の瞬間、若い男の手が山本の視界を縦に横切った。気づくと左肩に、何かを押しつけられていた。その何かが、プシュッと音を立てる。突然のことに驚いて山本は、若い男の顔を凝視する。眼鏡の奥の、つぶらな瞳が笑っていた。初見で善人だと決めつけた自分の判断が誤っていたことを悟る。すぐさま意識が遠のいていき、地面が波打ちはじめた。

 ぐにゃりと傾いたこちらの体を、若い男がすばやく抱きかかえてくる。すでに体の自由は利かなくなっていた。そのまま男たちによってバンに運び込まれた。乗っていた自転車も、横倒しにされて積み込まれる。すぐさま背面の扉が閉じる音が聞こえてきた。

 まるで悪い夢を見ているようだった。混濁した意識はいつの間にやら車内を離れ、なぜか山本は、三十年前に悪行を行った部屋に立っていた。部屋は薄暗く、床の上には白いポロシャツを着た青年が横たわっている。両手両足を縛られていて惨めな姿だった。突然、その青年が顔を上げ、涙混じりの目で山本を睨んできた。そこには強烈な殺意が宿っていた。

 ああ、こいつの仕業だったんだな——、と他人事ひとごとのように思ったあと、山本の意識は闇に吸い込まれるようにして消えていった。

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