第20話 愚か者たち(ジャスパーの手記)



 息子よ、娘よ、子孫たちよ。

 人はどこまで愚かになれるがわかるか? どこまで卑怯になれるか知っているか? どこまで下劣になれるか理解しているか?

 答えはどこまでも、だ。

 人間とは際限なく愚かで、卑怯で、下劣になれる。どこまでも堕ちていける。あらゆる生き物の中で、人間が最も残酷で無慈悲で愚劣な生き物だろう。

 だからこそ、どこで踏みとどまるか。それがその者の価値を決める。踏みとどまることを諦めれば、堕ちていくのに限界はない。

 聖者など存在しない。他人の悪意を理解できるのは、自らもその悪意を秘めているからだ。腹の中に何を抱えているか、誰に知られずとも自分は知っている。その上で他人に何を差し出すか。それが自身の価値を決める。

 私はこの目で見てきた。目の当たりにしてきた。この世で最も愚劣で、醜悪な者たちを。それらに取り囲まれたセス様が、いかに高潔であったかを。

 息子よ、娘よ、子孫たちよ。常に自分に問え。他の者を見ろ。どう生きるのかと。何を選ぶのかと。

 この世で最も愚劣で醜悪な者たちは、このバラカルト王国にこそ蔓延っていた。彼らと関わることなく、己に恥じることなく生きることを、私は心の底から願ってやまない。


※※※※※


 長年燻り続けとうとう紛争にまで発展した、国境の戦争はセスの活躍でバラカルト国側の勝利が見えていた。

 連日の勝利と見え始めた終戦。戦神・セスの噂はもはや戦場だけでなく、王国中に響き渡っていた。そんな折りだった。


「そなたが戦神・セスか?」


 辺境の街ヘイヴンに高位貴族の勅使が現れ、そう高慢に言い放ったのは。

 大きくなった傭兵団は、契約を終え帰還するセスと共に、ヘイヴンに滞在するようになっていた。大量の物資を受け取る常勝の傭兵団の滞在は、ヘイヴンの街の経済と治安の回復をもたらし、街に人を呼び込み歓迎されるようになっていた。

 住民たちが遠巻きに様子を見守る中、贅沢に着飾った姿で顎を逸らして待ち構えていた高位貴族は、国王の勅使だと名乗った。


「国王陛下は寛大にも、戦功に報いる褒賞を与えようとのお考えだ。幸甚に頭を垂れ疾く王都へ向かうように!」


 そのまま返答も聞かずに馬首を返して去っていく。野次馬はざわめきを交わし、傭兵団の数名には顔を輝かせている者もいた。

 チラリと隣のセスを見上げたジャスパーは、心底どうでも良さそうな表情のセスに頭を抱える。


「……セス様、先程の者は国王の勅使と名乗りました。王都への来訪を検討ください」


 心底どうでもいいことは知っている。それでも今回ばかりは無視するわけにはいかない。唇を引き結んで応えないセスに、ジャスパーは重ねて今の状況を伝える。


「王の呼び出しを無視すれば面倒なことになります。今後のためにも王都へ参りましょう」


 今や王の権威など地に堕ちている。戦神・セスの名声を脅かすことなどできない。それでも王権国家なのだ。貴族の末端として生を受けたジャスパーは、その陰湿さを知っていた。例え兵を差し向けられたとしても、国軍など問題にもならない。

 だが真実が奈辺にあろうとも、まだ辛うじて残る権力で反逆者の汚名を被せることも躊躇わないだろう。残っているのは見栄しかないのだから。

 それさえもセスは気にしないとわかっている。でもジャスパーは我慢ならなかった。戦争はもうすぐ勝利で終わる。その功績を打ち立てた戦神・セスが謂れのない不名誉を託つことは、どうあっても容認できない。


「…………」


 無言のまま馬首を返そうとしたセスに、ジャスパーは祈るように声をすがらせた。

 ヘイヴンに帰還したセスは、動向を知ることを許さなかった。忠誠心から行動を共にしたがる者は多かったが、セス本人が拒絶し、探ろうとする者は骨を折れるほど殴打された。知らぬふりをするのが、暗黙のルール。今が説得の最後の機会だった。


「褒賞を与えると言っていました。セス様の功績ならば、何を望もうとも必ず得られます。国宝だろうが領地だろうが爵位だろうが。ですからセス様……」

「……どんなものでもか?」


 ぴたりと足を止めたセスに、ジャスパーは目を見開き身を乗り出した。


「そうです! なんでもです! どんなものでも望めます! ですから……」

「お前も来い。準備をしておけ」

「……はい!」


 泥沼だった戦争の勝利は目前。国中に轟く戦神・セスの武勇。威信など地に落ちた王家は、何がなんでもセスを取り込もうとするはずだ。過去の愚策を勝利で善政へと塗り替え、民の熱狂的な支持をも得られる奇跡の一手。

 王家は平民ですらない賎民のセスを見下しながらも、ありとあらゆるものを差し出すだろう。


「やっぱり、宝石なんだろうか?」

 

 物語に出てくるドラゴンのように、美しいものをかき集めるセスの心を動かしたのは。じわじわと安堵が染みる胸元を押さえながら、いつものようにいずこかへ姿を消すセスをジャスパーは見送った。


※※※※※


 チャプチャプと涼しげな水音を立てながら、セスはレイラの泥化粧を丁寧に落としていく。現れた儚げな月光のかんばせを、両手で優しく包みながら、セスはうっとりと瞳を蕩けさせた。

 

「……レイラ、欲しいものはあるか?」


 ぴたりと動きを止めて、レイラはセスをじっと見上げる。そしてゆっくりと首を振った。


「……何もないわ」

「王の勅使が来た。なんでも手に入る。お前のために俺がなんだって手に入れてやる」

「本当に何もないの……」

「綺麗な宝石はどうだ? 温かくて軽い布でもいい。それと……」

「いらないわ……セス、何もいらないの……側にいて。一人にしないで」

「レイラ……大丈夫だ。もうすぐ家も完成する。この土地ももらうつもりだ。誰にも邪魔をされず、二人でずっと暮らせるように。だから……あと少しだけ待っていてくれ……」

「…………」


 押し黙ったまま小さく頷いたレイラは、セスにそっと擦り寄った。セスはレイラの華奢な身体を抱き寄せて、小さな丸い頭に口付けを落とす。もうすぐだ。もうすぐ二人の家が出来上がる。セスが傭兵となって四年の月日が流れていた。

 それから二日後、勅使は置き去りにセスは最短の強行軍で王都へと出発した。


※※※※※


「おお! そなたが戦神・セスか!!」


 謁見の間に足を踏み入れた体躯の、威風堂々としたセスの佇まいに、居並んだ貴族たちから感嘆の声が漏れる。昼夜問わずの強行軍で埃に塗れてもなお、セスは美しく勇壮だった。戦場を魅了した場を圧倒するカリスマ性は、贅を凝らし虚飾で現実から目を背けようと、必要以上に飾り立てた王宮でも健在だった。


「此度の戦での働きを聞き及んでおる。さすれば忠節に準じた褒美をとらすのがよかろうとな……」


 親しげに見せたいのであろう笑みは下卑て醜悪に目に映り、ジャスパーは失笑する他なかった。

 跪くどころか礼すら取らず、ただ仁王立ちで王を睥睨するセスに、ざわざわと貴族は顔を顰め王の笑みは歪んでいく。

 喉から手が出るほど、セスからの忠節が欲しいだろうに頭は下げない。そもそもセスに忠節などありはしない。セスに倣って付き従ってきた選りすぐりの部下たちも、王に頭を垂れることはなかった。


「賎民ゆえに礼儀も知らずか……」


 居並ぶ貴族の中の誰かがこぼした囁きにも、セスは微動だにしなかった。おもねりの媚を隠せない煌びやかな玉座に座す王と、泰然と立つセスではあまりにも歴然とした差があった。王の矮小さにジャスパーは冷笑を浮かべる。


「……よかろう、まずは褒賞を与えよう」


 恭順を微塵も見せないセスに、王は歯噛みしながらも笑みを貼り付けたまま手を挙げた。次々と運び込まれる宝石や財物は、労いの意図ではなく財力を見せつけるためのものだった。表情を変えないセスに、王は引き攣ったように口の端を上げる。


「好きなものを選ぶがいい」

「……運べ」


 短く簡潔な美声の響きに、ジャスパーは噴き出しそうになった。運ばれてきたものを当然のように全て持ち帰るつもりのセスの命に、ジャスパーは部下に頷いて見せる。部下たちも噴き出すのを堪えるように俯きながら、素早く財物を運び始める。


「……なっ……!!」


 短く叫び目を剥いて思わず立ち上がりかけた王に、セスが猛禽類のような鋭い眼光を向けた。ヒクリと王は押し黙り、玉座に倒れ込むように腰を落とす。


「いいではありませんか、お父様……」


 ざわりと非難混じりのざわめきに動揺する謁見の間を、甲高い女の声が切り裂いた。壇上の王のもとに肢体を見せつけながら歩み寄った王女は、王に寄り添うと壇上から黄金の髪を揺らしてセスへと振り返る。


「王国に忠節を尽くす、戦神・セスへの褒賞として当然。むしろ足りないくらいだわ。そうでしょう? お父様」

「そうだ、そうだったな。ローレル。セスよ。最も王国に忠実なるセスよ。そなたに最も栄誉ある褒美を授けよう」

 

 王都までの道中で見た飢えに苦しむ民をよそに、隅々まで手入れの行き届いた姿を誇りながらローレルが妖艶に微笑む。ねっとりとした視線をセスへ向け、赤く艶めく唇を釣り上げる王女を、見上げる若い貴族たちの幾人かが頬を染めた。

 勝手にセスを騎士と呼び恥ずかしげもなく、着飾る姿を見せつける様に、ジャスパーは鼻白みセスは微動だにしなかった。


「戦神・セス。そなたに騎士の称号と、爵位そして我が娘、ローレルとの婚姻を約束しよう」


 大きすぎる褒賞に謁見の間は大きく揺れ、ジャスパーも動揺に息を詰めた。可能性はあった。戦神の取り込みは生き残るためには必須だから。でも何よりも血統を気にする王族が、平民ですらない賎民との婚姻までは持ち出すとは思っていなかった。

 焦って見上げた玉座の横で、ローレルはうっとりとセスの美貌を見つめたまま、咲き誇る薔薇の笑みをニコリと微笑ませた。ジャスパーは歯噛みする。セスの美貌に王女が気を変えたのだと分かった。婚姻すればセスへの褒賞も結局は王家の手綱がつく。財物を運びだすのを止めなかった王女の意図に、ジャスパーは嫌悪を募らせた。


「いらない。俺にはこの世で最も美しい妻がいる」


 セスの無感情な美声が、間違えようもなくはっきりと響き渡る。一瞬の逡巡すらない拒絶。ジャスパーは鬱屈していた心が、さっと晴れ渡るような心地に目を見開いた。自然と口角が引き上がり、決めずとも覚悟が決まった。今この場で、セスと運命を共にする、と。


「そんなものより、黒の森とヘイヴンを俺に渡せ」


 一切の躊躇もなく追撃するセスに、ジャスパーはとうとう噴き出す。いついかなる時もセスがセスであることが、ひどく嬉しかった。

 

「…………っ!!」

「き、貴様……!! 賎民のお前を王族へ迎え入れる栄誉を……!!」

「戦神などと崇められ、蛮族が図に乗りおったか!!」

 

 一瞬の空白ののち、弾けるように非難が吹き上がった。微笑みをたたえていたローレルの顔が衝撃に醜く歪む。


「黒の森を含むヘイヴン譲渡は、神殿を保証人としてください」


 ジャスパーは澄み切った心持ちのまま、迷いなくセスの後押しに口を開く。


「……妻などと……!! ローレルとの婚姻があってこそだ! 褒賞の財物もお前の欲しがるヘイヴンとやらも! 全てローレルとの婚姻あってこそだ!!」

「……今なら聞かなかったことにしますわ。王女の私との婚姻など、夢にも思わぬことでしたでしょう。今すぐ処分すると約束なさ……」

「黙れ!!」


 轟く一喝を置き去りに、セスは忽然とさきほどまで立っていた場所から消えた。


「……ヒッ!!」

 

 短く上がった悲鳴に玉座に視線を移すと、王女の髪を掴んで大剣をその首元に突きつけたセスの姿があった。


「それ以上一言でも喋れば殺す」


 真っ青になって震え上がるローレルは、唇を引き結びセスへ瞳を縋らせる。悲鳴が上る謁見の間に、状況を把握した王は烈火の如く怒りに燃え上がった。


「…………貴様ぁ!! 血迷ったか!! その剣を今すぐ下ろせ!! 衛兵!! 何をしている! こやつを止めろ!!」


 美しい甲冑に身を包んだ衛兵が、ハッとしたように駆けつけたが、壇上半ばに足をかけた瞬間その首がゴロリと床を転がる。怒号は水を打ったように静まり返った。


「……ひぃぃっ!! 余、余はただそ、そなたに娘との婚姻を許し……王族へ迎え入れる栄誉を……」

「いらない。黒の森とヘイヴンをよこせ」

「そ、それならば、ローレルと……」


 この状況でもセスを婚姻で引き入れることを諦めない王に、セスはため息を小さく吐き出した。


「いいだろう、この女を妻にすれば黒の森とヘイヴンをよこすのだな?」

「や、約束する!!」

「では今この瞬間から、この女は俺の女だ。ならば何をしてもいいな?」


 言いながらセスの瞳がきらりと光り、大剣が振り上げられる。


「セス様!!」

 

 ジャスパーの一声にセスが動きを止め、何が起こったのかわからない王がオロオロと視線を彷徨わせた。


「……ご自分のものだからと、殺すのはおやめください。そうせずとも王は快くセス様の働きに、黒の森とヘイヴンの権利を神殿の保証のもと約束してくださいます」

「……お、お父様……私は戦神との結婚を望みません……!! お父様!!」


 王がジャスパーを見つめ小さく頷くの確かめ、慌てて前言を翻した。


「約束しよう! 望む褒賞を必ず用意する……!! だから……!!」


 セスはジロリと王を睨め付けると、掴んでいた剣を下ろし掴んでいた王女の髪から手を離した。鬱陶しそうに指に絡まった髪を振り払う。

 ジャスパーはわざとらしく咳払いをし、震える手を隠してニコリと微笑んだ。


「では今すぐ手続きをいたしましょう。セス様の大剣は獲物を求めて疼いているようです。すぐにでも戦場に戻らねば……」


 震え上がった王が慌てて神官を呼ぶよう怒鳴りつけた。

 愚か者たちが集う王宮は戦神の手綱を握ろうと画策し、戦神の唯一を侮辱するその愚かしさに気づけなかった。目の前で衛兵の首が鞠のように飛ぶまで、自分たちの愚策が生み出した怪物を手なづけられると信じていた。あと少し遅ければ間違いなく、王女の首は飛んでいた。

 この日踏みとどまれなかった愚かさの代償として、王宮は財と神殿が保証のもと黒の森とヘイヴンの支配権を失った。

 多数の褒賞と共にセスたちはヘイヴンへ凱旋し、その足でセスは黒の森に急ぎ戻る。けれどレイラの笑顔で迎えられることはなかった。


「……レイラ!!」

「セ……ス……」

「レイラ……!!」


 ぐったりと倒れ伏したレイラが、辛うじてセスの名を呼ぶ。

 燃えるように熱い身体と、血の気の失せた顔色。駆け寄り縋り付いたセスもまた、レイラのそばを離れた己の愚かさを知った。



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