第20話

 そんな日がしばらく続き、そのうちに湯屋の二階へ品物を卸す日が来た。

 今回は饅頭をやめ、団子にした。饅頭の残りの餡を餡団子にして、鰹節の醤油団子と田楽を持っていく。

 作造は、じゅんが品物を盆に載せて運んでくるとにこやかに迎え入れてくれた。


「おお、おじゅんちゃん。ありがとうよ」

「ううん、こっちこそお世話様。今日は醤油のお団子。鰹節と海苔なの。二階に運ぶわね」


 元気に答えたじゅんだったが、作造の表情は笑っているわりにどこか晴れない。


「どうしたの、おじさん?」


 小首をかしげて訊ねると、作造はうぅんと唸る。


「いやぁ、売り子がまだ来てなくってなぁ」

「そうなの?」

「他のやつは皆、手いっぱいだし、早く来てくれねぇと困るってのによ」


 どうしたのだろう。もしかすると寝過ごしたのだろうか。具合が悪くて動けないとか、ここへ来る途中で厄介事に巻き込まれたとかでないのならいいけれど。


「その売り子が来るまであたしが手伝う? うちの品物も置いてもらっているんだから、それくらいするわよ」


 半時(約一時間)くらいのものだろう。りんには帰ってから事情を話せばいい。とにかく、世話になっている作造が困っているのに放っておくのも気が引けたのだ。


「いいのかい? たまの休みだってのに」


 口ではそう言いつつも、作造は渡りに船という気分なのだろう。強く断るふうでもない。


「いいの、これくらい平気よ。じゃあ、二階にいるわね」


 普段やっていることとそう変わりない。二階に上がってきた客に求める品を売るだけだ。

 じゅんは軽い気持ちで盆を手に二階への梯子段を上がった。


 この時、二階にはまだ誰もいなかった。無人の畳がだだっ広く感じられる。

 いつも通りに団子を皿に並べると、じゅんは台の裏側に座った。見たことはあるから、ここに銭を入れるのだとか、その程度のことはわかる。いつもは立ち仕事で、こうして畳に座っているのが落ち着かないけれど。


 そうしていると、どかどかと荒い足音がして、梯子段を上がってきた男たちが三人ほどいた。徳次と同じ年くらいだろうか。湯上りで暑いのか、ほぼ諸肌で尻っ端折りである。いきなり肌を露出した男たちが来たことで少し戸惑ったものの、思えば父の富吉も暑い日にはこんなものだった。だらしなかった。それと同じだ。

 そう考えたら妙に落ち着いた。


「いらっしゃいませ。美味しいお団子はいかがですか?」


 いつもの調子で声をかける。すると、男たちは目を剥いた。


「ひぇぇ。おきぬちゃんじゃねぇ、別の若ぇ娘だ」

「こりゃまた別嬪だなぁ」


 それはどうも、とじゅんは愛想笑いを浮かべる。


「今日だけ少しお手伝いに来ました。じゅんです」

「おじゅんちゃんな、いいねぇ。可愛いねぇ」


 でれでれとされても面倒である。じゅんは団子を買ってほしいだけなのだ。


「ありがとうございます。お団子はいかがですか?」


 他にも他所から仕入れた品がいくつか置かれているのだが。つい団子ばかりを勧める。


「おお、いくつでも買うぜ。で、おじゅんちゃん、どこに住んでるんだい?」


 擦りすぎて赤くなった肌を晒しながら男が訊ねてくる。気がつくと、三方を囲まれていて、周囲が見えない。暑苦しい。


「ええ、この辺りに」

「この辺りの長屋かい? なんて長屋だ?」


 そんなことよりも団子を買ってほしい。じゅんの笑顔が強張りそうだったが、次々と男客が二階に上がってくる。


「おお、なんだ? そんな食いついて、何が売ってんだ?」

「ああ、あれだろ? 三日は仕入れが多いって言ってたな」


 男たちはじゅんを見ると、我先にと品物を買おうと押し合った。


「俺が先に並んでたんだっ」

「買う気もねぇのに並んでんじゃねぇよっ」

「なあ、娘さん、どっかで会った気がするんだけどよ」

「うるせぇ、この――っ」


 じゅんは、目の前で繰り広げられる押し合いに顔を引きつらせていた。外で売り子をしている時以上に絡まれる。おかしい。


 そう考えて、湯屋の二階は男客しかいないせいなのかと思い当たった。ここで売り子をするには、こういう男たちを軽くあしらう術が必要なのだろう。じゅんがその気になれば怒鳴り散らすことくらいできるけれど、それでは作造に迷惑がかかる。角を立てない、それが案外難しい。


「――なんだ、なんの騒ぎだっ」


 見かねた作造が上がってきた。しかし、男客が揉み合っているのを見て唖然とした。じゅんは壁際の棚にへばりつき、安請け合いをしたことを悔いていた。

 どうやってここから抜けようかと考えていても頭が働かない。そんな時、聞き知った声がした。


「おいこら、帰るぞっ」


 驚いて顔を向けると、男たちが人垣を作る向こう側に平太郎がいた。平太郎は風呂上りではなさそうだ。そんなどうでもいいことを考えつつ、どうして今ここにいるのかと不思議には思う。


「へ、へいた――」


 平太郎はさっさとじゅんの手を引いて立たせる。湯屋の客たちが急に湧いて出た平太郎の肩をつかんだ。


「なんだお前っ」


 しかし、平太郎は無言で男客を睨みつけた。その顔が相当に怖かったのか、男客はそっと指を平太郎の肩から退けた。


「売り子のお絹なら近くを歩いてたから、今に来るだろうよ。そんなに何か買いたきゃお絹から買いな」


 それだけ言い捨てると、平太郎はじゅんを引いて梯子段を下りる。手前にいた作造が目でじゅんに詫びていたが、作造が悪いとは思わない。悪いのは――誰だろう。

 じゅんにはそれもよくわからなかった。


 湯屋から出る時、若い娘とすれ違った。多分、あれが売り子だ。のん気にしゃなりしゃなりと歩いていた。口元に黒子があって、男好きのする娘だ。まだ何も聞かされていないだろうに、じゅんを見た時にムッとした。


 そういえば、前から顔を出すたびにそうだったかもしれない。反りが合わないと思われているらしかった。

 平太郎はじゅんを湯屋から引っ張り出すと、そのまま手首をつかんで大股で歩いた。そのせいでじゅんが小走りになってしまう。


「ちょ、ちょっと、なんであんたがここに来たのよ?」

「おりん姉ちゃんが、おじゅんの帰りが遅いって心配してたから、代わりに来ただけだ」


 ぼそぼそと低い声でそれだけ言う。顔は一切こちらに向けないし、歩みも止めない。


「姉さんがって、姉さんは長屋でしょ? あんたは何しに長屋にいたの?」

「じじいに用があって」


 嘘だ。大家に用なんてない。平太郎はいつからそんなに祖父孝行になったというのだ。暇でふらついていただけだろう。

 それでも、これは助かったと言うべきなのかもしれない。一応礼を言っておこうかと、じゅんなりに思った。


「えっと、ちょっと売り子を手伝っただけなんだけど、ややこしくなっちゃって。助かったわ」


 すると、平太郎は急に歩みを止めた。いきなり立ち止まるから、じゅんは平太郎にぶつかって痛い思いをした。


 急に止まるなと言おうとしたら、平太郎は道の真ん中でじゅんを振り返った。それは、今まで見た中で一番怖い顔だった。夜遅くまで見世を出していたりして小言を言われたこともあったけれど、ここまで怖い顔はしてはいなかった。


 怒りがありありと見えるから、じゅんは言葉を失ってしまった。そんなじゅんに平太郎が押し殺した声で言う。


「湯屋の二階の売り子なんざ、嫁入り前の娘が喜んですることじゃねぇんだ。身持ちも軽いだろうって見られたのがわかんねぇのかよ」

「何を大袈裟なこと言ってるのよ?」


 じゅんがあそこにいたのは小半時(約三十分)ほどだ。それでこんなことを言われるのは割に合わない。作造が困っていたし、いつも世話になっているから手を貸しただけだ。

 それでも、平太郎は考えなしのじゅんが悪いとそう言いたいらしい。

 じゅんもカッと頭に血が上った。


「いつも品物を卸させてもらって、世話になってるの。売り子がなかなか来なくて困ってたら放っておけないじゃない。ねえ、なんであんたが怒るわけ? なんであんたに怒られなくっちゃいけないのよ」


 りんならこんな言い方はしない。りんは、平太郎はじゅんを心配してくれていると言う。けれど、それならじゅんの頑張りを責めるようなことは言わないでほしかった。


「それでも、湯屋で男客の相手なんざしてんじゃねぇよ。そんなの、おりん姉ちゃんだって、富吉おじさんだって喜びゃしねぇよ」


 なおもうるさく言う。いつからそんな堅物になったのだろう。平太郎は、言うこととやることが違いすぎる。自分はよくて、じゅんはいけないというのは変だと思わないのか。

 売り言葉に買い言葉、小言には小言で返してしまう。


「平太郎こそ家の商いを学ばなくちゃいけないのに、いつまでもふらふらして大家さんたちを困らせてばかりじゃない。どうしてそれであたしに説教なんてできるのよ? あたしを納得させたいなら、まず自分のことからなんとかしなさいよっ」


 すれ違った人々が面白そうに振り返る。恥ずかしいだけだった。じゅんがしたことは、少し上手くいかなかったかもしれない。だからといって、頭ごなしに言われたのでは腹も立つし、あんまりだと思う。


 じゅんが睨みつけたせいか、平太郎はじゅんをつかんでいた手を放した。表情からは何を考えているのかが読み取れない。さっきとはまた違った声音で、わかった、というようなことを呟いたように聞こえた。はっきりと聞き取れなかったのは、平太郎の声が小さいからだ。


 言いすぎたとじゅんが反省してしまったのは、平太郎がそれから一度も振り返らずにじゅんを置いて去ったせいだ。

 じゅんが悪いのか。全部、じゅんが――。


 平太郎に対して素直になれなくなったのは、背丈を追い抜かれた頃からだったかもしれない。それから、じゅんが重いものを持っていると奪い取るようにして運んだ。女だからか弱いと決めつけるのは何かが違う気になった。


 少し前までじゅんの背中に隠れていた子にそんなふうにされても、じゅんは嬉しくなかったのだ。何か弟分扱いしてきたことをやり返されている気分で、負けん気だけが育ってしまった。


 手首には平太郎の大きな手の跡が残っている。いつの間に、こんなに大きな手になっていたのだろう、とぼんやりと考えながら長屋に帰った。



 長屋の木戸の前にりんがいて、そわそわしていた。じゅんの帰りを待っていてくれたようだ。じゅんはりんにまで心配をかけたくなかったので笑顔を向けた。


「姉さん、ただいま」

「おかえり、おじゅん。平太郎さんは?」


 やはりその名が出てくる。じゅんは何も言わなかったのにりんに隠し事はできなかった。


「喧嘩したのね?」

「――うん」


 りんはなんでもお見通しだ。じゅんは言い当てられて肩を落とした。家に戻ると、りんはじゅんを落ち着かせるためか、茶を淹れてくれた。茶柱が、横に寝ていた。

 りんは詳しいことは訊かずに微苦笑するのだった。


「今度会ったら謝りなさいね」

「う、うん」


 嫌だと言いたいけれど、このままずっと気まずいのも嫌かもしれない。

 りんはふぅ、と茶に息を吹きかけると、それをひと口飲んだ。


 じゅんも茶を飲むと、喉の奥が熱くなる。もやもやとする気持ちも一緒に飲み下したい。

 りんは、また苦笑していた。

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