R6.6月『上気する旋律』

 遠く、高く、音がする。


 寝室の明かりを消して、窓をかすかに開く。暗闇の奥深くから響く艶やかな音は、北の森に住む銀狼の歌声だ。私はまだ肌寒い夜風に小さく身震いして窓を閉めた。

 白銀の毛並みを持つ、熊ほどの大きな狼。北の森の銀狼は守り神で、百年も森を守り続けているという。普通の狼なら死んでしまっているはずの永い永い時間、たった一匹で森を守るというのは、どんなに寂しいことだろう。

 夜に鳴くのは銀狼の声。守り神の子守歌。

 寝物語に聞かされたおとぎ話は、大人になった私の記憶の中で時折浮かんできて、私自身の孤独にそっと寄り添ってくれる。

 幼いうちに身寄りを無くし、身に覚えのない罪で故郷を追い出された私は、森とともに一人ぼっちで生きている。美しい銀色の守り神は森を守っているのだから、きっと、森の中で生きる私も守られているのだ。

 —―ひとりきりの私も、ひとりきりの銀狼も、孤独なまま寄り添ってこの森に息づいている。

 ただの言い伝えにこんなにも心を預けるのは愚かだろうか。しかしここには、その愚かさを嗤う人間は居ないのだ。

「おやすみ、北の森の守り神」

 小さくつぶやいて、ベッドにもぐりこむ。目を閉じれば、静かな闇がそこにある。心地いい葉擦れの音が眠気を誘う。


 遠く、高く、音がする。


 とある夜、聞きなれない物音で起きた。どうやら家のドアを、重たい何かが引っ搔いている。

 恐る恐る外に出て、息を飲んだ。

 そこには、月明かりに照らされた白銀の狼がうずくまっていた。ドアは爪跡だらけで、狼の後ろには赤黒い足跡が点々と残っている。

 —―怪我をしている。

 考えるより先に体が動いていた。

 台車に乗せて浴室に運び込み、後ろ足の傷を洗って薬草を当て、包帯で巻く。

「……銃創だったな。君、撃たれたのか」

 手当を終えて小さく呟くと、狼はゆっくりと頭をもたげた。

「おい、誰かいるか!」

 唐突に荒々しい声がして、玄関が乱暴に打ち鳴らされる。久しく聞く、人間の男の声だ。

「はいはい、今出るよ」

 私はランタンを持ち、まるで今しがた起きたような顔で外に出た。

「夜に安寧を。どうしたんだ、こんな夜更けにこんな辺鄙な場所で」

 男は猟銃を担ぎ、硝煙の匂いをさせていた。

「夜に安寧を。ここに狼が来ただろう」

「さあ、何のことか分からないね。私は今、君の不躾なノックで起きたところだ」

「嘘を吐いても良いことはないぞ、お嬢さん。痕跡がこの家で途切れている。かくまっているなら出せ」

「そう急くなよ、火筒の人。本当に何も知らない。確かに玄関から物音はしていたが、野生の動物にドアを引っ掻かれることなんざよくある事だ……おや、よく見たら血の跡があるじゃないか。家の前を往復している」

 先ほどは気付かなかったが、狼の足跡に沿って血の跡が何度か往復している。賢い動物が追跡者を攪乱する、いわゆる止め足の偽装だ。どう誤魔化そうかと気を張っていたが、これがあれば話は早い。

「諦めて奥の獣道に入ったんじゃないのか。向こうに、湖に抜ける道がある」

「これ以上は言わないぞ、嘘を吐くな。狼はどこか?」

「逆に聞かせてもらおうか。人間の銃にやられた手負いの獣が、この小娘の手に終えると思うかい?」

「……本当に知らないのか?」

「太陽に誓って、私は知らない」

 男は私の言葉に押し黙り、私の顔をじっと見た後、「夜分に済まなかった」と言って立ち去った。

 足音が遠ざかり、完全に気配が消える。ふう、と息を吐き、私はその場に座り込んだ。

 人間と交わす久々の会話が、嘘たっぷりの駆け引きになるとは思わなかった。上手く喋れていただろうか。

 最後、あの男は私の髪を見ていた。鋼色の髪は夜の民の証だ。日が短い土地に住む夜の民は、太陽を畏れ敬う。夜の民が太陽に誓う時、それを違えれば目を焼かれて光を失うとされている。あの男はそれを知っていたのだ。

「信心深い男で助かった」

(信心深いものか。あの男は俺を撃った)

「!?」

 はじかれたように顔を上げて周囲を見回す。言葉の主は見当たらない。浴室に戻ると、そこには血まみれの台車だけが置かれていた。

(寝床だ。借りているぞ)

 再び声がする。男のような女のような、老いたような幼いような、不思議だが美しい声だった。毎夜聞いていた、あの艶やかな鳴き声と似た響きをしている。

「……もしかして、君か」

 寝室のドアを開けると、ベッドに横たわった狼がこちらを向いて小さく一声鳴いた。

(左様)

「一体どういうからくりだ? どうやらこの声は、口から出る音ではないみたいだけど」

(耳に頼るのは止せ。これはお前の魂に伝えているのだ)

「……私には理屈が分からない、ということが分かったよ。隣に座っても?」

 銀狼は尻尾を体に巻き付け、ベッドの上に私が座れる分の余白を作った。

(しかし肝が据わった娘だ。驚きもしないのか)

「この身に起きていることを疑えるほど博識でないだけだよ」

(俺を助けたのも中々だぞ。喰われると思わなかったのか?)

「狼は人間を食べない。それに君は、私が君を助けると思ってここまで来たんだろう?」

 銀狼はそっぽを向いた。人間のような動きに笑ってしまう。

「私は君を知っているよ。きっと、毎夜この部屋で君の子守歌を聞いていた」

(子守歌を歌った覚えは無い。あれはただの〝夜告げ〟だ)

「夜告げ?」

(夜が始まることを森に知らせるんだよ。森には目が無いから)

「ふうん。毎夜ご苦労だな。君の声は良く通る、森もさぞ助かっていることだろう」

(君ではない。俺にはクーという名がある)

「……初めて会うのに、私が名を呼んでいいのか?」

 夜の民は、家族以外に名を呼ばせない。皆、名前の他に〝呼び言葉〟を一つ持っている。私の呼び言葉は「みなしご」だった。その前は何だったか、もう思い出せない。

(名があるのだから呼べばいい。代わりに、お前の名も教えろ)

「……タフティ」

(良い響きだな。改めて礼を言う、タフティ)

「それ、狼の言葉で言うとどんな感じなんだ?」

 クーは少し黙ってから、小さく高い声で一節鳴いた。

 —―ああ、あの声だ。

 私はベッドに横たわり、クーの隣で体を丸めた。

(おい)

「クー、子守歌歌ってくれよ」

(……夜告げには遅い)

「なんでもいいから、狼の言葉で喋ってくれ。私にはそれが歌に聞こえるんだ。宿代にしたら安いだろ」

 クーは呆れたように目を閉じ、一節、二節と途切れ途切れに鳴いてくれた。

 北の森の守り神。ひとりぼっちの守り神。

 クーが本当にそういう存在かどうかは、もうどうでもよかった。

 私の名を呼ぶ不思議な狼の歌が、頭上から降ってくる。一人きりで淡々と過ごしていた日々が終わる音がする。


 ああ、全然眠れない。

 高鳴る胸を抱えて、私は目を閉じた。

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