逆巻く怒涛 20/ジェイコブ・ストーム

 夜明け間近、闇が溶けて白み始めた空の下、海からの湿った風が吹き抜ける。

 ジェイコブは深い眠りに沈み込み、夢の中で1人立ち尽くしていた。

 そこは、白い世界。


「俺は…… 何をして……」


 辺りをゆっくりと見渡すが、どこを見ても白い世界が広がる。

 上下前後左右、全てが白いもやで覆われている。

 目の端で何かが動いた気がするが…… それが遠くなのか近くなのか距離感もあやふやだ。


「どこだ…… ここは……」


 ぼんやりとした鈍い思考の中で、記憶を辿るが覚えがない。

 頭が重い…… いや、頭だけではなく体全体に鉛を詰めたみたいに重い。

 凄まじい倦怠感けんたいかん

 まるで酷い二日酔いの気分だ。


「……いや、前にも来た気が…… する。俺は、ここを知っている……」


 立っているのか横になっているのかも分からない。

 ただただ白い世界。

 しかし、ジェイコブは記憶の片隅から、この場所を思い出した。

 頭の中に見え隠れする過去の破片。少しづつ組み立っていく。


「そうだ…… 遥か昔、子供の頃に……」


 視線を落とすと、自身の体が目に入る。

 肌色の皮膚、がっしりとした胸筋。人間の姿、裸だ。

 両手を上げ、ゴツゴツとした掌を眺めていると、不意に小さく子供の手へと変化していく。


 ジェイコブ・ストーム。

 彼は、幼少期に〈魔世界/デーモニア〉から落ちてきた魔人であった。

 

 獣人の寒村、小さな集落で両親と暮らしていたジェイコブは、その日も小さな兄弟の面倒を見ながら親の手伝いをしていた。

 そんな日常の風景は突如として壊される。

 凄まじい烈音、光を吸い込む真黒のひび割れが何もない中空に走った。

 並行する3世界〈魔世界/デーモニア〉〈人間界/オートピア〉〈死世界/タナトピア〉を突発的・偶発的につなぐイレギュラー。次元の狭間、『時の揺らぎ』が発生したのだ。


 地上に近い場所で発生した『時の揺らぎ』は、枝葉を伸ばす様に広がり、多くの村民を漆黒の闇へと吸い込んでいく。

 不意の厄災に怯え、逃げ惑う村人たち。集落は瞬く間にパニックとなっていた。

 小さな弟と手を繋ぎ、幼子の妹を抱きかかえ、兄弟をかばうずくまるジェイコブ。

 そこへ、彼の父親が駆け寄り手を伸ばした――


 そこでジェイコブの〈魔世界/デーモニア〉での記憶は途切れた。


 目を開けると、果てしなく広がる白い世界に居た。

 やがて自分が猛スピードで飛んでいる事に気がつくと、白い世界は終わりを告げ、様々な風景が視界を通り過ぎていく。

 世界を映す窓の数々が更にスピードを上げ、遂には何も見えなくなった。

 

 気がつけば、彼は草の上に転がっていた。

 青空の下、嗅ぎ慣れた草の匂い。霞む目に映ったのは、石造りの古びた修道院。

 そこで『時の揺らぎ』で半死半生となったジェイコブは意識を失った。

 

 次元の狭間を通る―― それは過酷な旅路。

 体力魔力ともに消耗し、体は負荷に耐えきれず内側から爆ぜていく。

 通常は耐えきれずに消滅、または耐えても運が悪ければ永遠に次元の狭間に閉じ込められる。

 ジェイコブは運良く、命を持ったまま〈魔世界/デーモニア〉から〈人間界/オートピア〉へ世界を渡ったのであった。

 

 次に意識を回復したのは、見慣れない建物の天井であった。

 故郷の村で住んでいた家とは違う、石造りの建物。

 気がつけば身体中に包帯を巻かれ、薄い布地の上に寝かされていた。


 意識が混濁しつつ周りを見渡すと、1人の少女が顔を覗き込んできたのが分かる。

 少女が口を動かすが、何も聞こえない。

 幼いジェイコブは記憶を辿る。


(エルフかな…… 森で見かけた時がある…… でもなんか違う)


 何かを懸命に話しかける少女をぼんやり眺めていると、背の高い初老の女が視界に入ってきた。

 女性は見下ろしながらジェイコブの頬を優しく撫でる。

 ゆっくりとした口調で声を掛けるが、少年の様子から少し驚いた表情を見せた。


「どうやら耳が聞こえてないようだね…… どれ」


 彼女の両手は、ジェイコブの獣耳を慎重な動きで包み込む。

 少年を怖がらせぬ様に、ゆっくりと。

 そして、おもむろに回復魔法を唱えた。

 緑色の暖かい光に包まれて、次第に聴力を取り戻す。

 窓からは暖かな日差しと共に美しい音色の歌声が聞こえてきた。


「また一人、異世界からの迷子みたいだね。聞こえているかい? 私はマルティナ。安心おし。ここはお前みたいな子が沢山いる安全な場所さ。……今は、ゆっくりと休みな」


 修道服を着たマルティナは、ジェイコブの頭を優しく撫でると黒紫の瞳を弓形にして微笑んだ。

 温かいマルティナの体温が掌から伝わると、ジェイコブは安心した様に眠りについた。



(そうだ…… 〈魔世界/デーモニア〉から落ちてきた日。あの日もこんな世界だった。俺はマルティナの温かさに救われたんだ…… それから……)


 過去の記憶から、再び白い世界へ戻る。

 体を確かめると成人の姿だ。今度は獣人本来の姿だった。

 ジェイコブは、不意に右腕に温かさを感じる。

 優しく触れる手の感触。それは、先ほど思い出したマルティナから感じた温もりと同種のものであった。

 

「……マル ……ティナ」


 ジェイコブのまぶた痙攣けいれんすると、やがて少しずつ開かれる。

 視界に入ったのは、白み始めた夜空に輝く満天の星々。

 視界一面に広がるその美しい輝きは、まるで数多の命が燃え盛っている様だと感じた。


「隊長…… 気がつきましたか?」


 よく知る女性の声が呼んでいる。まだ自分は死んでいなかったのだと理解した。


「エヴリン……」

「はい、私です。目は見えていますか?」

「ああ…… 問題ない」

「そう…… それは良かった……」


 後頭部を少しだけ持ち上げ、エヴリンを探す。

 彼女は腰の辺りに座り込み、ジェイコブの右腕に包帯を巻いていた。


「大きな外傷は回復魔法士ヒーラーに治してもらいましたが、全てを回復とは行きませんでした。あまりに酷かったので…… なので小さな傷や骨折は我慢してください」


 包帯を巻き終えたエヴリンがジェイコブの顔へ体をずらして近付くと、悲しげな表情で彼を覗き込んだ。


「そうか…… 俺は助かったのか」

「ええ、貴方は生きています」

 

 ジェイコブの呟きに、青緑色をした瞳を細めて柔らかな笑顔を浮かべる。

 しかし、彼女の顔色が悪いのに気がついた。


「エヴリン…… あのを使ったのか?」

 

 エヴリンはただ微笑むだけで答えはしない。


 エヴリンの使う時間操作系最高位の魔法、【逆時の再生テンポラル・ヒーリング】。

 単一の対象を過去の状態に戻し、傷を癒す再生の魔法。

 生物限定、死者には効力を発揮しないなど制約があるが、この世界において最高峰の魔法である。

 しかし、過去の状態へ戻すには、それなりの対価が存在する。

 過去へ干渉するには膨大な魔力と精神力マインドが必要となる。それも秒毎に。

 それを超えると精神力の枯渇マインドダウンとなり、酷い吐き気や頭痛など体調が悪くなり、意識を失う時もある。

 今のエヴリンでは、せいぜい数十秒を遡るのが精一杯であるが、数十秒といえ、時間を巻き戻すなど奇跡の業に違いなかった。


 青白い顔で微笑む彼女の手を握り、ジェイコブは謝罪と礼を口にする。


「いいえ、何も問題ありません。これが私の使命です。それより――」

「ああ、分かっている。すまないが、一度起こしてくれないか」

「何を言ってるんです⁈ 安静にしてないと――」

「いや、君たちのお陰で起きれはするさ。戦いは出来ないがな。頼むよ、エヴリン」


 数秒間、見つめ合うと、エヴリンが軽いため息を吐いて首を振る。

 文句を言いながら、包帯でぐるぐる巻きの体を支え上半身を起こした。


「……現在地は?」

「当初予定していたピックアップ地点から30kmほど離れた場所です。作戦はプランCへ移行しています」

「……なぜ戻ってきた?」

「射撃場に大きな雷が落ちたのを現認し、私だけ魔法を使い戻りました」

「命令違反だぞ……」

「承知しています」

「……メンバーは?」

「我々と合流後、緑陽台地を離脱。現在デビットの指揮下で周辺を警戒中、アンソニーの部隊が沖に出て潜水艇へ向けてビーコンを打っています」

「……部隊の被害を」

「……エンティ、ドルマイド、ブルート、そしてエドワードの4名が戦死…… カークとタイスの2名が負傷……」

「そうか…… 4名も……」

「申し訳ありません」

「いや、謝る必要はない。全ては私の責任だ」

「しかし――」


 エヴリンが身を乗り出して懇願する。自分を罰してくれと。

 だが、ジェイコブは慈愛に満ちた眼差しで首を振ると、この話題はここで終わる。


 しばらく打ち寄せる波の音を聞いていたジェイコブが口を開いた。


「不可解な指令だと思ったが……」

「はい、ゲルヴァニア国まで介入している事態を考えると、何か裏がありそうですね」

「ああ、最初に交戦したゲルヴァニア兵は、私と同じ魔人でもあったよ」


 ジェイコブの言葉に瞠目するエヴリン。

 彼らは、デルグレーネとカタリーナの軍服からゲルヴァニア国までこの指令に関与していたと考えた。当然だろう。


「それに、最後に私へ向けて放った魔法…… あれは私たちが最初に拉致をした少年も関与していた」

「はい、やはり彼らには何か秘密が隠されているかと」

「上層部は何を掴んでいるのだろうな」


 ジェイコブが肺の奥から重たい空気を吐き出すと、胡座をかいて座り直す。

 2人の視界に、規則的に点滅を繰り返す小さな光が入った。


「潜水艇と連絡が取れたようです」


 エヴリンは立ち上がると、膝や尻についた砂を払い落とし、微かな笑みを湛えて右手を差し出す。

 彼女に引き起こされたジェイコブは、傷の痛みに顔をしかめながら己の体を確かめた。

 小さな骨折や裂傷など数えきれないほどの重傷であったが、歩けなくはない。

 エヴリンに支えられ、砂浜に爪先を引き摺りながら一歩一歩と進んでいく。


「あんな幼い少年たち…… 若者の命を奪わずにすんだ……」


 左手で顎にある深い傷跡を触りながら独りごちるジェイコブに、エヴリンはただ黙って彼を支えて歩く。

 ジェイコブは、倫道たち若者を殺害しなかった事に胸をなで下ろす。

 彼は、育った環境からか少年や少女に対する想いが強い。それが敵国でもだ。


「だが、彼らは私たちの仲間を奪ってしまった。これは取り返しがつかない……」


 ジェイコブの瞳に怪しい炎が立ち昇り、陽炎にも似た殺気が湧き立つ。


「大きな力を秘める少年…… 次に会った時には容赦はしない。あの少女も、あの強者どもも!」


 肩口から緑陽台地の方角へ振り返り、憤怒の表情で固い決意を誓うジェイコブ。

 何も言わず支え続けるエヴリンの腕にも力が入いる。

 地平線が微かに紫色に染まり始め、穏やかな波が打ち付ける渚で、敗北を噛み締める2人に太陽の光は眩しすぎた。

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