第2話

 翌日登校すると、クラスのみんなが意味ありげな視線を送ってくるのを感じました。表立っては加波さんの堂々たる無視を受けるくらいでしたが、だれもユカちゃんと口をきこうとせず、そのくせ含みのある視線を送って、影でコソコソとものを言い合っているのです。

 ユカちゃんは悲しくやりきれない気持ちで日々を過ごしました。ちょっとは仲の良かった女の子も、もう目を合わせてはくれませんでした。ユカちゃんが近づこうものなら、まるでバイ菌をうつされでもするかのように、怯えた様子で遠くへ去ってしまうありさまです。どこにも居場所がなく、ユカちゃんは肩身の狭い思いをするようになりました。もうだれかに話しかけようともしなくなり、休み時間はノートに覆いかぶさるようにして、前の授業の復習をしてるフリをしてやり過ごし、給食の時間もまわりの話し声を耳に入れないように気を張りながら、うつむいて黙々とごはんを口へ運びました。

 どうしてわたしがこんな目に遭わねばならないんだろう、とユカちゃんは思いました。なにを恨めばいいんだろう。加波さんか、それを取り巻く女子たちか、事情も知らずにくだらない正義感を楯にして平気でひとを傷つける藤崎先生か、それとも勝手にペアを決めた美術の先生か……。うずうずとユカちゃんは考えましたが、だからといってなにか行動を起こすこともできず、自分の不甲斐なさと、棘のある周囲からの視線が強く意識されるだけでした。馬鹿らしいと割り切ることもできず、助けを求める手立ても見つからず、ただただユカちゃんは重くのしかかる空気のなかで耐えました。心に痛みを感じながらも、なにもないようにふるまうしかなかったのです。常に緊張しているような具合で、毎日がとても疲れました。その上、時計の針は止まったように動かず、全部の授業が終わるのが途方もなく感じました。

 しかし数日経ったある日、信じられないことが起こりました。ホームルーム前の時間です。加波さんが突然ユカちゃんの席に近づいてきたではありませんか。ユカちゃんはまた悪態をつかれたり、嫌がらせを受けるのではないかと、怖々と身をすくめましたが、実際はそうではありませんでした。近くで見る加波さんはどこかやつれたように見えました。びっくりして顔を上げると、目を赤く腫れた二つの眼がユカちゃんを捉えていました。

「ねえ。……わたし、ひどいことしたわ。倉敷さんがやった証拠なんてどこにもないのに、名指しで非難したりして、本当にごめんなさい。給食費はほかのだれかが盗んだんだわ。まだ見つかってはいないけど、もういいの。とにかくわたし、謝らなければならないわ。わたしが間違ってたわ。ねえ、倉敷さん。もう遅いかしら……本当にごめんなさい、ねえ、ごめんね、許してほしいの……」

 加波さんは、机に突っ伏すと大きな声で泣き始めました。クラスのみんなは驚いた目で、ふたりの方を見ていました。たくさんの目が注がれているのを、ユカちゃんは肌で感じました。なんだかいつもとちがう感じでした。ふたりを見つめる視線は、糾弾するまなざしから毒のないものに変わっていったようなのです。なぜって被害者であったはずの加波さんが、加害者であるはずのユカちゃんに向かって許しを懇願し、泣いているのですから。事態は明白でした。つまり、ユカちゃん本人にもどうしてだか分からないままに、身の潔白が証明されたというわけです。

 次の日から加波さんは学校へ来なくなりました。風邪をひいたそうですが、それが何日も続くと、みんなは好奇の思惑からなにかあったのではないかと噂しだしました。加波さんが姿を消したことで、離れていた女の子たちはまるで自分たちが強制から解かれたように気おくれもなく、ユカちゃんと普通に会話をするようになりました。

「あなたが犯人じゃなくてよかったわ」と女の子が言い、「わたし本当は信じてたのよ。だけどあの雰囲気じゃあね、言い出しづらくって」と別の女の子が言いました。

 ユカちゃんは周りの人間が以前と同じように接してくれるのが分かって、うれしくなりました。休み時間や給食の時間に、わざわざ他人と目を合わさないように視線を下げる必要がなくなっただけでも、随分と気が楽になりました。硬く凍った緊張が、リボンをほどくようにゆるんでいきました。友だちと会話していると、驚く速さで時間が進んでいきました。止まったように思えた時計の針は、ふたたび息を吹き返したのです。みんなが以前と同じように振舞うのを、ユカちゃんは快く受け入れました。その方が楽しいし後腐れもないように思えた、というのもありますが、そんな理由を頭で考えることなしに、自然と元の生活に戻っていったのです。そうしていると給食費のことやアカクビさんのことは、それがまるで間違いであったかのように、頭の片隅の暗がりへと押し込まれていきました。



 その夜、好きなアイドルが出てるバラエティ番組を母親と居間で見ていたとき、宿題にまだ手をつけていないのを思い出しました。時計を見ると九時半です。さっさとお風呂に入らなきゃ、とユカちゃんはテレビを惜しみながらもソファから立ち上がりました。服を脱ぎ、洗濯カゴに衣服を放り込んだとき、ふと違和感を感じました。しかしそれがなにかすぐには分からず、ユカちゃんは湯を張ったバスタブに浸かりながら、それを考えました。お風呂に入ると、全身がポカポカしてきて気持ちよくなりました。そしてなんとなく、さっき脱衣所で見たシーンがはっきりと映し出されるのを見ました。鏡に映った自分の顔に黒いモヤがかかっている、そんな光景です。居心地の悪い視線を感じました。ユカちゃんはふと不安になり、湯舟から立ち上がり、湯気で真っ白に曇った大きな鏡に向かい、表面についた蒸気を指の腹で拭いました。そこには心配そうなユカちゃんの顔が映っていました。黒いモヤはどこにもありません。どうやら見間違いだろうと、ユカちゃんは火照った頭で結論づけました。

 しかし、それがどうやら見間違いや錯覚ではなかったことが、だんだんと明らかになっていきました。

 一瞬のことなのですが、ユカちゃんが意識せず鏡を視野に入れると、黒いモヤが顔を隠しているのです。ユカちゃんはあちこちでそれを体験するようになりました。家の洗面台の鏡にとどまらず、商店街のショーウインドウや、学校のトイレなんかでもそれは起こりました。まじまじと鏡を見たときには消えているのですが、フッと視界に入ったときなんかは、黒々とおぞましくふつふつと煮えたぎるようなモヤが鏡に映った自分の部分を占めているのです。黒いモヤに覆われた自分が視野に入ると、それが自分の姿ではなく別人のものであるかのように思えました。視野の片隅で起こることとはいえ、こう何回も何回も起こると、見間違いであるなどと判断することはできなくなり、ユカちゃんは鏡がある場所を横切るとき、得体のしれない恐怖心からできるだけ視線を外して、早足で歩きました。血の気が引くような、そんなことも何度かありました。

 そしてそれと並行してもうひとつ、変なことが起こり始めたのです。



 夜、布団をかぶって眠りにつくとき、ユカちゃんは以前のように嫌なことを考えなくても済むようになりました。クラスメイトからの冷たい視線や、自分がなにを言っても無視されることの恐怖で心がいっぱいになり、眠気を妨げていたのですが、もはやユカちゃんに心配することはなにひとつなく、ベッドに横になると、すぐに睡魔がユカちゃんの手をひっぱりました。

 夢のなかでユカちゃんは、どこか狭くて暗い場所にいました。縦に伸びる細い明かりがうっすらと見え、そのほかに視界に映るものはありません。

 夢のなかの自分というものは、夢を見ている自分の意志とはちがう力で動いています。だからユカちゃんが、そうしようと思ったわけでもないのに、からだが動きました。それは奇妙な感覚です。容れ物のなかに自分の魂が収まっているはずなのに、その容れ物は自分の魂の言うことを聞かないのですから。そうしてユカちゃんの意志とは関係なく、ユカちゃんのからだは動き、その縦にほっそりと切り取られた光へ、手を伸ばしました。内側から扉をひらくと、部屋に射し込む青白い月光に照らされ、ユカちゃんのいる場所が、衣服の吊るされたクローゼットだったことが判明しました。そこはユカちゃんの部屋と同じくらいの広さで、花柄の壁紙が貼られていて、サンリオのキャラクターがあしらわれた小柄な勉強机の上には、赤いランドセルが無造作に放られていました。ランドセルの蓋はあいたままで、数冊のノートやプリントがそのなかからはみ出しています。

 ユカちゃんはクローゼットから降りると、ベッドに横たわる影に近づいていきました。視界が前髪で隠され、思うように見ることができません。歩くと、ぐしょぐしょに濡れた靴の感触が、気持ち悪く伝わってきました。ユカちゃんは、(とはいっても、ユカちゃんの意志とは独立したユカちゃんのからだが、という意味ですが、)ベッドに横たわる人影の前まで来ると、立ち止まって屈みました。その人影を上から覗きこんでいるのです。窓の向こうの月が雲に遮られて、その顔を見分けることはできません。ユカちゃんは屈んだ姿勢のまま、腕を伸ばし、その子の首にさわりました。卵を包むように、やさしい手つきで。それから驚くほどの力が加わりました。ユカちゃんが今まで出したことのないような、筋力が引きちぎれるほどの強い力がユカちゃんの両腕にみなぎり、その子の首を一気に絞めあげていきました。ユカちゃんは怖くて、すぐにでもその場を離れたいと思いましたが、からだはまったくユカちゃんの気持ちを無視して、首の骨を折ってしまおうと際限ない圧力をかけていきます。ユカちゃんは泣いてしまいそうでした。

 怖い、怖いと、そればかり思いました。

 その子の首の手をかけた部分が赤みを帯び、顔は赤紫に腫れあがっていきました。そのとき雲が流れ、月の光がゆっくりと動いたのです。その顔はユカちゃんの前に徐々にではあれ、はっきりと浮かび上がりました。甲高い悲鳴が鼓膜を突き破るように聞こえました。それはすぐ近くから聞こえました。というのも、ユカちゃんはその子の顔を目の当たりにするや、激しく絶叫していたのです。

 ハッと目を覚ますと、窓の外はまだ暗く、ひっそりとしていました。

 窓を開けると、汗でぐっしょりになった髪のあいだを乾いた風が吹き抜けました。両手をひらいたり閉じたりすると、まだ首の骨にふれた感触が残っています。柔らかい肉の下に、ゴツゴツした骨の連なる感触です。しかしその相手の表情はどうしても思い出せませんでした。ユカちゃんは窓に映った自分の顔を見つめました。ユカちゃんの顔は黒々としたモヤに隠されて、いまどんな顔をしているのか、読み取ることはできませんでした。



 授業が終わったとき、ユカちゃんは疲れていて、近くにだれかが立っているのに気がつきませんでした。授業の合間もほとんど集中力を欠き、うとうとしては、首を振って黒板の文字を追いかけようとするのでした。努力をしてノートを取っていたつもりでしたが、あとで見直すと判別できない文字だらけでした。みんなが帰り支度を始めるなか、ユカちゃんはひどくぼんやりとして、机の前にじっとしていました。毎晩のように訪れる悪夢を見そうで、目をつむることさえ怖くなってしまったのです。

「あの、倉敷さん?」

 声をかけられると、ユカちゃんはびっくりして飛び起きました。それまで、近くに宇野くんが立っていることを知らなかったのです。宇野くんは背が低く、大人しい性格の男の子でした。話したことなど全然なかったので、ユカちゃんは不思議そうに彼を見つめました。

「ど、どうしたの?」

 宇野くんは、こんな近くに来てまで話をするのを躊躇しているようでした。なにか思わしげな目つきで、机の端を見下ろしていましたが、やがてユカちゃんの顔をまじまじと見つめました。

「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

 ユカちゃんは宇野くんの後に従い、廊下に出て管理棟の方へ歩きました。歩いてる途中、宇野くんは一言も喋らず、どこか思いつめた表情をしながら、口を結んだままでした。

「……今日はクラブ活動が休みだから」

 宇野くんが立ち止まったのは、理科準備室の前でした。理科クラブに入ってるという彼は、ポケットから鍵束を取り出すと、扉をひらいてユカちゃんを招き入れました。

 壁際には、授業で使ったことのある顕微鏡や、アルコールランプなどの実験器具が所狭しと並べられていました。一番奥のところには、全体の半分の皮膚がない人体模型が目を見ひらいて、ユカちゃんをギョッとさせました。

 怖々とそれらを見ないようにしながら、内側から慎重に鍵をかける宇野くんにユカちゃんは訊ねました。

「それでお話ってなんなの?」

「うん」

 宇野くんはきまり悪そうに頷くと、表面のクッションがすこし破れた丸椅子を勧めました。二人はプリントの積み重なった机の前で、椅子に腰を下ろしました。

「あの、こんなこと訊くのも変かもしれないんだけど、倉敷さんはなにか身に覚えがあるんじゃないかと思って」

 ユカちゃんは黙ったまま、宇野くんの顔を見つめました。彼の口元は引き攣ったように動きながら、言葉を紡ぎました。

「なにか、最近……変なことが起こったりしてないかな?」

「変なこと?」

 ユカちゃんは訊き返しながら、鏡に映る自分の顔に黒いモヤが重なることや、嫌な夢のことが脳に浮かび上がってきました。けれどそんなことを口に出すのは、突拍子もないことだと思い、なにも言いませんでした。

「別に、ないけど」

 宇野くんは眉根を寄せて、真剣に考えこんでいました。カーテンの隙間から陽が射して、アルコールランプの球体が眩しく輝き、そのせいで一層部屋が暗くなりました。遠くで金管楽器の音が聞こえ、吹奏楽部が練習を始めるのがぼんやりと分かりました。宇野くんは息をゆっくりと吐きだすと、意を決して次のようなことを話し出しました。

「加波さんの調子がね、おかしいんだ……」

「え、加波さんが?」

「……そうなんだよ。うちは家が近くてさ、親同士も仲がいいものだから、加波さんのことはよく耳にするんだよ。このところ、ほら休んでるだろ。なにかあったのかなって母さんが、加波さんの母親に話を聞いたらしいんだけど……どうやら普通じゃないんだよ。これは内緒にしておいてほしいんだけどさ……」宇野くんは廊下への扉の方を振り向き、鍵がかかっているのを確かめました。「というのも、加波さんは一応先生の言うところじゃ、風邪ってなってるじゃないか。それもみんなに変な印象を与えないためだと思うんだ」

「ええ」ユカちゃんは目線を床の方へさまよわせながら、頷きました。「わたし、なにも言わないわ……約束する。それで……どうしてるの、加波さんは? 変ってどんな風に?」

「ああ」宇野くんは右手の親指の爪を左手の親指の腹でこすりながら、浮かない声色で続けました。まるで彼自身、起こってることを信じられないといったふうにです。「なんていうか、加波さんじゃないみたいなんだよ。彼女ってさ、ほら勝ち気で明るい性格だったじゃないか。負けず嫌いだし、自分を曲げないところがあるっていうかさ……、そうだったろ? だけど、今はそうじゃないんだ。ずっと自分の部屋に閉じこもって、時々母親が入っていっても、ずっと布団をひっかぶって泣いてるらしいんだよ。なにかに怯えてるみたいなんだ。それで母親が理由を聞いても、まともに会話できないらしい。ずっとガタガタふるえてるそうだよ。僕もさ、昔からのよしみだからさ、心配になって加波さんとこの母さんに頼んで、一度だけ電話をつないでもらったんだ……やっぱり変なんだよ。受話器越しにも分かるくらいに声のトーンっていうのか、調子がちがってるんだよ。そもそも会話になってないっていうか……僕を僕だと認識してるかも怪しいくらいなんだ。それでもいくつか話題を振ってみたんだ。学校であったことを話したり、家でどうしてるか訊いたりさ。けど返ってくるのは『ああ』とか『うん』とかで、それもすぐに黙り込んでしまうんだ。それまでの加波さんなら信じられないことだろう? 変だなと思って、耳を凝らしていると、なんだか小さい声でぽつぽつと加波さんの声が聞こえるんだよ。それがさ……徐々に分かってきたんだけど、しきりになにかに謝ってるんだよ。……ごめんなさい、ごめんなさいって呟いてるんだ。なにについて謝ってるのか訊ねてみたんだけど、まるで要領を得なくてね……。だけど一、二度はっきりと聞こえたんだ。加波さんがだれに向かって謝っているのかさ。分かるかい? 僕だって信じられなかった。でもね、聞こえたんだよ。加波さんはきみの名前を出してたんだよ。信じられないだろう?

 ――ごめんなさい、倉敷さん。ごめんなさい、ごめんなさい、もう二度としませんから、ゆるしてください、ゆるしてください。

 ってこう呟いていたんだよ」

 宇野くんは言い終えると、ゆっくり不安げな視線をユカちゃんに投げかけました。そのときユカちゃんは返事をするのも忘れてました。というのも、鍵をかけていたはずの扉がすこしひらいて、二つの目が部屋を覗きこんでいるのが見えていたからです。長い髪をしたセーラー服の女の子でした。その子は扉に両手をかけたまま、宇野くんが話をしている間中、横向きに顔を突き出して、宇野くんの背中越しにふたりのことをじいっと見つめていました。

「……あの、宇野くん」

「ん、なんだい」

 ユカちゃんが扉を指し示すと、素早く振り返りました。けれど、そのときにはすでに扉は固く閉ざされ、何者の姿もそこには認められませんでした。

 ――くふっ、と押し殺したような笑い声が聞こえ、ぞわぞわっとユカちゃんは、全身が総毛立つのを感じました。

「倉敷さん」騙されたと思ったのかやや苛立たしげに、宇野くんが向き直って言いました。「きみは給食費のことで加波さんから責められていただろう?」

 カーテン越しの夕陽を吸い込んで、彼の目はギラギラと輝いていました。吸い込まれそうな目線に、ユカちゃんは黙ってその声を聞いていました。

「……それでなにかしたんじゃないか?」


 その日の晩も、翌日の晩も、ユカちゃんは同じ夢を見ました。クローゼットの暗がりから部屋に降りて、ベッドの上の女の子の首を絞める夢です。不気味な内容だけに、『こわい』とか『いやだ』とかそればかり思っていましたが、ふとあるとき自分のからだに起こってる異変に気がつきました。いまや映画のスローモーションを見ているかのように、ぼんやりと自分のからだが動くのを意識しているような、そんな具合でした。どんなに強く願っても、腕や脚は意志と関係なく動くので、ユカちゃんは一種の無気力状態になっていたのです。

 ……これはわたしじゃないんだ。

 そう思うと、気を楽に持つことができました。

 クローゼットの戸を内側からひらき、ぐしょぐしょに濡れた上履きを踏み鳴らしながら、”わたしじゃないわたし”はベッドに近づいていきます。月の光が、横たわる女の子の首すじに絡みつく色濃い痣を浮かび上がらせます。ほっそりとした”わたしじゃないわたし”の手が、すっと伸びていき、確かにドクドクと脈打つその白い首にあてがわれます。”わたしじゃないわたし”の目がカッと見ひらかれ、その光が獰猛に輝くのが分かります。見えていなくても分かりました。長い前髪の隙間から見える光景に初めは嫌悪していたユカちゃんも、いまやこれが当然行なわれるべきこととして、それを見守っています。

 ――”わたしじゃないわたし”は首を絞めあげるべきだし、ベッドに横たわる女の子もまた首を絞めあげられるべきなんだ……。

 そのとき月の光を遮る雲がサッと動いて、部屋は青白い光で満たされました。赤いはずの痣は黒い縄の痕のように変色し、女の子の表情が曇りなく鮮明にユカちゃんの前に現れました。

 怯えでいっぱいの瞳がこちらを見て、固まっていました。目のふちに濁った涙が溜まり、小鼻がヒクッと膨らんでいます。久しぶりに見た加波さんは、別人のようにやつれきっていました。

 ”わたしじゃないわたし”は、万力を締めるようにギチギチと腕に力を入れていきます。加波さんの顔は上気し、口がぱくぱくと動いて白く細かな泡を吹きだしています。それはなんていうか、カニみたいに見えました。ユカちゃんは大きな口をあけて笑いました。まるで愚かしい存在を見下すように、にっこりと首を絞めながら笑ったのです。いい気持ちでした。とてもいい気持でした。殺すことができる。思い通りにできる。もっと気持ちよくなれる。もっと気持ちよくなれる。目の前の命を掌握した、という支配感が脳の奥で火花となってバチバチと弾け、ユカちゃんは口元をだらしなく歪ませながら、体重をかけて、指先や両腕に力を乗せていきます――。

 自分の引き攣った笑い声を聞いて、ユカちゃんは飛び起きました。

 夢のなかの感触がありありと残っていました。自分が加波さんの首を絞めながら、笑っている光景を思い出し、ユカちゃんは奇妙な考えを抱き、ゾッとしました。

 どうしてわたしは笑っていたのか、どう考えても分かりませんでした。あのとき笑っていたのはわたしだ、とユカちゃんは絶望した心で思いました。もはや”わたしじゃない”と、傍観してはいられない気がしました。

 ユカちゃんは放課後を待って、宇野くんを呼び出しました。昨晩の夢があまりにも鮮明に焼きついていました。殺してしまえ、という思いに快感を覚えた自分を認めるわけにはいきません。それはあまりに不気味な光景だったのです。

 ユカちゃんは訥々と話し始めました。

 加波さんの嫌がらせに対して、アカクビさんを呼ぼうとしたこと。けれどトイレにその姿を見せなかったこと、加波さんが休みだす前に謝ってきたこと、黒いモヤのこと、妙な夢を見るようになったこと……。

 宇野くんは静かにユカちゃんの話を聞いていました。聞き終えると、彼は肩をすくめて息を吐き出しました。

「僕には兄貴がいるんだけど、その友だちから聞いたことがあるよ。確か……いやでも変だな……」宇野くんは五ミリほど眉根を寄せると、確かめるようにユカちゃんに訊ねました。「結局、倉敷さんはトイレでアカクビさんに会わなかったんだね?」

「ええ」ユカちゃんはうなづきました。「噂だと髪の長い女の子を見つけることになるって聞いていたんだけど」

 宇野くんは細い腕を組んで、しばらく黙りこみました。理科準備室の埃っぽい空気が、カーテンの隙間からうっすら射し込む陽の光にキラキラと反射していました。人体模型はじっと直立し、面前の壁を眺めています。その首はいまにもこちらに回転してきそうで、ユカちゃんは目を逸らしました。

「おそらくだけど、倉敷さんは失敗したんだと思う」宇野くんはぽつりとつぶやきました。

「えっ? でも、そしたらあの夢は……?」

 宇野くんは記憶の糸をたぐるようにゆっくりと喋りました。

「アカクビさんの話はこうだったはずだよ。管理棟三階の隅にある男子トイレに、だれにも見られないで入って個室の鍵を内側から閉める。手鏡の鏡面に混じりけのない塩を塗って、それを素手で掬い取った便器の底の水で溶かしていく。個室の扉に手鏡をかざして、頭にアカクビさんの姿を思い浮かべながら、彼女の名前を七回唱える。彼女の姿だよ、男子たちに暴力を受けて死んでしまったかわいそうな女の子だ。セーラー服の女の子は前髪で顔を隠し、口元には真っ赤なくちびるが笑っている。汚水を含んだバケツを頭上から浴びせられたせいで、全身ずぶぬれだ。背は高くなく……ちょうどきみくらいだよ。そして首には強く絞められた痕がある。それは色濃く残っていて、まるで呪いの首輪を嵌められているみたいに見える。これは一連の儀式なんだ。ひとつの行程も欠けてはいけない。見落とさず、間違いなくこの動作をこなすことによって、あの子の側に近づくんだ。こういうのはポーズの問題なんだ。自分があの不幸な女の子の”側にいる”ということを示すんだよ。もしかしたら、あれは自分の身代わりだったかもしれない。あるいは自分が彼女の代わりに死ぬことになったかもしれない。そうやって近づいていくんだ。アカクビさんの領域に入っていくんだよ。アカクビさんは、相手のことをすっかり認めなければ姿を現さないからね。一連の儀式はこわばった自分の意識をほどいて、徐々に彼女へと心をひらいていく動作なんだ。それを念頭において、決して蔑ろにしてはいけない。すべては彼女に身を捧げるための過程であるということをね。目をつむって助けてください、と三回唱える。目をひらく。それから扉をノックする。二回、そして四回……」宇野くんはそこまで言うと、鞄のなかからペットボトルを取り出し、喉を潤しました。「彼女の気配が充満してくる。声がする。姿が見える。アカクビさんはきみを味方だと知って、頼みごとを聞いてくれる。そういう話だった。そうだね?」

「わたし、塩なんて持ってなかったわ……それに、そんなに順序だてて出来てたかな……」ユカちゃんは呆然として言いました。怯えによって声がすこしふるえて聞こえました。

 それを聞くと、宇野くんのにきび顔が歪みました。まるで最初からそのことを言いたかったかのように、彼はしかつめらしい表情で神妙な物言いをしました。

「それじゃあ問題はそこにあるんだ。倉敷さんがその一手順を怠ったがために、儀式を完了させなかったがために、アカクビさんはきみを味方だとは確信しなかったんだ。いたずら好きの、冷やかしの連中だと見なされたのさ」

「そんな」ユカちゃんは顔を蒼白にして、ほとんど叫びかからん勢いで訊ねました。「けど、それなら……失敗したというなら、アカクビさんはどこにいるの? どうして夢になんか出てくるのよ。アカクビさんはだれかを恨んで、殺してくれるんでしょう? そういう存在だって聞いていたのよ」

「ねえ、倉敷さん……」宇野くんはじっとユカちゃんの目を覗きこみました。「アカクビさんと呼ばれる女の子は、確かに神さまや悪魔と類されることもあるけど、決して全自動の機械なんかじゃないんだよ。分かるかい、倉敷さん? 彼女は生きている。生きた存在としているんだよ。ねえ、彼女は生きているんだよ。きみのそういった傲慢さが彼女を怒らせたと、そう考えるべきなんじゃないのかい?」

 ユカちゃんは喉を詰まらせました。血の気が引き、視界がグラグラしました。机に手をつき、息を吐き出すと、廊下へ通じる扉の影になにかがいるのが、目の端で分かりました。心なしかそれが赤い色をしているように感じました。くふふ……と声がしました。ユカちゃんはそちらに向かないようにして、宇野くんに訊ねました。

「つまり、それって……敵だと思われてるってことかしら……わたしも、アカクビさんに?」

「倉敷さんの話を総合すると、そうかもしれない」宇野くんは背後の赤い影には、まったく注意を払わず、言いました。

「もう助かる手立てはないの?」

「いや、そこまでは……」宇野くんは決まり悪そうに首を振りました。「けれど調べてみるよ。加波さんのことだってあるし、僕だって協力したいんだ。できることなら、アカクビさんからきみや加波さんを引き離してあげたい。兄貴に連絡してみるよ。もっと詳しいことが分かるかもしれない」


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