2-9 |泡沫《うたかた》

☕️


「距離を、置いてほしいです」


当然の言葉にときが止まった。


この前のデートから数日後のことだった。


電話越しでも伝わる重たい空気。


何度も何度も理由を訊いたが応えてはくれなかった。


それからの俺はというと、川に流されていく流木のように活力を失い、とばりの落ちた世界のように色を失った。


くたくたになったシャツを見ても惰性のように仕事をし、まともに咀嚼そしゃくもせずに飲み込むだけの食事。


小説を読んでも映画を観ても空虚なまま。


毎晩のように飲む自棄酒やけざけ

溜まっていく洗濯。

荒れていく私生活。


人はこんなにも変わるのかというくらいに魂が抜けていった。


同時に彼女のことをこんなにも好きだったということを痛感した。


付き合ってからというもの、誰かに何かで刺される謎の夢は見なくなったのに、距離を置いた途端見計らったかのように毎晩同じ夢を見ては冷や汗をかき、質の悪い睡眠に苛立ちが増す。


ここ数日間、下を向いて歩いてばかりいる気がする。


いや、前すらも向いていない。


大袈裟に言っても空蝉うつせみとは思えないくらい世の中そのものを恨みそうになりながら缶ビール片手に遊歩道を歩いていると白と紫に輝く花を見つけた。


いつも通らない道での帰り道で偶然見つけたこの花はいまの俺に何かを訴えかけているかのように天を見上げている。


「これは、春紫苑の花」


よく似たヒメジョオンの花かと思ったが、時期的に春紫苑の花だろう。


……紫苑、いまごろ何をしているだろう?


毎日のようにやり取りしていた連絡がピタッと止み、当たり前のように会っていた週末の予定は泡沫うたかたのように消えていった。


**


親友の心治と駅前の居酒屋で酒を交わしながら話す。


「恋愛って難しいな」


「どうした?」


「急に距離置こうって言われて意味わかんなくて」


物事には必ず原因がある。


だが思い当たる節がない。


これでも愛情表現はしてきた方だと思っているし、大切にしてきたつもりだった。


「俺も嫁の気持ちはいまだにわかんねぇし、これからもわかんねぇと思う。ただ、わかんねぇからこそ日々に感謝することが大事なんだよ。子育ても食事も当たり前に感じがちだけど、ちゃんと言葉にしなきゃ気持ちは伝わんねぇよ」


彼女に対する感謝の気持ちが足りなかったってことだろうか?


せめて理由が知りたかったのが本音だが、いつまでも既読のつかないいまとなってはそれを訊くことは叶わない。


「で、慶永はどうしたいんだよ?」


「どうしたいって?」


「相談してきてる時点でこのままでいいとは思ってないってことだろ?」


そう、自分の中できっかけのようなものがほしかった。


普段恋愛話をしないが、こういうときの親友の意見はものすごく背中を押してくれる。


相手にこうなってほしいって思いがあって、こうならないでほしいって思いがあるから感情的になる。


冷静になればわかることだが、いざその場に立つとなぜかそれが強く出てしまうきらいがある。


「俺の家なんて子供のことでしょっちゅう喧嘩するけど、まず相手の意見を聞くことから始めれば話し合いで解決するもんだぞ」


話すって言ったって電話もつながらないし既読もつかない。


仮に直接会えたとして、そのときは何を話せば良い?


喧嘩ならまだしも、一方的に距離を置こうと言われたときはどうするべきかなんててんでわからなかった。


「彼女のこと好きなんだろ?」


「あぁ」


「だったら素直に言えば良い。変化球なんて投げなくて良いんだよ」


「一球もか?」


「あぁ」


「慶永そんな器用な人間じゃないだろ?」


親友の言う通りだった。


「考えすぎなんだよ。思い通りに行く恋愛なんてないんだからありのままでいいんだって」


前回会ったときよりもさらに大人に、そしてポジティブになっている気がした。


それにくらべて俺は同じ場所から踏み出すことすらできていないでいた。


「慶永は何のために恋愛してる?」


電子タバコを吸いながら真剣な表情でそう話す親友の言葉にすぐ返せなかった。


「欲を満たすためか?」


「いや、違う」


極端な言い方だが欲を満たしたいだけならぶっちゃけ誰でもいい。

でもそうじゃない。


俺は彼女じゃなきゃ心を開けないところまできていた。


良いところもそうじゃないところも受け入れてくれて、幸せを一緒に感じ合えると思った唯一の相手だ。


だから否定をした。


欲という言葉だけでは表しきれないほどの感情があったからだ。


「嘘だな」


被せるように食い気味で否定された。


「そうじゃないって自分に言い聞かせてるだけで、本心では自分の欲を満たしたいんだよ」


「心治は違うのかよ」


「いや、一緒だ。自分が幸せになるために生きてて、子供の成長が、家族の笑顔が見たいっていうその自分の欲を満たしたくて生きてる。

だけど、もし違う人と結婚していたらきっとこじ幸せを感じることはできていない。人生なんて選択の連続だろ?常に正しい選択をしてるやつなんてそういないし、間違いを間違いって認められる人間が幸せをつかめると思うんだ」


同じ年月を過ごしてきたが、親友との決定的な差は向き合う姿勢と経験値だと感じた。


厳しい親のもとで育ってきたせいか、意志が強く柔軟性がある。


的を射ていたアドバイスに少し安堵し、何杯かおかわりをして店を後にした。


**


「はぁ?別れた⁉︎」


部屋中に響き渡る声。


家のソファに座りながらスピーカーモードにして美咲に電話していた。


ファブリック素材のモスグリーンのソファベッドの左側ぽっかりと空いている。


彼女が泊まりに来るたび身を寄せ合いながら思い出が刻まれたいった。


「別れたって言うか距離を置いてほしいって言われた」


「連絡はしたの?」


「電話しても出ないし既読もつかない」


「それって別れたも同然じゃん」


「俺、何したんだよ」


「雪落って遊んでそうだけど浮気できるほど勇気ないし、ギャンブルしかしてなさそうな顔してるのに全然してないしね」


「フォローになってなくね?」


「それぐらいギャップあるってことよ」


「そりゃあどうも」


「ただ、それが距離置かれた原因かもね」


「どういうことだよ?」


「刺激なくなったんじゃない?」


「飽きられたってことか?」


「片方の愛情表現が強すぎるとそれに満足しちゃう人もいるから結果的に冷めちゃう人もいると思うけど。まぁ優しすぎも罪ってことよ」


「みんな優しい人が好きって言ってるのにか?」


「女の子ってそういうものよ」


女性の心理は理屈ではないということを言いたいのだろうが、まったくもって意味がわからなかった。


「好きならちゃんと話した方が良いよ」


「どう話せって言うんだよ?」


「ったく、雪落って本当変なとこで遠慮するよね。まだ別れたわけじゃないんだから自分の気持ち素直に伝えなって」


美咲の言う通り、本当に嫌なら別れるという選択を取るのが普通だが、彼女は距離を置くという選択を取った。


なぜ理由を言ってくれないのか。


部屋に残された歯ブラシやメイク落としを見るたびに心の奥がキリキリと痛む。


「ってかあんたら高校生かよ。将来のこと考えてるんならやること1つしかなくない?」


「1つ」


大きく溜め息をついた後に、

「ハッキリしなさいよね。まったく何であんたがモテるのか私にはさっぱりなんだけど」


電話越しの美咲は俺の煮え切らない態度に明らかにイライラついていて口調が荒くなっている。


「そんなのガキのころの話だ」


そう言いながら飲もうとしたコーヒーはすでに冷めていた。


「ってかこういうの気持ち悪いからやめてくんない?中途半端にいるくらいならきっぱり別れた方がラクだよ」


辛辣しんらつにも思えたがいまの俺にはダイレクトに刺さった。


オブラートに包まず忖度そんたくもしない。


こんなこと言ってくれるのは親友の心治かこの美咲くらいだ。


「ったく、この前病室で久しぶりに会ったと思った途端、頻繁ひんぱんに連絡してくるんだから」


俺が事故に遭ったとき、彼女と美咲が仲良くなったことで何かと相談に乗ってもらっていた。


「本当、美咲がナースで良かったよ」


「じゃあ今度マンション買って」


「キャバ嬢かよ」


「冗談。焼肉で許してあげる」


「へいへい」


美咲に相談したことで全身に乗っていた重石おもしが少し取れた気がする。


「相談乗ってくれてありがとな」


「どういたしまして。でも夜勤明けは眠いから今日限りにしてね」


通話ボタンを切ってからずっと考えていた。


どうすることがベストなのか。


考えれば考えるほどメイズに入っていくので一旦考えることを止めた。


心治と美咲のお陰で目が覚めた。


俺は素直な気持ちをぶつけようと行動に出ることにした。

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