第2章

第17話 花桃の宮



 わたしのために用意された宮は、ルキアン様の宮からそれほど離れていない場所にある。獣人の中でも特に力持ちの種族の方々や、建設が得意なドワーフを集めて建てられた。名を花桃の宮という。

 その名の通り、建物の周囲には花桃が植えられている。これは宮を建てた時に一緒に植えたので、銀木犀やジャカランダのような『狂い咲き』ではない。早春に花開き、春が進むにつれて散って葉に変わっていく、ごく普通の花桃だ。


 花桃の宮には、たくさんの女官や侍女、衛兵や下男が働いていて、わたしの生活を住み良いようにと皆が気を配ってくれている。

 クローブさんとジャスミンさんとロドリーさんしかいなかった銀木犀の宮とは大違いの賑やかさだ。

 これはたぶんルキアン様が、わたしに箔を付けようとして用意してくださった方々なのだろう。

 その御心遣いはたいへんありがたく、とても嬉しい。

 嬉しいのだが……。


「でも、わたしは銀木犀の宮に戻りたいのです、クローブさん!」


 花桃の宮まで足を運んでくださったクローブさんに、わたしは訴えた。

 クローブさんは狐耳を気まずそうにぴくぴく動かしながら、出されたお茶を啜る。


「まぁ、無理でしょうよ。ルキアン様が純情を諦めて肉欲で我慢するか、あなた自身の気持ちに変化がなければ」

「肉欲ですか? ルキアン様に抱かれる覚悟は、わたし、とっくに出来ています」

「ルキアン様がほしいのは忠誠心からの覚悟ではないので、どうしようもないんですよ」


 クローブさんは実に難しいことをおっしゃった。


「そんなことより、シェリ妃」


 わたしがルキアン様と婚姻して以来、クローブさんはわたしのことを『シェリ妃』と呼び方を変えた。

 わたしは呼び捨てのままでも構わなかったのだけれど、ルキアン様の側近であるクローブさんが主人の妻を呼び捨てにするわけにもいかなかったのだ。


 クローブさんは持ってきた荷物をわたしの前に置く。


「頼まれていた城下の流行りの菓子と、……次の夜会の衣装です。衣装はルキアン様がお選びになりました」

「まぁっ、ルキアン様が! とっても嬉しいですっ。運んできてくださってありがとうございます、クローブさん」


 夜会に出席するということは、ルキアン様の正妃として公務を行うということだ。ルキアン様のお役に立てると思うとうきうきした。


「……あなたに良からぬ態度を取る貴族がいたら、すぐにルキアン様か僕に伝えてください。未だルキアン様の『逆鱗妃』を侮る者が多いのですから」

「わたしはべつに気にしていません」


『もしかしたらその幸運を、自分が手に入れられたかもしれないのに』と、本当は自分が手に入れられる保証など何一つなくとも、自分以外の誰かが幸運を手に入れてしまうと相手を羨んでしまう人など、掃いて捨てるほどいる。キラ皇国にいた頃、貴族社会でも修道院でも、そういう人たちをよく見かけた。


「ぽっと出の相手を嫌う者は、どこの国にもいらっしゃるものですから」

「何をぼんやりとしたことを言っているのですか、シェリ妃? あなたがルキアン様に嫁がれてから、もう二年も経ちますが」


 花桃の宮を建てたり、宮で働く人を選別したり、引っ越しをしたりしていたら、わたしもルキアン様も十六歳になってしまった。

 二年で妃の宮が建てられたこと自体は、異例の速さだったと思うのだけれど。


「わたしとルキアン様の間に、二年経っても子がいないことが問題なのではないのでしょうか? 出来るはずもないのですが」

「結局話はそこに戻ってしまうんですよね……。僕の主君は、本当に頭が痛い。据え膳食わぬは、という言葉に耳を塞いでいるつもりなのか」


 クローブさんは指で自分の眉間を揉みつつ、立ち上がる。


「では夜会の時にルキアン様とお迎えに上るので、支度の方をよろしくお願いしますよ」

「はいっ、クローブさん」


 客室から退室しようとしたクローブさんは、ご自分が持ってきた衣装箱の横に置かれた、城下の菓子店の箱に目を止める。


「あなたも結構、甘い物が好きですよね。毎回ほしいものを尋ねられる度に『城下で流行りのお菓子を』と答えるのですから」

「……ふふふ、そうでしょうかね?」


 実はこれは毎回、全部はわたしの口には入らず、半分はある人に奪われているのだけれど。

 その事実を知られるのは何だか後ろめたくて、はぐらかしたような返答になってしまった。


 その後クローブさんを玄関先まで見送ると、わたしは夜会の衣装の確認のために宮の奥へと戻った。

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