R6.2月『甘いお豆腐』
――――卵が先か、鶏が先か。
◆ ◆ ◆
クラゲ君は、ちょっと変なヤツだ。
「クラゲ君、今日は何読んでるの?」
「豆腐百珍」
「とうふひゃくちん」
「天明二年に出版された、豆腐使ったレシピ本の現代語訳」
「ふうん……それで豆腐食べてんの?」
「そ。もうひとパックあるけど、夢野さんも食う?」
訂正しよう。
クラゲ君は、
「やめとく。貴重な食料なんだから、ちゃんと自分で食べなよ」
「それは、お気遣いどうも。それじゃあこっちをあげよう」
クラゲ君はちょいちょいと私を手招きし、『男』と書かれたチロルチョコを二粒くれた。
「何これ」
「男前豆腐のチロルチョコ」
「ああ、なるほど。こだわるねえ」
「今日は豆腐の日だから」
「ふうん」
よく分からないが、楽しそうなので水は差さずにおく。
「いいの? 貴重な食料」
「僕、常に飢えているヤツだと思われてる? 自分の分もあるよ」
そう言ってクラゲ君がリュックから取り出したのは、チロルチョコの袋と二パックの豆腐だった。
「いや、どんだけ豆腐食べるの」
私は小さく笑った後、礼を述べて自分の席につき、参考書を広げた。
毎朝こんなに早く登校して、何か食べながら何か読んでいる。それが浅田海月という男だった。クラゲと書いてミツキと読むが、すっかり『クラゲ君』という愛称が定着してしまい、今や誰も本名では呼んでいない。
本人も気に入っているのか、クラゲ君と呼ばれ始めてからは髪を伸ばし、いつからかウルフカットにするようになった。
クラゲ頭のクラゲ君。
中性的な顔立ちに似合っているが、初めのうちは「ビジュアルだけバンドマン」だの「女殴ってそう」だのからかわれていた覚えがある。文化祭の頃の話だから、去年の十一月か。
高校に入学してから、はや一〇ヶ月が経つ。私が早朝登校して勉強し始めてから八ヶ月。六月の梅雨時から雪の降る二月まで、毎朝欠かさず続けているこの習慣の傍らには、必ずクラゲ君がいた。
クラゲ君がページをめくる音と、たまに何か食べる音。私が走らせるペンの音。そのうち、朝練を始めた野球部のかけ声や、吹奏楽部の楽器の音。
心地よく曖昧な音の中、二人きりの教室で勉強するこの時間を、私は気に入っていた。
「そういえば、そろそろバレンタインだけど」
昼休み。友人のミナに話を振られて、私は「そうだね」と気のない返事をした。
「いや、そうだねじゃなくて。朝っちは何かする予定ある?」
「……あー」
今朝、クラゲ君が豆腐を食べながら豆腐の本を読んでいたのを思い出す。
男前豆腐のチロルチョコは早々に食べてしまったが、何となく捨てられなかった包み紙が生徒手帳に挟んである。無意識に胸ポケットの生徒手帳へ伸ばしかけた指を引っ込め、私は何にともなく誤魔化すように笑った。
「去年は豆腐とチョコで石畳チョコ作ったから、今年もそうしようかな。ミナは?」
「私はブラウニー焼くよ~――――じゃなくて! じゃなくてさぁ~……」
ミナはチラチラと教室の前の方を見遣る。私はわざとらしく溜め息を吐いて、弁当の続きに取り組むことにした。そこに、軽音部の男子に交じって談笑しながら食事するクラゲ君がいることは、見なくても分かった。
「クラゲ君狙いの女子、結構いるらしいよ?」
「ふうん」
「クラゲ君、あんまり女子と喋らないじゃん。朝っちのこと特別視してるんじゃない?」
「……その妄想、楽しい?」
「割と楽しい」
にんまり笑うミナに再び溜め息を溢す。
「クラゲ君に迷惑掛けないようにね」
「やれやれ感出しとけば逃れられると思うなよ? 朝っちだってクラゲ君ともっと仲良くなりたいくせに」
「それは否定しないけど」
確かに、クラゲ君ともっと喋れたら楽しいだろうなと思う。クラゲ君は博識で、使いどころのよく分からないウンチクを沢山持っているから。
私の場合、いっそ喋らなくても良いのだ。毎朝の居心地よい時間があれば、それで十分。
「クラゲ君に彼女ができたら嫌でしょ。毎朝の二人の時間、絶対無くなるよ? 失ってからじゃ遅いんだよ?」
「確かに嫌だけど、仕方ないし」
「仕方ないって言って良いのは、解決のために動いた人だけだよ。今の朝っちはチャンス見送ってるだけじゃん。射止めちゃえよ、クラゲ君のハートをよ~」
「あーはいはい、分かった分かった。チョコは元々あげるつもりだよ、これでいい?」
不満そうなミナを宥めて弁当を片付ける。
自分でも、「嫌だ」という言葉がするりと出てきたことに驚いた。ミナの言っていることは正しいのかも知れない。
その日の放課後、私は便せんを買った。
◆ ◆ ◆
バレンタイン当日の朝。
いつもより少し早めに登校してみたが、教室には既に数人のクラスメイトが居た。黒板前でたむろしながら喋っているグループの中には、クラゲ君も居る。
「え、夢野サンはや~! おはよ、いつもこんなに早いの?」
「おはよ。うん、学校の方が勉強はかどるから」
「え~ちょー偉いじゃん、あたしも明日からそうしよーかな」
「いや、お前には無理だろ」
「え~ちょー失礼なんですけど。ごめん夢野サン、あたしらうるさくない?」
「大丈夫大丈夫」
普段あまり喋らないクラスメイトに話しかけられる。新鮮だ。
私が席につくと、グループの雑談から抜けてきたクラゲ君が寄ってきた。
「おはよう、夢野さん」
「おはよ、クラゲ君。なんか賑やかだね、今日」
「バレンタインだから盛り上がってるらしいよ。男女問わず、貰ったチョコの数で競うんだと」
「ふうん。じゃあこれ」
私はスクールバッグからお徳用のチョコ菓子を取り出し、袋を破って人数分をクラゲ君に手渡した。
「戻るときに皆に渡して」
「用意が良いことで……あれ、一個足りない?」
「クラゲ君にはこっち」
私はクラゲ君に平たい箱を差し出す。
「天地無用、すぐ仕舞うこと、帰ってから食べること。OK?」
「……OK、ありがとう。ホワイトデーにはお礼するから」
「無理しなくていいよ、いつも餌付けのお菓子貰ってるし」
「餌付けのつもりは無かったんだけどな……それじゃあ」
「ん」
私のあげた箱をリュックに仕舞い込み、クラゲ君は黒板前に戻っていった。
◆ ◆ ◆
浅田海月様
伝えたいことがあり、改まって手紙など書いています。
まず、毎朝のお礼を。
海月君がいる教室は、いつも居心地が良いです。ここ八ヶ月ほど毎日欠かさず朝の勉強を出来たのは、海月君が教室にいてくれたからだと勝手に思っています。約束をしたわけでもないけれど、海月君も来ているだろうし、と考えるだけで自然と足が向く毎日でした。
いつもありがとう。
さて、今日はバレンタインデーですね。博識な海月君ならご存知でしょうが、司祭ウァレンティヌスの命日が日本の百貨店の商戦に利用されたことに端を発するチョコの日です。
これに乗っかって、私もチョコを作ってみました。
豆腐を使ってガナッシュに近い物にしています。最近海月君も豆腐の本を読んでいたけれど、流石に天明二年の豆腐レシピ本には、このレシピは載っていなかったことでしょう。それなりに美味しく出来たので、安心して食べて下さい。
日本ではカジュアルにチョコを贈り合う日であるところのバレンタインデーですが、元々は、戦争に伴って禁じられた結婚を司祭ウァレンティヌスが影ながら許したことに由来する『愛の日』だそうですね。
これに乗っかって、私も海月君に告白をしてみたいと思います。
私は、海月君と過ごす毎朝のあの時間が好きです。
できるなら、高校を卒業するまでずっと続けば良いと思っています。
そして、できるなら、海月君のことをもっと知りたいと思います。
付き合って下さい。
返事は急ぎません。考えてみて貰えると嬉しいです。
追伸 付き合うのが無理でも、これまでどおり接してくれると嬉しいです。その場合、この手紙は無かったことにしてくれて構いません。
二〇XX年二月十四日
夢野朝
◆ ◆ ◆
二月十五日。
登校すると、普段は来ているクラゲ君が、まだ来ていなかった。
「……気まずいか、流石に」
ぼつりと呟いて、私は自分の席についた。クラゲ君がいない朝の教室は、いつもより心なしか広く感じた。
「――――おはよう、夢野さん」
背後から振ってきた声に振り向くと、そこには目の下に濃いクマをつくったクラゲ君がいた。
「おはよ、クラゲ君。今日は遅かったね」
「君のせいなんだけど」
「目の下のクマも?」
「君のせいだね」
「それは悪い事をした、お詫びをあげよう」
私は昨日余ったチョコレートをクラゲ君に渡し、自分の席で参考書を広げる。
「勉強始める前に、いい?」
「どうぞ」
クラゲ君は少し黙ってから、うつむき加減のまま口を開いた。
「……人間の六〇パーセントは水分でできているけれど、人間の六割が水分なのか、水分に四割の混ぜ物をしたものが人間なのか、と考える事があるんだ」
「ほう?」
苦い顔でもどかしそうに話す彼に、続けて、と目配せする。
クラゲ君が私に遠回りな話し方をするのはいつものことだったが、今回ほど着地点の分からない枕話は初めてだ。
「どう思う?」
「まあ、人間は人間だね」
「そうだね。割合がどうであれ、人間は人間だ。話は変わるけど、チョコ、美味しかったよ。あれにも同じ事が言える。豆腐で作るチョコレートなのか、チョコレートで甘くなった豆腐なのか。どう思う?」
「最終的にチョコに整形されてるから、チョコだと思う」
「そうだね」
クラゲ君は言葉を切って、視線を逸らして大きく息を吐いた。耳が赤らんでいくのがなんとなく目に付いた。
顔全体が真っ赤になった頃、クラゲ君は意を決した表情で、私と目を合わせた。
「……僕が君を好きなのは、僕が元々君を好きだからか、君が僕に好きと言ってくれたからか――――どう思う?」
◆ ◆ ◆
高校三年生の二月。自由登校になって久しいが、私は今日も朝から学校に来ている。教室に入れば、見慣れた人影が窓際に座っている。
「おはよう、ミツキ。今日は何?」
「サラダチキンと、マーク・トウェインの『人間とは何か』」
「ふうん。何の本?」
「哲学。朝も読む?」
「今度貸して。レンタル料は先払いで」
私は、ミツキの机に小箱を置いた。
「レンタル料扱いするなよ、本人とはいえ、僕の彼女のバレンタインチョコを」
「嬉しい?」
「嬉しい。ありがとう。明日は期待しといて」
「ん、楽しみにしてる」
ミツキはホワイトデーではなく、バレンタイン翌日におかえしをくれる。先月、軽音部の友人が不自然に指のサイズを計ってきたので、実際期待は大きい。
「一問一答、僕が出そうか?」
「ん、よろしく。読書は良いの?」
ミツキは推薦で、第一志望の大学に既に受かっている。答えの分かりきった問いを投げかける私も、大概彼に甘えているなと思う。
果たしてミツキは、仕方ないなという風に笑って答えた。
「うん、たまには一緒に勉強しとこうかなと思ってね――――卒業しても、毎朝一緒にいられるように、さ」
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