食べてしまいたいほど、きみが好き5

 日が暮れ始めた。昼と夜の時間が交差し、あと少しでヤルンヴィッドの森は暗闇に包まれる。そんな森を照らすように綺麗な満月がくっきりと姿を現すに違いない。


「もうすぐ満月が見えるよ」


 ベッドに座り、銀色の髪を指で優しく梳いた。いつも僕を見てくれるエバーグリーンの眼は瞼の奥に隠れたままだ。横を向いているからか整った顔に暗い影が差している。嫌な予感がした僕は「縁起でもない」と頭を振り、ベッドの近くにある窓を開けた。

 カーテンは最初から閉めていない。そのうえで窓を開ければ何にも遮られずに満月の光がベッドを照らしてくれる。そう思いながら窓の外を見ていると、わずかに月にかかっていた薄い雲がすぅっと流れていった。

 途端に明かりのついていない部屋が明るくなった。ガルの背中に刺さったままの太い針が月の光を反射して鈍く光っている。白いシャツは破れ、流れた血でどす黒く染まっているのが痛々しい。


(本当に大丈夫なのかな)


 ぴくりとも動かない姿に心配になってきた。息はしているし体が温かいのもわかっているけど、冷たい月の光に浮かび上がる姿を見ていると不安になってくる。

 家に帰ってきてから、ばあちゃんが残してくれた本をいろいろと漁ってみた。人狼に効果的な薬を知りたかったのが理由だけど、人狼に関するものは絵本や昔話の類いばかりで専門書のようなものは見つからなかった。きっとばあちゃんか、ばあちゃんの母さんが処分したのだろう。


(たしかに、そうでもしないとこの森に住み続けるのはつらいかもな)


 専門書には魔女たちが人狼をどうやって妙薬にしていたかも記されていたはずだ。その知識のおかげで、ばあちゃんたちは番人としてのエルダーの木を育てることができた。そのことはばあちゃんに話を聞いていたから僕も知っている。


(エルダーは復讐と威厳を司る木だ。その特性を利用して番人の木を作り上げた)


 ばあちゃんの母さんは、鉄の木を減らすのと同時に特別なエルダーの木を育て始めた。エルダーの木を選んだのは魔女にとって身近だったこともあるけど、復讐を司る木だったからだ。


(それなら、魔女に対しての復讐心を受けつけるのも難しくない)


 方法は簡単で、道具と時間さえあればいい。

 まずは、かつての足枷グレイプニールの魔女たちが殺してきた人狼の骨から魔力を抽出する。ある程度濃縮させたら水と混ぜてエルダーの根に吸わせるだけだ。

 毎日毎日、それこそ何十年と吸わせ続けた。そうすることでエルダーの木は死んだ人狼たちの強い復讐心を枝先まで宿し、魔女を排除すべきものとして認識する。その強い意志を番人として利用する。

 オークはその次に育てた木だ。かつては雷神が宿ると言われたオークには魔女自らの生き血を与えた。エルダーの木と同じように毎日毎日与え続けたおかげで、雷のように鋭く落ちる槍を備えた兵士の木になった。もちろん、オークにはいまも足枷グレイプニールの魔女である僕の血を定期的に与え続けている。

 すべては、この森を二度と鉄の森にしないために。あの惨劇をどこかの魔女が復活させたりしないように、鉄の森に還ることがないようにと願って施した森へのまじない。


(そんな森を命を賭けて守る契約を結ぶのが、足枷グレイプニールの魔女の一番の役割になった)


 だからエルダーの木々が僕を排除することはない。同時に僕を助けることもない。エルダーの木は侵入者がいると警告音で知らせ、動けない木々に代わって僕が侵入した魔女を排除する。そういう契約を結んでいる。

 排除するとき、僕の力だけで難しい場合はオークの力を借りる。オークの槍を発動させる鍵はエルダーの木が担い、動力源は血の持ち主である魔女、すなわち僕が担っていた。魔女が勝手をできないように、ばあちゃんの母さんがこうした契約を作り上げた。


(だから僕が森を使役しているわけじゃないんだ)


 どちらかといえば足枷グレイプニールの魔女のほうが森に使役されている。それが僕たちの贖罪だと思っている。ばあちゃんの母さんもばあちゃんも、そうやってこの森を守ってきた。


(ばあちゃんは新しいまじないもかけてたっけ)


 オークに絡みつくヤドリギたちには、ばあちゃんのまじないが施されている。オークの槍が魔女を突き刺せば、それに反応したヤドリギたちが魔女を覆って閉じ込める。あとは少しずつヤドリギの養分にされて跡形もなくなるというまじないだ。それを僕が止めることは難しいだろう。


(だから、魔女はこの森に入っちゃいけない)


 そういう意味では、ヤルンヴィッドの森は魔女にとって呪われた森になった。そんな森にガルがやって来た。

 人狼だと自己紹介されたときは「まさか」と思った。いまは害がなくなった森だとしても、人狼たちにとっては呪われた地であることに変わりはない。そんな場所に人狼自らやって来るはずがない。

 それなのに、ガルはそのまま僕と一緒に暮らし始めた。かつて同族を家畜のように飼い、死に至らしめてきた魔女の血を引く僕のそばに居続けた。それどころか使役契約をしたいと言い、僕と関係まで持った。


「ほんと、おかしな狼だよな」


 そんなガルのことを僕は好きになってしまった。駄目だとわかっていたけど止めることができなかった。

 僕はガルが好きだ。だからガルを絶対に助けてみせる。呪われたこの森で二度と人狼を死なせたりはしない。

 静かに眠るガルに月の光が当たり始めた。足元を照らしていた光が少しずつ広がり、腰や腕を照らしていく。そうして銀色の髪までたどり着いたとき、ぶわっと光の粉が舞い散るように広がった。


「……なんて綺麗なんだろう」


 横向きに寝ているガルの周りがキラキラ光っている。まるで月の粉を振りかけたみたいだ。

 しばらく見ていると、風もないのに銀の髪がふわりと舞い上がり、着ていた服までふわっと膨らむのがわかった。「あれ?」と思った次の瞬間、袖が破れ覗いた腕がぶわっと毛に覆われた。そのまま上着が破れ、ズボンが破れ、現れた肌が次々と毛に覆われていく。

 それだけじゃない。膨らんでいた毛はさらに大きくなり、気がつけばいつものガルの数倍の大きさになっていた。毛が膨れるたびに体の形が変わり、体の分厚さが人とはまったく違う巨大な獣の姿に変異していく。


「これが……狼の姿」


 気がつけば、ベッドの上には僕よりずっと大きな銀毛の狼が横たわっていた。

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