石鹸箱のうら

ハビィ(ハンネ変えた。)

孤独

おれの初恋は押し入れに住んでいる。

とっても美人で可愛いだけじゃない二つ年上の女の子。

彼女はママの遠縁の親戚を名乗ったが、おれやママとは見た目がまるで似ていなくて、花束のような眼差しを宿した美しいかんばせを一目見た瞬間から心臓を射抜かれて、可憐に笑いかけられる度その分だけ虜になって、一途に恋焦がれていた。

ある時からおれの家に居座っていた彼女の名前はヱリカ(えりか)と言う。

美の結晶であるヱリカはスカイブルーの長髪を一部三つ編みに結って肩に垂らし、子猫のように大きな瞳を好奇心で輝かせて、毎日決まって歌川国芳が描いた相馬の古内裏のがしゃどくろ柄の振袖を金色の帯に合わせて着ている。


梅雨が細くなっていく糸のように通り過ぎると、最寄り駅近くの花屋に桔梗や朝顔が並び始めた。

もう通学路を歩いているだけで汗が滲む。

今年も、夏が来たのだ。

おれは窓際の壁に寄りかかって、いかにも初心者向けな宗教学の本を開きながら、扇風機のぬるい風を受けている。

梅柄の栞を読み終わった場所まで動かして、ぼんやりしているとヱリカが声をかけてきた。

「ねえねえ、西鬼(にしき)くん。今日はひま?」

押し入れの隙間から頭だけがぴょこんと飛び出した姿は、前框の上を滝のように流れる長い髪も相まって、まるで絵巻に出てくるうつくしい怪異のようだ。


「どこかに行きたいんですか?」

「映画館に行きたいな!って……ねーえ、連れっててよー。見たい映画があるの!人がめちゃくちゃになって怨まれて死ぬやつ!」

おれが頷くと破顔して、ヱリカは押し入れから勢い良く飛び出してくる。

国色天香の擬人化と言ってもまだ足りず、そこに居るだけで飛んでる鳥を撃ち落しそうな輝かしい美貌には未だ慣れない。

出会った頃から変わらずにパーソナルスペースは狭いらしい、ヱリカに腕を掴まれて立ち上がると、鼻先がくっつきそうに近かった。

春の匂いがする吐息にクラクラする。

桜貝の爪が並べられた手のひらが、おれの髪を優しく撫でた。

脳内で傾国の文字がゲッシュタルト崩壊しそうになる空前絶後な傾国美姫。


視線も魂も自然と少女のうつくしさに吸いよせられて動けなくなる。

しかし、おれは彼女をじぃっと見ているといつだって漠然とした不安に襲われた。

どういった不安なのか、どうして不安なのか、一体何が、そんなに不安なのか、おれには分らない。

しかし、彼女のうつくしさにおれの恋心が強く揺さぶられて、魂が吸い寄せられていたので、胸の不安の波立ちは一瞬の出来事として気にせずにいられた。

あなたの為ならどんなお願いも叶えてあげたい。

おれはヱリカを連れて、線路の先が霞むほどの直射日光を浴びながら駅まで歩く。

普段なら二十分以上はかかる最寄り駅までの道程がほんの数秒に感じられる。


おれは時折立ち止まって彼女が迷子にならずにきちんと後ろから離れず着いてきているかを確認した。

熱い風に吹かれて、彼女の長い袖がひらひらと揺れる。

水槽の中を自由に泳ぐ、黒い金魚のようだった。

祝日の昼間なだけあって駅構内は人がごった返していて、改札からホームに辿り着いただけで疲労感に目眩がしそうになる。

定期圏外の方面を走る電車に乗り込み数駅を過ぎた頃、右隣の席に座るヱリカにおれは気になっていたことを尋ねた。

「暑くないんですか?」

「んー……なにがー?」

「その着物。生地も夏物じゃないですよね」

「言われてみたら、そうかも?あんまり気にしたことないけど」


「もし欲しいなら新しい洋服を買ってあげましょうか。白いワンピースとかどうですか?白は黒より熱が篭もりにくくて涼しいらしいですよ」

おれの提案にヱリカはくすくすと笑う。

綺麗な澄んだ笑い声は、小さな鈴が鳴るような上品さがあった。

「西鬼くん、大人みたいなこと言うね」

「もう子供じゃないですけど」

「そういう所が子供だよ。西鬼くんは」

何かを言い返そうと口を開こうとしたが、ほぼ同時にアナウンスが目的の駅名に到着したことを告げた。

冷房の効いた快適な電車から半ば強制的に引きずり降ろされると、再び釜戸の中のような蒸し暑さに晒される。

おれはズボンの後ろポケットからスマホを取り出して、地図アプリを開いて位置情報を確認した。


改札を抜けて、道路に出て、近くのコンビニの前を通り、信号機を渡る。

先導するおれの後ろを黙って歩いていたヱリカは、突然大声を上げた。

「ああー!」

驚いて立ち止まると、そこはアイスクリーム屋の前で、彼女の計略にまんまとハマったことに気づく。

彼女はとても我儘な飽き性で、何を買い与えても、彼女が満足を示したことはない。

どんなに丹精込めた食事を用意しても、必ず不満を言うのだ。

「ねえ、ねえ。買ってよ。アイスクリーム」

おれが頷くと、彼女は鼻歌でも歌うように上機嫌になる。


映画のチケット代に映画館の飲食代とパンフレット代、加えて今買ったアイスクリームの代金から今日の出費を暗算して、おれは早く自由に働ける年齢になりたいと思った。

店員がストロベリーチーズとココナッツのアイスクリームをダブルでコーンに乗せて、手渡してくる。

おれはヱリカを右奥のカウンター席に座らせて、その隣でクリーム色の壁に寄りかかるように立っていた。

店内はおれと同い年くらいの若者が多く目立つ。

ヱリカはビビットピンクのスプーンでアイスクリームをほじりながら、眉間に皺を寄せていた。

「あの……もう少しくらい、美味しそうに食べたらどうですか」

「このアイス、安っぽい味がする……なんかやだ」

彼女のルビーの瞳は、涙で薄く膜がはられていて、光の粒がきらきらと宝石のように散っている。


彼女の恨むような言葉の道理がおれには呑みこめない。

おれは高いアイスクリームの味がどんなものかは知らないが、目の前の少女の世界を憎むような欠乏感と泣いてしまうほどの切なさに当惑して、その不自由さをどうやって埋めたら良いのか皆目見当もつかず、ただもどかしさに苦しんでしまう。

ヱリカは溶けて指先についたアイスクリームをグルーミングする子猫のように赤い舌でちろちろと舐める。

おれは紙ナプキンを二、三枚ほどカウンターの端に鎮座していたナプキン立てから引き出して、彼女の視界に入る場所に置いた。

濡れた花のように綺麗な二重の目が、力を抜いたようにすっと細くなって笑う。

おれを見つめて、彼女は小さく呟いた。

「西鬼くんは、とっても寂しがり屋なんだね」

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