そうだ。温泉行こう。
鳥尾巻
プロローグ・僕はここにいる
『僕はここにいる』
誰かのイタズラだと思った。その文字を見つけたのは、授業をサボってこっそり忍び込んだ廃校舎の教室の黒板。チョークで書かれた文字。
どうせもうすぐ取壊しになるから、工事用の囲いに阻まれて近付く生徒もいない。
転校が多くて中学でもクラスに馴染めなかった私。だからといって親に心配もかけたくないから、学校に行くふりをして、見つけた囲いの隙間から中に忍び込んだ。それが始まり。
『誰かに読まれることはないと思うけど、一応書いておく。』
『世界中に謎の疫病が流行って僕の家族も近所の人たちもみんな死んだ。この辺りでも人間の姿はほとんど見かけなくなった。たくさんの人が毎日死んでいった。』
中二病をこじらせた先輩が書き残した小説かな。なんだか面白いかもしれない。
『僕には抗体があったらしい。らしいと言うのは、もうそれを証明する人もいなくなってしまったので、詳しいことは分からないからだ。』
ふんふん。なかなか凝った設定。私はいつしか夢中で読み進めていた。
『僕はいま一人でここに住んでいる。電気もガスもないけど不法侵入だなんてとがめる人もいないし、学校の校庭で菜園も出来る。』
『暮らすには困らない。保健室にはベッドがある。近くには川もあるから飲み水も豊富。人間がいなくなって、環境はずいぶん良くなった。皮肉だよね。』
確かにこの学校の近くには川も池もある。すごく汚れてるから、飲めたもんじゃないと思うんだけど……フィクションだから、まあいいか。
『明るいうちは菜園の世話をしたり、図書室で本を読むのが日課。ネットはとっくに繋がらない。時々野生の獣が畑を荒らしに来るから、丈夫な柵を作らなくちゃ。』
うわあ、サバイバル。獣って何?イノシシとか?
『夜は焚火をして罠にかかった獣や、菜園で採れた野菜を調理して食べる。トイレが流れないのは困るけど、その辺で処理したって誰も文句は言わない。』
まあ……一人設定ならねえ。大きい方は肥しになるのかなぁ。それで育った野菜を食べるの?うーん……私には無理かも。
『問題は風呂だ。汚くても嫌がる人はいないけど、自分が嫌だ。お湯をたくさん沸かすのは大変。でもたまにはゆっくり湯船につかりたいと思う。かといって温泉が自然に湧いている地域はここから遠いから引っ越すのは面倒だ。ガソリンも残り少ない。』
なんだか愚痴っぽくなってきた。
『もう一人でいるのは飽きた。死にたくないから生きてるけど、一人は寂しい。家族のいるところへ行きたい。』
『それでも僕はここにいるだろう。生きている限り。』
この世界、犬とか猫は生きてないのかな。さっき書いてた野生の獣って飼えないんだろうか。お世話してたら気が紛れるかも……って、これはフィクションだっけ。
手記は廃校舎のあちこちにあった。そして延々と人類の死に絶えた世界の終わりを生きる男の話は続いた。
全部読みたかったけど、何回か通ううちに先生に見つかってこっぴどく叱られて、その場所は完全に立ち入り禁止になってしまった。
そうこうするうちに父親の転勤でまた別の学校に通うことになった私は、そんな妄想小説のことなどすっかり忘れていた。
★
数年後。世界に疫病が流行った。
原因を解明する間もなく、バタバタと人が死んだ。私の家族も友達もみんな死んで、私だけが生き残った。
どうやら私には抗体があったらしい。
ライフラインはほぼ途絶え、いまどのくらいの人間が生き残っているのかも正確には把握できない。
毎日生きるのに必死だった。死にたくないから生きる。ただそれだけの日々。
あの小説を思い出したのは、ふれあい動物園から逃げ出して自然繁殖した兎の群れを追いかけていた時だった。
私たち家族が最後に引っ越したのは、あの学校があった場所からそう遠い町ではなく、兎の後を追ううちに壊れた門の前を通り過ぎたのだ。
いや、まさかね。あの小説の通りになってるなんて。偶然の一致だよね。
疑いながら壊れた門を乗り越えて、雑草や雑木の蔓延る校庭に入った。近くを通る川の水は澄んで、キラキラと陽光を照り返し流れていく。
遠くには昔通った校舎と、工事用の囲いに囲まれた廃校舎が見える。あれから工事もしないまま、人がいなくなったわけだ。
「誰かいませんか〜」
私は廃校舎に足を踏み入れ、中に向かって声をかけた。
久しぶりに声を出した気がする。聞く人がいるとは思えないのに、間延びした音が喉に引っかかって掠れるのが妙に恥ずかしい。
「いますよ」
若い男の声がした……気がした。そんなまさか。幻聴でしょ。孤独過ぎてとうとう頭がおかしくなった?
「おばけ?」
今さら学校の怪談だなんて笑えない。こわごわと中を覗き込む。
電気もない薄暗がりから出てきた男は、しっかりと二本の足で立っていた。ずいぶん薄汚れてはいるけれど、それは私も似たようなものだ。
「いいえ。僕はここにいます」
そう言って、にっこり笑った男の手には、白いチョークが握られていた。
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