第17話 街の中心4:本とスケッチ

 カフェで女子トークを繰り広げていたスミカとニケだったが、スミカの方はだんだん落ち着きがなくなっていった。

 もじもじ、そわそわ、気もそぞろ、といった感じである。

 ふつうに考えればおトイレだが、スミカの場合はそうではない。


(う〜っ。気になる……。ヴィンセントさんのとこで買った本が気になる。シズキさんの豆本も気になる……)

 なんのことはない、ただの本の虫だった。

「――でさ、その草原エリアで、岩場のかげに見つかった洞窟なんだけど、その奥がさらに隠し通路になってることがわかってね……」

 ゲーム内のエリアのひとつ、〈風の草原〉。プレイヤー間ではたんに〈そうげん〉と呼ばれているエリアでの出来事を嬉々として話していたニケだったが、

「うん……うん……ふぅん?」

 とスミカの反応がにぶくなってきていることに気づいた。

(ん? スミカ……別のことを考えてるっぽい? うーん、スミカが気を取られそうなことといえば――)

 本である。バレバレである。


「スミカ?」

「うん……」

「スーミーカ?」

「うぅん……」

「アイラブブック、ベリベリマッチ! のスミカさん!」

「ひゃ、ひゃい!?」

 英語の授業の恥ずかしいアレを蒸し返されて、ブック・ラブラブ・スミカさんがようやく戻ってきた。

(眼の前にニケちゃんがいるのに、無視したみたいになっちゃった。まずい……)

 ときどき彼女がやらかしてしまうミスでもある。


「もしかしてスミカ、本のこと考えてた?」

 ニケがさくっとつっこんできた。

「うっ……。その通りでございますすみません……」

 スミカが縮こまっていると、

「ふーん。あれ、そういえば? シズキさんのとこで買った豆本ってどんな感じかなぁ(チラッチラッ)」

 明らかに「見せて?」という態度である。

「あ、えと、えーっとね? ……あれ?」

 スミカは本の取り出し方がわからない。

「ステータスから出せるよ」

 そうだった。タップ。

「これかな」

 ステータス・ウィンドウから〈シズキの豆本〉をタップする。

 テーブルの上に豆本があらわれた。もちろん物理的に手に取れる本だ。


「はい」

 スミカが手渡す。

「サンキュ。どれどれ……」

 ニケがパラパラとめくっていくと、

「初心者向けの……魔法ガイドみたいだね。お? 『省略文字の使い方』? これはわたし知らない……へえ、なるほど……ふむふむ」

 すぐに引き込まれている。

 ニケの様子をしばらく眺めていたスミカだったが、やがてもうひとつ本を取り出した。ヴィンセントさんの本屋で買ったファンタジー小説。お値段3600Gのアレだ。

 パラパラとめくる。立ち読みしていたところまでたどり着く。

 ちょうど女の子のおだやかな日常がくずれ、冒険の旅へと旅立つ場面だ。

 その先は――

 その先には、どんな話が待っているのだろうか。

 楽しい話だろうか。苦しい話だろうか。

 スミカの目は静かに燃えるような光をおび、物語の世界へと没入しかけ――

(いやいやいや、ニケちゃんいるし。あとであとで)

 と思うが、

(でもニケちゃん今豆本読んでるし……。ちょっと読んでも……)

 とも思ったりしていた。


 するとニケは豆本の意匠の方にも興味をひかれた様子で、外観をあれこれと見まわしている。

「この本のデザイン、おもしろいな……」

装丁そうてい? すごいよね。細かいっていうか。手仕事! って感じっていうか」

「うーん……」

 しばらくニケは眺めていたが、唐突にスケッチブックと鉛筆を取り出した。

「ちょっとスケッチしたい……かも。いい?」

「うん。もちろん」

 シャッシャッシャッ……。すぐに紙の上を鉛筆が走りだした。

 画用紙と、テーブルの上の豆本との間を、ニケの視線がせわしく動く。

(なんだろ……ニケちゃん、雰囲気が変わった……?)

 絵を描いているニケの姿をきちんと見るのは、今が初めてだった。人が何かに集中していると、その外側にオーラのようなものがにじみ出てくるときがある。

 端的にいえば、美だ。

 スミカは今、そんな美しさのひとつに触れていた。


「スミカ……本読んでていいよ……。ちょっとかかりそう……」

「あ、うん……」

 渡りに船とはこのことだ。お言葉に甘えまくって、スミカはファンタジーの続きの場面を追いかけた。

 やがて二人は静かになった。

 画用紙の上を鉛筆がすべる音と、ときおりハラリとページをめくる音以外、何も聞こえなくなった。

 二人の耳から周囲の音が、すーっと遠のいていく。

 そしてスミカはさらに深いところに降りていった。

 本の世界。

 ファンタジーの、物語の井戸の底へむかって。



 ◇



 自分で望んだわけじゃないけれど、旅立つことを余儀なくされた、ふわふわ髪の女の子。

 あとに残った、あのおだやかな家には、それ以降明かりが灯ることはなかった。

 家つきの妖精、ブラウニーもやはり去っていったらしい。人と、その隣人であるところの妖精がいなくなった家は、いたみも早くなる。やがて見る影もなく朽ちていくことだろう。

 地面をおおう白い雪の上に、小さな跡がてんてんと続いていた。それは女の子の歩いていった足跡だ。


 ここでいったん場面がかわる。

 今度は別の土地。別の人々の話。

 そこでのはじまりは、コンコンと湧き出る小さな泉だった。

 清冽せいれつな水は、周囲の土にしみわたり、草花をはぐくみ、動物たちの喉をうるおす。

 やがて人々が集まってきた。

 家が建った。

 土が耕された。

 麦の穂が輝いた。

 そうしてささやかな村ができていった。


 しかし、遠くの空にときおりもやがかかるようになった。

 そしてそれは徐々にとどこおりはじめた。

 靄はこちらの方に、じわり、じわり、とにじみ寄ってくる。

 不穏な黒い気配。

 やがて黒い空はよくない雨を降らし、大地をむしばむよごれた泥水が、水脈をけがした。

 水が病んだ。

 穀物が病んだ。

 動物たちが病んだ。

 村人が病んだ。

 両親おやがたおれた。

 子どもたちがした。


 そしてもうひとりの主人公もまた、旅に出る。

 その髪の長い女の子は、流れた。

 女の子の足取りは、水の流れだった。

 はじめはちょろちょろと流れる、細く、頼りない川。

 けれどだんだん力をつけて、危なっかしいながらもどんどん先へ進んでいく。

 するとあるとき、別の支流が合流してきた。


 その支流は、ひょろっとして、ためらいがちで、おろおろとしているけれど、心の中にしっかりとした芯を持っている子だった。それは、あのおだやかな暖炉と、父と母と、抱いていた犬と、たぶんブラウニーもいた居間の光景をしっかりと胸の奥底に、大事に大事にもっている、ふわふわ髪の女の子だった。


 仲間ができたのだ。

 川と川が手を手を取りあったのだ。

 すると川は、河となった。

 河は幅を広くして、たくましくなっていく。

 ときには台地にそって、ゆるくカーブしながら先へ、先へと流れゆく。

 ときには急峻きゅうしゅんな崖から一気に落下して、滝壺を宝石のような碧色あおいろに染める。

 やがて河は扇状地をぬけて、大きく広がっていった。

 沃野よくやの平野を滔々とうとうと流れる大河となる。

 あとは海へ飛びこんでいくだけだ。


 しかしそこに障壁があらわれた。

 水の流れをせき止める大きな壁があらわれた。

 主人公たちは挑む。

 無謀とも思えるほどの高い壁に。

 岩壁は水を弾き飛ばす。

 叩き、握り、つぶし、水のしずくまでも執拗しつように踏みつぶす。

 けれど彼女たちはあきらめない。

 叩かれてもいどみ、握られればしぶとく逃げおおせ、踏みつぶされようと何度でも起き上がる。

 お互いがお互いの肩を貸す。

 力を集め、束ね、放ち、穿うがち、突き抜ける。

 先へ、先へ——その先へ!


 そしてついに壁をこえた二人の前に、海があらわれた。

 汽水きすいいきをこえたのだ。

 目の前に海原がある。遠く、遠くに、水平線が横たわっている。

 青い海と白波が風に踊る。

 ああ、海とは塩辛いのだな、甘いのだな、透きとおっているのだな。そんなことを知った。

 そしてほら、海の底には光の届かない暗闇がある。そういうことも知った。


 彼女たちの前には海が広がっていた。

 目の前には未知の世界が広がっていたのである。

 これからこの大海原へと、は漕ぎ出していく。

 帆に風をはらませて、あの水平線の向こうへと――


 そうした余韻を残して、この物語の紙幅しふくは尽きた。

 ただ――


「ほへぇ……」

 スミカは、何とも気のぬけた自分のため息を聞いて、ようやく我に返った。

(おもしろかった……。けどまだ途中って感じだなあ。これから海の冒険が始まりそうだし。はじめの家と、それから泉の問題も解決してないし。うーん? 続きってないのかな……)


 続編の手がかりを探して、奥付おくづけあたりをあれこれたしかめていると――フォンッ。文字が浮かんだ。

 ええと……?

『この本を読み終えたあなたに。書肆しょしヴィンセントよりお知らせです』

 そして、

『続きはからどうぞ』

「お……」

 ブック・ラブラブ・スミカさんの震える指が、「こちら」の文字に引きつけられていく。もちろんタップしただけでは、すぐに課金は起こらないはずだ。しかし見事なマーケティング戦略に、スミカはものの見事に絡みとられていく……けれど、

(あっ。私今一文無しだ!)

 急に冷静のかたまりのようなものがドカドカと下りてきて、続きを読みたい願望と情熱とでフツフツとわきたつ頭を急冷していった。ついでに、このカフェのお代がニケもちだったことも思い出した。

(えへへ、ごちそうになります)

 とテーブルの真向かいにいる友人を見ると――


 天使かな? と思うほどの神々しいオーラを放っている美少女がいた。

 伏し目がちなあおの瞳は、手もとのスケッチブックを静かに見下ろしている。

 彼女のたたずまいは、湖面のように澄みわたり、静まりかえっている。そこにスケッチブックに線を引く鋭利な音が、研ぎ澄まされたやいばのように響いていた。

 彼女の背後は、ものすごいほどに色づいた夕焼けだった。その燃えるような空を背景に、ニケの白金の髪が、こちらも燃えるように輝いている。

 もし、これに加えて背中に天使の翼が広がっていても、まったく不思議に思わないだろう。見たものが気圧けおされるような――そんな荘厳な雰囲気を、ニケはその身にまとっていた。


 とはいっても、それはスミカ視点でみた場合であって、ニケ本人はしごくふつうにスケッチに集中しているだけだった。

「ん? あれ? もうこんな時間か」

 ふっと集中の井戸の底からのぼってきたニケが、ふいっと空を見上げてつぶやく。ここでようやくあっけにとられた様子のスミカと目があって、スミカを長いこと放置していたことに気づいた。

「ごめんごめん。まじめにスケッチしすぎた。こういうことたまにあるんだよね。呼びかけられてわたしが反応しなかったら、つっついたりしていいから」

「う……うん……」

 クラスメートの意外な一面を知って、スミカはびっくりしていた。

 そしてなんだかニケの姿がすごく、すごく、ものすごーく魅力的に見えたのにも、びっくりしていた。

「ん〜〜〜〜っ!」

 と伸びをするニケに、スミカは尋ねる。

「集中してたね……。それにしてもすごくいい題材? モチーフ? だったのかな、豆本」

「ん? 豆本……? ん、ん〜? モチーフかぁ……。まあね、うん。すごくよかった……かもね」

 ずいぶんとニケの口調がはっきりしない。そして顔にはなぜか、いたずらっぽい気配がただよっていた。

「見る……?」

「見たい!」

「しょうがないにゃぁ……」

 と、もったいぶった様子で見せてきたのは、机の上の豆本のスケッチである。


「おおーっ。めちゃくちゃうまい!」

 スミカは絵のことはよくわからないけど、ニケの絵がうまいということは直感的にわかった。

 すごいすごい、と感心していると、

「そして、こちらがメインで! ございます!」

 ペラリと一枚めくると――

「っ!!」

 そこには読書タイム真っただ中、完全に物語の中に没入しているスミカの姿が描かれていたのだった。

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