第21話

 翌日からの練習は、ベンチメンバーが中心の練習になった。それ以外のメンバーは、ノッカーや球拾い、打撃投手などのサポート役。先輩に雑用をさせているこの状況は、正直気まずい。しかし気にしたら負けだ。昨日稜人いつひとから言われたように、中途半端はやめるべきだ。大事なのは負い目ではなく感謝だと、そう自分に言い聞かせる。

 同じ週内に、夏の甲子園行きの切符を決める福岡県の地方大会の組み合わせが発表された。

 緩やかに、だけど確かに、三年生たちにとっての最後が近づいてくる。ひたひたと、まるで恐ろしいなにかが忍び寄ってくるように。


 そしてついに、福岡県の夏の地方大会が開幕する。

 第四シードをもらっている福岡南ふくおかみなみは、県大会への出場に三勝、それから県大会優勝に四勝が必要となる。七連勝しなければ甲子園には出場できない。少なからず運も必要だろう。特に福岡県は中堅校以上の実力が拮抗しているので、シード校が初戦敗退という事態も平然と起こりうる。油断すれば簡単に終わる。下馬評は当てにならない。

 福岡南高校の初戦の相手は、福岡市立ふくおかいちりつ高校。実力で言えば圧倒的に福岡南が上だ。だけど、怖がりな俺なんかはいつだって「まさか」を考えてしまう。なので試合の前日に山内先生が言っていた「勝負はいつだって、勝つか負けるかの五十パーセントだ。勝ちもありうるし、負けもありうる。常にそれを念頭において試合に臨め」という言葉にもちゃんと脅されてしまった。中途半端はやめると決めたはずだったのに、もうすでに俺は試合に出たくないと思ってしまっている。

 しかし俺の不安とは裏腹に、福岡南高校はまったく苦戦することなく地区予選を突破し、県大会進出を決めた。


 初戦となった二回戦。

 先発は向井むかいさん。緊張した様子を見せることなく、初回を簡単に三人で片づける。打線は、二回に一年で唯一スタメンの小南こなみが二点適時打タイムリーを放ち先制したのをきっかけに、いいつながりで三回には一挙六点を奪った。その後も得点を重ね、五回表終了時点でスコアは十二対〇。五回裏も向井さんが続投し、危なげなく締めてゲームセット。五回コールドで福岡南は勝利を収めた。

 打線は十三安打十二得点。向井さんは球数わずか六十七球で被安打一、無四球という圧巻の内容。投打に圧倒した。

 続いて二戦目となる三回戦。

 先発は中野なかのさん。立ち上がりが不安定で初回に先制を許してしまう。しかし、リードを許したことにチームはまったく動じる様子はなく、一回裏に飛高ひだかさんの適時打であっさりと追いつく。二回以降は立ち直った中野さんが得点を許さず、一方の打線は四回に五連打で五点を奪い、一気に突き放した。

 六回裏が終了した時点でスコアは一対八。七回表を無得点で抑えればコールド成立というところで、俺に出番が告げられた。

 初公式戦だったので、かなり緊張した。だけど、その緊張感は恐怖感とは違っていた。点差があって、負ける心配をあまりせずに済んだからだろう。マウンドに向かう途中で小南がにやにやしているのに気づける程度には余裕があった。一死ワンナウトから安打ヒットを打たれたものの、低めのカーブをひっかけさせて上手いこと内野ゴロを打たせる。相変わらず一秒先の未来を見ているようなプレーで小南が併殺ゲッツーを完成させ、試合終了。三回戦もコールドで突破した。

 そして、四回戦。地区予選ではここが最も苦労しただろう。しかし、そうは言っても危なげない試合運びだった。俺に出番がなかったこともあって安心して見ていられたというものだ。先発は向井さん。山内やまうち先生の方針では、百球前後投げた投手は、よほどの理由がない限り基本的に中四日空かなければ投げさせないらしい。三回戦と四回戦の間は二日しかない。なので、三回戦で九十球以上投げた中野さんの登板はまずない。向井さんが七回まで投げて一失点。打線もこまめに点を奪って向井さんを援護し、七回終了時点で六対一でリードしていた。八回からは向井さんから本職が二塁手セカンド平井ひらいさんにスイッチ。平井さんは一点を奪われたものの、打たれたのは長打一本だけで内野ゴロの間の一点だ。点差があることと終盤だったことを考えれば、問題はない。リードを守り切り、試合終了。六対二で勝利し、福岡南高校野球部は県大会行きを決めた。


 県大会出場を決めた試合の翌日から、福岡南高校ではクラスマッチが開催された。男子が選択できるのは、ソフトボールかバレーボールか水泳。実は俺は、小学校の頃に水泳の教室に通っていたことがある。というか、六年間みっちりと通っていた。だから、ふつうに考えて俺が選択するのはソフトボールか水泳のどちらかと思われるかもしれない。

 だけど、それは違う。

 こういうクラスマッチで野球部員がソフトボールに参戦するのは褒められたものじゃない。活躍すれば「もう少し手加減しろよ」という空気になって、活躍できなければ恥をかくだけだ。水泳もそれは同じ。水泳部員でないからまだいいものの、経験者というのが引っ掛かる。

 というわけで一択。出場種目を決める際、俺はバレーボールに手を挙げた。だがまわりを見回せば、そこには明らかに定員を超える手が挙がっている。

 体育委員として場を取り仕切っていた古矢ふるやが余計なことを言う。

「ハルは、ソフトボールに出ないのか?」

 ほかのクラスメートの声も上がる。

「うん。やっぱり野球部員が出場したほうが勝てるんじゃないかな」

 これはまずい。俺はバレーボールをあきらめる。そして、残りを天秤にかけた。瞬時に秤は傾いた。

「あー、じゃあやっぱりバレーじゃなくて水泳にしていいか。まだ余ってるよな」

「え、水泳?」と古矢。

 黒板に書かれている定員数は四人。しかし、まだ一人しか埋まっていないのが現状だ。

「うん。まだ余ってるし、いいよな」

 多少強引でもここで決める。というか、俺はバレーから移動しろとお願いされている側だ。駄目だと言われるほうが理不尽だろう。当然古矢もそれはわかっている。

「ああ。じゃあ悪いな」

 そういった流れで俺は水泳に決まった。


 クラスマッチ二日目。

 どの競技も一日目に予選が行われて、二日目に予選の結果を受けてのトーナメントが行われる仕組みになっている。二日目に出番がない生徒が出てきてはいけないので、予選で振り落とされるクラスはない。ただ、トーナメントの組み合わせが予選の上位と下位を鑑みて決められるだけだ。

 水泳の場合は一日目に予選を行い、二日目に準決勝と決勝が行われる。それでは二日目に出番がない生徒が出てくるのでは、と懸念が生じるが、この点は心配ない。なぜならいまのは個人戦の話であり、二日目には団体戦が行われることになっていたからだ。

 午前中に団体戦をすべて消化し、午後に個人戦の準決勝と決勝を行うという予定。俺は一日目の個人戦で準決勝に残っているが、午前中の団体戦では早々に負けてしまった。なので、体育館の上の細い通路の部分で暇つぶしに自クラスのバレーボールの試合を観戦する。ところでこの場所って名称はなんなんだろう? ギャラリー? 小中学校のときはなかったのに、高校にはあるんだよな。

 あくびをしながら眺めていると、声をかけられた。

「あ、大森おおもりくん」

 野球部の一年生マネージャー。清水しみずさんだ。

「こんなとこにいたんだ。相変わらず一人?」

「まあな」とうなずいてから気づく。「……いや、相変わらずってなんだ」

「あはは。なんとなく単独行動も多いイメージあるから」

 本当はさっきまで柚樹ゆずきといた。しかし柚樹はソフトボールに行ってしまった。たまたまバレーボールと試合の時間がかぶってしまったらしい。俺はわざわざ日差しの下に行きたくなかったのでここで無聊をかこっている。

「なにを選んだの?」と清水さんは訊いてくる。

「バレーがよかったけど、ソフトにされそうになったから水泳にした」

「ソフトすればよかったのに。河野こうのとかすごく目立ってるよ」

 顔をしかめてみせる。

「だからいやなんだよ。いいほうにも悪いほうにも目立ちたくない」

 河野と柚樹はソフトボールを選択している。まったく。あいつらの気が知れない。

「あはは。大森くんらしいね」

「俺らしいんじゃなくてふつうの思考回路だ」

 試合は一方が圧倒していた。セッターをバレーボール部員が務めているのが大きい。あのトスワークは反則だと思う。

 清水さんは幾分トーンを落として言った。「……来週から、県大会だね」

「そういや、今日残りの結果が出るんだっけ」

「もう出てるよ」

 清水さんは学校指定のジャージのポケットからスマホを取り出す。そしてかがんで、手招きしてくる。いちおう校内では携帯電話の使用が禁止されている。俺は清水さんの意図を汲んで、ある程度距離を詰めてかがむ。清水さんの髪をかき上げる仕草が妙に色っぽくて、できるだけ見ないように意識する。スマホの画面をのぞき込む。

「え」

 結果を見て、少し驚く。

聖心せいしんが勝ったのか」

「みたいだね。八回と九回で五点差をひっくり返してる。かなり勢いのつく勝ち方だよ」

 隣の地区ブロック。要するに、そのブロックを勝ち上がったチームが次の対戦相手だったのだが、予想が覆された。

 昨秋の九州大会。センバツ出場を決めた四校のうち、実は二校が福岡の高校だった。春日かすが白水しろうず高校と恵生大けいせいだい福岡ふくおか高校。前者はセンバツ四強、後者はセンバツ八強のチームだ。その恵生大福岡が隣のブロックのシード校だったのだが、折尾おりお聖心せいしんに敗北した。やはり高校野球は怖い。こういうことが平然と起こりうる。

「まあでも、ふつうに考えればラッキーなのか」

「そうかもしれないけど。私としては、勝敗はいつでも五分五分っていう山内先生の意見に賛成かな」

 心構えとしてはそれが正解だろうが、地区ブロックと県大会の間は一週間近く空く。両校、万全の状態で試合に臨むのだとすれば、折尾聖心のほうがいくらか与しやすい相手だろう。ベストメンバーで上回っているだけでも、総合力で上回っているだけでも勝ち上がれないのがトーナメントの特徴だ。県大会の一戦目はベストメンバー同士の試合になるだろうから、おそらく折尾聖心のほうがましだと思われる。センバツ八強のチームのベストメンバーが弱いわけがないのだから。

「それから、さすが西国にしこくも勝ち上がってるね」

 西日本にしにほん国際大学こくさいだいがく付属ふぞく高校。昨夏甲子園出場、今春の九州大会で優勝したチーム。センバツ出場こそ逃したものの、今大会の優勝候補筆頭だ。勝ち進めば、県大会の二回戦で当たることになる。

「そういえば、俺の知り合いも西国に進学したんだった」

 ふと思い出したのでそう言うと、清水さんは目を丸くした。

「へえ。中学の同級生?」

「うん。まあ、あいつは硬式のチームだったから、一緒に野球をしたことはないんだけど」

「もう試合に出てるの?」

「それは知らない。全然連絡とってないし。でも、西国で一年夏からレギュラーはさすがに厳しいんじゃ」

「まあ、それはそうかもしれないけど」でも、と清水さんは続ける。「ひょっとしたら、そのひとと大森くんで対戦するとかもありえるんじゃない?」

「……西国打線相手に俺が?」

 ボコボコに打たれる未来しか見えないんだが。

「大丈夫だよ。初試合でもちゃんと投げられてたし」

「いや、あれはリードあったし。だいたい、相手のレベルもそこまで高くなかっただろ」

 西国は全国レベルだ。三回戦のときの相手とはわけがちがう。

「ふふ」と清水さんが意味ありげに微笑む。

「……なんだよ」

「確かに大森くんが投げたときの相手は強いとこじゃなかったかもしれないけど、それでも三年生はいたわけじゃない? なのにレベルが高くないって言いきれるんだから、大森くんにも自信がついてきたんだなぁって、感慨深くなっちゃって」

 うっ、言われてみれば……。

 確かに、そうだよな。

「俺、思いあがってたよな……」

 愕然とする。いつから俺は、そんなふうに見下すようになってしまったんだ。

「えっ、いや、ゴメンなさいっ」

 わたわたと慌てる清水さん。

「私、そんなつもりじゃ」

「ちょっと、反省しなきゃな」

 いやいや、と清水さんが否定しようとすると、コート上でお見合いをした二人の間にボールが落ちて、試合が終了した。審判を務めていた生徒が号令をかける中、体育委員らしき生徒が「次のクラスは集まってください!」と呼びかける。

「あ……」

 清水さんはコートと俺を見比べる。そして。

「ほんとに気にしないでね!」

 そう言い残して階下に下りて行った。

 つまり、クラスマッチで自分の出番がやって来たらしい。女子の場合はバレーボールかドッジボールか卓球を選択できるはずだから、彼女はバレーボールを選んだのだろう。俺はまたひとり残される。

 さて、どうするかな。清水さんの試合を観戦するのも面白そうだけど、ひとりで女子の試合を観戦する様はちょっと気持ち悪い気がする。他クラスだし。となると、ここは退散するほうが得策だろう。どこに行こう。水泳の準決勝は午後からなので、時間がある。りくに相談してパソコン室を開放してもらおうか。そんなことを考えながらその場を離れようとすると、向こう側から知った顔が近づいてきた。向こうも気がついてひらひらと手を振ってくる。

 稜人と小南だった。

 稜人が言った。「なんだハル、こんなとこにいたのか。清水ちゃんの応援か?」

「そういうわけじゃないけど。……二人はそうなのか?」

「ああ。まあ清水ちゃんというか、俺のクラスが試合だから単純に女子の応援だけど」

 言われてみれば、清水さんのクラスと反対側に松橋まつはしさんの姿も見える。稜人と松橋さんは同じクラスだ。

「小南も?」

「いや? 俺は亜弥瀬あやせと清水ちゃんの応援だよ」

 はっきりと口にできるあたり、こそこそと退散しようとしている俺とは一味違う。やっぱりイケメンだな、こいつは。

相木あいきー! お前も下に来いよー!」

 階下から男子生徒が稜人を呼んでいる。ジャージの色で一年ということはわかるが、俺の知らないやつだ。

「稜人、なんか呼んでるぞ?」と小南。

「あー、同じクラスのやつらだ」

 稜人はそうつぶやいてから、男子生徒に向かって声を張り上げる。

「俺、こっちで応援するわ!」

 大声で言うものだから、体育館内の視線がちらほらとこちらに集まる。下に降りていた清水さんと松橋さんも上を見て稜人と小南に気づいたようで、ひらひらと手を振ってくる。いちおう俺も小さく片手を挙げてそれに応える。

 下にいる男子生徒も稜人に「わかった」とでも言うように手を挙げて引き下がった。

 ……でも。

 なんだか、不満そうな一瞥を一瞬向けられたような……。気のせいだろうか。

「なんかいま、ハル、にらまれてなかったか?」

 目ざとく小南が訊いてくる。

「やっぱり、そうか? 俺もそんな気がしたんだけど」

 言いながら首が傾いてしまう。さすがに見知らぬ人物になにかした覚えはないのだが。……いや、見知っている人物にもなにもしてないとは思うんだけど。

 クラスメートなら、なにか心当たりがあるんじゃなかろうか。そう思って稜人を見ると、なんだか難しい顔をしていた。

 俺は「ああ、なにかあるんだな」と察して訊かないことにしたのだが、手すりに腕をのせ体重を預けながら小南が訊いた。訊いてしまった。

「稜人、なにか知ってるのか?」

 あらら。まあ、このあたりは付き合いの差だろう。仕方がない。

「あー、っと」稜人は意味もなく人差し指をくるりとまわす。「そう……だな」

 口ごもりながら、俺をちらりと見る。俺にはどうしようもない。俺は稜人から視線を外してコートを見る。言うかどうかはお前が決めろ。

 小南もなにか察したらしい。「稜人。言えないんだったら全然」

「いや」稜人は少し強く否定した。「お前らにならいいよ。まったく無関係って話でもないし、訊かれた以上黙ってるのも悪いしな」

 ……聞きたくないなあ。ああ、聞きたくない。

 小南が訊いてしまわなければ、稜人だって黙っていることへの罪悪感を持たずに済んだはずなのだ。

 耳をふさぐかどうか迷っていると、稜人はこんなことを俺に訊いてくる。

「ハルさ。松橋さんのこと、どう思ってる?」

 俺は戸惑う。「は? なんだよ急に」

「いいから」

「それ、関係あるのか?」

「ある」

 ……まあ、関係あるんなら仕方ない。

「どう思ってるって、女の子としてってことだよな」

「ああ」

 少し考えて、言う。「そりゃ、魅力的なんじゃないか? 可愛いし、性格もいいし」

 意地の悪いところもあるが、まあそれも魅力のひとつだろう。

「だよな。で、そんな松橋さんなんだけどさ」

「うん」

「やっぱり、人気あるんだよ」

「うん?」

「あいつ」と稜人は顎をしゃくる。「松橋さんのこと、狙ってるみたいなんだ」

「……へえ」と反応に困った様子の小南。

 俺も反応に困った。だれがだれを好きだとか、わざわざ広めたくない話だろうから稜人の歯切れが悪かった理由はわかる。でも。

「で、それと俺がにらまれることとどう関係するんだ?」

「なんかさー、ハルのこと、疑ってるみたいなんだよな」

 疑ってる?

市原いちはらのやつ、文化祭でハルと松橋さんが二人でいるところを見たらしくってさ」

 身体が硬直した。

「あ、市原はさっき俺を呼んでたあいつのことな」

 稜人が付け加えたのに数泊遅れて、ようやく俺は反応した。

「へ、へえ。そうなのか」

「それで前、問い詰められたことがあるんだよな。松橋さんって、野球部一年の彼氏がいるんじゃないかって」

 ……そんなことが。

「で、稜人はなんて答えたんだ?」

「ちゃんと言ってやったぜ。本人に訊けって」

 否定していないのかよ。というかそれ、むしろ匂わせる答えにもなってるよな。

「なんだ、見ないと思ってたら、ハル、文化祭のとき亜弥瀬と一緒にいたのか」などと少しずれた感想を抱く小南。

 まあ、俺も律義に答えるのだが。

「いや、そういうわけじゃ……。一緒にいたって言っても仕事上ってだけだし」

「ふーん。ところで、ハルと亜弥瀬って付き合ってないんだよな」

 小南に訊かれて、俺はわざと少し苦い顔をしてやる。

「そんな感じに見えるか?」

「だよな」

 苦笑する小南。松橋さんと付き合っているなんて勘違いされるのは、光栄な話ではあるけれど、多少いやな顔をしておかないと他人からは肯定されたがっているというふうに思われかねない。

「でも、好きじゃないわけじゃないんだろ?」と稜人。

「……なんか、面倒な言い回しだな」

「だってお前、ふつうに訊いたらごまかそうとするじゃん」

「む」

 さすが。付き合いが長い分、いろいろとばれてるな。

「まあ、それはな。でも、二人だってそうだろ」

 小南と稜人は一瞬だけ目で互いを窺う。

「そりゃ嫌いじゃない……というか全然好きだけどさ、恋愛感情とはかけ離れた好きだな」と小南。

 稜人も苦笑して同意する。「わかるわかる。たぶん松橋さん、いま好きなやついるからな。それがわかってて恋愛感情にまではなんないなー」

「ふうん。松橋さんって、好きなやついるのか」

「ああ。気になるのか?」

 稜人が意地の悪い笑みを浮かべる。

「いや」と反射的に否定しようとして、言葉に詰まった。……ここで否定したら嘘になってしまう。くそ。癪だけど、なんだか、稜人にいろいろと自覚させられた気がする。

「……まあ、ちょっとは」

「へえ、ハルってそうなのか。へー、ふーん」

 ……小南って意外と面倒なところがあるな。

「うるさいな」

「まあまあ。じゃあ、県大会でいいとこ見せないとな。全校応援だし、その市原にもハルがすごいってとこを見せてやれよ」

「なんだよ、その発想」

 今度はわざとじゃなく本気で難色を示す俺に、稜人が意外な反応を見せる。

「あ、でも、意外とそれ悪くないかもな」

「はあ? 稜人までなにを」

「たぶん市原の場合さ、なんでハルみたいな冴えないやつと松橋さんが、みたいなことを思ってるからこその敵対意識だと思うんだよな」

 少し考えて、俺は言う。「……気持ちはわかるな」

 仮にスクールカーストというものがあるとすれば、松橋さんは上位で俺は下位。市原もまあ、上位なのかな? パッと見、目立つ感じはするし。好きな子がくだらないやつと付き合ってたら、そりゃ文句を言いたくなるだろう。

「わかるのかよ」と小南は苦笑する。

 まあ、俺は基本的に俺のことを見限ってるからな。

 つまりさ、と稜人。「部活で活躍するとか、大森寿々春ここにあり、みたいなところを全校生徒に見せつけてやれば、市原も認めざるを得なくなるだろ?」

 俺はため息をつく。「それって、逆に言えば失敗を望まれてそうだな」

「そりゃいつだってそうだ。ひとの成功を手放しで喜べるやつなんてそんなにいないよ。むしろ、失敗をあざ笑えるやつがどれだけいることか。ハルだってよぉく知ってるはずだぜ?」

 そっぽを向いてうなずく。「……まあな」

 もちろん、知っている。嫉妬心でさえない、醜い優越感。

「でもさ、手放しで喜んでくれる子だっているんだ」

 コートでは、松橋さんがサーブを打とうとしているところだった。

「応えてやれよ」

 ジャンプしてタイミングよく打ったボールは、ネットを越え、やや揺れながら見事にライン上に落ちた。


 その数時間後、俺は非常に気まずい思いをしていた。プールサイドには観戦している生徒が大勢いる。思っていた以上の数で、それもまあ気まずい思いをしている原因の一つだ。注目を浴びる中飛び込み台の手前で体をほぐしているのは、小市民である俺にとって決して落ち着くものではない。

 しかし、それ以上に気まずいのはお隣さん。

 市原が、俺をちらちらと見てくるのだ。どうやらこいつも水泳を選択しており、この決勝まで勝ち残っていたらしい。こんなことなら、準決勝で負けていればよかった。

 一クラスあたり四人、そして一学年に十一クラスあるので、出場者は四十四人。その中で最後の四人に残るのだから、しかも、泳ぎを見ている限り経験者じゃなさそうだから、市原はかなりの運動神経を誇るのだろう。高校で野球部に入って俺もなかなか鍛えられてきたのだが、市原のほうが上半身はムキムキだ。

 松橋さんはちゃんと応援に駆けつけてくれている。小南と稜人はにやにやとして、とても楽しそうだ。立場が逆なら俺もさぞ面白がっていたことだろう。

 プールサイドの真ん中には審判席があり、二つ寄せられた机の上に大きなデジタル時計が置いてある。タイムまで測定するらしい。審判席に座っている水泳部員が時計を裏からなにやら操作し、ブザーを鳴らす。すると、飛び込み台の上に立つ俺を含めた四人が似たような姿勢で体を止める。

「なあ」

 市原が話しかけてきて、俺は少し緊張した。

「松橋と、どういう関係なんだ?」

「別に。友達だけど」

「付き合ってはないんだよな?」

「まあ」

「そうか」

「うん。……けど」

「?」

「好きじゃないわけじゃない」

 もう一度ブザーが鳴った瞬間、俺は水面に飛び込んだ。


 個人戦も団体戦も種目は四百メートルメドレーだ。二十五メートルプールの短水路なので泳法ひとつあたりに二往復が必要となる。まずはバタフライ。俺は端っこのレーンで隣が市原ひとりしかいないので、正直こいつの様子しかわからない。俺とほぼ横並び。力任せな泳ぎなのに、恐ろしいやつだ。ただターンで少し差がついた。俺が前に出ると、市原の勢いが増した気がした。それでもつのかと心配になる。

 続いて背泳ぎ。俺の最も得意な種目だ。ただ短水路だと、潜水している距離のほうが長くなってあんまり得意も不得意もない。それに少しバテてきた。すでに一度、四百メートルのレースを泳いでいるせいだ。二往復目の帰りは少し早めに浮上する。しかし市原はいまだついてきている。くそ、全然離せない。

 そして平泳ぎ。きつい。俺のペースが落ちてきたのを悟ったのか市原が猛追してくる。

 最後に自由形。ついに市原に並ばれた。いや、それどころか若干前に出られたか? レース前までは負けてもいいと思っていた。所詮クラスマッチなんてお遊びだ。真剣にやる必要なんてない。

 だけど。

 どうしてか、このとき俺は「負けたくない」と思ってしまった。

 なんとなく、負けるのはいやだ。どうしてかわからないけれど、ここで負けるのは男としてダメな気がする。

 俺は力を振り絞ってペースを上げた。市原に並ぶ。だが、前に出させてくれない。しかもなぜかクロールのターンだけスムーズだ。

 くっそ、全然ペース落ちないな、こいつ。どれだけばかげた体力してるんだ。それどころか、俺が追いすがるのに気づいてさらにペースを上げてくる。

 ついに、残り五十メートル。きつい。本当に息が足りない。ただここでブレスを増やすと負ける。このまま行くしかない。

 ブレスのたびに、はっ、はっ、と余計な息が漏れる。そして、なんだかプールサイドが異様に盛り上がっている感じがする。もう隣をうかがっている余裕はない。とにかく早く、コンマ一秒でも早く、あのゴールへ。そうしないと、溺れる!

 最後のターン。残り二十五メートル。この酸素の補給率でどうしていまだに腕を回せているのか、バタ足ができているのか、不思議でならない。それくらいのギリギリの状態。目に映る水色の世界が明滅する。

 必死に手を伸ばす。伸ばす。

 届いた。

 ――ゴール。


 俺は結果を確認することさえできずに、顔を水面から上げるや否や、ゴーグルを首にかけ、プールサイドに腕を預けて喘いだ。ぜえ、ぜえ、と。

 本当に学校のプールで溺れるところだった。いまだ顔を上げられない俺の耳に、アナウンスが響いた。途中で気づいていたが、そう、なぜか決勝だけ実況解説が入っているのだ。

「熱いレースを制したのはぁ! 一年十組の、大森寿々春くん!」

 わあああっとプールサイドが沸き立った。なんだこのハイテンション。

 勝ったのはわかったけれど、それ以前に俺はまだ吐き気に勝利できていないのだ。あと一、二分待ってほしい。

 それからある程度吐き気が治まってきて、のろのろと腕をプールサイドについて体を持ち上げる。腕の力が抜けそうだった。まだ体が重い。プールから出てもまだへたり込んでしまいそうだ。膝に手をつく。

 すると、だれかの足が近づいてくる。学校指定のジャージを着ており、プールサイドなので裸足だ。

「やるじゃん、ハル!」

「あのハルが、よくクラスマッチごときでやる気になったよなぁ」

 小南と稜人だった。

 クラスマッチなのに、どうして他クラスのこいつらだけが祝福してくれるのだろう。と思ったら、まわりではクラスメートが遠巻きにこちらを眺めていた。なるほど、応援はしてくれていたが、普段あまり絡むことのない俺に近づくのをためらっているみたいだった。まあ、これはまともな人間関係を築いてこなかった俺が悪い。

「もう、せっかく市原くんの応援してたのに。大森くん、野球部の試合より真剣だったんじゃない?」

 その声に顔を上げる。そこにあるのは、いつものような悪戯めいた笑みだ。その顔を見て、からかわれているはずなのに、いまだけはなぜか嬉しく思ってしまった。

「いや、そこまでじゃないだろ」

「いやいや、そんなに息を切らしてなに言ってんの」

 確かに必死だったのは、その通りだけど。

 俺は素直に言った。「それは、まあ、負けたくなかったし」

「ふうん? そっか。うん、まあ」松橋さんはどこか顔を赤らめて、「格好良かったと思うよ」と言ってくれる。

 正直、クラスマッチなんて馬鹿にしていたところはあるけれど……うん、馬鹿にしたもんじゃないな。

 少なくとも、頑張ってよかったと思えるくらいには。

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