第14話

 安清慶信やすきよけいしん。こいつ、本物だ。ベンチから見るのと打席で見るのとでは訳が違う。

 三回裏。

 打席に入った俺はかなり体に近いところでかろうじてバットに当てる。いくらなんでも振り遅れすぎだ。もっと前で捉えないと前に飛ばない。

 もっと前で、と真っすぐ一本に絞っていたら、違う軌道のボールが来た。真ん中付近。手前でぎゅっと落ちる。

 低めに外れてボール。ぎょっとしてしまって、かえって手が出なかった。

 縦スラ。

 ちょっと待て。曲がりすぎ……。

 戦慄している間にも、安清はモーションに入っている。

 再び縦スラ。もちろん俺は手が出ない。しかし今度は低めのゾーンに決まった。

「ストライークッ!」

 ……これは無理だ。

 ベンチに戻るとき、打席に向かう小南こなみにすれ違いざま、「さすがに手ぇ出なさすぎだろ、ハル」と可笑しそうに言われる。

「お前だって三球三振だったろ」

 そう言い返すと、小南はあっけらかんと言った。

「ま、追い込まれると、あのスライダーはきついな」

 一瞬、不利な勝負であることを自白しているのかと思った。しかし、小南の様子からそうではないとわかる。

 そしてそれは、初球で証明された。あのスライダーはきつい。裏返せばそれは、真っすぐなら捉えられるということ。

 初球のインコース真っすぐを、小南は捉えた。強烈な打球は一塁手ファーストの頭を越え、フェアゾーンでワンバウンドしてから球場のフェンスにぶつかり、ファウルゾーンを転々とした。短距離競技出身の柚樹ゆずきほどではないが、小南も十分すぎるほどに速い。

 だから俺は、小南が三塁まで行けると思った。が、右翼手ライトの処理が素早かった。もたつくことなくボールを拾うと、振り返りざまワンステップで中継に送球する。

 あいつが阿蘇品あそじなだっけ。さっき三塁打スリーベースを打たれたやつ。

 俺はついつい笑みをこぼしてしまう。「この試合、レベル高いな」

 自分が投げていいのだろうかという気もするけれど、いまは不思議とワクワクする気持ちのほうが強い。

 自分の実力がまだまだ足りないことは知っている。でも、あいつらと同じステージでどれだけやれるのか試してみたい。

 後続が倒れて、無得点。気合を入れて、俺はマウンドに向かった。


 ※※※


 二回以降、試合は膠着した。

 試合を観戦しながら、向井当真むかいとうまは「やっと面白くなってきたな」と思う。

 走者を出しながらも、安定したマウンドさばきで追加点を許さない大森おおもり寿々春すずはる

 威力のある真っすぐとウイニングショットのスライダーで打者を圧倒する安清慶信。

 実力においても潜在能力においても、そして現時点でも将来的にも、寿々春は慶信に遠く及ばないだろう。慶信は、いわゆる化け物だとか怪物だとか言われてもおかしくない選手だ。寿々春もそうだし、自身とも生まれ持った器が違うと当真は思う。

 だが、寿々春が確実に上回っている点もある。

 それは、野球の上手さだ。

 牽制やクイック、野手との連携を含めた守備。打者との駆け引き。投球の組み立て。そういうこまごまとした部分なら、寿々春はそつなくこなす。二年近く野球から離れていたとは思えないほどだ。

「勘の良さというか、運動神経の良さは相変わらずだな、あいつ」

 あとは、真っすぐの感覚さえ戻ってくれば。

 寿々春本人は深刻に悩んでいるようだが、傍から見ていて当真はそのうち戻ってくるだろうと楽観している。おそらく感覚が違うのは、ブランクの間に肩まわりの関節や股関節が固くなったせいだ。中学の頃は、寿々春は真上から振り下ろすような豪快なフォームながらも、もっとしなやかに投げていた。高校に入ってストレッチのメニューを再開しているし、直に良くなってくるだろう。

「これで、立ち上がりのグダグダさえなけりゃな」


 ※※※


 初回にずいぶん投げてしまったけれど、二回以降は徐々にリズムをつかめてきた。二回も先頭こそ打ち取ったもののやや制球に難儀して得点圏に走者を進められたけれど、結局無失点。三回からは安定してきて、三、四、五回を連続で三者凡退で終わらせる。初回に適時打タイムリーを許した阿蘇品も、二打席目はチェンジアップで三振に打ち取った。

 五回裏。

 先生が話しかけてくる。

「大森」

「はい」とタオルで顔を拭いていた俺は顔を上げる。

「よくここまで持ち直したな」

「どうも」

「次の回から平井ひらいに任せるから、ゆっくりクールダウンしておいてくれ」

「えっ」と俺は固まった。交代なんてまったく考えていなかった。「どうしてですか?」

 先生は大まじめな顔で言う。「どうしてって……球数も八十球を超えてるし、昨日も投げてる。十分だろう」

 八十球も投げてたのか、俺。体は疲労を覚えていないけれど、冷静に考えればそんなはずがないことくらいわかる。興奮物質がドバドバ出ているだけの勘違いなのだろう。

 でも。

「もう一イニングだけ、ダメですか」と俺は言った。

 次は三番からの上位打線。もう一イニングだけ行きたい。

 先生はため息をついて言った。「……わかった。特にフォームが崩れている感じもしないしな。だが、百球に行く前に代える。それと明日明後日はボールに触るんじゃないぞ。わかったな」

 よっしゃ。俺はうなずいた。「はい」

 そんな会話を交わしているうちに、途中出場の柚樹ゆずき四球フォアボールで出塁した。ストレートの四球。ここまで許した走者は三人だけと、すいすい来ていた安清の制球が突然乱れた。

 イニングの始めというのは意外とこういうことがある。四対〇でリードを許しているこの場面。走者をためていくことを考えるとバントはない。なにか仕掛けるならエンドランだが……投手は制球を乱している。

 こういう状況は作戦的に悩ましい。そして、打者心理的にもそれは同様だ。初球を積極的に狙うか否か。最悪なのはボール球を振って投手を助けることだが、四球後の甘いボールを見逃すのも悪手だ。

 ベンチから指示は出ていない。俺はヘルメットをかぶりネクストサークルで準備しながら、自分が立っていたら、と考える。俺なら、一二塁間を狙いにいく。だから、真ん中から外寄りの甘いボールに狙いを絞る。

 安清がモーションに入る。すると、「スチール!」と声が響いた。

「行った!」とこちらのベンチからも驚いたような声が上がる。

 ボールはやや上ずって高めに外れたが、かえって捕手キャッチャーがスローイングしやすい高さ。スムーズにスローイングのモーションに移り、間髪なく送球。しかし、遊撃手ショートが捕る前にはすでに、柚樹は二塁ベースに滑り込んでいた。

 グラウンドが、しん、とした。そして次の瞬間、少しずつざわめき始める。

「いまの……なにげにやばくなかった?」

「スタートはふつうだったろ? なのに……」

 敵陣は当然として、自軍ベンチまで同様の有様だ。

「あいつ、はっや!」

「おいおい! 加納かのう、お前マジかよ!」

 盗塁成功を喜ぶのではなく、驚愕のほうが大きい。

 スタートは悪くなかった。しかし際立って良かったかと問われれば、決してそんなことはない。なんなら、そこまで投手の癖もつかんでいない中、異常な反応の速さで「遅れた」スタートから「悪くない」スタートによく引き上げたくらいだ。

 それにもかかわらず、圧倒的なまでの速度でタッチさえ許さない。「盗塁は技術」なんてよく言われるが、それをねじ伏せるような集中力とスピード。

 興奮冷めやらぬまま、試合は進む。二球目は低めに真っすぐが決まり、ストライク。そして三球目。マウンドの安清が投じてからほんの一瞬遅れて、柚樹がスタートを切った。

「うおっ、行った!」と再びベンチが盛り上がる。

 スライダーがワンバウンドし、捕手が体で止めて前に落とす。ボールを拾うときにはすでに柚樹は三塁に滑り込んでいた。

 ベンチの小南と河野の話し声が聞こえる。

「鬼スタートは相変わらずみたいだな」

「短距離をやってたやつだ。盗塁失敗で失格になるわけでもない上にたかが練習試合。当然だろう」

 スプリントでは、一度目でだれがフライングをしていようと二度目のフライングを犯した選手が失格になるというルールだったはず。確かにその状況でも迷わずフライングぎりぎりを攻められるというのなら、盗塁の失敗程度を恐れるのもおかしな理屈か。

 ちなみに、柚樹が中学二年のとき百メートル走で全国決勝の舞台に立ち、三位という成績をおさめ将来を嘱望されていた選手だったということを俺が知るのは、まだ先の話である。

 とにもかくにも、たったひとりで無死三塁の状況を作り上げた柚樹。四点差で、しかも柚樹の走塁技術を見せつけられたばかりだからか、相手の内野は少し前に出てくる程度。一点はオーケーな感じだろう。

 いずれにせよ、一点をもぎとらなければ始まらない。これなら内野ゴロでも点が取れる。と思っていると、安清がタイムを要求した。捕手がマウンドに向かう。

 どうしたんだろうと首をひねっていると、河野が言った。

「安清のやつ、一点もやりたくないみたいだな」

「ああ。あいつも相変わらずだ」

 小南はにっと笑う。

「――けど無理だろ。俺まで回る」

 話が終わったらしく、捕手が守備位置に戻る。すると、大きく手招きするようなジェスチャーを見せる。その指示を受けて、内野が前に出てくる。

 おお、と俺は少し驚く。二人が言った通り。

 一点もやらないつもりか。

 そして次の投球。少し制球が乱れていたのがなんだったのかと思うほどにえげつないボールを安清は投じる。外低めいっぱい。

「ストライークッ!」

「っしゃあ、いいぞ慶信!」

 いまのは手が出ない。

 続くボールも低めの真っすぐ。これに打者はなんとか当てるも、ワンバウンドして投手正面のゴロ。安清は難なく捕球すると一度三塁走者に視線を向ける。柚樹は瞬時に判断してすでにいつでも三塁に戻れる体勢をつくっている。三塁走者にスタートの意思がないと見るや、安清は一塁へ送球。

 これで一死ワンナウト

 そして、俺が打席に向かう。柚樹なら、転がせば帰ってこれる。守備陣の真正面以外のゴロなら。


 ※※※


 打席に立った大森寿々春を見て、安清慶信は「マウンドとはえらい違いだな」と思う。慶信自身は気づいていないが、どこか冷めたような目になっていた。

 まったく怖さがないな、こいつ。

 初球、勢いのある真っすぐが低めに行く。寿々春は当てに行くようなスイングを見せるがバットは空を切る。

 この中盤での、慶信の鬼気迫る投球に、寿々春が委縮しているようにさえ見える。

 慶信は冷めながらも昂った心で思う。

 あの足のバカ速い走者が三塁にいるから、当てて転がしさえすれば点が取れる?

 そんなわけがない。

 ――打つ気のないやつから、点を取られるわけがねえだろ。

 最後は大きく曲がるスライダー。バットにかすらせることすら許さず、三振に切る。

「っしゃあ、ナイス慶信!」

「お前、あんまり俺らを前に来させた意味ねえぞ!」

 確かに、と慶信は少し笑う。すでに、悔しそうな顔でベンチに戻っていく寿々春に意識は向いていない。その目が向いているのは、次の打者。

 小南剛広こなみたかひろ

 目が合う。剛広は不敵な笑みを浮かべている。慶信は手に息を吹きかけて口元を隠している。ふっと息を吐きだしながら、慶信は足でマウンドを軽く均す。

 お前、ぜったい大森に走者を還すなって思ってただろ? 俺が還すからって。じゃないと、そんなふうに余裕のある顔にはならないもんな。

 もう目途の七十球くらいは来てる。ここはゼロでしのぐ。


 ※※※


 くそ。

 こてんぱんにやられてベンチに戻ってくる。

 あいつ、打席の俺をぜったい見下してるよな。と心中で毒づくけれど、実際それで手も足も出ずにやられているのだがら、なにも言えない。

 というかまあ、あれだけの投手だ。見下されて当然か。すぐに気持ちを切り替える。俺の場合、初回以外失点していないことが上出来なのだ。実力以上の出来。ここで集中力を欠けば、台無しになる。

 ここでも点を取れなければ試合は苦しくなるが、もう得点に関してこの試合に俺が貢献できることはない。打順はトップに戻って小南。あいつに託して、俺は次のイニングの準備をするだけだ。

 この試合、安清のボールをしっかり捉えているのは小南だけだ。そのほかはエラーと内野安打、柚樹の四球でしか走者を出せていない。つまり、ここで最も可能性のある打者に打席が回ってきたといえる。

 勝負はわずか一球でついた。

 安清が投じたのはスライダー。低めのボールゾーン、空振りを誘いに来たボール。

 おそらく小南は真っすぐ狙いだったはずだ。タイミングは外していたものの、体勢を前に崩しながらも後ろ足を残している。ほとんど片手一本、それでも芯で捉えられた打球は、安清の脇をかすめて二遊間を破っていった。

「っしゃあああ!」

 悠々と柚樹がホームに帰ってくる。小南は一塁ベースからやや小さくガッツポーズをベンチに向ける。

 俺も小さくガッツポーズを返し、つぶやく。「っし。さすが小南」

 まずは一点。残り四イニングで三点差。ふつうに考えればこれ以上の失点を許さなければ十分チャンスはある。が、相手投手を考えるとやや厳しいかもしれない。あの安清からそうそうチャンスが訪れるか……。

 マウンドに目を向けると、安清は左手を腰に当てて悔しそうに顔をしかめていた。捕手は立ち上がったまま。相手ベンチから新しい選手が出てきて、マウンドに向かう。

「あれ、交代?」ベンチ内でだれかが言った。

「そんな球数いってた?」

 清水しみずさんが答えるのが耳に届く。「六十七球です」

 五回途中でそれならペースとしては悪くない。ということは、あらかじめ七十球程度を目処に決めていたのだろうか。それなら安清のあのやけに悔しそうな表情にも納得がいく。小南を打ち取れていれば、このイニングを投げ切れていたのだから。

 そして、ここでこちらのベンチも動く。代打が告げられ、稜人いつひとが打席に向かう。

 打席に入る前、稜人はベンチのサインを確認する。特に指示はない。そしてそのサインとほぼ同時。小南が一塁ベース上で一度屈伸をした。あれは……。

 インプレーになる。

 初球。やや甘めにも見えたボールだが、稜人は見逃した。ストライク。

相木あいき、振ってこうぜ!」

「思いっきりな!」

 上級生たちから声が出る。だけど、俺たち一年は理解している。稜人があえて見逃したことを。

 そして二球目。

「スチール!」

 相手野手陣が叫ぶ。投球はストライク。稜人はこれも見逃した。捕手はすぐさま二塁へ送球。悪い送球ではなかったけれど、先に小南が二塁ベースへ滑り込んだのが遠目にも分かった。もちろん判定はセーフ。カウントでは追い込まれたが、二死ツーアウトながら走者ランナーは二塁と得点のかたちはつくった。

 あとは稜人の仕事。

 三球目、ファウル。四球目、五球目は見逃してボール。六球目はファウル。そして七球目はボール。フルカウントまでもってくる。

 八球目。稜人は、外の真っすぐを逆らわずに弾き返した。一塁手ファーストが飛び込む。が、届かず打球は一二塁間を破る。

「うおっ!」

「い……けるぞ! 回せ!」

 右翼手の阿蘇品が捕球から送球までの動作をそつなくこなす。送球はきれいにホームベースに伸びていくように見えたが、途中で「カット!」と声が響き、中継に入っていた一塁手がカットする。

 次の瞬間、小南がホームベースに滑り込んだ。稜人が一二塁間で挟まれてタッチされる。

 これで攻守交代。しかし、二点差に迫った。

 俺はひっそりと拳を握り締める。

 もともとは、柚樹が言い出したサインだった。

『塁上で俺が屈伸したらさ、追い込まれるまで待ってくれない?』

 本来この要求は、とても図々しいものだ。ボールを見ることは走者に盗塁のチャンスを与える一方、打者にとっては打つチャンスをみすみす逃すことと同義。三振を恐れるな、とは言われるが、それでも打者にとって三振は屈辱的なもので、追い込まれればふつう打率は極端に下がる。だから、基本的な打者心理は「追い込まれたくない」だ。

 それでも小南はそれを要求して、稜人はそれに見事に応えた。しかも、ほぼ満点の解答で。

 これで気持ちが昂らないわけがない。たかが練習試合でアツすぎるだろ、お前ら。

 六回表。英成えいせいの攻撃。

 おそらく俺もこのイニングまで。

「っしゃ」気合を入れてマウンドに向かう。

 三番からの打順。やはり疲れが出てきているのだろうか、少し真っすぐの抑えがきかなくなってきた。だけど、感覚的にはまだまだいける。やはりそこまで疲れを感じていない。

 ボールが先行したものの、カーブを引っ掛けさせて三番打者をショートゴロに打ち取る。続く四番もカーブ二球で簡単に追い込む。この辺は、河野のリードと俺の投げたいボールが一致しているし、実際打者に対してもそれはハマっている。真っすぐを見せつつ最後はチェンジアップで三振を奪う。

 これで、二死ツーアウト。あとひとつ。


 ※※※


 打席に入る前に、阿蘇品あそじな哲郎てつろうは一度素振りをした。それからゆっくりと打席に入り、足で打席内の土をきれいに均す。

 一打席目は四球後の甘い真っすぐを仕留めた。そのときはたいした投手じゃないと思った。

 しかし二打席目は手も足も出なかった。真っすぐをコースいっぱいに決められ、最後はチェンジアップに完全にタイミングを外された。同年代の投手から、「打てる気がしない」と思わされたのは初めてだった。それほど、あのチェンジアップはやばかった。

 でも、だからこそ、打たなければならない。

 安清慶信だけじゃない。俺だっている。俺だってプロに行く。なら、無名の投手のウイニングショットくらい、打てなければ話にならない。

 来い、チェンジアップ。

 大森寿々春がモーションに入る。

 来い。

 初球。

 真っすぐ? ……いや、チェンジアップ!

 空振り。

 くそ、どうしても待ちきれない。

 狙っているのに、ストレートと一瞬見間違ってしまう。

 マウンドに目を向けると、寿々春に疲れの色が出てきているのはわかる。表情には余力があるように見えるが、肉体的な疲労は明らか。

 二球目は高めのストレートにつられて手を出してしまいファウル。三球目も真っすぐだったが外れてボール。

 狙うのはチェンジアップだけ。

 四球目。

 来た? いや、真っすぐ。ゾーンに来ている。打つしかない。

 少し振り遅れたが、芯には当たっている。快音が響いた。

 くそ、このボールじゃねえのに。

 そう思いながら鉄郎は走り出す。


 ※※※


 チェンジアップを狙っているのが丸わかりだった。だから河野も俺もストレートで思惑は一致していた。

 外。低めいっぱいとはいかなかったが、悪いボールではないはずだった。

 狙い通り、阿蘇品は振り遅れた。振り遅れたように見えた。しかし、桁違いのスイングスピ―ドで間に合わせてしまう。

 快音が響く。

「レフト!」

 捉えられたライナー性の打球は、まったく速度を落とさない。そのままフェンス左翼ライン際に激突した。

 とんでもない打球だった。

 これでまだ、高校一年? 同い年? 

 嘘だろ。

 二塁へ滑り込む阿蘇品。ついつい視線を向けていると、阿蘇品もなぜか渋い顔でにらみ返してくる。そして、ふん、と顔を背ける。

 少しムッとする。その反応をしたいのは打たれた俺のほうだ。

 しかも、逆方向にあんな打球を打たれた経験はない。高校に上がったら、やっぱりレベルが高くなるから? もちろんそうだろうが、それだけじゃない。ついつい安清に注目を向けてしまいがちになる。

 でもこのチームにはもう一人いるのだ。怪物が。

 そして、ベンチが動く。俺は唇をかんだ。投手の交代が告げられる。

 ……だよな。

 結局、中途半端な状態でマウンドを降りることになってしまった。

「ふう」と息を吐く。河野がマウンドに寄ってくる。そしてベンチから平井さんが走ってくる。普段は二塁手セカンドのレギュラーだが、投手経験もある三年生だ。

 平井さんがマウンドまで来て、俺はボールを渡す。

「お願いします」

「ナイスピッチ」と軽く背中を叩かれる。

 駆け足でベンチに戻る。ベンチ前まで来ると、足を緩める。緊張感がなくなると、膝の力がふっと抜けそうになって驚いた。

 ふらつきまではしなかったけれど、先生は見逃さなかったらしい。「よくここまでもたせたな」と話しかけてくる。

「はい」

 座っていいぞ、と促されたので素直にしたがう。

「疲れのわりには、大きくフォームも崩れていなかった。立派なもんだ」

「……そんなに疲れているように見えてましたか?」

 自分の感覚じゃよくわからなくなっている。アドレナリンのせいだ。

「まあな」先生は苦笑した。「ま、昨日も投げたし、お前に特別体力がないとは思っていないが……十分とも思っていない。課題のひとつであるのは確かだ」

「はい」

「まず、普段の歩き方を変えてみろ」

「歩き方、ですか?」

「ああ。ちゃんと地面を蹴る意識。歩くときに、筋肉に負荷をかける意識づけをするだけでいい。一週間で走るのが楽になるぞ」

「はあ」と俺は生返事になる。野球部への入部を決めてから二、三週間くらいだけど、いまだに体力がついてきている感じはしない。それなのに、一週間はさすがに大げさだろう。

「うちみたいな進学校じゃ、部活の練習量だけじゃ到底強豪校には届かない。だったら、食生活や日常の動作、そういう何気ないところで差を埋めなきゃならない――というよりも、そこでも負けてたら話にならなくなる」

 その理屈はわかる。なので、「わかりました」と俺はうなずいた。

 まあ、アドバイスをもらえたと思って、とりあえず実践してみるしかない。毎日二十キロ走れとか言われているわけではなくて、歩き方の意識を変えろと言われているだけだ。無茶な要求じゃない。

「今日の結果は前向きに思っていい。あとはクールダウンして休んでくれ」

「はい」


 俺はアイシングをしない派なので、降板後は汗を吸ったアンダーシャツを着替え、水分だけしっかりととって、あとはふつうに試合を観戦する。

 平井さんが試合で使うのは、フォーシームとスライダー、それから、なんか少し沈むボール。なんだろう、ツーシーム? シンカー? フォーク? まあ、あとで訊けばいいか。たまにしか投げていないし、まだそこまで精度もなさそうなので練習中といったところか。基本的にはストレートとスライダーの組み立てだ。

 一部の選手を除いてそんなに相手の実力が高いというわけでもない。平井さんは少しヒヤッとした場面こそあったけれど、残りの三イニングを、阿蘇品の一発による一失点で締めた。結局阿蘇品はホームラン含む三長打。終わってみれば安清より目立っている。

 試合結果は六対五。一点ビハインドの最終回、土壇場で小南のタイムリーが飛び出し追いつくと、続く稜人が左中間を破る打球を放ち、サヨナラで福岡南が勝った。


 試合後、少し時間があったので、もうちょっと丁寧にクールダウンを行う。軽めのジョギングをして、チューブを使って軽く引っ張るような動作をしたあと、柔軟を行う。股割りをしていると、いつもより少し股関節が痛かったので、やはり自分で思っていたより疲労があったのかもしれない。

 練習試合の締めのあいさつの前、英成の一年二人と話をした。今日対戦した選手、さっきの試合で先発した安清と五番を打っていた阿蘇品だ。

「安清、いつ復帰してたんだ?」と小南。

「復帰っていうと大げさだけど」と安清は苦笑する。「試合で投げたのは今日が初めてだから、今日ってことになんのかなぁ」

「え、今日? ふざけんなよ、一打席目の俺とか、完全にやられ役じゃん」

「いやいや最後タイムリー打ったろ、お前。あと二塁打ツーベースも」

 小南と安清が話している様は、なんというか非常に絵になる。二人とも爽やかイケメンで、すらりとしたスタイルだからか。

 俺はと言えば、阿蘇品と話していた。

「大森って、中学は硬式じゃないよな?」

「ああ、うん。軟式だった」

「だよな。お前くらいの投手だったら、見たことあればぜったい俺覚えてるし」と阿蘇品は腕を組んで考え込む仕草を見せる。

 なんだか、実力を評価されているようでちょっと嬉しい。

「それに」河野も話に入る。「大森も安清と同じでしばらく野球から離れてたからな。昨日が復帰試合だったんだから、お前が知らないのも当然だ」

「マジ? 大森も最近復帰したばっかなのか?」と問うてくる阿蘇品。

「ああ、まあ」と曖昧にうなずくと、阿蘇品は「そっか。お前も苦労してんだな」と勝手に納得する。

 おそらく安清と同じで大けがでも負ったのだと誤解しているのだろう。その誤解は解いておきたいところなのだけど、誤解を解いたところで「じゃあなんでやめたの?」という話になるのは目に見えている。そして、その問いかけに俺自身上手く答えられる自信がないので素知らぬ顔をするしかない。

 幸い、すぐに阿蘇品は話を変えてくれた。「つうかケーシンもだけどさ、お前ら復帰してすぐで、よくああも投げられるな」

「……まあ、初回を見なければな」と俺。

「ははっ、確かにあれはボロボロだったな。俺あの時点じゃ、こういう投手最悪だよなって思ってたよ」

「本当にな」と渋い顔をする河野。わりと本気で苦情を言ってくる。「初回の時点じゃ、試合がどうなることかと思った」

「ああいうときの捕手って不憫だよなー。なんも悪くないのに責任の一端を負わなきゃいけないし」

「まったくだ」

 二人の掛け合いに、たまらず俺は口をはさむ。

「お前ら、俺がいるの忘れてないか?」

「忘れてないから安心しろ。それに、俺だってお前が四球を出すたびに気まずい思いをしてたんだ。愚痴くらい言わせろ」と河野が悪びれもせず言い返してくる。

 くっ、こいつ。いままで俺が知らなかっただけで、実は案外いい性格をしてるらしい。

「そーだそーだ」と阿蘇品。

 お前いま関係ないだろ。

「河野、『愚痴くらいは言わせろ』はあれだぞ、捕手として投手の前で言っちゃいけない発言だぞ」と抗議する俺。

「ほう? 俺は昨日もお前の四球地獄に付き合わされたんだが?」

「それは……ごめんなさい」ぐうの音も出ない。

「ええっ、大森、お前昨日もやらかしてたの? そりゃ河野も怒るぞ」と阿蘇品はケラケラと笑いだす。

 くっそ。河野のやつ、要らん情報を阿蘇品に与えやがって。

 そこで声が響いた。

飛高ひだか、そろそろ集合させろ!」

 山内やまうち先生が飛高さんに指示を飛ばす声。河野が「そろそろ戻るか」と言うので、素直にしたがうことにする。

「次はお前のチェンジアップを打つからな」と阿蘇品。

 俺から二安打しておいてなにを言っているのやら。


 別れ際は、なんだか打ち解けた雰囲気だった。最後に礼のあいさつをした後、英成の選手の何人かが向井さんや氷見ひやみさんたちとなにやら軽口を交わしている。

 ただ、にぎやかだったのは帰りのバスが出発するまでだった。

 バスが出ると、車内は行きとちがってぱたりと会話が止んで静かになった。皆疲れたのだろう。俺も眠ってしまった。

 目が覚めるころには、もう福岡に戻ってきていた。車内に夕日が射し込んでくる。野多目のためインターから都市高速を下り、やがて高宮たかみや通りへと出て、我らが福岡南高校に戻ってくる。まあ、「我らが」などと言うほどの愛校心なんて微塵もないけれど。

 バスを降りるとそのまま駐車場で輪をつくる。

「ひとまずお疲れ。個人個人、いろいろ思うところはあるだろうが、全体としてみればどれもいい試合だった」

 この二日間、俺はどうだっただろうか。今日の途中からが良すぎたので、そこまでくよくよしなくて済んでいるけれど、それで昨日のことがチャラになるわけじゃない。いろいろと思うところがなくてはならないだろう。

「個人的には、一年も実力を見せてくれたと思っている。今日みたいなプレーを見せ続けてくれれば、当然俺も夏のベンチメンバーに考慮せざるを得ない。だれひとりとしてポジションを確約するつもりはないから、そのつもりで」

「はい!」と部員が返事をする。

 そう言って、「ええと、あとなんかあったかな」と山内先生は視線を上に向けて考えるそぶりを見せる。

「そうだ。明日はオフで、明後日からはまた試合を組んでいるからしっかり休んでおくように。

 それから、最後に。来週末は中間試験だ。中間と期末で四つ以上赤点をとったら補習で部活に出られなくなるから、最低限勉強しておくようにな。上級生は試験慣れして、赤点すれすれのラインを見極めているやつもいるようだが」

 山内先生に胡乱気な視線を向けられて、向井さんが目をそらす。

「一年は初めての定期試験だ。しっかり準備しておけ。あんまり野球部だけ成績が悪いとかなると、俺が怒られるからな。以上だ」

「礼!」

「ありがとうございました!」

 合宿は、だいたいそんな感じで終わった。

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