第29話

 そんな頃、平太郎よりも先に再会したのは、いつかの若旦那である。じゅんが見世仕舞いをしていると、振り返った時に立っていた。


「あっ」


 そんなに大きな声を出したつもりはなかったが、地声が大きいじゅんである。若旦那も焦って見えた。

 隣の勘助は天麩羅が品切れとなり、早々に帰ってしまってすでにいない。


「いつかの若旦那さん。その後はどうかしら?」


 奉公人たちに侮られてばかりだと、己の不甲斐なさを嘆いていた気の優しい若旦那だ。若旦那は以前よりも嬉しそうに見えた。


「ああ、お前さんに言われた通り、いつも少しだけ余分な話をするようにしたんだよ。最初は変な顔をされたけどね、そのうち、ぽつぽつと皆の口数も増えて、私も少しずつ言いたいことが言えるようになって。不思議だね、たったあれだけのことで、私がずっと悩んでいたことが軽くなったんだよ」


 それは、この若旦那が真剣に相手と向き合ったからこそだ。そのとっかかりが上手くつかめていなかっただけで、筋道さえできれば上手くやれる人だったのだろう。


 あの時、じゅんの方も見世が上手くいかずに落ち込んでいた。それが今は持ち直している。この若旦那もそうだ。互いが順調に進み始めたことがじゅんには嬉しく感じられた。


「それならよかったわね」


 じゅんが笑ってみせると、若旦那は優しい目をしてうなずいた。


「本当はね、もっと早くに礼を言いに来たかったんだけど、ここを通りかかる時はいつも誰かといて、なかなか一人で来られなくてね。それでも、通りかかるとは見ていたんだ。お前さんはいつも私を励ましてくれた時のような笑顔で客あしらいをしていたよ」


 知らないうちに見られていたと思うと少し照れ臭い。


「それは気づかなくてごめんなさい」


 あはは、と照れ隠しに笑うと、若旦那もにこにこと笑った。


「団子も美味かったから、他のも食べてみたいな。今日は見世仕舞いみたいだから、また今度買いに来るよ」

「ありがとう。じゃあ、待ってるわ」


 若旦那は、うん、と言ってうなずいた。年下のじゅんがこんなことを思うのも変だが、なんとも素直だ。


「私は『田島屋たじまや』の郁太郎いくたろうというんだ。お前さんは?」

「じゅんよ」

「おじゅんちゃんか。うん、よく似合ってる」


 郁太郎は、一度じゅんの名を呟いた。口に出すことで覚えようとしてくれているのだろう。じゅんも忘れてはいけないと思って心の中で繰り返した。田島屋の郁太郎、と。

 田島屋がどんな店かまでは知らないが、奉公人を数人抱えているのならちゃんとした店なのだろう。


「おじゅんちゃんの方はどうなんだい? 何かが上手くいかないみたいだったけど」


 郁太郎はそう言いつつ、しかし、じゅんの目をじっと見ることはなかった。目が泳ぐのは、客と話すことの多い商人としてはあまりよくない癖だ。


 それを面と向かって言ってしまうと、郁太郎は自信をなくしてしまいそうなので、口に出さずに気づかせてあげられたらいい。そんな気持ちでじゅんは郁太郎をまっすぐに見て答えた。


「ええ、商いのことで悩んでたの。でも、今はすっかりよくなったわ。その時はもう駄目だって思ったのに、なんとか乗り越えていけるものなのね」


 郁太郎はじゅんがじっと目を向けてくるからか、少し照れた様子で頭を掻いた。


「まあ、そうだね。でも、いつだって乗り越えられるとは限らない。人は、人が支えてくれて初めて乗り越えられるのかもしれない」


 そんなことを呟かれた。

 その場合、姉妹が困難を乗り越えられたのは、二人が支え合ったからであるのはもちろんのこと、それだけではないのだ。


 徳次や大家、留といった長屋の面々、勘助や親分、弥助、彦松、それから、常連客。たくさんの人が姉妹を支えてくれた。

 そのことをじゅんは改めて噛み締める。


「私が乗り越えられたのは――」


 ぼそぼそ、とうつむいた郁太郎が早口で何かを言った。言葉尻はとても聞き取れなかったので、じゅんは笑ってごまかしておいた。


「それじゃあ、また。郁太郎さんも無理しないでね」


 そろそろ帰らないとりんが心配する。じゅんは郁太郎を広小路に残して頭を下げつつ屋台を引いて帰路につくのだった。

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