短編集・ロールシャッハの見る夢は

揺井かごめ

R5.8月『風鈴切符に乗って』

 懐かしい記憶。

 涼風の通る薄暗い木造の倉に吊された、沢山の風鈴。透き通った軽やかな音。ソーダアイスの味と温度。

 何度も繰り返した「また来年」という別れの言葉。

 私に差し出された小さな紙切れ。

 夏だけ会える、特別な友達――――。


「次は、○○駅、○○駅。お忘れ物のありませんよう……」

 車内アナウンスで、気怠いまどろみから意識が浮上する。

 顔を上げれば、電光掲示板が駅の名前を映している。降りる駅の一つ前。私は荷物を抱え直して立ち上がった。

 高校二年の夏休み。

 私は、ありったけのお小遣いを使って、母の故郷である離島を目指している。


 張間硝――――ショウに出会ったのは、六歳の夏だ。私の家では、毎年夏になると母の実家で避暑をしていた。母の実家には祖母が一人で暮らしていて、ショウはその隣に越してきたIターン夫婦の子供だった。

 ショウと私は互いに一人っ子で、自然と二人で遊ぶようになった。その島には子供が少なく、島に越してきたばかりのショウには同世代の友達がいないようだった。

 私はといえば、年一回とはいえ毎年その島を訪ね、両親と一緒に自然と親しんでいたので、ショウより島の歩き方に詳しかった。歳は一歳しか離れていなかったが、私はお姉さんぶって、ショウに色々なことを教えた。ザリガニが捕れる沢、草笛の作り方、オタマジャクシの捕まえ方、眺めが良くて涼しい丘の茂み、貝殻拾いのコツ。今思えばとんだ野生児である。しかし当時は、東京の友達も、まして島に住んでいるショウすら知らない自然の楽しみ方を知っている、という事実が、私の密かな優越感を満たしてくれていた。

 ショウは、シーグラスを拾うのを特に好んでいた。

 クッキーの缶に蒐集されたシーグラスは年々その量を増していき、小学五年生になる頃には、ショウの部屋にシーグラスの詰められた硝子瓶が幾本も飾られていたのを覚えている。そんなに集めて何にするの、と聞いたら、その翌年にシーグラスをあしらった写真立てを作ってプレゼントしてくれた。今、私の部屋の机の上には、その写真立てが空のまま飾られている。

 ショウは言葉少なな子供だった。私が良く喋るから、私の前でだけそうだったのかも知れない。何をするにも唐突で相談も何もないので、びっくり箱みたいな男の子だ、と思っていた。仕返しにと私が驚かそうとしても、ショウの反応はいつもごく小さなものだった。その僅かな、しかし確かに返ってくるショウの反応を見るのが楽しくて、私も悪戯やプレゼントをたくさんした。

 ショウは、私にとって、弟のように可愛い特別な友達だった。


 電車からバスに乗り継ぎ、フェリーの発着場へ辿り付く。古びた待合室のベンチに座って、青い空に湧く真っ白な入道雲を眺める。


 ショウの両親はガラス作家だった。小さな工房の隣には広めの倉があり、そこには沢山のガラス細工がひっそりと並べられていた。私とショウは、その倉で涼むのが好きだった。

 ショウが中学校に上がって、私が中学二年生になった年の事だ。

 倉に向かう途中、すれ違った青年に声を掛けられた。

「何だよショウ、デートか?」

 背の高い、ワイシャツを着た男子だった。ワイシャツの胸ポケットには校章が刺繍されていた。同じシャツがショウの家の庭に干されているのを見たことがあったので、ショウと同じ本州の中学校に通っている人なのだとすぐに分かった。ショウは「うっさい」と邪険に言って、追い払うように手を振った。

 私はなんとなくショックを受けたまま、それを隠して平気な顔で「誰?」と訊いた。ショウは「先輩。最近よく絡まれる」とだけ返した。

 何がショックだったか今の私には言語化できるけれど、当時の私には難しかった。先輩と言葉を交わしたショウが私と話すときよりなんだか親しげに見えたこと、自分の知らないショウの一面が確かにあること、ショウと過ごす時間に「デート」という言葉を使われたことにモヤモヤしたまま、私は普段通りに倉でショウの隣に座った。

 静かで、涼しくて、時折風鈴が音を立てる、夏の倉。

 いつもならその美しい在り方にどっぷりと身を浸して気持ちよく過ごせるのに、その時の私にはそれが出来なかった。

「ショウはさ、良いの?」

 私は、隣に座るショウを見遣る。最初と比べて、ショウは随分島の子らしくなった。日に焼けて、髪を短く刈り上げて。それでも、ショウからはどこか都会的な雰囲気が抜けきらない。伏せた目元は長い睫毛に彩られていて、表情の少ない横顔は東京の同級生よりずっと大人びて見える。少し低くなった声が私の名前を呼ぶ響きから、無邪気さが消えたのはいつからだったんだろう。

 ショウが男子である、ということを、私はその時初めて意識した。

「何が?」

 ショウは風鈴を見上げたまま、素っ気なく応えた。私もそれに倣って風鈴を眺める。完成した風鈴が吊された足元には、絵付け前の風鈴が整列している。透き通ってまっさらで、何も知らない顔をして、まだ音も鳴らない。

 頭の上で、風鈴が鳴る。

「貴重な夏休み、私と一緒で」

「それはお互い様でしょ。毎年俺と一緒は飽きた?」

「全然」

「なら別に、気にすることなんか何もないでしょ」

「そうだね」

 少しの沈黙が流れる。ショウは「そうだ」と呟いて、ポケットから小さな紙切れを取り出した。

「これ、あげる」

 受け取ると、それは切符を模した紙の帯だった。千と千尋の神隠しで窯爺が持っていたような、蛇腹折りの切符。十枚に連なった枠のひとつひとつには、今日の年月日と共に『風鈴1個 有効期限10年』と書き込まれている。

「何これ」

「風鈴の切符。最近やっと一人で作らせて貰えるようになった」

 ショウは数年前から、本格的にガラス工房の手伝いをしていた。最近は手伝いが忙しいからシーグラスの瓶が増えなくなった、と話して貰ったことがある。その代わりに、ショウの部屋の棚には、ショウが親と一緒に作ったガラス細工が少しずつ増えてきた。

「これを使うと、何が起きる?」

「一枚につき、好きな柄の風鈴を、俺が一個作る」

「また面白い事するね。なんで切符? 切符って、電車に乗るときに使うものじゃないの?」

「配給切符って知ってるか」

「あー、戦後の。それと掛けたの?」

「面白くない?」

「面白いね」

「一年に一個使えば、丁度十年分ある」

「これから十年っていうと、ショウは二十三歳?」

「そうだね」

「そんなに長く持ってられるかな」

「確かに失くしそう」

「失礼だな」

 短い言葉で、いつもみたいに会話する。ショウは静かに笑った。

「でも、持っててよ」

「どうかなー」

「持っててよ」

 ショウの声に、確かな力がこもる。顔を上げた私とショウの視線がぶつかる。

「ちゃんと、十年、毎年作るから」

 まっすぐ私を見るショウに、曖昧に頷いて視線を逸らした。

 自分の顔が熱を帯びているのが分かった。


 フェリーが波を切って進む。三年ぶりに見る島は、前と全く変わらないようにも、全然違う形になってしまったようにも見えた。

 ――――ああ、忘れている。

 島の形は変わらないかも知れない。しかし少なくとも私は、この三年で、確かに違う形になってしまった。


 中学二年の冬、母が亡くなった。

 それはそれは悲しかったが、悲しんでいる暇も無いほど、私の周囲はめまぐるしく変わった。

 名字が変わった。住む家が変わった。学校が変わった。友達が変わった。母親が変わった。唯一変わらなかったのは父親だけだった。

 新しい友達も、母親も、私に優しかった。私は今、人並みに幸せだと思う。

 でも、家族と一緒に島で過ごす夏は、母親と一緒に永遠になくなってしまった。


 強い日差しが肌を灼く。私は手で汗を拭って、記憶を頼りに坂をのぼり、ガラス工房を目指す。

 辿り着いたガラス工房は、思い出の中と同じ姿で、林の入り口に佇んでいた。勝手に入ったら悪いと思いつつも、倉の方へと回り込む。

 倉の入り口に、座ってアイスを食べる人影があった。

 背も伸びて、髪型も変わっていたけれど、その雰囲気はまるで変わっていない。

 ショウが、そこに居た。

 沢山の言葉が喉元をせり上がって、肝心の一言目が出てこない。私は黙ったままショウに歩み寄った。足音に気付いたショウが顔を上げ、目を見開く。

「……久しぶり、ショウ」

 連絡取れなくてごめんとか、どうしてたとか、言いたい事は色々あるのに、色々ありすぎて、やっぱり何も出てこない。

 ショウは、少しの沈黙の後に、穏やかに笑った。

「久しぶり、ルリ」

 私はショウの隣に座り、バッグから風鈴の切符を取り出して、一枚ちぎった。九枚に減った切符をバッグへ仕舞う途中、強い風が吹いて、指に挟んでいた風鈴一個分の切符が飛ばされる。

 風鈴の音が、切符に乗って風に攫われていく。

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