ハルの時代 

渡辺昌夫

第1話

 不安、恐怖、怒り、嫉妬、恨み。

 あなたはそんな想いにこころを囚われていないか。頷いているそこのあなた。今すぐそんな想いは捨て、こころ穏やかに過ごしてほしい。

「なぜ不安や怒り、恨みなどに心を囚われてはいけないの」

それは闇の者たちが、そんな感情に支配されている人間どもを血眼になって探しているからだ。

「闇の者。それは一体だれ」

彼らは裏の世界の住人である。

「裏の世界。それは一体どんな世界」

裏の世界とは、私たちの目に見えない世界のことで、その世界は私たちの住む表の世界のすぐ隣にある。裏の世界は、手を伸ばすと届くほど近くにあり、表の世界とはまさに表裏一体の世界なのだ。

「そんな世界本当に有るの」

私も実際、裏の世界を見るまでそう思っていた。だが、裏の世界は本当に存在する。普段、私たちの目に見えないだけで、確実に不安や怒りに支配された者達を裏の世界へ引きずり込んでいる。

人間は目に見える物や自分たちが作り出した常識だけを信じ暮らしている。しかし現実には目に映らないだけで裏の世界は存在し、私たちは気付かないうちに大きな影響を受けている。その力は私たちの人生を狂わし、全く別の人生を歩まされることもある。

最後にもう一度あなたに忠告する。不安、恐怖、怒り、嫉妬、恨みに心奪われた者の近くに、闇の者が足音を忍ばせ近づいている。彼らはそんな人間に狙いを定め、裏の世界へ引きずり込もうと手ぐすね引いて待っているのだ。

気を付けて、この物語を読んでいるそこのあなた。あなたのすぐそばに、闇の者たちが足音を忍ばせそっと近づいている。



 出会いはいつも突然やって来る。彼女との出会いもまさにそうであった。この出会いが私の人生を大きく変えることになるとは、今はまだ知る由もない。これから私の見た裏の世界(裏の世界から見ると、こちら側が裏らしい)を一緒に覗いてみましょう。


 ゴールデンウイークも終わり、日中の日差しが日に日に強さを増している。私は今日も掛け持ちのバイトで大粒の汗を流している。こんな未来がやってくるとは夢にも思わなかった。

私は今年、大学を卒業し航空関係の会社へ就職することが決まっていた。しかしコロナの影響で昨年十一月、突然内定取り消しの通知が自宅に送られてきた。尻に火が付いたみたいにそこら辺を走り回り、再び就職活動を行うが時はすでに遅かった。就職先は決まらず今は掛け持ちのアルバイトで日々の生活を送っている。

田辺明生、二十二歳。今年の春はほろ苦いスタートになった。

 午前中、スーパーの品出しを終えると午後からは宅配便の仕分け作業に汗を流す毎日。今日も昼から宅配のバイト先に向かっている。

それにしても今日は風もなく、日差しが肌を突き刺すように暑い。日中は三十度まで上がると朝の情報番組で言っていた。

私は額に汗を浮かべ歩いていると、電柱に真新しいアルバイト募集の紙に目が止まる。いまどき電柱にバイト募集の張り紙なんて、と思いながらも懐の寂しい私の足は止まり、文字を見定める。週三日で五時間程度の仕事は、助手と書いてあるだけで何をするのか全く分からない。時給は千三百円。

「時給は悪くないな」

 私は電柱に向かいひとり言を漏らす。勤務先も私の家から徒歩五分程度と好条件である。しかし仕事内容が助手とだけ書かれており、いかにも胡散臭い。何より電柱にバイト募集の張り紙なんて時代遅れも良いところだ。いまどき迷子猫の貼り紙さえ見ないというのに。

すると急にズボンに入れていたスマホのアラームが鳴りだした。次のバイト時間を知らせるアラームに、私はため息をつく。太陽からの強い日差しと地面からの照り返しに、私はすでに北京ダック状態だ。重い体に鞭を打ち、私は次のバイト先に向かった。

 翌日は久しぶりの休日。私は昼過ぎまで死んだようにベッドの中で寝ていた。十時間以上寝ても、体が鉛のように重く起き上がれない。ゴロゴロ寝て過ごしているにもかかわらず、身体は正直なもので不思議とお腹は空いてくる。

私は重たい体をベッドから起こし冷蔵庫へ向かう。ドアを開けると冷たい冷気が足元に流れ、中を覗くとビールとチーズが2、3切れ気の毒そうに入っているのみだ。隙間だらけの冷蔵庫からは冷たい空気が駄々洩れし、もっと働かせてくれと言われているようだ。できれば私の代わりに働き稼いでほしいくらいだ。

無駄なことに頭を使い、お腹の中の住人が騒ぎ始めた。このままお腹を空かし倒れるわけにはいかない。私は近所のスーパーに食料を調達しに行くことにした。スーパーまでは歩いて十五分ほどかかる。しかし帰りの荷物のことを考え、私は車で出かけることにした。このことがこれから始まる奇々怪々な出来事のきっかけになるとは、この時の私は夢にも思っていなかった。

友達から安く譲りうけたオンボロ車に乗りスーパーに向かう。昼過ぎまでベッドでゴロゴロしていたというのに、ハンドルを握るとすぐに瞼が重くなる。オンボロ車で事故でも起こし、首が回らなくなるわけにはいかない。私は眠気を飛ばすため、ハンドルから片方の手を放し軽く頬を叩く。つかの間眠気が飛ぶ。

眠気を忘れしばらく運転していると、先ほどまで曇に隠れていた太陽がいつの間にか顔を見せ、車内は再び眠気を誘う心地よい空気に包まれた。車の中ではうたた寝するにはもってこいの気温に、再びまぶたが重くなる。

私はまたしても手の指をしならせ両の頬を二回ずつ叩いた。今回は少し強めに叩き目は覚めたが、頬に指の跡が残っていないかルームミラーで確認する。少し赤くはなっているものの手形はついていないようだ。気を取り直し運転に集中する。

すると今度は耳元で虫が飛ぶ羽音が聞こえてきた。音のする方へ顔を向けたが何も見えない。車に乗り込む際、春の陽気に誘われ虫も一緒に入って来たのだろう。私は気にせず車を走らせた。

いつもならスーパーまで車で五分もかからないと言うのに、今日に限ってすべての信号に引っかかり、なおかつ渋滞している。すでに車を走らせ五分を過ぎたと言うのに、まだ半分を過ぎたあたりだ。ハンドルを握る指が小刻みに動き自分でもカリカリしているのが分かる。

そんな時またもや耳元で虫の飛ぶ音がし始めた。耳障りな虫の音にハンドルから手を放し音のする耳元を払う。しかし虫の飛ぶ音は一向に鳴りやまない。不思議に思い音のする方に顔を向けるがやはり何も飛んでいない。いったい何の虫が飛び回っているのか。そう思っていると今度は私の耳元でリズムに乗せ飛び回り始めた。まるで歌を歌っているかのようだ。

普段なら耳障りの音に目が冴えて来るところだが、歌うように飛び回る虫の音になぜだか急に眠気が襲って来た。催眠術でもかけられたようである。目は辛うじて開いているが、意識はすでに遠のいている。ハンドルを握る手がわずかに緩む。

車をゆったりとしたスピードで走らせていると目の前の信号が赤に変わった。信号が変わっても私の意識は遠い世界をさまよいブレーキに足が向かわない。

ぼんやり運転する私の目に黒い高級セダンが写る。セダンは赤信号で止まっているようだ。耳元では相変わらず虫が心地よいハーモニーを奏でている。私は虫の音に木を取られ車は吸い込まれるように前の車に近づいていく。

【虫の音色。赤信号。目の前に車が止まっている】

 放心状態の頭の中で目に映る状況をつぶやく。

まずい、ぶつかる。私はやっと夢から覚め、緊急事態に頭の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。とっさにブレーキに足を移し思いっきり踏み込む。

「キーイー」

 スピードはあまり出ていなかったが、タイヤからは悲鳴が上がる。車は急激にスピードが落ちる。私の身体は前のめりになり、シートベルトが胸に食い込む。黒塗りのセダンはもう目と鼻の先ほどの距離に近づいている。

「止まれ」

 悲鳴に似た叫び声が車内にこだまする。すると私の叫び声に車が答えるかのようスピードが落ちていく。しかし黒いセダンは手が届きそうなほど近づいている。私は祈る様にブレーキを床につくまで踏み込む。タイヤから聞こえていた悲鳴が徐々に小さくなって来た。

「・・・」

 やった、間に合った。

「ゴン」

 私の車は、鈍い音と小さな振動を残し止まった。

「はぁ、間に合わなかった。もう少しだったのに」

 車の中で私の虚しい声が広がる。私は車を止めハザードランプを点灯させたまま降りた。

目の前には黒光りする高級セダンと私のボロ車が接着剤で留めたようにぴったりくっ付いている。よく見ると、セダンのバンパーが私の頑丈なボロ車のバンパーに押され、凹んでいる。よりによって私のボロ車はバンパーだけは頑丈に出来ている。先ほどまで、お腹が空いたと騒いでいた胃袋が、今では砂を詰め込まれたように重くなり痛みが走る。私は連結されているかのような二台の車を眺め茫然と立ち竦んでいた。

すると私の頭の中で勝手な妄想が湧き始める。きっと黒塗りの高級車からは怖いお兄さんたちが降りてきて、手にはピストルを持っているに違いない。私はここで殺されるのだ。勝手な妄想に私の体が強張ってきた。

その時車のドアが開く音がした。額からは大粒の汗が流れ、顔が硬くなっているのが自分でもわかる。音のしたドアに目を移す。ドアは開いたがなかなか人が降りてこない。心臓の音が自分の耳に響く。

次の瞬間、赤いハイヒールが目に止まり、紺色の裾からはスラリと長い足が伸びた。

「女性だ」ひとまずここで殺されることはなさそうだ。ほっと胸をなでおろした私の前に現れたのは、紺色のワンピースを着た背の高い女性だ。ハイヒールを履いているせいか私の顎は上を向いている。サラサラな黒髪が肩まで延び、目鼻立ちがはっきりした美人だ。歳は三十前半と言うところだろうか。

彼女は接着剤で留めたような車を見ると「あちゃー。やったね」と軽い調子で私に声をかけた。

「本当にすみません」

 私は消え入るような声で謝る。すると彼女はなぜか私を値踏みするようにジロジロ眺める。修理代が払えないとでも思っているのだろうか。お金がないとはいえ、保険には入っているから修理代くらいは大丈夫だ。

「ウトウトしながら運転していたみたいね。信号が赤に変わった事に気付かず、急ブレーキを掛けたが間に合わなかったのね」

 彼女は私が事故を起こした様子を目の前で見ていたかのように話す。

「えっ。何で分かるのですか」

 そうか。事故に遭うと言う虫の知らせがして、バックミラー越しに私の様子を見ていたのだろう。そう思い彼女に訊いてみたがバックミラーは覗いていなかったと言う。訳が分からない。

交差点では渋滞が始まりかけていた。スマホで事故の写真を手早く撮ると車を路肩に移動させた。その後私が警察に連絡する。警察が来るまでの間、私たちは歩道で待っていた。気まずい空気が流れる中、今後の事故処理の事を考え私は自己紹介をする。

「お時間をお取りし本当にすみません。私は田辺明生と言います。住まいはこの近所です。この後、警察の取り調べが終わったら保険会社へ連絡しますので後ほど連絡先を教えてください」

「私は藤崎ハル。私もこの近くに住んでいるの。とんだ出費になったわね」

 彼女はサバサバと話をする。改めて見ると大きな目が印象的で、薄い茶色がかった瞳が人目を引く。その瞳は怪しさと愛らしさをあわせ持つ不思議な瞳である。私は不思議な瞳に吸い込まれるように眺め、心の中で「綺麗な人だな」とつぶやいた。すると次の瞬間、彼女は私に向かい「ありがとう」と言った。

「えっ。なに何がありがとう」

 私は咄嗟にその言葉が口を着く。私の心のつぶやきに彼女は絶妙なタイミングで返事をしたのだ。まるで心の聲が聞こえているかのように。まさかそんなことがあるはずはない。気のせいだろう。そう思ったが、今度はなにが「ありがとう」なのかと疑問が残る。心の中がモヤモヤとした霧に包まれたような気分になり、彼女に訊いてみた。

「何がありがとうなんですか」

 彼女の返事は「何でもない」だけだ。余計に気になる。その時警察の車が到着し二人は別々に現場検証を行うことになった。

日差しがアスファルトに反射し照り返しが強い。彼女は後部座席のドアを開けると中からつばの広い麦わら帽子を取り出し、日差しを遮るように少し斜めに傾けかぶった。つばの広い麦わら帽子が上品な彼女によく似合う。私は取り調べ中にもかかわらず彼女の様子が気になり目が落ち着きなく動く。

 無事警察の現場検証が終わると、私たちは連絡先の交換をした。彼女から住所の掻かれた紙を受け取る。紙に目を落とすと彼女は私の住む所から歩いて五分ほどの距離に住んでいる。本当に近所に住んでいるのだと心の中でつぶやくと彼女はまたしても絶妙なタイミングで「そうね」と返事をする。

ん、やばい。絶対心の中を読まれている?そう思い彼女に目を向けるとなにもなかったように彼女が話し始めた。

「この程度の修理だと保険会社も保険料が上がるとか何とか言って自腹になるだろうね」

 確かにそうだ。先日友達が事故を起こした時もそうだった。六万程度の修理代で保険を使うと三等級下がり、四年で十一万保険料を余分に払わなければいけなくなると言っていた。結局その友達は自腹で修理代を払った。何のための保険なのかわからない。しかし私にとってこの出費はかなり痛い。休みの日にもう一つバイトを増やそう。そう思っていると、またしても彼女から絶妙なタイミングでその話題が出る。

「私のところでバイトしたらいいじゃない。募集はしているけど、電柱に貼った広告ではなかなか人が来なくて」

「電柱」

 私はきのう目にした電柱に貼ってあるアルバイト募集の張り紙の事を思い出した。

「もしかして助手募集のあれですか」

 彼女は「そうそう」と頷きながら私を見る。「助手っていったい何をするのですか」

私がそう尋ねると彼女はおでこに人差し指を当て、どうしたものかと思案顔で話し始めた。

「んーと。掃除やお茶出しや依頼先への送迎や荷物持ち」

 要するに雑用係なのだ。そんなのわざわざ人を雇ってまでする事なのだろうか。また、どんな職種なのか今の話しからは想像できない。多少の不安は残るが金欠の私に断る理由などない。

「頑張りますので私を雇ってください」

 そう話すと彼女は私を値踏みするかのようにじっと見つめる。なぜか心の奥底まで覗かれているようで、悪事をとがめられたように身体が強張る。

しばらく間を置くと彼女は表情を和らげ「よろしく」と軽い調子の返事が返ってきた。私はほっと胸をなでおろす。

事故現場が急遽バイトの面接に変わった。私は改めて自己紹介をすることになった。

「群馬出身の二十二歳です。東京の大学を卒業し、就職が決まっていた会社がコロナの影響で急遽内定を取り消され、今は掛け持ちのアルバイトで生計を立てています」

彼女は気の毒そうな表情を浮かべ、私の話を聞いている。時折遠くを見るような眼差しを浮かべ何か考え事をしているようだ。本当に私の話を聞いているのか、怪しげに思いながらも即席の面接が続く。

彼女は私の話に耳を傾け、時折気になったことを尋ねてくる。しかしその内容が不思議で、私の行動をまるで見て来たような話し方をする。なぜそんな事が解かるのだろうか。気味が悪いながらも、金欠で藁をも掴む思いの私にとって、そんな些細な事はどうでもよい。とりあえず即席の面接を乗り越えなければ生活が出来ない。

 面接が終わると別れ際、早速明日から働いてほしいと言われた。どうやら部屋が散らかっているらしく、掃除を頼みたいとのこと。たまたまバイトも連休を取っており、明日は空いている。私は明日九時に伺います、と伝え彼女と別れた。

後ろのバンパーが凹んだ高級セダンを見送り私は自分の車に乗り込む。手に握っていた連絡先の紙を助手席置くと車をゆっくり走らせた。小銭で膨れ上がった財布がズボンのポケットからはみ出し、へこんだお腹を押さえつける。事故の修理代の事を考え、買い物する食材を少し減らそうと溜息をつく。

結局、彼女がどんな仕事をしているのか訊いていない。明日彼女の家に行けば分るだろう。

 出勤初日はあいにくの空模様になった。傘を差し彼女の住むマンションに向かった。途中、車が水溜りを走り抜け泥水がズボンの裾にかかる。不吉な予感に私は急に歩みが遅くなる。

彼女の住むマンションに到着した。下からマンションを見上げると、最上階は雲に隠れているのかの思うほど高い。高級タワーマンションの入り口で、私が中に入って良いものかと足が止まる。約束の時間まであと五分。意を決し私は歩き始めた。

エントランスに入ると天井が高く、大理石の太い柱に圧倒される。さながら高級ホテルのロビーのようだ。私は場違いな場所に迷い込んだ様に体を小さくさせながらエントランスを通り抜ける。

エレベーターホールの前まで来ると、背の高いガラス扉が私の行く手をふさぐ。オートロック解除板がまるで門番のように威圧する。私は彼女からもらったメモを取り出し部屋の番号、二五〇一を入力しエンター気を押す。門番から呼び出し音が鳴り響く。

「はーい。いま開けます」

彼女の声と共にガラス扉が音もなく開く。私はエレベーターのボタンを押し乗り込むと、行き先を示す表示板に目を向ける。数字はロビーのLから二十五まで並び、彼女の部屋が最上階だと気付く。タワーマンションの最上階の景色はどうなっているのだろう、と期待に胸躍らせの一番上の番号を押す。

扉が閉まると広いエレベーターの中で一人居心地が悪い。モニターに映る自分の姿が妙に眠たそうで、頬を軽く叩き気合を入れる。

最上階でエレベーターを降りると二五〇一の部屋の前まで進み呼び鈴を鳴らす。中から彼女の声とゆっくり歩く足音がかすかに聞こえ、玄関の扉が開いた。

「今日からお願いします」

 私は緊張からか、直立不動の姿勢からぎこちなく体を折り曲げ挨拶をする。

「こちらこそよろしくね」

 彼女は軽く微笑み、返事をしてくれた。

今日の彼女の服は、七分袖の白いワンピースの上から薄いピンクのカーデガンを羽織っている。お嬢様風の着こなしが似合い、私の目は奪われる。

玄関先で靴を脱ぐ。玄関の段差は思いのほか高く、右足がその段差に引っかかり危うくこけそうになった。初めから躓き嫌な予感がする。

彼女に気付かれないようすばやくスリッパに履き替え彼女の後を追う。前を歩く彼女が振り向き話しかけてきた。

「そう言えば保険会社の人から連絡があり、今日の三時に来るそうよ。一緒に話を聞く」

 私は昨日の苦い記憶が蘇る。あの事故さえなければこのバイトを受ける必要も無かったのに。まあ、過ぎたことを考えても仕方ない。何事も社会勉強だと思い、一緒に話を聞きますと伝える。

「オッケー」

彼女の妙に軽い返事に、私はどんな反応をして良いかと戸惑う。とりあえず作り笑いでごまかし、今日する仕事内容を尋ねた。すると彼女は部屋の掃除をお願いと答え、部屋の中を案内し始めた。女性の部屋に入るのは初めての私は興味津々で彼女の後に続く。

部屋は三LDKですべての部屋がフローリングになっている。

今、私たちが居るのはリビングで広さは十五帖ほどである。三人掛けのソファーと一人用のソファーが向き合っており、天板がガラスの低いテーブルがソファーの間に置いてある。ここで商談をするのだろう。

広いリビングと繋がるようにキッチンが見える。ダイニングテーブルの上は綺麗に片づけられ、一輪挿しの花瓶には大ぶりのピンク色の花が飾られている。

キッチンに目を移すとバルミューダのコーヒーメーカーがインテリアの様に置いてある。きっとこれで入れるコーヒーは、専門店で飲むコーヒーのように薫りたつものだろう。味を想像している私をよそに、彼女は次の部屋を案内する。

リビングの隣は八畳ほどの広さの書斎になっている。角部屋なので壁側二ヵ所に窓があり、先ほどまで降っていた雨も今はあがり、日が差し込んでいる。窓から入る日差しで、照明を点けなくても部屋の中は十分明るい。書斎を見渡すと窓の近くに木製の大きな机が置いてある。机の上には筆記用具と眼鏡が置いてあり、几帳面な性格なのか筆記用具はトレーに綺麗に並び眼鏡の他は何も置いてない。

机の隣には私の目の高さほどの本棚が二つ並んでいる。そこには法律関係の本や総務関係の本がびっしり並んでいた。彼女は司法書士でもやっているのだろうか。しかし、その本棚の中になぜか料理の本が混じっている。「ん。なんで料理の本がここにあるのか」そう思い立ち止まって眺めていると、彼女はさっさと次の部屋に歩いて行ってしまった。私は慌てて後を追った。

次の部屋も書斎と変わらない広さがある。壁に格子状の棚が据えられ、観葉植物が置いてある。中央のテーブルには赤いバラや紫の紫陽花の鉢が置いてある。色鮮やかな観葉植物が並び、ほっと一息付ける部屋だ。

テーブルには鳥かごも置いてあり、中には黄色い羽根に顔が薄いピンク色をした鳥が入っている。彼女はその鳥を私に紹介した。その鳥はテンという名で、メスのコザクラインコだと教えてくれた。どうやらこの部屋は癒しの部屋らしい。

私は挨拶代わりに鳥かごにそっと手を伸ばすと、テンは不審者が現れたと思ったのか口ばしで私の指を突いた。慌てて伸ばした手を引っ込める。彼女に見られていないかと目を向けると、観葉植物に霧吹きで水をやっていた。どうやらテンに突かれたところは見られていないようだ。指先を見ると突かれた指は赤く腫れていた。

「あとこの家には白猫の『福』が居るけど、福はたまに居なくなるのよね。今日もどこかに出かけているみたい」

 出かけているとはどこか別の部屋に潜り込んでいるという事なのだろうか。二十五階の部屋から外に出ることは出来ない。そんな事を考えながら癒し部屋を後にした。

癒し部屋の隣にもう一部屋ある。この部屋は寝室で中は見せてもらえなかった。キングサイズのダブルベッドがおいてあり、奥には二畳ほどの大きなクローゼットがあるらしい。この部屋には絶対入らないようにと彼女から強い口調で言われた。

部屋を終えた私はふと思った。どの部屋にもテレビが無い。もしかすると案内されていない寝室に置いてあるのかもしれない。一人暮らしでテレビのない生活など私には想像できないからだ。しかし代わり各部屋にはオーディオやブルートゥース用のスピーカーが置いてあった。きっと家では音楽を聴いて過ごしているのだろう。

そう思ったら、一体どんな曲を聴いているのか興味が湧く。ヘビメタでないことは確かだろう。彼女の雰囲気には全く合わない。きっとジャズやビートルズを聞いているのだろうと勝手に想像する。

リビングに戻ると彼女は外出の準備を始めた。そう言えばまだ彼女の仕事を聞いていない。書斎には法律関係の本や総務などの本が並んでいた。やはり司法書士なのだろうか。私は彼女に訊いてみた。

「藤崎さんのお仕事は何をなさっているのですか」

 一瞬彼女の表情に戸惑いの色が現れる。しかしそれもつかの間、いつもの彼女に戻り話し始めた。

「いろんな人の悩み相談を受けているの。それもちょっと変わった方法でね。それは、神々を私の体に降ろし相談を受けるのよ。彼らは直接神々に相談しているのよ。面白いでしょう」

 私は彼女の言葉をもう一度頭中で繰り返す。神々を自分の体に降ろし相談を受ける。意味が解らない。と言うか私の想像をはるかに超え目が点になる。本当にそんなことが出来るのだろうか。疑いのまなざしで彼女を見ると彼女は慌てて「嘘じゃないから」と言葉が返ってきた。今後、実際相談者が訪れ、自分の目で見ることになるだろう。そう思いながら仕事の話は終わりにすることにした。

しかし悩み相談でこんな立派なマンションに住めるほど収入があるのだろうか。今度はそんな疑問が頭をよぎる。すると彼女は、またしても絶妙なタイミングで答えた。

「このマンションは父の遺産で買ったの。三年前に亡くなり、その時に購入したのよ。私、こう見えてもお嬢様育ちなのよ」

 見るからに品があり、お嬢様オーラ全開である。その点は疑う余地はない。そう言えば今もまた私の心の聲に彼女が答えた。もしかして彼女は私の心の聲が聞こえているのだろうか。神々が自分の身体に降り、人の心の聲が聞こえる。なんでもありの人である。

「それじゃ、ちょっと出かけて来るわね。部屋のお掃除よろしく」

彼女は声をかけるとショルダーバックを肩にかけ玄関に向う。仕事の打ち合わせなのだろうか。それにしては軽装である。

彼女を見送り一人になった私は、さっそく掃除を始めることにした。「しまった」掃除道具の置き場が解らない。先ほど見た部屋の中にはそれらしき物は無かった。あと見ていない所は洗面所とお風呂ぐらいだ。

私は洗面所の場所を探した。廊下に出て、まだ開けていないドアに手を掛ける。開くと洗面所が現れ、その奥にお風呂が見える。中に入ると洗面所の隣に両開きの収納を見つけた。扉を開くと掃除機やモップなどの掃除道具が入っている。これで掃除は出来ると一安心。私はコードレスの掃除機と雑巾を手に洗面所を後にした。

始めにリビングの掃除をすることにした。見た目にゴミなど散らかっていない。しかし私は手抜きすることなく広いリビングを隅から隅まで掃除機をかける。

リビングの掃除を終えると、次は書斎に移った。書斎には大きな本棚が二つ並んでいる。その本棚の一角に同じ背表紙の本が二十冊並んでいる。その本の背表紙には何も書かれていない。私は不思議に思いその中の一冊を手にした。中を開くとすべてのページが白紙である。これは記録用のノートなのだろうか。そう思い他の本も開いてみた。しかしすべての本が白紙のままで何も書いていない。私はこれから使うのだろうと思い元の場所に本を仕舞い掃除を始めた。

書斎の掃除を終え次の部屋に移ろうとした時、部屋の中で物音がした。誰もいない部屋の中で一体何が起きたのか。私は振り返り部屋の中を見渡す。何も変わった様子はないようだ。気のせいかと思った時、机の下に眼鏡が落ちているのに気付いた。

「あれ」

先ほどまで、眼鏡は机の上に筆記用具と一緒に並んでいたはず。そう思いながら眼鏡を拾い上げた。しかしこのメガネ、彼女の雰囲気に合わない。黒縁のメガネは縁の部分が大きく男性用の眼鏡の様だ。お嬢様育ちの彼女なら、フレームも細くべっ甲柄のお洒落な眼鏡を選びそうだ。

私は眼鏡のレンズを本棚に向け、透かして見る。するとこの眼鏡、度が入っていない伊達眼鏡だった。私はいたずら心が芽生え、眼鏡をかけると本棚を眺めた。すると先ほどまで白紙の背表紙に文字が浮かび上がっている。

「ん?」

本の背表紙には年号らしき数字が書かれていた。私は一旦眼鏡を外し、直接年号が書かれた本を見る。すると背表紙に書かれた年号は消え無地に戻った。私は眼鏡を握った手の甲で目を擦り、再び本の背表紙を見る。やはり背表紙には何も書かれていない。

今度は眼鏡を掛け本棚に近づいた。すると背表紙には年号が書かれている。

「なんだこりゃあ」

ただの伊達眼鏡なのにどんな仕掛けがして有るのだろう。私は驚きのあまりその場に立ちすくむ。

本棚を茫然と眺めていると今度は先ほどまできれいに並んでいたはずの本の中に一冊だけ飛び出している物がある。私は吸い込まれるようにその本に近づく。

本の背表紙には二〇〇四年と書かれている。私は何かに誘われるようにその本に手を伸ばした。

すると手にした本は勝手に表紙が開き、風も無いのにページがパラパラと捲られていく。私は呆気にとられ、本を落としそうになる。茫然と眺める私をよそに、本のページは勝手に進む。しばらくするとやっと止まった。

音のない静かな部屋で私は恐る恐る止まったページに目を向ける。そこにはペンで書かれた可愛い文字が並んでいた。これは一体何なのだろう。私の身体は固まったまま、眼だけがその文字を追う。

 

《三月二十五日から二十七日》

 春休み入り家族全員で大阪のおばさんの家に遊びに行くことになった。昨年、病気でおじさんを亡くし、一人暮らしになったおばさんを元気づけるためだ。そんな彼女は肺の病気で日常生活にも不自由していると父が話していた。

四月からは六年生になる。相変わらず父の仕事は忙しく、久しぶりに家族全員がそろっての旅行だ。旅行当日はいつもより二時間早く目が覚めてしまった。今回初めて大阪のおばさんの家に遊びに行くのだ。

 新幹線に乗り大阪に着くとタクシーでおばさんの家に向かった。車が到着し降りると目の前に三階建ての立派な家が目に入る。車から父親が荷物を降ろしていると、おばさんがその建物から現れ私たちを出迎えてくれた。やはり三階建てのこの家がおばさんの家なのだ。

私と弟は家に入るとさっそく玄関近くの階段を使い遊び始めた。二人はジャンケンで階段を登ったり降ったりし、親たちが話し込んでいる間、時間を忘れ遊んだ。

翌日は通天閣やなんば花月の吉本新喜劇を見に行った。大阪弁で捲し立てる舞台に圧倒された私達はその後、家族全員が奇妙なイントネーションの大阪弁を話し笑いながらおばさんの家に戻った。

 翌朝、おばさんが朝食の支度を整え、三階にいる私たちの所まで登って来た。階段を登って来た彼女の様子がいつもと違う。苦しそうに息をし、肩が上下に揺れている。また息が上がっているにもかかわらず、口を小さくすぼめ呼吸をしているのだ。私は大丈夫と声を掛け椅子用意すると、おばさんはその椅子に腰かけた。相変わらず小さくすぼめた口から少しずつ息を吸っている。

私は彼女の背中をさすりながら、もう一度声をかけた。しかし、おばさんは相変わらず苦しそうに口をすぼめ息を吸ったり吐いたりしている。

しばらく背中をさすっていると上下していた肩も落ち着き、呼吸も整ってきた。すぼめていた口元も戻った。

落ち着きを取り戻した彼女は、椅子から重たい腰を持ち上げた。私のいる方に体を回すと、ありがとう声を掛け朝食の準備が出来たと伝えると、そのまま一階に降りて行った。

私がおばさんの背中をさすっている間、なぜか頭の中で炎が見えた。突然の出来事でおばさんの話が耳に入ってこない。

 一階に降り朝食を済ませると、おばさんは部屋の隅に置いてある暖房器具ほどの大きさの機械を取り出し再び椅子に座った。その機械からはビニールで出来た細長い管が伸びている。管の先を口と鼻で覆うとおばさんは機械のスイッチを入れた。部屋の中でブーンという音が鳴り響き、管を通して何か出始めた。

初めて見るその機会に私は興味津々で何をしているのかと聞いてみた。するとおばさんは病気の治療のためお薬を吸っているのと教えてくれた。後片付けを始めた母をよそに私と弟はその様子を固唾を飲んで見ていた。

叔母さんはしばらくの間、機械から出る薬を吸い、次にテーブルに置いてあるタバコに手を伸ばした。口に当てていた管を外すとゆっくりタバコに火を付け吸い始めた。

肺の病気で薬まで飲んでいるのにタバコを吸っても大丈夫なのだろうか。そう思った瞬間、三階建ての自宅が炎に包まれ燃え上がる様子が頭の中に浮かんだ。それも爆弾が破裂したかのように、何もかもが粉々に崩れるほどの火事だ。私は死に神に声を掛けられたように怖くなり顔の色を無くす。心臓の音だけが妙に耳につく。体も硬くなり身動きできなくなった。茫然と佇む私とは反対に、おばさんは美味しそうにタバコを吸っていた。

私はタバコの火が薬に燃え移り爆発したのだと思い、タバコを吸っているおばさんに止めるよう話をする。するとおばさんは笑いながら大丈夫だよと話す。もう何十年も薬を吸いながらタバコを吸っているが、何も起きたことは無いと話すのだ。

頭の中では今なお、家が炎に包まれている様子が浮かぶ。心臓が早鐘のように鳴り、体中から冷や汗が噴きだしてくる。

私は何度も何度も薬をすいながらタバコを吸う事を止めるように話す。しかしおばさんは全く聞く耳を持たない。

その時ちょうど母が通りかかり、事情を話し二人で止めた。しかしおばさんは一向に私たちの話に耳貸さない。最後は「これで死ねたら本望だ」とまで言い出した。

母は諦め部屋を出て行く。部屋に取り残された私は力なくおばさんの様子ぼんやり眺めていた。私があの時見た火事は、いつか必ず現実のものになる。

私はその夜、火災で粉々になった建物の光景が頭の中から離れず、布団に横になってもなかなか眠れず、頭から布団をかぶり眠れぬ夜を過ごした。



 彼女はこれから起きる未来の出来事を予測することが出来るのだろう。それにしても小学五年生の女の子が、家が粉々になるほどの火事場を見たら、さすがに夜は眠れないだろう。おばさんは彼女が必死に止めても、小学生のたわごと程度にしか思わなかったのだろう。しかしおばさんは吸引していた機械でどんな薬を吸っていたのだろう。私は首を傾けながら再び日記に目を戻した。

 この後どうなったのだろうか。私はおばさんのその後が気になり日記の先をパラパラ捲ってみた。しかしその後の様子が書かれている日記はなかった。

その後のことが妙に気になり、私は翌年の日記を取り出し再びページをパラパラめくってみた。すると日記の中から古い新聞の切り抜きが出て来た。その切り抜きはハガキほどの大きさのもので、私はその記事に目を向ける。

最初に目に飛び込んできたものは、建物の形を残さず瓦礫の山になっている火災現場の写真だ。見出しには「肺気腫患者、酸素吸引中にタバコの火が引火」と書いてある。あった、これだ。彼女が大阪を訪れ一年三カ月後に火事現実のものとなった。そう思いながら新聞の切り抜きに目を落とす。

(被害者は肺気腫を患い二十年前から酸素吸入を行っていた。事故当日、一階のリビングで吸引中、タバコの火が吸引中の酸素に引火し爆発炎上した。近所の住人は、ガス爆発が起きたと思うほどの轟音と地鳴りがしたと話をしている。火災現場は建物の原型を留めないほど激しく崩れていた。被害者は崩れた建物の中から遺体で発見された)

新聞の切り抜きにはそう書いてあった。それにしても酸素吸引中にタバコを吸うなんて、自殺行為も良いとこだ。いままで家事にならなかった事の方が不思議なくらいだ。また、酸素を吸いながらタバコを吸う。薬と毒を一緒に吸い、肺の病気が直るはずはない。

記事にはこの火災でおばさんは亡くなったと書いてある。ハルさんが自宅を訪れた際に視た恐ろしい光景が、現実になったのだ。彼女はどんな思いで火事の話を聞いたのだろう。その日の日記には何が書いてあるのだろう。そう思い新聞の挟まっていたページに目を向けた。


 六月十五日

 大阪のおばちゃんが亡くなった。あの時見た悪夢が現実になった。おばさんがタバコを吸っている時に視た、あの恐ろしい火事が再び私の頭の中に蘇る。

怖い、悲しい、残念だ。

吸っていたのは酸素だった。酸素を吸いながらタバコを吸っていたのか。私は必死に止めた。しかし火事を止めることは出来ず、おばさんの家は粉々になり、彼女は死んでしまった。

神々よ。私は何の為にあの地獄のような恐ろしい光景を視せられたのですか。私の言葉は彼女に届くこと無く、自宅が炎に包まれ、おばさんは亡くなった。

神々よ。私は何のためにこの力を与えられたのですか。これから先も同じ事が起こるのでしょうか。どんな災いが視えたとしても、私はその人たちを救う事が出来ません。私は無力です。どうかこれ以上、この先起きる災いを私に見せないでください。結局私は何も出来ないのだから。


 彼女の日記を読み終わった。その日記には絶望の淵に落とされた彼女の想いが書かれていた。

どんなに未来を予知する能力があったとしても、信じてもらえなければ意味がない。かえって頭がおかしい人だと思われるのがおちだ。また、たとえ信じてもらえても、いつ災いが起きるか正確に判らなければ、救う事が出来ないかもしれない。

私は彼女の日記を読んでしまった事を後悔した。人の心の中を覗くことがこんなに辛い事とは思わなかった。

そう言えば、彼女と話をしていると、私が心の中で想っている心の聲が、彼女には聞こえているようだ。彼女にたびたび心の聲を聞かれ、その返事が返って来たからだ。気のせいかと思っていたが、彼女は自分の身体に神々を降ろすほどの能力を持っているのだ。相手の心の聲が聞こえても、何ら不思議ではない。私は不思議な世界に足を踏み入れ、不安と興味の両方の気持ちが押し寄せて来る。今は興味の方が不安よりも大きい。

それにしても相手の考えている事が解かるなんて、始め便利だと思っていた。しかし日記を読み相手の気持ちが解ると、辛い事の方が多いように思う。

心の聲は、時として耳をふさぎたくなるほど罵声を浴びせられる事があるだろう。相手は自分の想いを好き勝手につぶやく。その言葉に傷つき人間不信に陥ることもあるのではないか。私は日記を手に握ったまま、心が次第に暗く沈んでいく。

それにしてもこの日記、文字は可愛らしいが文章は小学生が書いたとは思えないほど大人びている。きっと学校の成績もよかったのだろう。

私は日記を元の場所に戻し背表紙に書かれている年号をぼんやり眺めていた。二〇〇四年に小学六年生と言う事は、当時十二歳になる。

「今年が二〇二一年なので彼女の歳はえぇと」

 私はつい声を挙げ頭の中で計算を始めた。しかし、いつものことで頭が回らず直ぐには計算できない。両手の指を使いながら数をかぞえていく。

「二十七、二十八、二十九。二十九歳だ。えっ、そんなに若いの」

目鼻立ちははっきりしており見た目は綺麗なのだが、どこか冷めた目つきをしており、実際よりだいぶん歳上に見える。三十後半か四十代と言われても納得できる。苦労を重ねた分、だいぶん老けて見えるのだろう。本人にその事を話したらきっとどやされるだろう。話さなくても心を読まれるかもしれないので十分注意しよう。私と七歳しか違わないとは思えないほど大人びている。それほど小さい頃から苦労を重ねて来たのだろう。

彼女の心が少しでも落ち着くように、と私は部屋の隅々まで綺麗に掃除を行おうと思った。

調度その時、隣の癒し部屋から物音が聞こえた。次は何が起きるのだろうか、不安と期待を抱えながら、私は掃除機を手にそのまま隣の部屋に向かった。

初めに私の眼に飛び込んできたのは、鳥かごの中で暴れるテンの姿だった。テーブルに置いてある鳥かごの周りには餌や水が散らかっている。よく見るとテーブルの下にまで餌が飛び散っている。

「何やっている。馬鹿、やめろ」

 とっさに口走るとテンは振り向き「馬鹿はお前だ」と言う。小鳥に馬鹿呼ばわりされ私はかっとなる。

「馬鹿と言うお前が馬鹿だ」

私は子供が口喧嘩するようにテンに言い返した。その時ふと私はコザクラインコと会話をしていることに気が付いた。

「テン。お前、言葉が話せるのか」

 不思議な物でも見るような顔で話す私にテンは「さっき指を突いた時も馬鹿と言っただろう。聞こえていなかったのか」と言う。私は鳥の鳴く声は聞こえたが、馬鹿と言われた覚えはない。そもそもオウムならともかくコザクラインコが人の言葉を話すなど聞いたことが無い。

私はなぜ急に鳥と話せるようになったのだろうか。私はその場に立ちすくみ考えるが思い当たる節は無い。突然不思議な能力が身に着き、自分が自分で無くなったような気持ちになり両手で頭を抱えた。すると手にメガネのフレームが当った。

そうだ。癒し部屋で物音がし、慌てて部屋を移ったので眼鏡を外すのを忘れていた。テンは相変わらず私の悪口を言っている。私はテンの話を無視するように眼鏡をはずしてみた。

途端、テンは「ビーチュービー」と本来の鳴き声に戻った。もう一度眼鏡をかけテンの話しを聴くと、馬鹿だの、のろまだのと私に罵声を浴びせている。黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって。言いたい放題のテンに、本気で腹が立ってきた。

それにしてもこの眼鏡、一体どうなっているのか。他にも何か出来る事が有るのだろうか。私は眼鏡を外し窓から外の景色を眺めた。先ほどまでの雨も上がり、部屋には強い日差しが差し込んでいる。窓の外は五月晴れになっていた。

次に私は、手にしていた眼鏡をかけ、再び外の景色を見る。すると眼鏡越しに見る外の景色はいまだ灰色の雲が広がり、土砂降りの雨が降っている。

「えっ。なんだこりゃ」

 私は素っ頓狂な声をあげ眼鏡を外し窓の外を見る。やはり窓の外晴れている。私の頭の中は迷宮に放り込まれたように混乱している。目の前の景色の変化に戸惑いながら、再び手にした眼鏡を掛ける。

すると今度は雲の間から細長い蛇のようなものが見える。空に蛇はいないだろう。私はその細長い生き物を、目を凝らし見つめる。雲間から体の一部しか見えず、よくわからない。しかし体に足のようなものが付いている。次の瞬間、雲の間を縫って頭が現れた。

「龍だ」

私は鳩が豆鉄砲を食らったような表情でその龍を見つめる。いかつい頭からは二本の髭が長々と伸び風になびいている。頭には鹿の角の様なものが見え、銀色の髪の毛が風に揺れている。

私は夢遊病者のように口を開けたままその場で固まった。すると龍は頭をこちらに向け、私と目が合う。私は咄嗟に壁にかくれる。心臓の音がやけに耳に付く。しばらく壁に隠れ、気持ちが少し落ちつくとレースのカーテン越しに外の様子を見る。

空に龍の姿は無く、真っ黒な雲からは大粒の雨が降り注いでいる。ほっと息を付きながら、レースのカーテンを開き、恐る恐る窓の外を見る。

すると今度は巨大な鳥が外を飛んでいる。恐竜か。もう訳が分からない。私の頭はおかしくなったのか、そう思い慌てて眼鏡を外しシャツの胸ポケットに仕舞った。私は熱を帯びた頭を冷やすため、テンの汚した鳥かごの回りを一心不乱に掃除することにした。

眼鏡を外し布巾でテーブルを拭いていると、ビーチュービーと本来の鳴き声に戻り気持ちも少しずつ落ち着いてきた。嵐の真っ只中にいた私の頭の中も今は強い風も治まり凪いでいる。やかましく耳元で鳴き続けるテンの声も徐々に気にならなくなってきた。

するとテンは私の気を引こうと鳴き声を変え「ホーホケキョ」と鳴く。ホトトギスじゃあるまいし、なぜホーホケキョなのか。どうせ馬鹿だのうすらトンカチだのと言っているのだろう。

そう考えると今度は無性に腹が立って来た。いかん、いかん。私は再び熱を帯び始めた頭を振り、気持ちを落ち着かせるため深呼吸をする。少し気持ちも和らぎ、テーブルの上に散らかっている餌や水を手早く拭き取る。テンは相変わらずホーホケキョを連発している。私は彼女と眼を合わせないよう、床に落ちた餌を掃除機で取る。

すると今度は「ホー、ホー、ホー」と最後まで鳴かず、なぜか途中でやめる。リズムにあわせホー、ホーと鳴くテンに私は掃除の手を止め、つい声をかける。

「途中で止めるな」

 馬鹿な私はテンの鳴き声に突っ込みを入れてしまったのだ。

するとテンは私の突っ込み無視し、明後日の方向を向きながらホー、ホーと鳴き続ける。くどくどと鳴き続けるテンの声が気に掃除が手につかない。

ラップでも歌っている様な鳴き声に、テンが何を言っているのか気になりはじめた。私は渋々ポケットから眼鏡を取り出しかけてみた。

「ホー、ホー、ホー」

「バーカ。バーカ。バーカ」

 テンは尻尾を振りながら馬鹿を連発していた。「ホー」は「バーカ」と言う意味なのかと私は馬鹿と言われているのになぜか感心する。すると次のホケキョはどういう意味だろう、と気になる。

しばらく眼鏡をかけたままテンの話し声を聞いていたが、バーカの続きをなかなか言わない。私に馬鹿を連発するテンに徐々にムカついて来た。部屋の掃除をしている私に、女の子なら普通「こんにちは」とか「ご機嫌いかが」とか言うだろう。初対面の私に向かって馬鹿は無いだろう。この鳥あとから絞めて焼き鳥にしてやる。そう思いながら私は眼鏡を外し胸ポケットに仕舞った。

 テンのホー攻撃が続く中、癒し部屋の掃除を終え私は掃除道具を手にしてリビングに戻ろうとした。すると部屋の隅から一匹の白猫が現れた。

いったい今までどこに隠れていたのだろう。全く気付かなかった。部屋の中には猫が隠れる隙間などない。

白猫は「ミャアー」と鳴きながら尻尾をピンとたて私の方に近づいて来た。足元まで来ると私のくるぶしに頭を擦り寄せる。

「かわいい猫だな。確か名前は福だったよな」

話しながら福を抱えようと手を伸ばした。白い毛が柔らかく、フサフサしていて気持ちが良い。体に比べ尻尾が太くて長い。ペルシャ猫のようだが瞳は真っ黒だ。海外の猫との掛けあわせなのだろうか。そう思いながら抱きかかえるとお腹の下に男性の印が付いている。白くて長い毛並みで女性の様に見えるが立派な男の子だった。それにしても可愛い猫だ。癒し部屋にしっくりくる。

福を床に降ろし私もかがみ込む。彼はゆっくりとした口調でミャァー、ミャァーと鳴き始めた。福は一体なんと話しているのだろう。私は彼の話す言葉が気になり、恐る恐る胸ポケットから眼鏡を取り出しかける。

「ミャァー。ミャァー」

 あれ、今までと変わらない。私はなぜかほっと胸をなでおろす。やっと普通の動物に会えた。私はほっとしながら、改めて福の顔をのぞき込む。

目は飼い主に似てキリリときついが、どこか愛嬌がある。私は白い毛で覆われている頭を撫でる。すると彼は気持ちよさそうに目を細め、もっと撫でろと頭を傾けすり寄って来る。癒されるな、そう思った瞬間、彼が人間の言葉で話しかけて来た。

「騙されたな。俺を普通の猫と思っただろう。もしかして『癒さられる』と思ったか。馬鹿だな、お前。俺は猫だけに猫をかぶっていただけだ」

 私は撫でていた手をあわてて引っ込める。やはりこの家には普通の動物などいないのだ。ほんの少し前まで癒されていた分、私はため息が漏れる。

それにしてもこの猫、口が悪い。少し前までの愛らしさは無くなり、いまでは態度までふてぶてしい。その様子は飼い主をはるかに越えるほどの態度に変わった。

テンと言い福と言い、この癒し部屋には似合わない。彼女は何故こんな動物たちを飼っているのだろう。

私はこれ以上福の話を聞く気が失せ、眼鏡を外した。彼はその様子を不満げに眺めている。

「眼鏡を外しても意味ないよ。俺は人間の言葉を話すから」

「えっ」

素っ頓狂な声をあげながら猫に話しかける。

「気持ち悪い。なんで人間言葉が話せるの」

「お前、気持ち悪いとは失礼な奴だな。俺は猫であって猫でない。式神だ。みんなはワシの事を福先生と呼んでいる」

 彼の話している内容が全く分からない。式神?眼鏡を外しているのになんで人間の言葉を話す。さっきまでミャァーミャァーと可愛く鳴いていたのに。私は次から次に起きる出来事に頭の中はいっぱいになり、今にも脳みそがこぼれ落ちそうだ。

「ところで、式神ってなに?」

自分でもおかしいと思うが、目の前の猫に真顔で質問する。すると福先生は勝ち誇った表情を浮かべ話し始めた。

「式神とは陰陽道などで使われる鬼神・使役神のことで人の目に見えない」

「陰陽師と言えば安倍晴明とかのことですか」

 私は陰陽師と言えば本やテレビで出て来る安倍晴明を思い出し、偉そうに話す猫に敬語を使う。なんで猫に敬語で話しているのか自分でも解らない。なんとなく偉そうに話すので、つい敬語を使った。

「そうだ。晴明は人型に作った紙の人形に我らを入れ掃除や洗濯をさせておった。全く人使いの荒い奴だった。いや、式神使いの荒い奴だった。もともと我らは人の善悪を監視し、裏の世界の者たちがちょっかいを出さぬよう見張っているのだ。俺様はその式神のトップに君臨している」

福は阿倍晴明を知っているのか。晴明とはどんな人だったのだろう。

そう言えば、式神は人には見えないと言っていたが、目の前に福が見えるし、さっきまで撫でていた。不可思議な表情を浮かべる私をよそに、福先生はお構いなく話を続ける。

「俺の仕事は裏と表の世界の監視だから、どちらの世界も自由に行き来できる。お前たちの住む表の世界の警察みたいなものだ。秩序を守らない者は人だろうが闇の者だろうが俺が滅する」

 滅するとは死ぬと言うことなのだろうか。愛嬌のある顔をしているが、話す事は恐ろしい。私も滅せられないよう大人しくしておこう。

 ところで先生の話の中で「表の世界」とか「裏の世界」とか言う言葉が出て来た。一体どういう世界なのだろう。私は疑問に思い訊いてみた。

すると先生は表の世界はいま私たちが生活している世界で、裏の世界は私たちの目には見えないもう一つの世界の事だと教えてくれた。目に見えない裏の世界は、私たちの暮らす表の世界と表裏一体で、境界も曖昧らしい。わかったような、わからないような何ともモヤっとする話だ。

その後、私はなぜか福先生の小言を聞く羽目になる。私はいつの間にかフローリングに正座し、先生のありがたくもない話を神妙な顔で聞いている。なにせ先生の機嫌を損ねたら滅せられるかもしれないのだ。そうなってからでは手遅れだ。

大人しく小言を聞く私に満足したのか「もう帰る」と言い残すと踵を返し壁に向かって歩き始める。

「そこは壁で扉はこちらですよ」

 私は先生に声を掛けると頭だけをこちらに向け、笑いながらそのまま壁に向かい歩き続ける。どこか別の扉でも有るのだろうか。そう思い後ろ姿を見つめていると壁を抜け消えてしまった。私はキツネに抓まれたようにポカンと口を開けたまま壁を見つめていた。

正気に戻った私は福先生が消えた壁に歩み寄り、辺りを叩いてみる。しかし隠し扉などどこにもない。この家、一体どうなっているのだろうか。

 私は掃除道具を手にしてリビングに戻って来た。この家に来て三時間が過ぎようとしている。次から次に起きる摩訶不思議な出来事に、理解の範疇を越えわけが分からない。次はいったい何が起きるのだろうか。心臓の音が耳につき、頬が引きつっているのが自分でも分かる。

少し頭を冷やそうとカバンの中から水筒を取り出しベランダに出た。

空には所々雲が残っているが、雨上がりの風は冷たく気持ちを落ち着かせてくれる。地平線の果てには富士山が顔をのぞかせている。水筒に入れているジャスミンティ―がのどをヒンヤリ通り抜ける。この辺りに高い建物はなく、ベランダには冷たい風が吹き抜ける。最上階の部屋から下を眺めるとジオラマのように小さく見える建物が隙間なく並び、夜になると街の明かりが星屑のように見えることだろう。

しかし一人暮らしの彼女には、ここから見る夜景はどう映っているのだろう。一人で見る夜景は寂しくないのだろうか。まあ、テンや福先生が一緒なのだから賑やかそうではある。

私はベランダを抜ける心地よい風と景色に気を取られ、彼女が帰って来た事に気付かなかった。

「お疲れ様。綺麗になったわね」

 私は慌ててベランダから戻る。

「部屋の掃除は終わりました」

 私の言葉に彼女は頭を上下し満足しているようだ。すると彼女の視線が私の胸ポケットに止まった。

「その眼鏡かけてみた。面白かったでしょう」

 しまった。眼鏡を書斎に戻し忘れた。

「すみません。勝手に持ち出して」

「眼鏡を持っていると言うことは、日記も読んだ」

 何もかもお見通しだ。私は素直に謝ることにした。

「勝手に日記を読んですみません。小学六年生の大阪に遊びに行った時の物を読みました。しかしあの日記にはどんな仕掛けが有るのですか」

「仕掛け」という言葉に彼女は笑い出した。

「あれは机にあった万年筆で書いたのよ。インクの代わりに私の念を込めているからその眼鏡を使わないと字が見えないの。勿論書いた私は眼鏡など必要ないけど」

 インクの代わりに念を込める、とはどういう意味なのだろう。詳しい事はわからないがとりあえず私は頷いた。

「だからこの眼鏡でしか日記が読めないのですね」

「そうね。その眼鏡は裏の世界が視えるように私の念が込められているの。悪魔やお化けなどの住む世界を覗くことが出来るのよ。目に見えない別次元の世界と言ったら分かりやすいかしら」

 確かに眼鏡越しに窓の外を見たらそれまで晴れていた空から急に土砂降りの雨が降ったり、雲間に龍まで見えたりした。あれが裏の世界なのか。

「その世界は私たちが暮らす表の世界と共に存在しているの。私たちは知らぬ間に裏の世界の影響を受け、人生を大きく狂わす事もあるの。ところで田辺君、眼鏡を掛けたら不思議な事が起きなかった」

 そうだった。眼鏡をかけると急にテンの鳴き声が人間の言葉に変わり彼女と会話したのだった。

裏の世界、興味は湧くが怖い気もする。いきなりお化けや妖怪が現れ襲ってきたら自分で守る事も出来ない。いつも通り見えなければそんな危ない目にも合うことも無いだろう。不安な顔をする私に彼女はいたずらっ子のような表情で話し始めた。

「その眼鏡、最初から田辺君に渡すために買ったの。まさか先に使っているとは思わなかったけど。好奇心が旺盛なのね」

 私は目を丸くし、手にしていた眼鏡に目を向ける。私は彼女が使っているとばかり思っていたからだ。

「すみません。たまたまこの眼鏡が机から落ち、戻そうと手に取ると不思議な事が次から次に起きたのです。まるで何かに導かれているかのようでした」

本当に不思議な事が起きた。誰もいない部屋で日記を手にすると風もないのに勝手にページめくれ、白紙だった日記に文字が浮かび上がる。今までの人生で一番驚いた出来事だった。

ところで裏の世界を視るために彼女はどんな眼鏡を使っているのだろう。そんな私の心の聲を彼女は読み取る。

「私は眼鏡を使わなくとも裏の世界が見えるし白紙に見えていた日記の文字もちゃんと読めるの。その眼鏡はあげるけど、私と一緒にいる時、もしくはこの部屋にいる時だけかけてね。一人でいる時掛けると闇の者たちが寄って来るわよ」

「藤崎さん、脅かさないでくださいよ。私はただでさえビビリでホラー映画や怪談などは苦手なのです」

 そう話すと彼女はからからと笑った。美人で近寄りがたい雰囲気だが、笑うと可愛い。するとすかさず私の心の聲に反応する。

「ありがとう。そんなに近寄りがたいかな。いつも笑顔でいなくちゃね。そうそう、私を呼ぶときは藤崎ではなく名前のハルで呼んでくれない。みんな私の事はハルと呼んでいるの」

 また心の聲を読まれてしまった。それにしても、やりにくい。

「わかりました。ハルさんと呼びます。私の事は田辺でも明生でもどちらでもいいです。中学までは明生と呼ばれていましが、最近は田辺で呼ばれることが多いです」

 彼女は頷き「よろしく、明生君」と弾ける様な笑顔で答えてくれた。私は彼女との距離が少し縮まったように思い、調子に乗って話し始めた。

「ハルさん聞いてくださいよ。癒し部屋のテンが私に馬鹿を連呼するのですよ。あの鳥は性格も悪そうだし他のペットに変えましょう。テンが言う様に私は馬鹿ですが、コザクラインコに馬鹿と言われたら腹が立ちます」

 そう話すと彼女は子供が笑うようにコロコロ笑い声を上げ、なぜか私にとどめを刺す。

「馬鹿はひどいわね。当たっているけど」

 テンの性格は飼い主に似たのだ。新しく飼うペットもまた飼い主に似ると思うと、少し顔見知りになったテンの方がまだかわいく思えてきた。

「テンは普通のペットじゃないのよ。彼女は私のパートナーなの。困った時に助けてくれる頼もしい相棒よ。明生君もそのうち分かるわよ」

 テンがパートナー?寂しい時の話し相手なのだろうか。話のニュアンスからすると少し違う様な気がする。彼女がそのうち分かると言ったのでそれまで待つことにしよう。それにしてもテンがバーカを連呼する姿を思い出し、むかっ腹が立ってきた。

 掃除を終え今日の仕事は終わったので、帰り仕度を始める。彼女は私に次の日程について話し始めた。今週の土曜日に悩み相談を受けているので、部屋の掃除と助手として初めての仕事をお願いと言われた。相手は十一時に予約しており、彼女は九時までにマンションに来て欲しいと話した。私は頷き「九時間に伺います」と伝える。

ハルさんは書斎に置いてある眼鏡ケースを手に取ると私にくれた。胸ポケットに入れていた眼鏡をケースに仕舞い私は玄関に向った。

アルバイト初日の仕事が終わった。帰り道今日起きた不思議な出来事を思い出す。白紙の日記に文字が現れ、コザクラインコと話しをする。また自称式神の福先生からはなぜか説教をされ、彼は壁の中に消えて行った。

友達に今日の出来事を話したら、すぐ病院へ行けと言われるだろう。それほど摩訶不思議な出来事が次から次へと起き、自分でもよく逃げ出さなかったなと感心した。いつもならとっくに逃げ出していただろう。

でもなぜそうしなかったのだろう。理由は初めに読んだ日記のせいだろう。彼女は小さい頃から他人が理解できない悩みを抱え、逃げずにこれまで生きてきた。これくらいの事で逃げ出していたら小学六年生の彼女にも劣る。きっとそう思い逃げ出さずに残ったのだろう。

それと彼女は目鼻立ちも整い、どこか影があるので気になるのも事実だ。帰り道、そんなことを考え苦笑しながら家に向かった。

 

 助手としての初出勤は、あいにくの雨模様だった。今日の相談とはどんな内容なのだろう。それと彼女の体に神々が降りるとは、いったいどうなっているのだろう。先の見えない不安を感じていた。

私は今日着る服を選ぶ際、派手になりすぎないよう、青と白のストライプ柄のシャツに、カーキ色のチノパンを履き、家を出た。

大きめの傘を広げカバンにはハルさんに貰った眼鏡をちゃんと仕舞った。

家を出ると、傘に大粒の雨が音を立て落ちてきた。しばらく歩いていると、アスファルトを叩きつける雨が跳ね帰り、ズボンの裾の色を変え始める。薄暗い空模様に自然に目線が落ちる。

しかし生まれつき脳天気な私は、先の事をあれこれ考えても仕方ないと思い、彼女の住むマンションに歩幅を広げ歩き始めた。

 マンションに到着し、広いエントランスで部屋番号入力する。案内板のスピーカーから「はい」と言う彼女の声と共にエレベーターに続くドアが開く。私は彼女の声を聴きなぜかほっとする。エレベーターに乗り最上階に到着すると、彼女はドア開けて待っていてくれた。私は小走りで玄関に向う。

部屋に入るとさっそく部屋の掃除に取り掛かる。洗面所から掃除機と布巾を取り出し掃除を始める。リビングと書斎の掃除を終え最後に癒し部屋の掃除を残すのみだ。この部屋には天敵のテンがいる。またホー、ホーと言うに決まっている。

私は家から持ってきた耳栓を着け癒し部屋に入る。何が有ってもテンと目を合わせないようにしよう。そんな私の気持ちに気付いたのか、部屋に入ると鳥かごのテンが羽を広げ急に暴れはじめた。きっと良からぬことを叫んでいるに違いない。私は目線をそらし癒し部屋の掃除を始めた。

テーブルの上に置いてある鳥かごの周りにはエサや水が飛び散っている。テンがわざと散らかしているのだ。

私はテンと目を合わせないよう注意しながら、鳥かごを持ち上げテーブルを拭き上げる。

その後、耳栓をしたまま観葉植物に霧吹きで水をやり掃除機をかけこの部屋の掃除を終えた。

掃除道具を手に洗面所に戻ろうとしたその時、なぜか鳥かごの中が騒がしい。どうなっているのかとのぞき込むと、片付けたはずのテーブルの上に水が飛び散っている。いま掃除したばかりなのに。そう思い近づくとテンが羽根を広げ水入れの水を掻き出している。

私が近づいていくと、待っていましたと見せつけるように、今度はエサの入ったかごに頭を突っ込み、まるで歌舞伎の連獅子を演じるように頭で餌をかき出し始めた。何してくれる、馬鹿テン。性格が悪いにも程がある。飼い主の顔を見てみたい。そう思った瞬間、部屋に彼女が入ってきた。タイミングが良すぎる。私は耳栓を外しながら彼女に小言をいう。

「ハルさん見てくださいよ。せっかく綺麗に掃除したばかりのテーブルにテンが水とエサを散らかします」

 彼女にそう伝え再び鳥かごを見ると、先ほどまで散らかっていたテーブルは綺麗に片付いている。「えっ」慌ててテーブルに近寄るとやはりエサや水など消えテーブルは綺麗になっている。

「テン。何をした」

テンは私と目を合わせることなく「クルルルル」と笑うような声で鳴いた。テン、おまえはマジシャンか。マジックをする鳥は一躍人気者になるかもしれない。そんな脳天気なことを考える自分に嫌気がさす。

テンと遊んでいる場合ではない。もうすぐ相談者が来る時間だ。飲み物は何を用意するか彼女に尋ねると「コーヒーを入れて」と返事が返って来た。私は両手に抱えた掃除道具を洗面所に仕舞いキッチンに向かう。

キッチンにはバリュミューダのコーヒーメーカーが置いてあり、その隣にはスタバのコーヒー豆が置いてあった。来客は二人と聞いていたので四人分の豆と水をコーヒーメーカーにセットする。電源を入れるとさっそくシュッと言う蒸気の音が聞こえてくる。まんべんなく豆を蒸らし終わると次にお湯が落ちる音がしてきた。リビングにコーヒーの香りが広がる。私はその香りに、今日一番気持ちがほだされる。

コーヒーカップをトレーにセットし準備完了だ。ハルさんはリビングの椅子に座り相談者の資料に目を通している。どんな相談内容なのだろう。私も一緒に話が聞けるのだろうか。そんな私の心の聲に彼女が答える。

明生君はダイニングで私たちの話を聞くと良いわ。その時、このノートに内容を記録しておいて。万年筆はこれを使ってちょうだい。これにはちゃんとインクが入っているから。あと、相談が始まったら眼鏡を掛けて聞いてちょうだい。面白い者が見えるわよ。

 彼女はなぜか楽しそうに話しながら万年筆とノートを渡してくれた。私はカバンから眼鏡ケースを取り出すと一式をテーブルの上に置いた。

ちょうどその時インターフォンのベルが鳴り始めた。彼女はモニターで確認するとエレベーターに続くドアを開いた。どうやら相談者が到着したらしい。しばらくすると玄関のチャイムが鳴り私たちは玄関に向う。

 ドアを開けると少し歳の離れた夫婦が並んで立っており、女性は赤ちゃんを抱いていた。

「お待ちしておりました。どうぞ中にお入りください」

 そう彼女が話すと二人は玄関で会釈をすると靴を脱ぎ始めた。私は初めてここを訪れた時の事を思い出した。玄関の段差に躓きこけそうになったのだ。子供を抱えている女性に「玄関は段差があるので気を付けて下さい」と声をかける。女性は微笑みながら段差のある玄関をいっきに上がる。

 ハルさんを先頭に、相談者の二人の後ろを歩きリビングに向かう。私はそのままダイニングへ向かい、準備しておいたカップにコーヒーを注ぐ。

カップから白い湯気と共に甘いナッツの香りが部屋の中に広がる。その時、コーヒーの香りをかき消すかのように、ベランダから冷たい風が入って来た。

私は風が吹き込む方向へ目を向けると、ハルさんがベランダのガラス戸を少し開けて戻って来るのが見えた。部屋の中は暑くもないのになぜガラス戸を開けるのだろう。外から吹き込む冷たい風に部屋の空気が一瞬変わったようなそんな気がした。

私はダイニングテーブルに置いていた眼鏡を取り出しかけた。トレーに載せたコーヒーカップからは白い湯気が上り甘いナッツの香りが広がる。リビングで話をしている三人にコーヒーを出し終わり全員がそろった所で自己紹介が始まった。ハルさんに続き私が挨拶をする。

「助手の田辺です。よろしくお願いします」

「斎藤隆司です。妻の唯奈と子供の有紀です」

 彼が家族の紹介をした。その際、年齢の話題も出た。夫の隆司さんが四十二歳、妻の唯奈さんが三十二歳と十歳離れている。彼は年の離れた奥さんを貰ったため、実際の年齢より若々しい。彼女の腕の中で眠る有紀ちゃんは生後十か月の女の赤ちゃんだ。

私は話しをしている隆司さんに目を向ける。髪の毛は短く刈り上げ、四角い顔は日焼けし、分厚いレンズの眼鏡をかけている。分厚いレンズのせいか眼が大きく、眉間に皺を寄せ話す姿はまるでパグそっくりである。

来ている服は、青いストライプ柄のシャツに光沢のあるグレーのパンツで、いかにも高かそうに見える。四角い顔と大きな眼が特徴の彼を、私は勝手に「パグ」と名付けた。

次に妻の唯奈さんに目を移すと、丸顔で耳がぴんと上に伸びている。顔の作りは小さいが、大きい目に黒い瞳がはっきりと見えチワワに似ている。

ほっそりしている彼女は、オレンジ色で体より一回り大きめのパーカーを着ている。常盤色のロングスカートは体の線にぴったり合っており、だぶ付いたパーカーとは対照的だ。長い黒髪は、木目柄のバレッタで留め赤ちゃんの顔に掛らないようにしている。心配事でもあるのか、うつむき加減で表情は暗い。

二人並ぶと同じ犬顔ではあるが特徴は対照的である。

生後十か月の有紀ちゃんはピンク色のベビー服を着ており、胸には子犬の絵がプリントされている。ただ、眼鏡越しに有紀ちゃんを見ると、身体の回りを灰色の雲の様なものが覆っている。その雲は彼女を包み込み、まるで生き物のようにうごめいていた。

なんだ、あの雲のような物は。私がそう思っていると、ハルさんが子供を抱かせてほしいと立ち上がった。彼女は寝ている赤ちゃんに向け両手を広げる。するとそれまでぐっすり寝ていた有紀ちゃんが目を覚まし、小さな両手を広げると早く抱っこしろと催促する。彼女を抱きかかえたハルさんは、目尻を下げながら可愛を連呼している。

すると、ハルさんの腕に抱かれる有紀ちゃんの周りでうごめく灰色の雲が次第に薄くなってきた。私は見間違いかと思い有紀ちゃんをじっと見つめる。やはり灰色の雲は薄くなっている。

彼女がしばらくの間、有紀ちゃんをあやしていると、それまでうごめいていた雲は完全に消えて無くなった。ハルさんにも雲が見え、有紀ちゃんの身体から払ったのだろう。

得体の知れない雲が消えると、部屋の空気が変わり、いつもの部屋に戻った。

有紀ちゃんの笑い声が部屋中に響き渡り、束の間リビングは和やかな雰囲気になった。

ハルさんは唯奈さんに赤ちゃんを渡すと、そのままベランダのガラス戸を閉めに行った。有紀ちゃんの身体を覆っていた灰色の雲と何か関係がるのだろうか。

ハルさんはソファーに座り直す。今までの柔らかい表情から急にスイッチが入ったかのように精悍な顔つきに変わり話し始めた。

「今日の相談内容ですが有紀ちゃんが原因不明の熱が続き病院でも処置出来ないと言う事でしたね」

 パグの目が一瞬大きく見開き、頷きながら話し始めた。

「そうです。この子はいま十か月を迎えましたが、六か月を過ぎたあたりから急に熱が出始めました。夜になるとその熱のせいか、火が付いたように泣き出しミルクも飲まず手の施しようがありません。それも決まって夜中の一時頃に泣き始め、三十分ほどすると突然泣き止みそのまま寝てしまいます。病院で検査をしましたが何の異常も見つかりませんでした」

「そうですか。それは本当に心配ですね」

ハルさんがそう話す。唯奈さんに目を向けると今にも泣きだしそうな顔で赤ちゃんを見つめている。きっと先ほどの灰色の雲が関係しているのだろう。そう思いながらリビングでの話に耳を傾ける。

「それ以外に何か変わった事はありませんか」

 その問いにパグは額を擦りながら何かを思い出し答える。

「そう言えば最近、誰もいない家でたまに物音がし、何かがいる気配を感じます。気のせいかもしれませんが」

パグの眼は細くなり、神経質そうな瞳に変わった。家の中で何か異変が起きているようだ。

「わかりました。それでは始めましょう。これから私の体に、様々な神々が降りてきます。神々はあなた方のこれまで歩んでこられた人生やこれからの人生についてお言葉を述べられます。そのお言葉を受け、二人でこれから進むべき道を決めて下さい」

 彼女はそう話すと椅子に浅く座り、背筋を伸ばし姿勢を正す。次に目を閉じると呪文のようなものを唱え始めた。

「オン バサランダンドバン・・・」

静まり返った部屋の中に、彼女の声だけが響き渡る。すると急に部屋の空気が急に変わり、室内の温度も下がったようだ。リビングでは張り詰めた空気に緊張感が増した。相談者の二人もその気配を感じ、背筋を伸ばし姿勢を正す。パグの表情は緊張からか強張り、神妙な顔が余計にパグそっくりになる。リビングは不思議な静寂に支配される。

「胎蔵界様のお言葉」

目を閉じたハルさんの口から奇妙なナレーションが漏れる。次の瞬間、眼鏡越しに彼女の姿が年配の髪の長い女性に替わった。

私は見間違いかと体を前のめりにし、椅子に座る女性をまじまじと見る。やはりハルさんとは別人で年配の女性が座っている。予想外の出来事に私はびっくりして声を上げそうになる。慌てて口元に手を当て漏れそうになる声を飲み込む。

一度眼鏡を外し直接見た。そこにはハルさんがちゃんと座っている。私は再び眼鏡を掛け彼女に目を向ける。やはり五十代くらいの女性が椅子に座っている。

面長でさらさらの黒髪が光を反射するほど綺麗だ。切れ長の目がほんの少し吊り上がり、気が強そうな雰囲気を醸し出す。

ダイイングで一人せかせかしていると、黒髪が美しい女性と目が合った。何も悪いことをしたわけではないが、私は蛇に睨まれた蛙のように身体が動かない。

彼女が視線を移すと、身動きできなかった体が動き出す。神様の力はやはりとてつもない。目を合わせただけでこれほどの圧力が有るのだから。

体の自由が利き、気持ちも少し落ち着いてきた。私は眼鏡をかけたままその女性の話に耳を傾ける。

女性は二人を交互に見渡し静かに口を開く。

「今日はよく来てくれたわね。まあ、私たちがここに来るよう仕向けたのだけど。ハルに会わなければ、娘さんの命はどうなっていたか解らなかったのよ」

今度は彼女の声と語り口が今までとは全く違い耳を疑った。リビングで背筋を伸ばし座っていた二人の目にも驚きの表情が浮かぶ。パグはポカンと口を開け固まっているようだ。

 年配の女性は穏やかな口調だが内容はのっけから鋭く、パグはカウンターパンチを食らったように表情が歪んでいる。確か初めのナレーションで胎蔵界様と話していた。

 私は目の前の女性が気になり、スマホで「胎蔵界」と検索してみた。スマホの画面にはぎっしりと検索結果が現れる。

「大日如来 胎蔵界 金剛界」

私はこの項目を検索した。

【大日とは大いなる日輪と言う意味で、宇宙の真理を意味し、全ての生き物は大日如来から生まれてくる。無限の慈悲の広がりを象徴し、全ての森羅万象がその中に包み込まれる。種の起源】

 私は検索結果に目の玉が飛び出るほど驚き、恐る恐る胎蔵界様に目を向ける。見た目は近所に住む年配の女性と変わらないように見える。しかし眼力は途轍もなく強い。先ほど目が合っただけで私の身体は棒のように固まってしまったのだから。

そう言えば金剛界様と二人が種の起源と書いてある。もしかしてアダムとイブと言う事なのだろうか。当時のリンゴはどんな味だったのだろう。恐竜とかも普通にウロチョロしていたりして。私の想像は相変わらず馬鹿な方向に向かってしまう。

すると胎蔵界様は私の方に目を向け睨みつけた。やばい、そう思った途端、また体が固まって身動きできない。馬鹿な事を考えている場合でない。私は無心になり胎蔵界様の話しに耳を傾ける。

「娘さんの具合が悪いのはあなたのせいよ」

胎蔵界様は次のパンチをパグに繰り出す。ストレートパンチは顎にヒットし、すでに彼はノックアウト寸前のようだ。瞳は上下左右に動き回りたゆたっている。そんな彼の様子を察したのか、胎蔵界様は別の話を始めた。

「あなたの人生は、自分自身で歩む道を選んでいるようで、実はそうではないのよ。人はこの世に生まれる時、宿命を背負っているの。宿命とは生まれる前から定まっている運命で、自分の力の及ばない事象の事よ。地球上のどこに生れ、どんな家庭環境に生れるかは解らないでしょう。また病気を抱えこの世に生まれてきたり、その後不慮の事故に遭ったりとかは自分の力ではどうする事も出来ないでしょう。それが宿命なの」

 私が就職できなかった事も宿命で決まっていたのだろうか。コロナ過の中、宿命ならば仕方ない。

「生れて後、自分たちの行いで運命を切り開き、未来を作り上げるの。途中、私たちが与える学びにもがき苦しみながら、魂は成長していくの。この学びが魂を成熟させるためには必要で、私たちが与える学びに気付いた時点でその事象は終り、悩みは消えて行くの」

 へぇー。私達の悩みは、神様が魂を成長させるために与えてくれているのか。その悩みから学を見つけると試練が終わると言う事なのか。

しかし今の私は悩み事など無い。もしかして与えられている学びに気付かないほどぼっとしているのだろうか。この先、私の人生は大丈夫なのだろうか、ふと不安になる。

 胎蔵界様の話は続く。

「私たちの与えた学びを乗り越え苦しみに耐えながら、生まれて来る前に私達と誓った事を思い出し、その道を歩き出すの。これが使命ね。使命に気付く者は本当に少ないのよ」

 私は生まれる前に何を誓って生れてきたのだろう。全く覚えていない。きっと誓うのも忘れ、とっとと地球に降りて来たのだろう。

「使命を思い出した者たちは、魂が誓った事を成し遂げるため歩み始めるのよ。勿論歩む先にはさまざまな学びが与えられ、一つ一つ解決しながら魂が成長していくの」

 悩みが無いと魂が成長しないと言う事なのか。すると悩みのない私の魂は、成長していないと言う事になる。眉間に一筋の汗が流れる。

「最後に天命。使命に従い学びを繰り返すことで魂が成長し、成熟した魂に神々が最後の学びを与えるの。これが天命。これを乗り越え生まれる前に誓った使命を成就した者に、私達は贈り物をするの。そのプレゼントを受け取った者は、心が不動の境地に達するのよ。まさに安心立命の境地よね」

 少し話が難しい。頭の悪い私には半分しか理解出来ない。

「今のあなたは運命に翻弄され、生まれる前に魂が誓った使命さえ忘れている。早く使命を思い出し自分の道を歩みなさい。あなたの運命はまだ何も決まっていないのだから」

 パグの使命とは一体何なのだろう。

「あなたは弁護士として依頼人に対してはよく弁護しているけど、間違った判断をしたことはないかしら。依頼人を守ることが仕事なので彼らからの話しで判断するのは判るけど、人の心はいつも澄んでいるとは限らないわ。自分の罪を隠すため嘘を付く者もいるわ」

 パグは弁護士をしているのか。どうりで身につけている物が高価な物ばかりだ。

弁護士として依頼人とは良好な関係を築いているらしい。しかし裁判の場では、依頼人を守るため強引な手法を使い、相手から恨まれることは有るのではないか。そんな恨みが赤ちゃんの体調不良の原因なのだろうか。そう思いながらパグに目を向けると、いまだに黒目が動きまわり落ち着きを無くしている。

「あなたの担当した裁判で被害者から恨まれるようなことは一度もなかったかしら。あなたは法廷で事実のみを唱えて来たのかしら」

 パグは過去の裁判を振り返り遠くを見る様な目つきをしながら話し始める。

「過去の裁判で被害者から恨みを買うようなことはあったかもしれません。しかし、私は間違った事をした覚えはありません」

 パグは動揺を隠しながらも法廷で話しをする様に淡々と胎蔵界様に返事をする。彼女はその話を耳にすると、眉が少し上がり切れ長の目が一段と細く険しい表情になる。

「それは依頼人の都合の良い話に乗り裁判をすすめた結果ではないかしら。事件をいろんな角度から見ることは、弁護士として当然の務めではないの。依頼人を守るためなら事実を曲げても良いの。いつからあなたは手足に枷を付け生きてきたのかしら」

 パグはうつむき胎蔵界様から視線をそらした。きっと胎蔵界様の話しに思い当たる節が有るのだろう。裁判で事実を押し曲げ、依頼人の利益を優先させた事が。

「あなたはなぜ弁護士になったの。初めの志は高かった様だけど。弱い立場の人達を助け、社会から落ちこぼれた人達を救うため弁護士になったのでしょう。今では落ちこぼれた者達を切り捨て、強き者の言いなりになっていないかしら。いまのあなたを成長していくこの子は尊敬できるのかしら。あなたの人生は貴方だけのものでは無いのよ。家族や周りの人にも大きな影響を与えている事を忘れないで」

 胎蔵界様は子供に諭すような穏やかな口調で彼に話し続ける。パグは相変わらずうつむいたままだ。隣の唯奈さんはその様子を心配そうな目で見ている。

 私はメモを取りながら話の行方を見守る。この後どんな展開になるのだろう。

「その子の体調不良はあなたの過去の仕事が原因よ。今回ハルとの出会で自分を見つめ直すと良いわ。可愛いその子のためにも必ず解決しなさい。あなたが愛するその子のためにも」

 胎蔵界様はそう話をすると急に気配が消えていく。えっ、これで終わり?これからの話の展開に期待していた私は肩透かしを食らう。

眼鏡越しに見る胎蔵界様の姿は消え、ハルさんに戻った。

パグは過去の事例を思い出しているのか、床の一点を見つめたまま動かない。胎蔵界様の気配が消え、いなくなった事すら気付いていないようだ。

部屋の中の空気が一段と重くなり、夫婦二人の表情は曇っている。いっぽう有紀ちゃんは相変わらず母親の腕の中で気持ちよさそうに寝息をたて寝ている。体調を心配する二人をよそに、何事もなかったかのようだ。その時、ハルさんに次の神が降りてきた。

「観世音菩薩様のお言葉」

 例の奇妙なナレーションが流れ今度は観音様が彼女に降りてきた。観音様の名前は神様にあまり詳しくない私でも聞いたことがある。本当に観音様が目の前に居るのだろうか。私は半信半疑で目の前の女性に目を向ける。

眼鏡越しに映る女性は、黒髪が肩にかかるほど長く、切れ長の目は月の光を宿したような瞳をし、見るからに優しそうな神様だ。かすかに微笑む姿は神々しく、後光が差している。胎蔵界様の時と同様、その光景に私は手を合わせ拝みたくなる。そんな私をよそに、観音様は静かに話し始めた。

「今日はよく来てくれました。ありがとう」

 観音様は二人に挨拶をするとパグはやっと我に戻り目の前の観音様に慌ててお辞儀をする。観音様は唯奈さんの腕に抱かれる有紀ちゃんを見ながら話し始めた。

「この子には因縁が憑けられています」

 観音様の言葉に部屋の空気が凍り付く。しばらくの間、部屋の中は静寂に包まれる。観音様はパグをまっすぐ見つめながら話し始めた。

「その子に憑いた因縁を断ち切るため、これからハルと共に複雑に絡み合った糸を解いていくのです。カギはあなたが携わってきた仕事の中にあります。闇の者達がある者の心を支配し、この子に因縁を憑けたのです。これはあなたにとっての学びなのです。これからの出来事は、あなた自身の考え方や家族との向き合い方を変えるチャンスとなるでしょう。きっとハルがあなた方の進むべき道を照らしてくれます」

 パグは観音様の話を聞きながら、疑問に思ったのか口の中で「闇の者」と言葉尻を上げながら言う。それを聞いた観音様は、悪魔の事ですと彼に諭した。彼は小さく頷いた。

 観音様の話の中でたびたび因縁という言葉が出てきた。私は因縁の意味がよく分からず、携帯を取り出し調べる事にした。画面いっぱいに検索結果が表示された。私は一番上に表示された「因縁」を開く。

仏教用語で、結果を引き起こす直接の内的原因である因と、それを外から助ける間接的原因である縁。仏教ではすべての生滅はこの二つの力によると書いてあった。解ったような、解らないような、結局よくわからない。モヤっとした気持ちを抑え、観音様の話しに耳を傾ける。

「今のあなたを見ていると貴方の父親を思い出します。あなたは同じ道を歩んでいます」

 彼は観音様の話に一瞬眉をしかめた。父親と同じ道を歩んでいる事が不服なのだろうか。

「日々の仕事に追われ、ゆっくり家族と過ごす時間も無いようですね。このままでは父親と同じ結末を迎えることになるでしょう。今回、何の関係もないこの子が、あなたが引き寄せた因縁に苦しんでいます。そして今まさにあなたが愛するこの子が、その因縁によりこの世から消えようとしているのです」

 観音様の「消える」の言葉に二人は息を呑む。

「観音様。この子が死ぬと言う事ですか」

 彼はうなるような声で尋ねる。

「そうです。このままではこの子は因縁により命を落とすでしょう。せっかく二人のもとに生れて来た命が消え、天上の世界に戻ることになるのです」

 二人は突然の話に戸惑い、観音様に助けを求める様な目つきでじっと見つめている。束の間の静寂がすぎると、彼は我に返り身を乗り出し話し始めた。

「何をすれば良いのでしょうか。私が誰かの恨みを買い、この子に因縁を憑けたと言うのですか。正直、仕事の中でいつ恨みを買ったのか、まったく覚えがありません」

 彼は暑くもない部屋の中で、一人額から汗を流している。その様子では本当に恨みを買う覚えがないのか、嘘を付いているのか解らない。しかし尋常でない汗の掻き方からすると心当たりは有りそうだ。私はメモを取りながら彼の様子を伺う。すると観音様が重たい口を開いた。

「心当たりが無ければ仕方ありません。今からハルと一緒に因縁の源をたどってもらいます。この子を救う道はそれしかないのです。私がお話し出来る事はここまでです。必ずこの子を救う道を探し出してください。それからこの学びを無事終わらせあなた自身、家族との関りをもう一度見直すのです」

 観音様は優しい表情で話をしているが因縁の原因は教えてくれなかった。すべてを教えてくれるわけではないようだ。その優しい表情が逆に怖く感じる。

「待ってください。まだ聞きたいことがあります」

 彼は気配が徐々に消える観音様にすがるような声をあげた。しかし目の前の女性はすでにハルさんに戻っている。彼もその気配に気づいたのか諦めた様子だ。

 次の神が彼女に降りて来た。

「幣立神宮御主のお言葉」

 みたび変わったナレーションが入る。それにしても「ヘイタテ神宮御主」とはどんな神様なのか。目の前には頭の禿げた老人が座っている。本当に神様なのか。今まで現れた神様とどこか雰囲気が違う。見た目は貧乏神の様な雰囲気を醸し出している。私がそう思った途端、幣立神宮御主は直接私の心に話しかけて来た。

「貧乏神じゃない。失礼な奴だな」

 目の前の老人から直接届いた心の聲に驚き、あわてて右手で口を押える。知らぬ間に頭を縦に振り、なぜかお辞儀をする。

しかし初めて聞く名前の神様だ。どこかの神社の守り神なのだろうか。私はさっそく携帯で調べてみる。

画面に現れたのは、九州のへそと言われる熊本県蘇陽町にある神社だ。国始めの高天原神話の発祥の地と書いてある。天孫降臨物語はここから始まったようだ。

高天原と言えばあの世とこの世を結ぶ場所として須佐能の尊が亡くなった母親に会いに行った場所だ。本当にそんな場所が有るのか。

携帯で続きを読むと、その神社は一万五千年の歴史があると書いてある。この老人、いったい何歳なのか。まさかと思うが一万五千歳なのか。私が携帯の画面を覗いていると、その老人が「そうだ。一万五千歳だ」とまた直接私の心に話しかけた。嘘でしょう。一万五千年も生きているの。つい私は心の中でつぶやく。すると老人は、後光ではなく髪の毛のない頭を光らせ私を睨みつけ声を上げ話しかける。

「もういいかな、若造」

 私に向かい呆れたように話しかける。私はその場に立ち上がり「すみません」と頭を深々と下げ謝った。突然の出来事に二人は私を振り返り、何があったのかと目で訴える。「もうよい」御主はそう言うと視線を二人に向け直した。

「ところで後ろにいるあの者がお主の事をパグと呼んでおるがどういう意味であろうのう」

 私の心の聲は全て聞こえているようだ。

パグは一人振り返り私を見る。しかし御主の話分からないと言う風に首を振った。助かった、勝手にあだ名をつけたことに気付いていないようだ。私の額からは汗が流れ落ちる。余計な事は考えず話に集中しよう。

パグが正面を向くと、御主は二人に向け話し始めた。

「話は変わるが、お主の両親はすでに亡くなっているようだな。生前親孝行もせず、今も墓参りにさえ行っていないようだな。お主は親の助けも借りず一人で大きくなったと思っておるのか」

 急に話が両親の事に変わった。話の展開からすると赤ちゃんの因縁と関係のないようだが、なぜだろう。パグも少し戸惑いながら返事をした。

「一人で大きくなったとは思っていません。確かに親孝行をする前に二人とも亡くなった事は事実です」

 パグは先ほどまでとは語り口が少し落ち着いてきているようだ。左右上下に動いていた瞳も今は正面のハルさんを見つめている。

それにしても、話し方や声までも老人そのものに変わっている。眼鏡を掛けていない二人も目の前のハルさんが老人に入れ替わったと感じている様だ。それほど彼女の声や口調は老人そのものである。

「ほう。両親が亡くなり墓参りもしない者が、生きているうちに親孝行を考えていたとは思えないが。まあ、それはよかろう。母親とは仲が良かったようだが父親とは話もしていなかったようだな」

 パグにとっては厳しい話だが、動揺はしていなように見える。

「父は仕事が忙しく土日も働いているような人でした。平日、家に帰る時間も遅く、父と顔を合わせる時間もありませんでした」

 彼は冷静に話を進めた。さすが弁護士と言うような淡々とした語り口だ。

「母親は病気で亡くなったようだが、父親は自殺だったようだな」

「えっ、自殺」

私はみんなに気付かれない程の小さな声でつぶやく。なんだか雲行きが怪しくなってきた。パグの様子も徐々に変わりはじめ、膝が小刻みに揺れ始めた。

「母が病気で亡くなると父親は気落ちしたのか、二年後に自宅で首を吊り自殺しました。なぜ父が自殺したのか私には未だに分かりません」

「馬鹿者。ここでの嘘は何の意味もない」

 急に声を張り上げ怒鳴る御主。私の身体もピクリと動く。パグも怒鳴り声に体が大きく動く。

「お主は自分の体裁を気にするあまり、事実を曲げ物事を見ている。胎蔵界様が話していたように、手足に枷をはめられ生きておるようじゃ。弁護士たるもの事実に目を向け、相手の心の動きに惑わされることなく心素直、素直に生きてこそ真実が見えてくる」

 パグは子供が叱られているように、顎が胸につくほどうなだれている。きっと御主の話しは図星なのだろう。

それにしても急に家族の話になったが、仕事関係で恨みを買い因縁を憑けられたのではないのか。父親の自殺は少し気になるが。私はノートに書き留めながら次の展開を見守る。

「ところで実家は今どうなっておるのじゃ」

「売りに出しています。二年経ちましたが、いまも売れていません」

 御主はパグの話に何か言いかけ、言葉を飲み込む。どうかしたのだろうか、気になる。

その後、御主は父親の話しから仕事の話しへと話題を変えた。やはり鍵を握っているのは裁判にまつわる恨み事の様だ。ただ、どの裁判で恨みを買ったのか、パグも解っていない。いったいどうやってその案件を探るのだろう。彼は本当に恨みを買った裁判の事を思い出せるのだろうか。彼の表情は暗い。

人は些細な出来事で恨みを買う。まして弁護士という仕事柄、恨みを買う機会は多いだろう。恨みの種は尽きないのでは。

すると御主は子供の因縁に関する事件を三つ教えてくれた。

一件目は彼が法律事務所に入り二年目に関わった裁判だ。いまから十五年前の事件らしい。依頼人は三十代後半の男性で、見知らぬ男女数名が参加した飲み会後の事件だ。飲み会に参加し泥酔した女性を依頼人が自宅まで送ることになり、彼女のマンションで強姦したと訴えられた件だ。依頼人の男性は一貫して無罪を主張した。裁判では準強制性交等罪を争う事になる。判決では依頼人を犯人とするには証拠が不十分で、無罪となった。

二件目の事件は今から八年前。三十代の持病を持つ男性が車の運転中、ゆるやかなカーブを曲がり切れず歩道に乗り上げ歩行者をはね、数週間のけがを負わせた事故だ。警察は過失運転致傷罪で起訴した。加害者はテンカンの持病を持っており、裁判では通院していた病院で適切な治療を受け、事故を予測することは難しいと判断され無罪となった。

三件目の事件は今から二年前。依頼人はバーでお酒を飲みすぎ、隣の席のお客と口論になり怪我を負わせた事件だ。当時、加害者は過度な飲酒で隣の男性に絡み、全治一カ月の怪我を負わせた。被害者の男性は警察に被害届を提出。加害者の父親は彼の主要取引先の役員で、父親からの依頼で被害者への謝罪と示談金の交渉を行い示談が成立した。

御主が教えてくれた三件の事件が赤ちゃんの因縁にどう関わっているのか、皆目見当がつかない。

パグも眉間に皺を寄せ記憶をたどっているようだが、思い当たる節はなさそうだ。何せ十五年前の裁判である。記憶も曖昧の様だ。御主は頭を抱える彼を見ながら、最後は情のこもった穏やかな声で話し始めた。

「この子の因縁を払うためにも過去の裁判をもう一度見直しなさい。がんばれよ。私たちはいつもお前の近くで見守っているぞ」

 親が子供を諭すように幣立神宮御主は低い声でゆっくり話す。さすが一万五千歳の貫禄である。私は妙な所に感心する。

 パグもどの案件が子供の因縁に関わっているのか分かりほっとしているようだ。

その後の面談では彼女に数人の神が降り、斎藤さんへのアドバイスをしていた。面談は一時間が過ぎ、ようやく終了した。

神々の聲を伝え終わった彼女は少し疲れた様子である。私にとっても色んな神々を間近で視る事が出来、不思議な体験だった。本当に神様はいるのだ。

テーブルの上に並んだコーヒーカップはすでに空になっている。私は慌てて新しいコーヒーを入れ直した。三人のカップにコーヒーを入れ、私も彼らのテーブル近くに移動した。

パグはこの一時間、顔の色が赤くなったり青くなったりとせわしなく変わっていた。彼にとってこの一時間は、とてつもなく長く感じた事だろう。その証拠に積もり積もった疲労で、顔が別人のようだ。

変貌したパグは、御主の話に出た三つの事件に関し、何か思い当たる事はあるのだろうか。憔悴している彼は子供に眼を向け、何かつぶやいている。

「私がこの子を守らなくては」

そう言っている様に聞こえた。疲れた表情ではあるが、瞳には強い光が宿っている。ハルさんはコーヒーに口を付け一呼吸置くと二人に話しかけた。

「神々の話の中で過去の事件の話が出ました。三件の事件に何か思い当たる節はありますか」

「いいえ。今のところ三つの事件で誤った判断をしたとは思いません。また、三つの事件の関連性も無いと思います。依頼人は違いますし、加害者との接点も思い当たりません。詳しい内容は会社に保管している資料を見なければ分かりませんが」

 パグは大きい目を細め、昔の事件を思い浮かべ話をする。

「差し支えなければ、その三件の資料を見せてもらえませんか」

 ハルさんはゆっくりした口調で彼に問いかける。

「個人情報も入っているので、その部分を黒塗りにした資料でよければお渡しできます。ただし本来表に出せない資料ですので取り扱いには十分注意をしてください」

 弁護士らしくテキパキとした口調で話す。

「もちろん資料の取り扱いに関しては十分気を付けます。有紀ちゃんの因縁を祓うため、三件の事件の中にある鍵を見つけたいと思います」

 ハルさんの話しぶりも堂に入っており頼もしい。

「よろしくお願いします。私たちに出来ることは何でも協力しますので、どうか子供の因縁を祓って下さい」

 彼はゆっくり頭を下げた。三件の事件が有紀ちゃんの因縁にどの様にかかわっているのだろうか。今はまだなにも分からない。

私がハルさんへ視線を移すと、何か思い悩んだような難しい顔をしながら、彼らに話しかけようとしていた。

「有紀ちゃんを霊視していて、一つ気になることがあります。斎藤さんの自宅に悪い気が住み着いているような気がします。その気が有紀ちゃんの因縁をより強くしているようです。因縁に巣くう悪魔と言えば分かり易いでしょうか。因縁によるマイナスの気が周りの悪魔を呼び寄せ、より強い因縁に膨れ上がっているようです。これ以上の力に有紀ちゃんは耐えられません。まずは自宅を見せていただけませんか」

 初めに有紀ちゃんの身体に覆うっていた灰色の雲の事だろう。今は消えて見当たらない。しかし自宅に戻ると再びあの雲が体を覆い有紀ちゃんの体力を奪うのだろう。ハルさんの話を聞き、パグの返事は早かった。

「出来るだけ早くお願いします。自宅に何かいると思うと気持ちが悪く、有紀の苦しみも少しでも早く取り除きたいので」

唯奈さんの腕の中で眠る有紀ちゃんを見ながら彼は返事をした。唯奈さんも大きく頷いている。ハルさんはテーブルに置いてある手帳を取り出しスケジュールを確認する。

「それでは次の土曜日はいかがでしょうか。時間は十時ごろ伺えます」

「私たちはいつでも構いません。有紀の事が最優先ですから」

 彼女は「解りました」と返事をすると立ち上がり、ダイニングテーブルの上に置いてある手提げ袋を手に取り戻ってきた。袋にはブランド品のロゴが入っており、彼女はその中から子供服を取り出した。服は濃いピンク色のロンパースで、胸には黄色で幾何学模様の柄が入っている。少し変わった模様の服だが、何か訳でも有るのだろうか。

「このロンパースには因縁を取り除くおまじないが掛けられています。彼女が夜中、泣き止まない時などにこの服を着せてください。この服が積もりゆく因縁を取り除き、体を楽にしてくれるはずです」

 彼女がそう話すと唯奈さんは早速有紀ちゃんにロンパースを着せてみた。サイズはピッタリだ。真っ白な肌にピンクの服がよく似合う。目を覚ました有紀ちゃんは愛らしい瞳でなぜか私を見つめている。見つめられた私はなぜか顔が赤くなる。しばらく有紀ちゃんの話で部屋の空気が和やかになった。

 テーブルのコーヒーも無くなりパグはそろそろお暇しようと唯奈さんに話すと、彼女は帰り仕度を始めた。

私は時間をもてあそんでいる彼に事件の資料を送ってもらう事と、次の土曜日に伺う事をもう一度確認した。彼は「分かりました」そう返事をした。

帰り支度が整うと「そろそろお暇します」と話しソファーから腰を上げる。彼はそれまで着ていた子供服が入れられた袋と唯奈さんの荷物を持つと玄関に向う。その後ろを唯奈さんと私たちが追う。

彼女に抱かれた有紀ちゃんが肩越しに顔を出し私に向かい手を伸ばす。ぬいぐるみのような小さな手を開いたり閉じたりしながら、私に向かいなにやらつぶやき始めた。何を話しているのか全く分からないが、どうやら私は小さな子供にはモテルようだ。だが大人になると見向きもされなくなり、寂しい限りだ。

 玄関で挨拶をする彼の表情は曇っていた。問題は何も解決せず持ち越すことになったからだ。反対に唯奈さんは、有紀ちゃんの機嫌が直り、体調も良いので表情は明るい。それもそのはず、有紀ちゃんの体を覆っていた灰色の雲は消えて見あたらない。

「それでは次の土曜日にお伺いします」

 彼女は二人に伝え玄関で別れた。

少し疲れた様子のハルさんは、リビングに戻ると先ほどまで座っていた一人掛けのソファーに腰を下ろす。神々を自分の身体に降ろす事は、体への負担が大きいのだろう。顔には疲労の色が現れ小さな溜息まで付いている。

「お疲れさまです。なにか飲み物でもお持ちしましょうか」

 そう話しかけると私がいる事を忘れていたのか、急に作り笑いを浮かべ返事をした。

「そうねぇ。ブラックコーヒーは先ほど二杯飲んだから、白でも黒でもないカフェオレにしてもらおうかしら」

 白でも黒でもないカフェオレ。私はこの言葉を胸の中で繰り返しつぶやいた。物事は白黒つけられるものばかりではない。間を取った答え、曖昧な答えもあるという意味なのだろうか。なんて考えさせられる言葉だろう。私が勝手に心の中でつぶやくと彼女は再び話し出した。

「ただカフェオレが飲みたかっただけよ」

 私はその言葉も心の中で繰り返す。ただカフェオレが飲みたかっただけ。

「えっ。ただカフェオレが飲みたいだけですか」

「そうよ。それだけ」

 私の勝手な妄想ではあるが、先ほど心に響いた言葉がこんどは妙に白々しく感じる。

「それでは白でも黒でもないカフェオレをご用意いたします」

 私は少しムッとした表情で答え、そのままキッチンに向かった。

コーヒーメーカーにコーヒーの粉をセットし少なめに水を灌ぎスイッチを入れる。しばらくするとコーヒーメーカーから蒸気の音が聞こえ始めた。粉全体を蒸らし終わると音止まり静かになった。さすが高級品だ。今度はお湯がドリッパーに落ちる音が聞こえてきた。コーヒー豆を通り抜け、ポタポタと数滴サーバーに落ち始めた。コーヒーの深い香りとナッツの甘い香りがキッチンに広がる。

次に私はミルクを温めるため冷蔵庫の扉に手を伸ばす。冷蔵庫の中には食材がきれいに並んでいる。下拵えされた野菜はジップロックに入れられ、一つ一つ名前まで書かれていた。几帳面な人だな。彼女を見ていると大胆でダイナミックな男性的なイメージだ。しかし本来は繊細で細やかな人なのだろう。ついでに冷凍庫も開けて見た。こちらも食材がジップロックに入れられ綺麗に並んでいる。見た目とは違い几帳面なのだろう。

冷蔵庫の扉を長く開けていたせいか、ピーピーと音が鳴り始めた。まるで早く閉めろと急かされているようだ。私は牛乳を手にするとすばやく扉を閉める。片手鍋に牛乳を注ぎⅠHコンロのスイッチを入れる。しばらくすると鍋から白い湯気がたち、スイッチを切った。

食器棚から白いカップを二つ準備しコーヒーをカップの中央まで注ぐ。カップに漆黒の世界が広がった。次に温めたミルクを黒光りするカップにゆっくり注ぐ。暗闇の広がるカップに純白のミルクが光の柱の様に注がれる。カップの中では相反する色が溶け合い、いつの間にかコーヒーでもミルクでもないカフェオレが出来上がった。

 私はほんのり甘い香りが立ち上がるカフェオレをリビングに運ぶ。ガラスのテーブルの上にカフェオレを二つ並べ、私は正面の三人掛けのソファーに腰を下ろした。

「ハルさん。これからどうなるのですか」

「そうね…。神々は今回、有紀ちゃんを救い、闇の者達が関わる魔物も一掃しようと思っているみたい。その魔物も相当力が強いから明生君も死なないように頑張ってね」

「えっ。『頑張ってね』って私も何かするのですか。何もできませんよ」

「出来なければ魔物に殺されるだけよ。まだ若いのにお気の毒様ね」

「殺される」っていとも簡単に話す彼女に私は目が点になる。その彼女はなぜか楽しそうに笑っている。

「殺されるって冗談言わないでくださいよ」

 彼女は誰かと話しをしているのか、私と目が合わないまま楽しげに笑いながら明後日の方を見ている。きっと私の話も彼女の耳には届いていないだろう。私の強い視線を感じたのか、彼女は慌てて表情を戻した。

「そうね。彼から送られてくる資料の共通点を探してもらおうかしら。見つからなければお払いの時に闇の者達の気を引き、時間稼ぎでもしてもらうわ。明生君はそのくらいしか役に立たないしね」

 冗談なのか本気なのか分からない。真顔で話す内容に私の背筋に寒気が走る。毒舌を通り越え、身の危険さえ感じられる彼女の話しに私はしばし茫然とする。そんな私をハルさんは満足げに目じりを下げ笑っている。この人、相当なサディストだ。

「資料が送られてきたら連絡してください。私も闇の者達に殺されるのはごめんです」

 私は少しふて腐れながらカフェオレをいっきに飲む。ハルさんはそんな私を見ながら忍び笑いを洩らす。いったい誰に似たのか、性格は悪い様だ。そう思ったとたん「性格は良い方よ」と何も言っていなのに返事が帰って来る。心の中の聲もお見通しの彼女に私はなすすべ無くうな垂れる。

「まあ、そんなに落ちこまないで。たぶん大丈夫よ。多分だけど」

 彼女の曖昧な言い方に私は余計に不安が増す。気を取り直し彼女に訊いてみた。

「ハルさんには、有紀ちゃんに巣くう因縁の正体が見えているのですか」

「ぼんやりね。今はまだ分からないことが多すぎて、因縁の正体も確信できていない」

 彼女でも分からないことがあるのだ。神々がすべて彼女に教えているわけではなさそうだ。なぜだろう。私の足りない頭で考えても仕方ない。そう思い空になった二つのカップをトレーに載せ片付け始めた。

彼女は一人掛けのソファーに座ったまま、私が書いたノートに目を通している。窓から暖かい日差しが差し込んでいる。その時、突然彼女が声をあげた。

「あっ。斎藤さんの自宅の住所を聞いていなかった」

 彼女の大声に危うくトレーをひっくり返しそうになる。全く彼女はしっかりしているのか抜けているのか分からない。慌ただしく携帯を取り出しパグに連絡を取っているようだ。先ほどまで弁護士相手に堂々と渡り合い、身体も一回り大きく感じていた彼女。今はその面影も無い。

次の土曜日、彼らの自宅に無事たどり着くのだろうか。私の心の中はざわつき、妙な胸騒ぎがする。その胸騒ぎが現実のものとなるのはまだ先の事である。

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