第三章

1 逃走前夜

 涼し気な鳥のさえずりさえ聞こえない、照り付ける陽射しが差す頃。カーテンの隙間から覗いた陽光が顔に当たるようになって、フィオナはようやく目を醒ました。時計を見ると昼を過ぎている。ぼんやりとした頭に、寝すぎたなんて言葉が流れていく。


 普段は朝自然に目が醒めるのだけれど、それは隣にいるセシルが起き出す気配に気が付いていただけだったようだ。仮に起きられなかったとしても彼が起こしてくれるから、フィオナは自分で時間を決めて、自力で起きたことはない。そんなことを、この歳になって初めて知った。


 使用人の誰かが起こしてくれてもよかったのに。そう思わなくもないが、昨日が昨日だ。予定のない人をわざわざ起こすこともないと思われたのだろう。これは自分から人を呼ばないといけなさそうだ。

 もぞもぞと起き上がり、侍女を呼ぶ。着替えさせられたりしている間に身体が怠くないどころか、異様なまでに軽いことに気が付いて、セシルに全く魔力を与えていないことを思い出す。


「セシルは?」

「もう早くから学園に行かれましたよ」


 もうこの時間だ。彼の生活を考えると出かけていないはずがないのだが、使用人の言葉に目を見開いてしまう。


 セシルがフィオナに何も言わずに出かけたことがあっただろうか。いつも彼は出掛ける前にどこで何をするのかを伝えて、何をフィオナにプレゼントにしてほしいかを聞きだして、それから最後に触れていく。いくら思い出しても、彼がフィオナに出掛ける挨拶をしなかった記憶に出会えない。

 思えば、喧嘩をしたとしても数分としないうちに仲直りをしていた。喧嘩したまま口を聞かないのも初めてだ。


「お母様は、昨日のことを知ってるの」

「いいえ」


 使用人が目を伏せる。「まだ知らないだけ」とその表情が伝えているようで、フィオナも返す言葉が分からなくなった。

 セシルがフィオナに張り付かなくなったことに、気が付かない母ではない。セシルがフィオナを避けていることには数日としないうちに気が付くだろう。もし本当にセシルがメアリから魔力を得ているのなら彼が身体を壊すことはないが、そうなったら自分はいよいよ不要になる。母は愉しそうに笑いながら、フィオナを外界に放り出すのだろう。


 外に放り出されたら、どうやって生きていけばいいのだろう。使用人を与えられるとも思えないから、生活の全てを自分でしなくてはならない。だけど使用人に世話を焼かれ、セシルに必要なもの全てを与えられていたのだ。その日の食事にありつくことすら叶わないに違いない。

 今育てている薬草を売ることができれば、いくらか金になるだろうか。そんな思考がよぎるも、自分には薬草の価値など分からないし、商売のことも分からない。仮にあの薬草たちが金になるほどの出来であっても、悪人に騙されるのが落ちだ。


 そこまで考えて、気が付く。どうして生きたまま外に出られると思ったのか。

 乾いた笑いが零れそうになるのを、使用人の手前堪えた。視界が歪み閉ざされていくのを、もう一人の自分が眺めているような感覚があって、身体がばらばらになるような気がした。


 この家の一番の秘密はセシルが欠けた存在であること。その秘密の半分はフィオナが握っているのだ。プライドの高い両親が家の体裁を保とうとしているだけと言ってしまえばそれまでだが、彼等はそのために娘をずっと屋敷に閉じ込めているのだ。それだけのことをする両親が、要らなくなったからと言ってフィオナを自由にしてくれるはずがない。


 きっと、殺される。メアリがフィオナの代わりになるのなら、わざわざフィオナを家に置いておく必要もない。口封じのために自分は殺されるに違いない。母ならきっとそうする。


 逃げなければ。命を奪われる前に逃げなければ。


 ただ飼い殺されて生きている自分に、生への執着があるなんて思いもしなかった。これは生の執着というよりは死に対する恐れと表現する方が正しいのかもしれないけれど、死にたくないと感じたのは確かだった。


 スカートを握りしめると、使用人がどうしたのかと尋ねてくる。心配してくれているのは分かるが、使用人が皆フィオナの味方をしてくれるわけではない。どこから母に伝わるか分からない以上、誰にも助けを乞うことはできなかった。


「セシル、いつ頃帰るって言ってた?」

「今日は夜になると」

「そう」


 使用人にしばらく一人にさせてほしいと伝えて、部屋の鍵を閉めた。

 家出をするのに何を準備すれば良いのかすら分からないけれど、出来ることをしなければ。急かされるようにクローゼットや引き出しを開けながら、フィオナは荷物をまとめはじめた。



 本を捲ってみたり、一日で必要なものを思い出したりしてみたが、夕方になっても衣類と金目になりそうなものしか鞄に詰められなかった。自分の生活する力の無さを思い知らされたようで余計に不安が押し寄せるが、どうであれ多くの物は持っていけない。鞄一つに収まる程度の荷物にした方が楽ではあるだろう。


 鞄は持っていなかったから、セシルが昔使っていたものを勝手に使わせてもらった。確かいつかの誕生日に父から贈られていたものだ。

 そういえば、父からものを与えられたことはなかった。これからもないのだと思うと心が痛むようだが、その機会を完全に断ち切ろうとしているのはフィオナ自身だ。


 出ていくのは、夜にしよう。使用人が皆寝静まった頃。セシルも寝ている時間に、ここから去ろう。


 セシルが言っていた通り、彼がメアリと恋仲でないとしても。フィオナと「気持ち悪い関係」を続けるより、あの女と共にいる方がいくらかマシだろう。聖女として望まれるような性格ではないが、セシルと共に過ごすうちに変わっていくのであれば、きっと悪くはないはずだ。両親だって、そちらを望むに違いない。


 ベッドの上に座り込み、膝を抱える。静かな空間に響く自分の呼吸の音を聴きながら、夜になるのを待ち続けた。

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