第75話
八月二十五日。
自然豊かな緑と透き通った水だけが取り柄の田舎町で、唯一都会に勝てるかもしれない夏祭りが開かれる日。
数多くの出店が立ち並び、老若男女問わず多くの人々が行き交っている。
その熱気溢れる光景を見る限りでは少子高齢化が進んでいるとは思えない。
「残念だったね、結愛さんと一緒に居られなくて」
隣を歩く浴衣姿の少女は悪びれることなく、笑みを浮かべてきた。
八月二十五日は、俺が愛してやまない最愛の彼女・本懐結愛の誕生日。
本来ならば、本日は彼女と過ごすはずだった。
しかし、急遽結愛本人から「行けない」と言われ、今に至るというわけだ。
「でも安心していいよ」
俺よりも身長が少しだけ低い黒髪少女——彩心真優は俺の肩に身を寄せる。
花柄の模様がある藍色の浴衣に年季が入った風情のある下駄。
夏祭りにはピッタリな衣装を身に纏う少女が立ち止まると、カツンと楽器のような軽快な音が響く。それから彼女は上目遣いのまま耳元で囁いてきた。
「
慰めの言葉を口にした後、漆黒の髪を持つ少女は口元を薄く伸ばし、俺の腕を取ってきた。
大好きな彼女と夏祭りに行くことができなかった。
その悲しみに暮れる俺にとっては、少女から腕を取られることは些細なことに過ぎない。反抗しない俺を見て、少女はシメシメと思っていることだろう。
まるで、この腕は自分のものですとでも主張するかのように、グッと引き寄せ、彼女の豊満な胸と脇の下に挟んでしまうのだから。
言われるがままに動くことしかできず、俺は少女に為されるがままだ。
「だからもうあの子のことなんて忘れちゃってもいいんだよ、今日だけは」
荒んだ俺の心を癒すように、彩心真優は優しい言葉を掛けてきた。
俺はその言葉に甘えるように彼女に身を委ねるのであった。
◇◆◇◆◇◆
『あたし一緒に夏祭り行けなくなっちゃった』
八月二十三日、予備校からの帰り道。
本懐結愛から突然入った連絡を聞き、俺は愛する彼女の病室へと訪れた。
固く閉ざされた病室の扉を開くと、そこは荒れ果てた惨状であった。
地震が起きたのではないかと思えるほどに、床に様々な物が散乱していたのだ。
ただ、その状況下にいるにも関わらず、俺の大好きな彼女——本懐結愛だけはベッドに座り込み、窓に浮かぶ月を見上げていたのだ。
「結愛……?」
声を掛けると、茶色の短髪少女は顔だけを後方へと向ける。
涙を流し続けたのか、目元は赤く染まり、頬はやつれているように見えた。
「来たんだ、勇太」
本懐結愛は全てを諦めたかのようにそう呟いた。
今更来ても全てが遅いとでもいうように。今更何ができるのかという瞳を向けて。
「来るに決まってんだろ? 結愛が心配だからな」
「…………心配なら来てくれるんだ、勇太は」
「当たり前だろ。愛する彼女が泣いてたら、彼氏が駆け付けるのは」
「…………なら一生泣いてたら勇太を独り占めできるんだ、はは、それはいいかも」
力なく冗談を交える愛すべき彼女。
笑っている姿がやけに不自然で、こちら側のほうが辛くなってしまう。
「何があったんだ? 教えてくれよ、結愛」
訊ねると、結愛は語った。
淡々と。ただ告げられた事実を端的に。
「先生がね、ダメだって。今のあたしは危険な状態だからって」
「夏祭りに行くだけだろ? それなのに、どうし——」
夏祭りに行くだけ。夏祭りに参加するだけ。
少しばっかし一年に一回の風物詩を楽しむだけでいいのだ。
それさえも、本懐結愛には許されていないのだろうか。
「あたしだってそういったよ!! 先生にそういった!!」
俺の言葉を先読みし、本懐結愛は怒鳴った。
感情を表に出すのが苦手なはずなのに。
今の結愛がどれだけ苦しい思いをしているのか、手に取るようにわかった。
「でも、そういってまた突然倒れるかもしれないって。また無茶しちゃうかもって」
夏休み期間中に、俺と結愛はリゾート地へと遊びに出かけた。
一泊二日の小規模な旅行に過ぎなかった。
だが、一日目の夜中に結愛は体調を壊し、救急車で運ばれる羽目になったのだ。
本来ならば何か変化があれば、事前に対処しなければならなかったのに。
それを無視して、俺たち二人は今を生きることの楽しさを優先したのだから。
「だから、今年の夏祭りは行かせられないって言われちゃった」
本懐結愛を夏祭りに連れて行きたい。その気持ちは大いにある。
ていうか、俺の夏は結愛と一緒に祭りに行かなければ終わらないまである。
ただ、一度俺たちは無茶を承知で旅行計画を実施し、失敗したのだ。
大人たちに頭を下げたところで「いいよ」と了承を貰えるはずがない。
「…………でもそ〜いう運命だったのかも。あたしみたいな日陰者は夏祭りに行っちゃいけ——」
淡々と語る口が途中で止まり、結愛は両手で口元を覆う。
その瞬間、ダムの決壊が崩壊したかのように——。
ゲホゲホゲホゲホゲホゲホと激しい咳込みが二人だけの病室を響き渡った。
苦しそうに咳込み結愛の元へと駆け寄り、俺は彼女の背中を優しくさする。
けれど、彼女の咳込みは止まることなく、何十秒間も苦しそうに頬を歪めた。
「…………勇太、あたしは大丈夫だよ。全然平気だよ、えへへへ〜」
心配させないためか、結愛は苦しそうな表情を一変させ、笑みを浮かべる。
でも、俺の目にはそれが偽りのものだとすぐにわかった。
何事もなかったかのように慈愛に満ちた笑みを浮かべさせている。
その事実が堪らなく苦しく、自分の未熟さ加減を思い知らされる。
「あたしは元気だよ、勇太までそんな寂しそうな表情を浮かべないでよ」
苦しいはずなのに、必死に笑みを浮かべ、平然を保とうとする結愛。
彼女は手振り身振りで自分の元気さを伝えようとするのだが——。
逆に、それは俺へ更なる事実を告げることになってしまうのであった。
「結愛……その手のひらどうしたんだよ?」
「手のひら……?」
不思議そうに小首を傾げ、結愛は自分の手元を見る。
その手のひらには、べったりと赤色の液体が付着していたのだ。
その液体の名前を俺は知っていた。それは血液である。
「………………バレちゃったか」
イタズラがバレてしまった子供のように舌を出し、結愛は目線をそっと変える。
言いにくいことなのか、俺のほうを何度か見たのち、この人にならと信用を得られたのだろう。神妙な表情のまま、結愛は冷静な口調で白状した。
「あたしね、手術することになったんだ」
手術。
その響きを聞くだけで、俺の目力は急激に熱くなる。
手術しなければいけないほどに、結愛のカラダは弱っているのだと。
見る限りでは、普通の女の子と何も変わらないのに。
その身を病魔が蝕んでいる。そう思うと、無性にやりきれない気持ちだ。
「うん。実はね、肺のほうに負担がいってるらしくて……手術が必要なんだって」
結愛が抱える病気は合併症を引き起こす可能性がある。
そう伝えられていたから、それは別段不思議なことではない。
でも、どうして結愛なんだと思わせる。
どうして俺の彼女なんだと。どうして俺の幼馴染みなんだと。
別に彼女じゃなくて、この世界の他の誰かでいいだろと。
どうしてこの世界を創造した神様ってのは、結愛ばかりをイジメるのだろうか。
「ごめんね、勇太。あたしのせいでせっかくの夏祭り行けなくなって」
一年に一回しか訪れない夏祭り。
結愛と一緒に行こうと計画していた夏祭り。
その計画が頓挫し、彼女に何かできることはないかと考える俺に対して——。
「勇太はあたしに遠慮しなくていいからね。夏祭りいっぱい楽しんできてね」
心優しく、人の心に寄り添う気持ちに溢れる最愛の彼女はそう告げるのであった。
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