…………1-(8)

「あぁ、やってきた」

 なつめの呟きを誰も聞く人はいない。控室から出るなとお達しが出ている為、目の前のトイレ以外は、何処にもいけない。時計を見ると、ゲストの演技はそろそろ終わる頃だ。自然と緊張も高まってくる。会場の雰囲気も、これから行われる深沢の演技に期待が寄せられている。誰もが、待ち遠しそうに待っている。遠く離れたなつめが一番ビシバシ感じていた。

「…吐きそう」

 そう呟いた時、ドアがバンッと開けられ、なつめは驚いた。

「うわぁ!」

「なんだ?おまえ」

 深沢はドアを閉め、急いでシャツを脱ぎ捨てる。真っ青になっているなつめを横目でみながら、清涼飲料水を飲み干した。外の景色を眺めている振りをしているなつめの指先が、小さく震えていることに側へと寄る。

「おまえ、緊張のし過ぎだって、体が強張っているだろう?それじゃあ、踊れないぞ」

 不安な眼差しを真正面から受けとめてやる。ソファへと座らせ、肩を揉み解していく。そんな深沢を見上げて、やっと息を吐きだした。

「だってさ、初めてだから仕方がない。失敗とか、いろんなことが頭のなかで回って、吐きそうだ」

 珍しく弱音を吐くなつめに、冷たい手をしっかりと握り締める。今度は、なつめの不安を受け止めきれる自分がちゃんといる。

「失敗なんかするもんか。俺がいるんだぞ。俺を信じろ」

「でも、あんたのパーティだ!」

 失敗だったなんて、誰にも言わせたくはない。そう心のなかで何度も叫んだなつめを、穏やかな視線で見つめた。

「俺のパーティだから、俺がなんとでも出来るさ」

 普段、感情的にならないなつめだけに、その押し込められた不安は、神経が麻痺するほどだった。深沢の手から伝わってくる温もりにその手を見つめる。なつめの顔色が、少しずつ良くなってきた。いつものなつめを引き出し始める。

「あの、お客様は、俺とおまえの演技を楽しみにしていると思わないか」

「…うん」

「あの女たちが、おまえが失敗するのを待っているぞ」

「そうだろうな」

「もっと嫌がらせをしたいだろう?」

「あぁっ!」

 深沢を見つめる視線が、活き活きとしたものに変わる。

「俺の最高のパートナーになれ」

 いつもの意地の悪い笑みを浮かべたなつめがそこにいた。

「よし。惚れさせてやろうじゃないか」

「あぁ…、しっかりと誘惑してほしいね」

 プッと笑いを吹き出すと、張っていた肩から力が抜けた。今でも震えている指先は、深沢が握り締めてくれている。手を繋いでいるだけなのに、信頼や安心までもがそこから湧いてくる。

 このまま練習通りになつめが踊れなかった場合も、可能性としてはあるだろう。緊張というのは、自分でどうにかしなければ、他人でどうにか出来るものではない。自分との戦いは、所詮、自分しか戦えない。手助けはするが、そこから先は、なつめ自身に賭けるしかないと思っていた。

 流れる時間の早さに、なつめは身体を動かしながら、一秒一秒高まる緊張に唇を噛み締めた。茶色のサラサラした髪は、今日は斜めに流され、首には大輪の花が咲いている。

 二人は会場のドアの影に移動して待っていた。なつめはもう緊張で強張っている感じはしない。深沢を見上げるとクスッと笑う。

「あんたを見ていると──」

 言い掛けて、なつめはやっぱり止めたと、笑ってごまかす。

「なんだ?変な奴」

 訝しんだ視線に苦笑いを浮かべる。安心するなんて、通常の神経では口が裂けても言いたくはない。

 音楽が止まった。静まり返った会場に、アナウンスが流れる。

「皆様のお待ちかねの時間がやって参りました。今か今かと期待に胸が膨らんでいるかと思います。では、お呼び致しましょう」

 待ってました!と声援に、深沢は笑った。

「深沢宗司先生の演技です。パートナーはナツメさんです。宜しくお願いします」

「さぁ、行くぞ!」

「…うん!」

 深沢の力強い手に引っ張られて、眩しいまでの光の中へと駆け出した。輝かしいライトで客席は見えない。光を浴びた深沢の背中はいつにもなく、大きく逞しく見える。その背中が自分へと振り返る。大きく呼吸をすると、深沢だけを見つめた。優しげな目線は、なつめだけを見ている。促されるままに、客に対して深く頭を下げた。

「───」

 誰もがなつめのスレンダーな身体に目を瞠った。フリンジは優雅に歩く度に、黄色とゴールドが輝いて揺れる。シースルーのダークブラウンのパンツを履いた長い足は、会場中の視線を集めた。首の大輪の花に触れて、笑みを浮かべた面長の綺麗な顔は、内側から溢れる凛とした美しさを放っていた。その存在は、深沢の影になることなく、輝いている。

「…っ……」

 引き攣った笑みを浮かべたなつめは、吐きそうだと深沢を睨みつける。視線で会話をしている二人は、とても楽しそうに見えた。

 だが、壁に立って見ている教室の関係者は、皆ハラハラしていた。なつめの性格を知っているため、このままいつものように喧嘩を始めてくれるほうが、よっぽど安心した。

 最初のポジションに向かおうとしたなつめの手を、深沢が掴んだ。耳元で小さく呟いた。

「…笑え!」

 客席からピューと口笛が揶揄する。深沢に大きく頷くと、最初のポジションまで優雅に歩いていく。客席から冷やかしの口笛が木霊すと、なつめは笑みを浮かべ、客席に向かって、投げキッスをした。ホールに笑いが木霊す。その姿を見て、大丈夫そうだと笑った。

 さあ、これからが本番だ───。

 深沢が手を上げる。会場中にサンバの陽気な曲が流れる。リズムを取り始めると、深沢が踊り始める。本当に躍らせたら、この男は惚れ惚れするほどいい男だ。客席からも黄色い悲鳴が上がる。

 なつめは、深沢から流れを引き継ぐように、同じステップを踏み始まる。そのステップはぴったりと揃っており、深沢が踊りながら側にやってくる。なつめの手を掴むと、二人の視線が強く絡まった。

「……っ!」

 両手を繋いでのサンバウォークから、ファンに開くとポーズ。そのラインの美しさに、目を奪われる。激しく入れ替わりながら踏むステップの速さ。リズムの取り方、振り上げた腕の位置、ボディアクションの使い方、全てが揃っている。何より深沢のリードから、繰り出されるなつめのステップやポーズは、より強い二人の一体感を感じる。腕を組んで、長いバックステップを踏んでいくのは見応えがあった。

 今回深沢が選んだ曲も、深沢らしからぬ選曲だった。

 今までは圧倒するハイテンションな曲に、派手な技とステップに、激しい情熱を感じさせるものだった───。

 今、会場は盛り上がってはいるが、妙な静けさもあった。それは、言葉に出来ない演技の美しさ、心のなかにダンスに対する愛情が芽生え、踊りたいって気持ちが揺さぶられる。今まで以上の感動がそこにあった。

 曲は、チャチャチャへと変わった。

 なつめの肩を抱いていた深沢は、楽しそうに髪を掻き上げると、歩いていくなつめの肩を後ろから止めた。次の瞬間、なつめの高速回転から、絡むように速いステップを踏んでいく。チャチャチャ独特の軽快でキレのあるステップ。

 練習の段階から、深沢は徹底的に優雅な足捌きと、キレのあるステップ、安定した高速回転に拘った。それに加えて、深沢の肩、胸、腰に触れるボディタッチによるなつめのポーズの格好良さは、体のラインの美しさにより一層綺麗に決まっていた。

 始めの頃は、この『ストップ&ゴー』の瞬時に止まり、すぐ動くって動作がからくり人形のようで、深沢に大笑いをされていたが、今は肩を竦めて動く動作も様になっている。

 瞬発的なバネのある体は、深沢の動きに何処までもついてくる。流れるようなリードの手が、頬、肩、腕、手、腰に触れるだけで、深沢の思うままに導かれ踊る。それ程自然な一体感がある。細い体から振り出される足の高さは、深沢の肩の高さを超える。高速回転を得意とするなつめの体は、ぶれることはない。誰もが、その演技に魅せられた。

「……っ…」

 気持ちのいい汗を感じ、なつめは笑みを浮かべている。踊ることの楽しさを我慢出来ない。ここに居る自分が本当に信じられなかった。バレエでの自分を諦めてから、何かを必死に追い求めてきた。叶えられない事に、涙を流したこともあった。必死に忘れようとしていた、昔の記憶が蘇る。

 実はダンスをやりたいと思ったのは、随分前のことだが、ネットで競技会なども密かに見ていた。ダンス教室にも通ってみたが、何かが違うと続かなかった。今此処に自分の居場所があることに、幸せを感じた。掛け替えの無いものを、手にしている気がする。自分のすべてを捧げるかのように天井を見上げた───。

「………」

 曲が終わると、会場中が少しの間、静寂に包まれた。

 次の瞬間、弾けるような拍手と声援に包まれた。深沢は込み上げる笑みを浮かべ、なつめは呆然と会場を見渡した。

「………」

 深沢はなつめの肩を抱くと、

「まだ、もう一曲あるぞ!」

「う、うん」

 二人揃って、頭を下げると、早急に走り出す。会場のパニックをよそに、控室に戻り、急いでルンバの衣装に着替える。まだ、ざわついている会場のドアの側に慌てて駆けつけると、もう言葉もなく、深沢の手を強く握り締めた。

「…あのさっ……」

 深沢はなつめの頭を撫でると、細くて長い息を吐き出した。

「最高のダンスを…」

 頷いたなつめを眩しそうに見つめた。司会者に手を挙げると、

「では、着替えが終わったようです。最後はルンバです」

 ルンバの曲は、Sweetboxの『Every step』 これはなつめと出会った時、頭のなかで流れていた曲だ。だから、ルンバはこの曲に決めていた。時計の針が刻む音と、オルゴールの音が妙に耳に残る。切ないバラードが静けさを漂わせる。

「………」

 なつめは背中を押されるように、一歩を踏み出した。輝かしいステージから高まる期待感に、新たな緊張と激しい鼓動と戦いながら、真っ直ぐに歩いて行く。

 赤紫色に細かな銀の刺繡が全体に施されている衣装。右腕だけが長袖のシースルーの手袋となっており、なつめ独特の手の動きが映える。繋がっているパンツは、右足の一分丈から見える、スラっとした長い足は格好よく、左足のサイドスリットから見え隠れする足は、妙に視線を奪う。腰に巻ついている真っ白な長いファーは優雅に揺れている。胸に響く低音のリズムに合わせて、一歩一歩の動きに誰もが食い入るように見つめた。

「…っ…!」

 背後から伸びてきた手が、なつめの首から頬に触れると、会場から溜息が漏れる。笑みを浮かべた深沢は、その体を強く抱き締め倒していくと、なつめの柔軟な体がしなる。頭が床擦れ擦れまで倒れ、一八〇度以上の開脚した足は、綺麗なラインを保ったまま、天井に真っ直ぐに伸びる。会場から漏れる溜息と拍手───。

 ルンバの緩やかな動きのなかで、なつめの柔軟な体はひと際輝いていた。そして、一八〇度開脚した時に、この衣装はその美しさを発揮した───。

 深沢の後ろからゆっくりと振り上げた足は高い。向きを変え、再度九〇度に振り上げられた足が、深沢の高いラインの脇腹に食い込む。ラインが綺麗に決めると、会場からまた拍手が起こった。

 なつめの体は男性的ではない。この中性的なイメージに、甘く見ていると痛い目を見る。見た目筋肉質ではないが、その筋肉はやはり男の物で、深沢の脇腹は今も青痣になっている。この蹴りも最後かと天井を見上げた。

「……っ」

 気持ちがいい程汗が激しく流れる。

 落ち着いた気持ちのまま、最後の決めのポーズへと向かう。なつめのバックウォーキングからの背中と腕の綺麗なラインの伸び、また戻ってきてから、直ぐにまた同じライン。逆三回転し、深沢の肩に片足を振り上げた。足首を掴み、腰を引き寄せる。深沢を支えに、一八〇度開脚したまま、両手を開き倒れていく。

「…綺麗っ!」

「凄いっ!」

 思わず、会場から呟きが聞こえてくる。

 深沢を眩しそうに見つめる。優しく抱き締められ、高速回転しながら、片足でラインをキープ。伸ばされた足を掴み、勢いよく引き寄せる。

「………」

 愛しいと思う気持ちが溢れる。救い上げるようにして抱き上げると、なつめは深沢の首へと腕を回し、満面の笑みで見つめる。ふわりと体が宙に浮いて回転する。長い足を優雅に組み、深沢の太腿の上に下ろされる。音楽はまだ終わっていないのに、深沢はなつめの頭をポンポンと叩いて抱き寄せた。

「…あっ…」

 それだけなのに、胸が一杯になる。しっかりと手を繋いだまま、流れる汗を拭いもせず、深沢の腕のなかで瞳を閉じた───。

 社交ダンスのプロのダンサーとして、深沢はパートナーに恵まれていたが、恵まれてもいなかったともいえる。深沢自身にも問題はあった。女の束縛を嫌い、常にダンスだけを愛していた。その深沢が、やっと全てを手に入れた満足感。大きな拍手に感謝の気持ちで一杯になる。

「………」

 なつめは目を開けると、信じられないように会場を見た。沸き上がるような拍手に包まれていて、思わず俯いてしまう。そんな何処か幼さを伺わせ、感動の涙を浮かべているなつめに、笑みを浮かべた。深沢は感極まって、なつめを抱き締めた。大切な者を守るかのように───。

「ありがとう…」

「深沢…っ」

 直ぐ様、教室の生徒や知り合いが花束を持って、駆け付ける。たくさんの花束を受け取っているなつめを見つめる。抱えきれなくなった花束に、会場から笑い声が木霊した。成功した瞬間の喜びを噛み締めた。再度大きな拍手が二人を包込むと、見つめ合って笑った。

 出会ったのは、半年以上も前のことだった。深沢はお気に入りの店『こもれび』の窓辺から、なつめを見つめていた。決まった日の決まった時間に、深沢の視線を釘付けにした。いつの間にか、深沢はパートナーとして欲しいと願った。

 バレエをしていたなつめの柔らかい体、バネのような筋肉、長い手足、何よりも中性的なその容姿が気に入った。最高のパートナーを手に入れた瞬間だった。深沢ダンススタジオ(FDS)のディナーパーティは、大成功を収めた。


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