第20話・呑気

 本当にツイてない。

 大櫛初音おおぐしはつねはがっくりと肩を落とした。

 旅館“かのきや”では、万が一のトラブルに対応するため夜でも夜勤組が事務室に控えている。フロントでの一般客への対応は八時までで終了するが、それ以降も夜勤組が交代で事務室で待機しているのだ。もとより、ホテルの仕事というのは接客や掃除だけではない。設備点検、備品チェック、清掃業者の手配。WEBサイトの運営や管理、広告もろもろ。接客がない夜の時間に、こういった裏方仕事はまとめて済ませることが少なくないのだった。

 そして当然、急な断水や停電が起きた時、対処するのも自分達の仕事である。何も起きないなら、まったり事務だけやって業務を終わらせることができたというのに。

 しかもいつもなら三人いるはずの夜勤組が、今は二人しかいない状態である。一人体調不良で休んでしまい、代わりの者が見つからなかったためこうなってしまったのだ。確かに、昼間の仕事よりも夜勤をやりたがらない者は多いし、急遽来てくれと頼んでもなかなか対応できないのが常ではあるが。


――ああ、よりにもよって。わたしが担当の時に、停電なんて起きなくてもいいのに。


 真っ暗になった事務室でひとまずランタンの明かりをつけ、窓のブラインドを上げる初音。同じ部屋では、同じく夜勤担当だった先輩従業員の松田香苗まつだかなえが内線電話をいじっている。


「あー、駄目ね。完全に落ちちゃってる。電話も通じないわ」


 はあ、と香苗がため息をついた。恰幅のいい彼女のシルエットは、薄闇の中にいても随分目立つ。


「どうしましょ。……あたし、本社の電話番号覚えてないんだけど。プライベートのスマホにも入れてないし」

「あー……そういえばわたしも。本社に電話かける時、いっつもここの電話使ってましたから」

「ファイル探せばあるんでしょうけど、真っ暗闇で探すのはなかなか大変そう。まあ、知らせないわけにもいかないから探すしかないんだけど。ていうか」


 香苗は窓の外を見て言った。


「……うち、予備電源あるんじゃなかった?停電してもすぐ切り替わるようになってるって聞いたんだけど……切り替わらないわね」

「ですね。ひょっとして、そっちにもトラブルが起きてるんでしょうか。ていうか、この停電がどうして起きたのかもさっぱりわかんないし。天気も悪くないから、雷で停電したってこともないですよね」

「近くで工事していてうっかり電線をぶっちぎった、ってこともないでしょうしね。まったく、縁起が悪いったらないわ。よりにもよってお祭りの日に」

「!」


 そうだ、と初音は思い出した。

 初音は元々は隣県の人間であるが、香苗はこの下蓋村の住人だと聞いている。だから、下蓋村の“言い伝え”についても詳しいのだ。

 この下蓋村は、地下に怪物を封じ込めていると。

 祭りの時期は結界が綻びやすく、ゆえに守らなければいけないルールがいくつかあると。例えば。


「ま、まままま松田さんは信じてますか?し、し、下蓋村の地下に封印されているっていうおばけの話!」


 情けないと言いたければ言え。初音は昔から、オバケの類が大の苦手だった。遊園地のお化け屋敷でさえ、断固拒否するほどには。


「やだあ、そんなものいるわけないじゃない!あんなの迷信よ、迷信!」


 そんな初音のびびりっぷりに気付いてか、香苗がふくよかな体を揺らして大笑いした。


「ただ、昔からうちの村の年寄りが五月蝿いってのは確かね。祭の時期に、明かりを消して寝るのはよくない……ってのはあんたも知ってるでしょ?万が一、うっかり電気消して寝ようとしてごらんなさいよ。祟られても知らんぞ!ってちっちゃな頃からじーさん達が怒鳴ってくるのなんの。……あたしも今年で五十になるんだけどさ。あたしより若い世代はみんな信じてないと思うわよ。怪物なんていないのに、年寄りどもが五月蝿く言ってきてめんどくさい。仕方なく風習に従っておくことにしようってね」

「で、でも今、縁起が悪いって……」

「怪物が封印云々は信じてないけど、この村の地形が“良くないものをため込みやすい”ってのはなんとなく感じてることだから。それに、多くの村人が“悪い事が起きる”って思ってるとね、本当に悪い事が起きたりするものなのよ。引き寄せの法則、ってやつかしら。あ、微妙に使い方間違ってるかもだけど」


 なんとなく、言いたいことはわかる。

 祭りの開催期間中に明かりを消すと、それだけで悪いことが起きると信じている年寄りたちがたくさんいる。そう信じる人間がいるだけで、悪い事が本当に起きてしまうことはありうるのだと。


「なんにせよ、早く明かりを復旧させないと……そのうちパニックになるお客様が出るかもしれないわ。二階より上なんか、水も止まっちゃってて大変でしょうし」


 だから悪いんだけど、と彼女は続けた。


「あたし、本社の電話番号探してるからさ。あんたは予備電源の様子見てきてくれない?庭の方にあるはずだから」




 ***




――こんなのんびりしてていいのかなあ。


 果たして、香苗の対応はどこまで正しいのだろう。初音はランタンを持って玄関から庭へ出た。いかんせん、自分はこのホテルに勤務してまだ三か月しか過ぎていない新人だ。夜勤も始まったばかりで、停電なんて経験したこともない。いきなりベテランとはいえ、平社員の香苗と二人だけで夜勤をする羽目になったというだけで不安で仕方ないというのに。


――お客様のところを回って、状況を説明するべきじゃないの?だって、部屋から下手に出られちゃうとそれも危ないし。館内放送使えないから、そうするしかないと思うんだけど……。


 まあ、一刻も早く予備電源を使って、館内証明だけでも復旧させるべきというのもわからないではない。まだ不慣れな自分一人に、予備電源の電気室の様子を見に行かせるのも間違っている気がするのだが。


『とりあえず、ブレーカーとか、スイッチとか。落ちてたら上げてくれるだけでいいからさ!よろしく!』


――悪い人じゃないんだけど、なんていうかこう……全体的にいい加減なんだよなあ、松田さんって。


 ああ、怖い。ランタン一つで、独りぼっちで歩きまわるだけで怖くてたまらない。

 事務室から従業員出口へ。出口から庭へ。建物沿いに、左方向へ少し進めば電気室があると聞かされていた。

 本格的に故障でもしていたら、到底自分みたいな素人に修理できるはずがない。困ったらスマホで写真を撮って、それを本社にでも送ってなんとかしてもらおうと決める。仕事で使っているデスクトップなら、バッテリー駆動で多少程度の作業もできるだろう。


「ここか」


 ざくざくと土を踏みながら少し歩いたところで、すぐに目的の場所は見つけることができた。電気室。そう書かれた文字は、雨風に晒されてかなり汚れてしまっている。持っていた鍵をドアノブに近づけようとした時、つん、と刺激臭が鼻をついた。


「ぐっ……!?」


 ついさっきまで、特におかしなことは何もなかったのに。急に風に乗って、異臭が漂ってきたのだ。それも、人間が一番“嗅ぎたくない”と感じる類の臭いである。長らく掃除されていない、排泄物と吐瀉物がどろどろに溜まった便器を直接覗き込んだような、そんな臭い。それが、すぐ近くから漂ってきているのである。


――ナニコレ、くっさ……!誰か近くでトイレでもしたの!?


 振り返ると同時に、ぼちゃん、と水が跳ねるような音がした。まるで、池の中に何かが落ちたような。


「な、なに?」


 ぼちゃん、びちゃん、ぼちゃん。水音は、繰り返し繰り返し響き渡る。まるで誰かが繰り返し、重たい石でも投げ込み続けているような。

 無性に気になる。というか、この凄まじい臭いの元は、ひょっとして池なのではなかろうか。

 初音は足元にランタンを置いて、池がある方へ歩き出した。なんとなく――そうなんとなく。この先に待っている者は、明かりを嫌っているような気がしたのだ。そのように、自分に訴えているように思えてならなかったのだ。




『ただ、昔からうちの村の年よりが五月蝿いってのは確かね。祭の時期に、明かりを消して寝るのはよくない……ってのはあんたも知ってるでしょ?』




 ついさっき、香苗が言っていた言葉を、初音は“都合よく”忘れていた。いや、忘れていたわけではないのだが、なんとなく“気にしなくていい”ような、そんな気分になってしまっていたのだ。

 月明かりの下、初音は革靴で一歩、また一歩と池の方へ進んでいく。池の縁石に、どす黒い水が打ち付けられているのがわかった。まるで、浜辺に打ち寄せる波のように。

 排泄物の臭いが強くなる。水音が、どんどん大きくなっていく。

 おかしい。うちのホテルの庭は、あの池はあんなに水が濁っていただろうか。あんなに異様な臭いを漂わせていただろうか。

 あれでは、まるで。


「その池に、近づいちゃ駄目!」


 遠くで女性の声が聞こえた。初音がはっとした時にはもう、池は目の前に迫っている。

 自分は一体、何を?わざわざランタンも置いて、月明かりしかない中池に近づいて、なぜ。


「!」


 次の瞬間。ひときわ大きな水音と共に、それ、は姿を現していたのだ。

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