一瓶分の物語
渡日夏向
桜咲く
一瓶分の未来を、あなたはどう描きますか?
《桜咲く》
窓の外から夜の気配を感じながら、私はいつものように勉強していた。
白いカーテンを揺らして現れた夕風が、立てた参考書を倒し単語帳のページを捲っていく。私は、窓を閉めようと学習机に手をついて身を起こす。
そのとき、身体がふわっとする強い感覚に襲われる。唐突の激しい眠気のようで、私は床に足がついている感覚を失くした。
気がつくと、開けっ放しの引き出しの上に倒れていた。打ったのだろう肘がじんじんと痛い。
「なんだ? 今の……」
倒れるほどに勉強した覚えは無いが、意外に疲れが溜まっていたのかもしれない。今日はもうやめよう、と机の前で大きく伸びをした。
「ねーえ」
突然聞こえた幼い声に、ふっと窓を見上げる。
「……っうわああっ!?」
跳び上がって驚いた私に、声の主は「あははっ」と笑った。驚きのエネルギーに任せて、カーテンを両側にしゃっと開く。
机に座ると目の前にある窓、その外側に付けられた落下防止用の小さい柵の上。
そこに、そんな変な所に、人がいた。
――なんだ、なんだ!?
心臓がばくばくして苦しく、後ずさりながら胸を押さえる。
「ちょっと、逃げないでよ」
「だってだってだって……」
「もー」
小学1年生の中でも小柄なほうくらいの背丈の少女。その子が白く細い現実感のない腕をこちらに伸ばし、網戸を開ける。
どうしてこんなところに。っていうか誰!?
「どっ、ど、どうやって登ったのよ」
ここは2階だ。家にははしごも何も無いし。
「さあ、どうやって来たでしょーう」
「はあ?」
おどける少女をにらみつけると、ぶーっと唇をとがらせてきた。
「ねぇ命の恩人にその態度はないよー」
はい? 命の、恩人?
「何を言ってるのよ」
「だーかーら」
少女は顎のところで切りそろえられた髪を揺らして、こちらに顔を寄せてにやっとした。
「あたしがいなかったら、君死んでたんだよ?」
「……はあ??」
本当に意味が分からない。誰だこの子は。何がしたいんだ。
くっくっと笑う少女は続ける。
「君さぁ、さっき倒れたでしょ? あのとき、心臓止まってたんだよ。気づいた?」
……は?
「……何言ってるか全然わかんない」
「えー本当だってば。そこにあたしが参上して、一命を取り留めたってわけなのに」
「だから、どういうことなのっ!?」
急な展開に感情が追いつかなくて大声を出してしまった。
「私っ、元気だから! そんなことにはならないからっ!」
「人間って分かんないんだよ〜」
「もう、何!?」
ってやばい! こんな大声出したら1階の家族が不審がっちゃう!
そう思い慌てて部屋のドアの方を見たが、階段を駆け上がる音も、私を呼ぶ声もしない。
「あれ……?」
「なんの心配してんの? 家族に聞こえるわけないじゃん」
「は?」
「ほれ、時計見てみ」
言われたままに卓上の小さな時計を見た。丸い時計の針が示すのは7時15分、それが何?
――まさか。
よくよく時計を確認する。違和感があったのは、いちばん細い秒針。
それが、12と1の間くらいで静止していた。
「え?」
振り返って壁掛けの時計を凝視する。こちらも全く同じところで、秒針は止まっていた。いつものように、かつかつ秒を刻む音も全くしない。
2つの時計が一斉に電池切れなんて、さすがにないよね……。
「……時、止まってる?」
「やっと分かったぁ。死ぬほど勉強してる割に馬鹿だね」
「はあ」
呆れたような少女に私も呆れて、不思議な格好をした彼女に言う。
「あの、これ、夢?」
「めちゃくちゃ現実。そうそう、あたしが来たのは命を救うためだけじゃなくてね。君に渡さないといけない物があるからなんだけど」
そう言って少女は、肩からかけた淡い色のポシェットに手を突っ込んだ。取り出したのは、ひとつの瓶と、ペン?
「何、それ」
「君の未来」
「………………」
私の未来がこのペンって、え?
「それじゃあ……幸運なあなたへ」
急に真面目な声になった少女が、斜め上から私の目を見つめる。見たことのない色合いをした少女の瞳に、私は吸い込まれた。
「……………………」
「君は今日死んだけど、あたしによって一瓶分の未来を授かりました。はいっ、これ。インクとペン。絶対に失くしちゃだめだよ? 死ぬのと同じだから」
強引に手渡されたのは、底が楕円形をしたインク瓶と、つやつやとしたペン。キャップをひねって外すと、ペン先は万年筆の形をしていた。
「これは……?」
「えっとね、説明します。今、時が止まってるよね? あなたがそのインクとペンで、自分の未来を書いていかないと、時間は進まないの」
「え……私が書かないと、みんな止まったままなの?」
「あ、実際の時間は進んでるよ。君の時間だけだよ、止まってるのは」
「……よく分からない」
「うん、ここはそんなに重要じゃない」
少女の丸い頬が、かすかに残る夕日に照らされる。
「大事なのはここから。その瓶か、ペンの中、そのどっちもが空っぽになっちゃったら、今度こそ君はあの世行きです。気をつけてね!」
「………………は?」
嘘、でしょ?
信じられない思いで、私は手のひらサイズの瓶を見つめる。
「そんなの……こんな量のインク、すぐ無くなるでしょ」
万年筆を握ったことはないので想像だが、間違ってはないだろう。決して多い量のインクじゃないことくらい私でも分かる。そして、自分の未来を全て書いていけば、きっとこれは一瞬で無くなる。
……そんな。
「んもー、悲観的だなぁ」
少女がやれやれといった風に言う。
「そんなに事細かに未来書かなくてもいいし。それにそのインクは超長く持つよ。普通のインクじゃないからね、そりゃ。多分工夫すれば平均寿命くらいは生きられる。がんば」
「は、はあ……」
これはいわゆる、ファンタジーか。なんで私がこんな目に。
「あ、そうだ。注意事項忘れてた」
ちょっと真剣な顔になり少女はこう言った。
「このインクで、例えば未来の中に願望を書いたとして、それはぜーんぶ叶えられる」
「……まじ?」
「急に目輝かせるじゃん、人間らし。でも、人の生死に関する願い事だけは叶わない。インク無駄にしないよう気をつけてね」
「は、はい」
「あと、インクが無くなるまで君は生き続けるからね。200歳とかになってもう死にてぇってなったら、インクを捨てなさい。おーけー?」
「……そんなにインク持つとは思わないけど」
「わかんないじゃん。まあとにかく、あたしそろそろ帰るから。んじゃ、ばいばい」
「ちょっと、ちょっと待ってよ」
手すりに腰掛けたまま背中を向けた少女を慌てて引き止める。
「何?」
「えっと……あなた、結局誰なの?」
「……うーん」
空を見上げて考えた少女は、再び私を見てにこっとした。
「妖精か何かだと思っときな」
「はあ?」
「じゃあね!」
「えっ、ちょっ!」
ひらりと飛び降りた少女に驚いて、机に登り窓から身を乗り出す。
下に見える小さな庭には、人影ひとつ、どこにも無かった。
放心したまま、もう一度椅子に座る。広げっぱなしのノートや単語帳の上に、小瓶と万年筆を乗せた。
瓶の中に入った黒いインク。いや、最初は黒だと思ったが、瓶を揺らしてよく見ると、群青色にくすむ部分も、べっ甲のように黄色に光るところもあってなんとも形容しがたい色だ。さっきの子の瞳みたいに不思議だった。
そして何だ、私は死んだ? 本気で勉強のし過ぎが死因だとしたら、さすがにそれは笑えない。これしか能のない私が?
はあとため息をついて、再び青い時計を見る。やはりさっきの場所のまま、秒針は固まっている。
書くしか、ないのか。
キャスターの着いた学習椅子に座って勉強道具を軽く片付けた。まっさらになった机の上に、瓶と万年筆、それと手帳のフリーページを開く。
「……このインクってどうやって入れるんだ?」
瓶の蓋を開けたはいいものの、万年筆の使い方なんてさっぱり分からない。調べるしかないかとスマホを手に取る。画面上部に表示される時刻はいまだ19:15のままだが、検索エンジンはなぜがちゃんと動いた。
ウェブページの指示通り、インクにペン先の銀色をした部分を浸し、ペン尻を2本指でつまんで回す。固くて回りづらいが、少しずつ動いた。
すると、見えはしないがインクの吸い込まれていく感覚がある。割と面白い。
ペンがさっきよりも重くなったのを感じながら、ティッシュでペン先を拭き取った。下手なせいで右手が真っ黒になるが仕方ない。いや、もしあの子の言葉が事実なら、あんまりインク無駄にしたらまずいんじゃ。
「でも難しいし……」
淡いピンク色をした万年筆を改めて握り、手帳に向かい合った。万年筆を使って書くのは人生初で、それ以外のファンタジーな原因もあるに決まっているけれど、緊張する。
とりあえずページの左上に、今日の日付を記入した。シャープペンシルと違い軽い力ですいすい書けた。なかなかに新感覚だ。
「未来って、どう書くんだろ」
考えた末に、日付の横にこう続けた。
『夕食をとってお風呂に入る。また勉強をして、明日の学校の準備をして就寝。明日を迎えて6時に起床する。』
とりあえずは、毎日やっていることをつらつらと並べてみた。睡眠中に時が止まっては敵わないから、起きるところまで。
ふうと息をつきペンを置くと、なんと、かつかつと時を進める秒針の音が戻った。下からうっすらと家族の声も聞こえる。
本当にわけがわからない。だけど、とにかく時間が無事動き出してほっとした。
――でも、毎日こんなふうに書き続けてたら、やっぱりこのくらいのインクすぐ無くなるよね。
唐突の出来事に泣き出しそうな衝動を堪えながら、私は家族のいる1階へと降りていった。
翌日、昇った朝日とアラーム音と共に私は目覚めた。
身体を起こしてスマホを手に取り、タップしてアラームを止める。表示された時刻は、6時ぴったり。
ふわぁとあくびをして寝床から出る。両足がフローリングについた瞬間、はっと思い出した。
勉強机に飛びついて小さな時計をつかむ。またもや、秒針が止まっていた。
「んなこと……」
目をこすってぱちぱちしてまた見るが、やはりちょうど9を指したところで秒針は静止している。
かつかつと壁掛け時計が時を刻む音もしない。
「本当に、また止まった……?」
私はしばらくの間、時計を見つめて固まっていた。
信じられないまま、また適当な未来を書いて、私は家族のいるリビングへと向かった。
「おはよー」
「おはよ」
私の家族は、お父さんとお母さん。
それとお姉ちゃんだ。
リビングの、私の部屋のものより大きい壁かけ時計を見上げる。銀色の秒針は、止まることなくちゃんと時を刻んでいた。
朝起きてしばらくの間はぼーっとしていたはずなのに、今時計が示す時間は6時2分。いつも通りに起きてすぐの時間だ。
だから焦る必要も何もなかったのに、私としたら、朝ご飯を食べている間も制服に着替えている間も、ぼーっとしてなんとなく動きが怠慢になっていたようだ。そのせいで、いつの間にか家を出る時間がすぐそこに迫っていた。
「あんた大丈夫? 遅刻しないの?」
「やばっ!」
歯をのろのろと磨きながらテレビのニュースを見ていた私は、お母さんに言われてはっと時計を見上げた。
急いでうがいをして、鞄を引っ掴んで家を出ようとしたところでハンカチを持ってないことに気がついて、また部屋まで走り戻った。
やばいやばいと焦りながら、リビングを走り抜ける。
「……お姉ちゃんいってきますっ」
お母さんの「気を付けなさいよー」に大きな声で玄関から「うん!」と返し、急いで靴を履いた私は家から飛び出た。
お母さんは心配していたが、実は遅刻しそうなことは全くない。そもそもの毎日の出発時刻が人よりもだいぶ早いので、少し遅れた程度で登校時刻の8時を過ぎてしまうことは絶対にないのだ。
ただ、朝の静かな時間に今日の予習をすることができなくなるので、私としては結構痛い。
――これも、昨日の変な出来事のせいで……。
全部夢だったんじゃないかと何度も思ったけれど、あの出来事の記憶は薄れることもなく、インク瓶とペンが消えることもなかった。
もう何がなんなのか、どれだけ考えてもさっぱりわからない。
内心で頭を抱えていると、あの女の子――妖精?――の声がフラッシュバックした。
『死ぬほど勉強してる割に馬鹿だね』
いやいや、これは馬鹿でもそうじゃなくても誰でもわけわからなくなるから……!
心の中で文句を言いながら、いつもの通学路をずんずん歩く。
学校に無事到着して、普段は私より後の時間に来る友達に「今日遅いね?」と言われたので曖昧に返した。
その友達と話しながら、ふと、あれ? と思った。
あの妖精の言うことが全て正しいなら、私があのペンで書いたことがそのまま現実になるはずだ。
私は、いつも通り登校して学校で過ごす旨を書いたはず。それなのに、私は今日、クラスの子が見て分かるくらい登校するのが遅かった。
なんでだろう。
この日、集中が切れるたびにふと「なんでだろう」と疑問に思った私は、家に帰ってから手帳を見返してみた。
「あ……そゆこと?」
今朝、起きてすぐ書いた未来の中にはこんなことが書いてあった。
『登校する。』
ただ、それだけの文があった。そして、私は気がついた。
『6時に起床する。』
起きる時間はちゃんと指定したけど、登校時間までは……。
そうか、だから遅刻したんだ。正確には全く遅刻ではないけれど。
ということは、わざわざ時間まで未来を書かないとイレギュラーなことが起こるってことか?
そんなの、インク、足りるわけ。
『そんなに事細かに未来書かなくてもいいし』
妖精はそう言ってたのに。
「って、やばい!」
塾に行かないと! と思って見上げた壁かけ時計は、止まっていた。
「ああもう!」
ペンを手に取り、手帳に向かう。
ふと思いついた私は、少し実験をしてみることにした。
そして、時刻は夜9時半。
塾の一室にあるシンプルな時計を見て、私はほっとため息をついた。
ちょうど今、塾は終わった。私の通う塾が終わる平均的な時刻は、9時半。それこそ今日はいつも通りだ。
それでなんでほっとしたかというと、私は実験のために、未来を書く際あえて時刻指定を一切しなかったからだ。
つまり、これでわかった。未来として書いたことは全て現実になる。けれど、書いてないことは全く起こらない、というわけではない。
なんだそれ、と私は呆れた。
こんなくだらないことに頭を使ってる場合じゃない。私にはもっと、すべきことがある。
「ねー」
「……ん?」
親の迎えを待っていると、最近よく塾の時間が被る男子が話しかけてきた。これも、未来には書いていないことだった。
「斉藤と同中なんだよね? 名前何だっけ、なんかめっちゃ頭良いって聞いたんだけど」
「……星野だけど。あなたは、田宮くん?」
「そーそー。田宮でいいよ」
友達が多くいつもやたら騒がしい人なので、印象に残っていて名前がすぐに浮かんだ。それこそ学校で同じクラスの斉藤くんに「田宮ぁ!」といつも絡まれてる人。
「塾いつからやってんの? 中3から?」
「いや、1年生のときから来てる」
「まじか! すっげー、そりゃ頭良いわ」
頭良いもなにも、私の特技はそれしかないのだ。
「俺は部活引退したから最近入った。よろしく」
「うん」
私の中学校生活は、部活とは全く縁のないものだった。だから、部活をしながら勉強も両立するというのが想像できない。恐らく部活が嫌になる。
「何部だったの?」
「バスケ。見える?」
「……まあ運動部っぽいけど」
「そりゃそうだよ。文化部だったらまだ引退してねーよ」
知らなかった。文化部なんてほぼ趣味のようなものだと思っていたけど、案外大変なのかもしれない。
「ていうかさ、勉強法とかなんかあんの? うちの塾でもいちばん頭良いとか言われてたけど」
「一番かは知らないけど。勉強法ね、なんだろ、やればできるよ」
「根性論かよ」
そんなことを言われても、勉強は本当にやればできるのだ。才能も、センスも、体力も関係ない。だから私に向いていて、かつこれしか能がない。
「勉強しても成績上がんないときとかさ、天才さんならどうすんの?」
「勉強量と成績は必ず比例するよ」
「うわまじか……さすが天才さんの言うことは違う」
「そうやって呼ぶのやめてくれない?」
なんとなく知ってはいたけど、馴れ馴れしくて面倒な奴だ。
「帰らなくていいの? あなたも迎え待ち?」
「いやチャリで帰るよ」
「へぇ。さすが運動部」
塾から家まで自転車なんて、途中で倒れるに決まってる。と思ったけれど、私と中学校が違うこの人は家が近いのかもしれない。いや、体力どうこうは置いといて今9時半過ぎなんだけど。まあ男子だし……。
「んじゃ俺帰るわ。またなー星野」
「うん」
馴れ馴れしいなぁ。
そうも思ったけれど、部活もやってた上に勉強にも勤しむ彼は少しだけ眩しかった。
目の前でお母さんが泣いている。
その横でお父さんが悲しい顔をしている。
その向こうにはおじいちゃんとおばあちゃんたちもいて、小さな足で立ち上がってよく見ると、部屋には親戚の人たちがたくさんいた。女の人は泣いていて、男の人は暗い顔をしていた。
いとこたちはみんな不思議そうにしていて、その中でひとり、いちばんお兄ちゃんの子だけが大泣きしていた。
私のすぐそばの写真では、女の子が大きく口を開けて笑っている。
私は、スマホのアラーム音と共に目を覚ました。
ゆっくりと身体を起こして、目をこする。
夢を見た。
書いた未来が、現実になっていた。
『お姉ちゃんの夢を見る。』
ちょっと的外れだなぁ、なんて思いながら、階段をぺたぺたと降りてリビングに顔を出した。
うちに来た人なら誰でも目にするであろう位置に、それはある。
「お姉ちゃんおはよ……」
そこに、お姉ちゃんの分身がいるんだよと、小さい頃から教わってきた。
明るい色の木で作られたお仏壇だ。
そこに向かって話しかけるのも、小さい頃からの癖だ。中学生になっても習慣はなくならなかったし、なくす気もない。
詳しいことは訊ける気がしないので知らないが、私はお姉ちゃんと会ったことがない。お姉ちゃんの姿で知っているものといえば、お仏壇に置かれている小さな女の子が笑っている写真だけだ。
私が小さい頃、両親も親戚も、いつもお姉ちゃんのことで暗い顔をしていたのを覚えている。みんな私に構ってくれない、と思って寂しく思ったことも、覚えていないけどあったのかもしれない。
いつしか、私がしっかりしなきゃという意識が芽生えたから、寂しさなんて感じた記憶はないけれど。
「お母さんおはよう。お姉ちゃんのお水もう変えといたよ」
「ありがとう。今日は遅刻しないようにね?」
ある程度大きくなって、周りを知ってからわかったことだが、うちの家族はお姉ちゃんの死を相当引きずっていた。
だから私は、会ったこともないお姉ちゃんの写真と会話する癖がついたんだと思う。おはようって言うだけで、いってきますって言うだけで、お母さんもお父さんも少しだけ笑ってくれるから。お姉ちゃんがいなくなった現実を和らげることができるから。
今ではすっかり。お姉ちゃんは私の守護神みたいに言われている。何かあるごとに、お姉ちゃんが守ってくれるから大丈夫よと言われる。
お姉ちゃんの2倍はもう生きた私は、お姉ちゃんに守られる筋合いはないけど。
自分の身は自分で守るものだ。それができなかったから、お姉ちゃんは。
今朝の夢を改めて思い出した。お姉ちゃんのお葬式か何周忌かのときの話を聞いたことがあるので、それに由来するものだろう。実際はまったくもって覚えてない。
小さな身体で立ち上がってみると見える、一面の暗い顔。
それを振り払うようにバシャバシャと顔を洗って、支度を進めた。
今日は遅刻するわけにはいかない。
淡々と支度を終えて、事故に遭わないよう充分に注意しながら登校する。
思えば、お姉ちゃんのせいだろうか。私が「命」に敏感になっていたのは。
最近は無い。しかし小学生の頃なんかは顕著だった。防災教育、交通安全教室、不審者訓練、そんなときは決まって深く深く考えすぎて頭痛を起こしていた。もともと身体が強くないのもあるが。
でも、あの一瓶をもらって、私の命が目に見える形になってしまうと、どうも意識してしまう。
お姉ちゃんだけが特別なことはない。私だって、誰だって、いつ死んでもおかしくない。
小学生の頃の夏休み課題の作文でそんな内容を書いたときのことを思い出した。先生にはコンテストに出せると言われたけれど、どうしても両親に読ませるのが嫌で辞退したのだ。
そんな両親はわかっているのだろうか。
私の命が手のひらサイズに収まってしまうことはさすがに知る由もないだろうが、私の命だって永遠じゃないしいつ消えるかもわからないこと。例えば今地震が来て瓶が落ちて割れれば、私は一瞬でお姉ちゃんのほうへ行ってしまう。
悶々と考えながらも、歩けば学校には到着する。今日はちゃんとクラスいちばん乗りだった。
誰もいない教室で、黒板の時間割を見上げる。白いチョークで、5・6時間目は進路、と書かれていた。
そうか、今日は進路学習がある。
高校もその先も決まりきっている私には、あまり関係のない授業だけれど。
「みんな一度きりの人生なんだから、いちばんは後悔しない選択をすることだよ」
その進路学習中に、ふと担任がそう言った。
よく言われることだ。一度きりの人生。
短くていつ終わるかなんて誰にもわからない人生。
急に、これでいいのか、という思いに襲われた。
偏差値の高い高校に行って、良い大学に進学して、良い企業に就職する。そして両親や親戚を安心させて、支えて、……いつか私にも家族ができるなんてことは想像つかない。
でも、その将来を実現するためには、きっとずっと勉強し続けないといけない。
今までは別にそれが苦ではなかった。
しかしどうだろう、それでいいのか。
いや、それでいいはずだ。そうやって生きてきた人も社会にはたくさんいるはずだ。
それに勉強は嫌いじゃない。やれば伸びる分だけ楽しい。
でも、それでもどうしても引っかかる。私の人生、勉強だけでいいのかな。
今だって、部活もしていないどころか趣味すら思い当たらない。ひとりぼっちなわけではないが、一緒に遊びに行くような親しい友達は誰もいない。
しかも、勉強をしているのは、すべて将来のためだ。将来のためだけ。
じゃあ、その将来が零れて消えてしまったら。
私は空っぽだ。
「はぁ」
思わずため息をついてしまう。
こんなことを考えてしまうのも、あのインク瓶のせいだ。
突然私の命が、未来が、はっきりと目に見える形になったせいで、どうも将来とか人生とかいうことが頭から離れない。
加えて、お姉ちゃんのことも。
お姉ちゃんの短い人生は幸せだったのだろうか。お母さん達の顔を見てると、きっとそうじゃなかったんだろうなとは思うけど。
大人達はいつも言う。この子ももっと、もっと生きていれば、幸せな未来がたくさん待っていたのに、って。
そう言われるのならきっと、お姉ちゃんは幸せになる前に死んじゃったんだ。インクが切れるように突然、瓶が割れるように理不尽に。
それだから私は、人生はどこで突然終わるかわからないって、ちゃんと知っているはずだった。
だから後悔しないような人生にしたくて。
そうだ、だからたくさん勉強してきた。そうすれば幸せになれる、って教えられて信じてきたから。
幸せに、なれる、か。
つまり、勉強は幸せになる手段ってことだ。
勉強すること自体は、幸せだとは思ってなかったのかな。
どうだろう。
お姉ちゃんならわかるのかな。
私には、わからない……。
「そういえばだけど、どこ高目指してんの?」
「え?」
「第一志望、どこ?」
塾が終わって帰る前。後ろからいきなり話しかけてきた田宮くんに、私は淡々と答えた。
「風見女子。私立だから特待目指してる」
「えーっ! 県内ってかもう地方のトップ高じゃん! すっげぇ」
「まあせっかく市内にあるんだし目指したいな、って」
「すげーなぁ。あ、俺はね、部活強いから波高」
「えーっと、私立?」
「あれ知らない? 県立の波ヶ丘高校」
波ヶ丘。そういえば聞いたことがあった。
「時代の波に乗れ! ってよく言ってるところだよね?」
「そこそこ! その時代ってのが面白くてさ、波高はガチで勉強したい人も部活バカも対立しないでいるらしいし、進路だって大学も就職も半々いてさ。そんなふうに色んな人と一緒に過ごせるのがまじいいな、って」
「確かに、普通の高校だとどうしても似た人ばかり集まるよね」
「なー。そんなのは流行りじゃねえよ時代は多様性だ! っつーのが波高の売りらしい。まあそのぶん入試のテスト以外のやつが馬鹿むずいらしいけどな。作文とか」
やたらとよく喋るこの人は、波高のことが好きで行きたくてたまらないのだろう。
こんなキラキラした田宮くんに対して、どうだ私は。風見の魅力なんて、学習環境が整っていること以外に挙げられない。
そんな私とは違って、彼はきっと、今も未来に向けても目が輝いている。
羨ましい、とか、少し思ってしまった。
「どうした星野、元気ねえな。勉強しすぎて死ぬんじゃねーぞ」
「……そんくらいじゃ死なないよ」
「あはっ、まあ星野は慣れてるか。俺が星野レベルで勉強したら1日で頭破裂する」
「さすがに大丈夫でしょ」
勉強しすぎて死ぬなんてない、とは言い切れなくて少しヒヤッとした。
妖精にも言われた。死ぬほど勉強してるわりに馬鹿、って。
そのときは呆れたけど、よく考えると妖精の言うことも間違ってはいないのかもしれない。
何事も、やりすぎては極めるどころかかえって馬鹿になってしまう。
勉強の意味を見失いそうな今の私みたいに。
「とにかく無理すんなよー、塾一番の努力家さん」
「……ん」
努力家さん?
前まで、天才さんと呼ばれていた気がするけど。
まあいいか、と思っていると、田宮くんはすぐに他の友達グループの中心に入って、賑やかに笑っていた。
今日は朝からめまいが止まらなかった。きっと、っていうか絶対、朝日がうっすら見える時間までずっと勉強していたせいだ。
勉強の意味がわからなくなりだしてもそこまで勉強に執着してしまう自分が、なんだか変な生き物みたいに思えた。
思わずもう一度、布団に倒れ込む。
勉強のし過ぎで死ぬなんてこと、もう二度とあってはいけないとはわかっているのに。いや、妖精が来たときの死んだ理由が勉強だと確定したわけじゃあないけど。
でも、もしこの短くて大切な人生を、いつか来る未来のための勉強ばっかりで終えて、それも勉強のせいで終わりにしてしまうのは。
それはあまりに虚しくないか。
カーテンの隙間から差すまぶしい朝日に目を細める。もう支度をしないと。
でも身体が動かない。
「……………………」
ふと、時計の音がしないことに気づいた。
そうだ。また未来を書いてなかった。うんざりしながら立ち上がり、ペン類を出すために引き出しの中を探る。
この瓶のインクはまったくもって減っていないように見える。
でも、減っていないにしても、もうあとこれだけだ。
たったこれだけの、人生だ。
どうする。
私はどうする。
お姉ちゃんみたいにはなりたくない。
短すぎる人生を悲しまれるのならまだいい。
でも、10年以上経っても家族に死を嘆かれるような、失われた未来を残念がられるような人生は、送りたくない。
どうする。
「わかんない……」
わからない。人生どころか、今日の分の未来すら、何を書けば良いのか。何を書くべきなのか。
どうしてもわからなくて、手帳にはたったひとこと、こう書いた。
『この1日で未来を変えたい。』
この日、時間が止まることは一度もなかった。「この1日で」という言葉が、1日分はちゃんと適用されるみたいだ。
でも、その1日ももう終わる。
塾が終わって、真っ暗の中みんなが帰り始める時間。
どうしよう。
未来は、なにも変えられていない。
机に座った勉強ばっかりしてきた私は想像力が乏しい。なにもアイデアがない。
学校や塾のクラスメイト、特に田宮くんみたいな人種の人達は、あんなにもいろんな物事の解決法や考え方を思いついて、人それぞれに将来をカラフルに思い描いているのに。
彼らは、どこでそれを勉強したんだろう。
勉強すれば幸せになれるんじゃないのか。
「あ」
そうだ。そうか。
勉強すれば幸せになれる。それなら、幸せそうな彼らは、たくさん勉強してきたからあんなに輝けるのだろう。
対して、人よりもっと自分に厳しく勉強してきた私は、どうだ。
彼らと私がしてきたのは、違う『勉強』だってことか。
そうか。そういうことか。
勉強が悪いんじゃない。
机に固定されてする勉強だけを『勉強』だと思っていた私が悪いんだ。
教室の中心にいる田宮くんをちらりと見る。屈託なく友達と笑う彼。きっとああいう人間関係も勉強。彼の愛するスポーツや部活動だって、きっと勉強なんだ。
それなら、勉強すれば幸せになれるというのも間違いじゃない。ましてや田宮くんのような人なら、勉強自体も幸せだ。
短い短い私の未来。
どうする。
心から幸せだと思える勉強をしなくて、いいのか。
「おーい星野、大丈夫そ?」
「……別に」
「早く帰らなくていーの?」
「迎え待たないといけないし」
「そっ」
いつものような軽い感じの田宮くんは、身を翻すとどこかに消えてしまった。
人の減った教室で、机に顔を伏せる。
田宮くんみたいになりたい。
私ともお姉ちゃんとも違う。もし私が彼なら、今、人生を終えても、きっと悔いがない。いや、あんなに行きたがっていた高校に通えないのはもちろん残念だろうけど、その頑張ってきた過程も、目的のために勉強してきたことも、きっと幸せだ。
私はどうだ。合格しなければ何の喜びもない努力を、無駄に続けてきている。
未来のための努力は正しいことだろう。でも、保証されていないたった一瓶分の未来のために、今を捨てていくなんて。
そんなのでいいのか。
……だめに決まっている!
お姉ちゃんのおかげで、人生を無駄にしちゃだめだって、わかっている。
わかっているけど。
「ひゃあっ」
「ははっ、びびってやーんの」
突然、首筋に冷たいものが当てられてとび上がった。
振り返ると、どこかに行ってた田宮くんが、ジュースの缶を2つ持って笑っていた。
「努力家1位の星野にこれあげる。夜もくそ暑いから気をつけて」
「……あ、ありがと」
受け取った空色の缶。見ると、小さい頃から好きなレモンソーダだった。
田宮くんは目の前で、反対の手に持っていたコーラの缶をぷしゅっと開けて飲み始めた。暑いからか、まだ帰る気はなさそうだ。
「そういや元気?」
「……………………」
「お、ほんとに元気なさそーだな」
「別になんでもないよ」
「ふーん。あれ、飲まないの? 好きじゃなかった?」
「あ、いや、これ好きなやつだよ。ありがとう」
気を遣わせても悪いので、缶を開けて飲み始める。昔から変わらない微炭酸が爽やかだった。
「それ飲んで元気出しな」
「………………」
「勉強で疲れてんだろ」
「どうだろうね。……あのさ」
「おう」
「勉強すれば幸せになれる、っての聞いたことある?」
「まああるけど」
「あれって、本当なのかな」
「さあ、知らね。不幸にはならないだろうけど」
「そっか」
彼のいつもの感じと炭酸で少し心が軽くなった。
「勉強が嫌にでもなった? 星野も波高来る?」
「……そうだね、行こうかな」
「え、まじで言ってる?」
「冗談」
「んだよ、びびったー」
「ふふ」
こういうのを、魔が差したとでも言うのだろうか。
「正直もう机の前に座ってたくないんだ」
「……ん?」
「勉強すれば幸せになれる。そう思ってたんだけど、でももう、めんどくて。短い人生なんだからもっといろんな楽しい勉強して、それで幸せになりたい。本当はガリ勉なんかでいたくない」
田宮くんは真剣な眼差しで聞いてくれていた。
「友達もいない、趣味もない。好きなことがなんにもないし、学力の他に誇れるものはない。そんなままいつか死ぬのは嫌だなって」
「……そっか」
「.........ごめんね急に、こんな話」
「いや、いいよ。……でもさ、それなら」
「……なに?」
「それならなおさらさ、一緒に波高目指さない?」
「…………え」
「このまま風見に行っちゃったら、もうずーっと座って勉強するしかなくなるぞ。そういう学校だし」
「でも……」
「いっそ、とりあえず道から飛び降りてみてもいいんじゃないかな。波高じゃなくてもいいけど、そうやって未来を変えてみない?」
「……………………」
選択を前にして、一瞬、お姉ちゃんにぐいと背中を押されたような気がした。
『この1日で未来を変えたい。』
インクの力は、本当だった。
「おーい、星野!」
「あ、いた! やっほー!」
「おっ、その笑顔は受かってたってことだろ?」
「この私が受かってないとでも?」
「ははっ、さっすが! まあもちろん俺も〜」
まだつぼみの桜の下、掲示板の前ではたくさんの笑顔の花が咲いている。
私は、昨日の夜に手帳に書いた未来を思い返した。
『もしも私の努力が充分だったら合格する。』
「ふふっ」
そうやって、私はインクに頼らずちゃんと努力した。未来のためだけじゃない、今も楽しむ努力を。
まだまだ瓶の中には未来が残っている。
そう、私は、これからだ。
インクで繋がれた私の未来は、きっとこれからが、いや、これからも、輝いている。
END
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