第11話

 チーム全体であいさつをして、グラウンドを借りてアップをさせてもらう。それが終わるとすぐに試合に入る。

「いまのうちに飯を食っておけよ。時間ないから」と主将の飛高ひだかさんからの指示。

 今日はダブルヘッダーだ。今日は、というものの野球部の練習試合では特に珍しくない。一試合目が終わるとすぐに二試合目になるので、一試合目に出ないメンバーは一試合目の間に食べておかなければならない。時間的にはちょっと早くても、二試合目直前に食べるくらいならもういまのうちに食べておいた方がいい。持参した弁当をさっさと食べてしまって、試合を見学する。

 俺が見に来たとき、試合はちょうど二回裏が終わったところだった。一足先に見学していた河野こうのに尋ねる。「どうなってる?」

「まだ動いていない」

 スコアはまだ〇対〇。福岡南ふくおかみなみの攻撃に入るところだ。

 一方の秀明館しゅうめいかんの先発は、スリークォーター気味の左腕だ。どちらかと言うと、軟投タイプの投手だろうか。向井むかいさんと似たタイプに見える。

「技巧派同士の投げ合いって感じだな」

 そう言うと、河野がいぶかしげに眉を顰める。

「技巧派? 秀明館の田辺たなべはわかるが、向井さんが?」

「ちがうのか?」

 河野は試合に向き直る。

「まあ印象はひとそれぞれだろうが、俺にはそうは思えないな」

 そういえば、一試合目のメンバーには一つサプライズがあった。

 遊撃手ショートのスタメンに小南が抜擢されたのだ。出番があることはあらかじめ知らされていたとはいえ、やはり、あいつは突出している。

 一死走者なしで小南が左打席に入る。三回の一死で八番ということは。

「まだ、走者ランナー出せてないんだな」

併殺ゲッツーがないんならな。左打者へのスライダーがキレてるし、右にはインコースを厳しく攻めてきてる。さっき飛高さんのいい当たりがあったんだが、中堅手センター正面だった」

 小南はゆったりとした仕草で構える。

 初球は外いっぱいの真っすぐが決まって、二球目は外に逃げるスライダーに手が出て小南は早くも追い込まれる。三球目はスライダーを見送って、カウント一ボール二ストライク。

 そして四球目は真っすぐ。かなり体に近い部分で小南は当てる。ファウル。タイミング的にはかなり振り遅れているが、バットの始動を考えれば、おそらく小南はイメージ通りにバットを振っている。ぎりぎりまで見て、コースがくさいと思ったから手を出し、スイングがしっかり間に合った感じ。

 五球目はスライダーだった。小南はやや腰を引きながら、右手一本でバットにボールを乗せる。ボールの下側を叩いた打球には逆回転スライスがかかり、遊撃手の頭を越えて外野に落ちる。

「上手い」

 つい声が出てしまう。俺もああいう打ち方をしてみたい。

 一塁ベースを蹴り、進塁をうかがいつつ帰塁する小南を見て、ふと思うことがあって俺は話しかける。

「なあ」

「どうした」

「小南って、なんで福岡南なんかに来たんだ? 大阪おおさか誠翔せいしょうから誘われたって聞いたけど」

 河野は意外そうな顔をした。「お前、剛広たかひろのことは知ってたのか」

 剛広のことは、ってなんだ。まだほかになにかあるみたいに。

 少しげんなりして言い返す。「教えてくれる気はなかったのか」

「あいつのことを俺が勝手に言うわけにはいかんだろう」

「それはそうだけど」

 改めて、一塁ベースからリードをとる小南に目を向ける。

「とにかくさ、よく話を蹴る決心がついたなと思って」

 その魚を逃がすのは、惜しいと思うのが人情ではなかろうか。

「そりゃ、惜しいと思うのがふつうだろうな」河野は少し考えるそぶりを見せて、ただ、と続ける。「うちの監督がな、福岡南を勧めたんだ。山内先生が言ってただろ? 勉強を当たり前にしろって。うちの監督は、こういう言い方をしていたよ」

 ――試行錯誤の錯誤は当たり前だ。

「『一の錯誤を恐れて、一の試行を躊躇っていても仕方がない。百の試行の中で、一つ正解があればいい方なんだから』ってな。環境そのものやライバルは当然誠翔のほうがいいだろうが、必ずしも高卒プロにこだわらないのなら、福岡南でも正しい努力をする方法を身につけられると勧められたんだ。……ま、決めたのは剛広自身だけどな」

「へえ」

 高卒プロ。小南ならなにもおかしくない気がするけど、なんだかすごい話だ。

「それで河野もここに?」

「ああ。高校であいつと野球をやれるとは思ってなかったからな。まあ、それだけが理由じゃないが」

 ふうん。

「本当に人生の岐路になりそうな選択だな」

「違いない」と河野は苦笑する。「あのまま同期が二人だけだったら、『話が違う』って後悔するところだった。お前らを連れてきてくれた柚樹ゆずきには、感謝しかないな」


 試合は白熱した展開となった。先輩たちには悪いけれど、正直なところ、俺は秀明館に力を見せつけられるような試合になると思っていた。

 しかしどうだろう。

 六回終了時点でスコアは一対二。

 先輩たちは堂々と渡り合っている。それどころか福岡南が一点リードして終盤に突入した。

 練習試合とはいえ、柄にもなく興奮してくる。全国大会の準優勝校にここまで優位を保っているのだ。

「これ、このまま逃げ切れる、よな?」

「そうだな。今日は向井さんが良すぎる」

 向井さんの言葉を思い出す。

 ――ひと泡吹かせてやるつもりだからさ。

 七回表の福岡南の攻撃は無得点。七回裏に入る。向井さんは、まずスライダーでストライクを先行する。当然といえば当然だけど、中学のころとは比べ物にならないくらいに洗練されている。

 河野が訊いてくる。「いまのもスライダーだよな?」

「たぶん」

「……すごいな。左打者の外に逃げる大きく曲がるスライダー、左打者のフロントドアだけでなく右打者のバックドアにも使えるカット気味のスライダー。たった一つの変化球を、ここまで幅広く使えるのか」

 確かにこういうボールがあるのは強い。新しい変化球を覚えたとき、ほかの変化球にも手を出すのではなく、その変化球の使い方やバリエーションを増やすことに磨きをかけたほうがいいというのは向井さんが中学のときから持っている考えだ。俺自身、その考え方の影響をある程度受けている。

 しかし、真っすぐとスライダーだけなら神宮準優勝の秀明館打線を封じ込めるのは不可能だっただろう。秀明館打線が的を絞り切れない原因はもう一つ。

 沈むボールに、バットが空を切る。

 河野が言った。「真っすぐとスライダーでポンポンとカウントを稼いでくるかと思えば、要所でこの沈むボールが効いてるな。ツーシーム、いや、チェンジアップか?」

「いや、向井さんはスクリューって言ってた」

 そう、追い込まれると、秀明館打線はスライダーとスクリューの二つの決め球を警戒しなければならない。しかしそこを意識してしまうと、今度は真っすぐが活きてくる。序盤で散々ストライクからボールになるスクリューとスライダーで空振りを誘ったからか、ここにきて、追い込まれてからインコース真っすぐに手が出なかったり、高めの釣り球に手を出すパターンが増えている。完全に向井さんの術中だ。

 いい投手だということは、練習で知っていた。だけど、まさかここまでとは。中学の頃はスクリューを使っていなかったし、スライダーもここまでのバリエーションはなかった。俺が知っているより、そして想像していたよりも、はるか高みに向井さんはいる。秀明館打線の調子が悪いのではなく、向井さんがすごすぎる。

 そう思った瞬間だった。

 カキィン。清々しいほどに澄んだ金属音が響いた。

「あ」

 白球が舞い上がる。勢いを失わず、ボールはグラウンドを囲むフェンスにまで到達した。本塁打ホームラン。同点だ。

「こ、河野がフラグを立てるから」

「いや、このまま逃げ切れるとか先に言いだしたのはお前だろ!」

 そんなふうに不毛な責任のなすりつけ合いをしていると、声がかけられた。

「おーい。河野、大森おおもり、お前らもそろそろアップし直しとけよ。終わったらすぐ二試合目に入るぞ」二年生捕手の新戸あらとさんだ。

「はい」

「わかりました」

 慌てて返事をする。

 向井さんがすごすぎてつい試合に見入ってしまっていた。そうか、もう七回も終わるじゃないか。と焦ったところで、どうせ先発は俺じゃないし、出番もあるかどうかわからないのだが。


 第一試合は、結局二対二の引き分けで終わった。俺は望外の戦果だと思っていたけれど、向井さんは「あー、くっそー、あのホームランが余計だったなー」とずうっとつぶやいていた。

 それでも、被安打五、無四球、球数百十一、失点二の完投は誇るべき内容だろう。連打はなしで得点圏に走者を進められたのはわずかに二度だけ。なにより無四球というのがいい。むしろ、この内容でよく相手が二点も取れたくらいだ。

 続いて第二試合は、控えメンバーが中心の試合となる。控えメンバーとはいえ、秀明館の控えと福岡南の控えとでは地力が違う。

 先発したのは、二年生の中野なかのさん。右投げで、持ち球は真っすぐにスライダー、それからツーシーム。ストレートの最速は、おそらく一三〇キロに届くか届かないかくらいだろう。

 その中野さんは、初回から秀明館打線に二点を先制される。その後も粘りの投球ながら三回と四回にもそれぞれ一失点、失点四,被安打六、四球が四つという内容でマウンドを降りる。

 四回終了時点で四対二と秀明館がリード。

 謙遜ではなく、出番があるかどうかは微妙なところだろうと思っていたけれど、ここで俺に出番が与えられた。河野と同時に五回頭からの投入。

 まだもうひとり二年生の投手が出場していなかったので、俺の出番はあるとしても三番手だと思っていただけにちょっと意外だった。

 ふーっと息を吐き出して、帽子のつばを直しながらベンチを出る。そこで、背中に声をかけられた。

「大森、気負わないようにな!」

 まだ出番のない二年生投手の安永やすながさんだ。

 はい、と俺はうなずいて、走ってマウンドに向かう。

 降板する中野さんからボールを受け取って、準備投球を始める。

 マウンドに上がってから、じわじわと、自分の体が強張っていくのがわかる。

 久しぶりのマウンドだから、緊張はもちろんある。でも、それだけじゃない。手が震える。震えを止めようと力を入れても、強く手のひらを握りこめている感じがしない。

 なんだ、この感じ。

 落ち着け。

 深く息をしろ。

 球審からラストの声がかかる。

 俺が投げて、河野が捕る。河野が二塁に送球。小南が捕って、二塁手セカンド三塁手サード一塁手ファーストとボールをまわす。そして、最後に俺がボールを受け取る。

「プレイ!」の声がかかる。

 すう、と息を吸って、ゆっくりと吐く。

 初球。河野の要求は外の真っすぐ。こくりとうなずいて、モーションに入る。半歩右足を踏み出して、ホームベースに対して半身になるように上体をひねりながら、左足を胸元まで上げる。上体のひねりを戻す動作で勢いをつけて、左足を踏み出す。

 力のあるボールを。

 リリース。

 パアンッと河野のミットが鳴った。

 外いっぱい。

 球審の手は上がらない。わずかに外に外れたという判定。

 ふうー、と息を吐きだす。

「いいとこ!」

「打たせて来い!」

 野手から声がかかる。ベンチからも。

「大丈夫!」

「次集中な!」

 安永さんや中野さんが声を出してくれる。

 入部して一か月も経たない一年に、しかも明らかにまだ練習にさえついていけていないやつにマウンドを譲ったにもかかわらず、こうやって声をかけてくれる。気持ちのいいひとたちだ。

 二球目。

 また外れる。今度は少し大きく。

 当然球審の手は挙がらない。

「オッケー! 次入るよー!」

「楽にな!」

 また、声をかけてくれる。バックだけでなく、ベンチからも負けじと声が出る。

 そしてその声を出している様子を、視界にとらえる。俺を励ましてくれる姿が目に飛び込んでくる。

 ……本当に?

 ……それは本当に、本心か?

 そこは、本当は悔しいんじゃないのか?

 俺に対して、負の感情を抱いているのが当然なんじゃないのか?

 本音は、二年生を差し置いて試合に出ている俺に対して、失敗してほしいと思うのが人情じゃないのか?

 ひととは、そういうものじゃないのか?

 ――あれだけ啖呵を切っといてこれかよ。

 中学時代。値踏みをするような、あるいは失敗を待ち望むような、味方のはずの野球部員の視線が思い出される。

 あれが、ひとの本質じゃないのか?

 頭が真っ白になる。

 そうだ。

 どうして忘れていたんだろう? だから、俺は野球部を逃げるように退部したのだ。

 俺はこのときようやく理解した。どうして、こんなに試合が億劫だったのか。

 あのときの雰囲気を、俺はいまだに心の奥底で恐れていたのだ。

 他人から量られることの恐ろしさを知ってしまったから。

 失敗を心待ちにするような視線が、怖かったから。

 被害妄想だと理性では考えることができても、体は言うことを聞いてくれない。

 いや。

 足にグッと力を入れる。

 なんとかしろ。なんとか抗え。

 ――中途半端はごめんだぜ。

 稜人いつひとはそう言っていた。

 俺だってごめんだ。同じ轍を踏んでたまるか。

 腹に力をためる。マウンドを踏みしめるスパイクの感触を強く意識する。

 しかし。

「ボールフォア!」

 球審の手は、まったく動くそぶりを見せなかった。


 ※※※


 河野大遥こうのたいようは焦る胸の内を表情に出さないように必死だった。初めての対外試合。もちろん最悪は想定していた。だが、本当にその最悪が起こるとは。まさか、大森寿々春おおもりすずはるがここまで崩れるとは……。

 構えたところから大きく外れたところにボールが来る。走者ランナーもいる中で、打者をおさえるどころかいつ後ろにそらすかを心配してしまう始末。タイムを取ってマウンドに行っても、寿々春からは「悪い、なんとかする」とどこか蒼白になった顔で言われるだけだ。

 大遥は心のどこかで裏切られたような気分になっていた。寿々春が初めて野球部を訪れた日、大遥の期待は確信に変わっていたのだ。自分の選択は間違っていなかった。

 自分が福岡南を選んだばかりに、小南剛広まで福岡南に来てしまった。結果、新入部員がごくわずかという現状にあえいでいる。それを、寿々春が覆したくれたと喜びをかみしめていたのだ。

 なのに、いざ試合になると……。

 一つのアウトもとることなく満塁となる。そして、力のない真ん中の真っすぐを捉えられ、打球が深々と右中間を破っていったのを見つめながら、大遥は内心で「くそ」と悪態をついていた。気づかぬうちに、拳を強く握りしめていた。昨年の出来事が、脳裏をよぎった。


 中学三年の冬。大遥は進学先に悩んでいた。家の経済的事情を鑑みて私立の高校に進学する気はなかったので、選択肢は公立に限られる。当初、大遥にとって進学先は福岡南一択だった。福岡南高校は県立校の中では野球が際立って強かったうえに、学力レベルも高く国公立大学への進学にも有利に働くからだ。

 しかし、大遥の頭を悩ませる出来事が起きた。それは、福岡南と同じ県立校である春日白水かすがしろうず高校の秋季九州大会優勝。九州大会で四強に入れば、翌年のセンバツ出場はほぼ確定となる。

 国公立大学に確実に進学するためには、福岡南の方が都合がいい。しかし大遥は、せめて高校までの間は野球をあきらめたくなかった。県立にしては強いとはいえ、福岡南高校はもう十年以上甲子園に出ていない。それと比べれば、直近で実績を残した春日白水のほうが甲子園出場の確率は高いかもしれない。

 だが春日白水は、悪い言い方にはなるが絶対的エースを軸に据えたワンマンチームだ。大遥が高校に入学するときには、そのエースは高校三年。その後のチームが弱体化しない保証はどこにもない。それでも、センバツ出場の実績があれば自分と同じように実力のある選手が集まってくるかもしれない。

 そんな葛藤の中、今度は福岡南を選ぶ決め手となる出来事が起きた。


 十二月の中旬。大遥は図書館に行くために、冬らしい灰色の寒空の下自転車を走らせていた。冷気にさらされ、ハンドルを握る手はかじかんでいる。「天田あまだ踏切」と書かれている白い板が取り付けられた踏切を渡り、春日かすが公園の中を突っ切る。公園内に設置されているランニングコースに沿って自転車をこぐ。テニスコートを通り過ぎたあたりで右に曲がろうとしたところ、大遥はに出くわした。

「あれ、河野か?」

 すれ違ったランナーから唐突にそんな声をかけられ、大遥は急ブレーキをかけた。ややつんのめりながら振り返る。視界の端に噴水が見えた。大遥は自分を呼び止めた人物の姿を認め、言った。

「松原か」

 そこにいたのは、松原純平まつばらじゅんぺいだった。中学二年のときはそうでもなかったはずなのに、たった一年間で大遥と目線の高さが同じになっている。むしろ純平のほうが背が高いかもしれない。ナイロンの深緑色のパーカーを着込み、いかにもランナーという格好をしている。

「よっ、偶然。久しぶりだな」端正な顔立ちに純平は柔和な笑みを浮かべる。

「ああ。試合以来か」大遥は自転車を降りた。

「だな。どこ行くんだ?」

「図書館だ」

 純平は首を傾げる。「なにしに」

「受験勉強に決まってるだろ」

 大遥がそう告げると、純平は目を丸くした。

「えっ。河野、受験するのか?」

 大遥は呆れながらうなずいた。「まあな。というか、大半の中学三年生は受験するだろう」

「や、それはそうなんだけどさ。河野なら推薦をもらってそうだと思って」

 確かに純平の言うように、大遥の野球の実力を認めてくれて、声をかけてくれた学校はいくつかあった。しかしそのどれもが県外の高校であり、話を受ければ寮生活を強いられる。一人暮らしができる経済的余裕は大遥の家にはない。

 ただいちいちそんな説明をする気にもなれなかったので、大遥は純平に水を向ける。

「お前はどうするんだ? 勉強せずにトレーニングにかまけてるってことは受験はないんだろ?」

「まあ、いちおう。面接だけだな」

 ランニングコースの真ん中で立ち話をしていては邪魔になる。二人はコンクリートのタイルが敷かれた噴水のある広場に歩いていく。

「どこに決めたんだ?」

 後ろめたさがあったのか歯切れが悪そうに純平は言った。「えっと、西国にしこくに決めた」

「……そうか。なんというか、さすがだな」

 西日本にしにほん国際こくさい大学付属高校。センバツ優勝の経験を持つ強豪だ。しかし純平の実力なら、そんな学校から推薦をもらえてもなにも不思議はないと大遥は思った。

「河野はどこ受ける予定なんだ?」

「まだ迷ってるところだ」

 願書の提出は二月初めなので、もう少し考える猶予はある。しかし、明確な目標が定まっていないこの状況は案外きつい。福岡南高校と春日白水高校。どちらを受けるにせよ勉強するのには変わりないはずなのだが、なんとなく気持ちが急いてしまう。

「ちなみに、どこで迷ってるのか訊いてもいいか?」

 一瞬躊躇したが、大遥は隠したところでなにも変わらないと思い直す。

「福岡南と春日白水だ」

「へえ。河野って頭よかったんだな。俺、中学で硬式やってて勉強できるやつって、存在しないと思ってたよ」

 どちらも進学校として知られる学校だ。大遥の選べる学区に含まれる公立高校の中では、福岡南の偏差値が最も高く、その次に春日白水の偏差値が高い。

「それはひとによるだろう。剛広だって、俺より若干成績は上だしな」

「剛広って、小南? 嘘だろ、あいつ、あれだけ野球ができて頭もいいのかよ」

 純平は愕然とする。

「要領がいいからな、あいつは。まあともかく、俺が勉強しなきゃいけないのはそういうわけだ」

 大遥が話を切り上げようとしたのを察したのか、純平も「そっかそっか。じゃ」と会話を終えようとする。

 しかし、なにかに気づいたように「あ」とつぶやいた。「そういえばさ、河野」

 まだなにかあるのか。そう思いながら大遥は相槌を打つ。「ああ」

「あくまで一意見として聞いてもらいたいんだけどさ」

「ああ」

「俺は、福岡南がいいと思うぜ」

 思いもよらない言葉だった。少し反応が遅れる。

「……それは、どうしてだ?」

「軟式出身なんだけどさ、俺の知り合いがな、福岡南に行くみたいなんだよ」

 その話は、大遥の興味を強く引く。

 バサッと噴水の縁にとまっていたハトの羽ばたく音が聞こえた。水面がわずかにさざめく。

 表情を崩さないように大遥は訊く。「どういうやつなんだ?」

「面白いやつだよ。中二から同じクラスで、昼休み中に一回だけキャッチボールしたことがあるんだけど、めちゃくちゃ真っすぐがきれいだった。投げっぷりがいいというか」

「速いのか?」

「いや、球速はそうでもないかな。けどその割には伸びてくるし、回転効率はいいと思う。あいつも、そこは自分で意識して投げてるっぽいし」

 ふむ、と大遥は沈思する。純平の実力は大遥も知るところだ。その純平が「面白いやつ」と評するのなら、確かにそれは面白いやつなのかもしれない。

「……松原、お前、中学は平野台ひらのだいだったよな」

「ん? ああ、そうだよ」

 大遥の脳裏にひらめくものがあった。

「確か俺たちが中学一年のとき、平野台の野球部が県で準優勝してなかったか?」

「んー。そうだったっけ。あんまり覚えてないけど……」純平は首を傾げて、「なんで河野がそんなこと知ってんの?」と訊き返してくる。

「いや」大遥はかぶりを振った。「すごい捕手キャッチャーがいた覚えがあってな。たまたま覚えていただけだ」

 そんなやついたかな、と純平は不思議そうにしていたが、「ま、いっか」とつぶやく。そして今度こそ別れの言葉を口にする。

「それじゃあな。高校でも対戦するの、楽しみにしとくよ」

「ああ。じゃあな」


 大遥は柄にもなく興奮していた。あいつが、松原純平が認めるほどのやつが福岡南に行くのなら。同期にそんなやつがいるのなら。

 賭けてみる価値はある。

 そう思った。

 我ながら単純だとは思うが、すでに大遥の気持ちは、福岡南高校への進学に大きく傾いていた。


 予想外だったのは――

「そうなの? じゃあ俺も福岡南にするわ」

 剛広がそんなことを言い出したことだった。

 放課後の教室。沈む太陽が赤橙に色づき、そこから空は群青色のグラデーションに染まり、低いところにある雲は濁ったような灰色をしている。暖房すらつけていない教室で、机の上の参考書とノートをはさんで大遥と剛広は向き合っていた。

「はあ? お前、誠翔から話が来てたんじゃないのか?」

 剛広はこともなげに言った。「まあ、それはそうなんだけどさ。でも河野は福岡南で、しかも松原が面白いって言うやつまで福岡南なんだろ? そっちはそっちで面白そうじゃん」

「だが、そんな簡単に……」

「それに河野だって、俺が監督から福岡南を勧められてたことも知ってるだろ?」

 監督とは、大遥と剛広が所属していたクラブチームの監督のことだ。

 確かに知っている。あの監督は、昨年の夏、全国を制した大阪誠翔の沢渡さわたり監督が剛広のプレーを見に来たにもかかわらず、一切浮かれるところを見せなかった。それどころか剛広に対して、「お前には福岡南のほうが合っていると思う」とのたまった。もちろん「決めるのはお前次第だ」と言うのも忘れなかったが、本心で福岡南に行くほうが剛広のためになると考えているようだった。

「もったいないとは思わないのか?」

 大遥が訊くと、剛広は笑って言った。

「そう思うから、福岡南に行くんだよ」


 結局、寿々春は二イニングももたなかった。一回と三分の二イニングで自責点六。ベンチへ引き返すその背中を見ながら、大遥は唇をかみしめていた。



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