6 耽溺①

 文字を覚え始めた頃の話だ。家庭教師たちに厳しく勉強をさせられ、魔法を使う訓練をさせられ続ける日々だったが、空いた時間にフィオナと遊ぶのが好きだった。


「フィオナはなにをしていたの?」

「わたしはお絵かきしていたの」


 フィオナに厳しい勉強が課されていなかったのは両親に期待されていなかったからだと、今なら分かる。だけどその時はそんなことも分からなくて、「お絵かきできていいなあ」なんてセシルはぼやいていた。


「じゃあ今からいっしょにお絵かきしようよ」


 フィオナが取り出したクレヨンは、セシルが誕生日に母からプレゼントされたものだ。その日に一緒に画用紙に落書きをしてから、ほとんどフィオナのものになっている。


「先生がさっきおしえてくれたんだけど」


 窓にお絵描きしたものが動き出す魔法があるらしい。そうフィオナに伝えると、彼女は顔を輝かせた。


「このクレヨンでお絵かきしたら、うごいてくれるのかしら」

「どうぶつをかこうよ。きっといっしょにあそべるよ」


 セシルの休み時間に、二人で廊下に抜け出した。陽射しを真っすぐに透き通らせる硝子の前に立って、クレヨンを押し付ける。


「セシル、なにかいてるの?」

「ぞうさん」

「わたしはうさぎさん」


 歪んだ線が生き物の形を作っていく。フィオナはその頃お絵描きに夢中で、同じ年ごろの子どもの中では随分上手かったと記憶している。だけどお絵描きに親しみがないセシルの描く象は何か違う生き物の形になっていて、ちょっとだけ悔しかった。


「フィオナはじょうずだね。いいなぁ」

「でもわたし、お外にいけないから」


 そうだった。フィオナはお絵描きが許されている代わりに、外には出られない。逃げ出そうとすれば門番に連れ戻されて、部屋に押し込められる。セシルが一緒であればいいかと思い一緒に門番を説得したこともあったが、結果は同じだった。


「ぼく、フィオナといっしょにぞうさんの上にのりたい」


 フィオナが教えてくれた物語の主人公に、象に乗って旅をする人がいた。この頃はどうして彼女が外に出られないのかは理解していなくて、いつか二人で象の背に揺られて、どこか遠くに行くのが夢だった。


「セシルといっしょにとおくにいけたらな」


 フィオナの目に暗い影が落ちるのに気が付いて、セシルはその身体をぎゅっと抱きしめた。


「今からまほうをかけるね」


 自分もまた父と同じように、水属性の魔法しか使えないと教えられたばかりだったが、実感はわいていなかった。物語の主人公のように、願えば様々な属性の魔法を使えるようになると、無邪気に信じていた。だから「どうぶつさん、うごけー」なんて言って、力を込めた手を絵に向けた。


 フィオナは魔法を使えないから、ここでいいところを見せたい。そんな思いが膨らんで、側で彼女に応援もされて、なんとなく後に引けなくなった。悪戯は父や母に見つかる前にその痕をなくすと侍女と約束していたが、その日はずっと粘ってしまった。


「お前、何をしているの」


 母の声だった。普段セシルに向ける柔らかい声とは違う、怒りに震えたような高い声だった。怒られるのかと思って目をぎゅっと瞑るも、母はセシルの脇を通り抜けた。


「お前がやったのね」


 乾いた音がして、フィオナが床に崩れ落ちた。彼女が頬を押さえて泣いているのに気が付いて、セシルはフィオナに抱き着いた。


「おかあさま、ぼくがわるいの。ぼくがわるいから、フィオナをたたかないで」


 母がフィオナを叩いたのは初めて見た。普段は言葉すら掛けないのに、こんなにも声を荒げている。その変りように震えていると、母の後ろから父が姿を現した。


「どうしたんだ」


 思い返すと、その日の父は面倒くさがっていたように思う。確かその後来客が控えていたとかで、子どもが残した悪戯を、しかも明らかに女の子がいるであると分かるそれを、厄介に思ったようだった。


 母がフィオナがこの落書きをしたのだと父に言うと、父は傍に控えさせていた使用人を呼び出した。


「カール、あれを物置に閉じ込めておけ」

「畏まりました」


 カールという使用人は、この時からずっとセシルの敵となる。


 彼はセシルからあっさりとフィオナを取り上げ、すたすたと物置のある方まで歩いていく。脇に抱えられているフィオナはぼろぼろと泣いている。取り返さなくちゃ、という意識ばかりが先に立って追いかけようとするも、母に捕まった。


「あんなのに惑わされて、お前は可哀そうね」


 惑わされる。その意味は分からなかった。だけど母がフィオナを大切に思っていないことはよく分かったから、母を憎らしく思った。

 フィオナは悪くない、物置から出してあげてほしい。そう父と母に懇願するも、憐れまれるか鬱陶しそうにされるだけで、このやり方ではフィオナを助けてやれそうにはないと悟るしかなかった。


「フィオナ、のどかわいてない? おなかすいたよね?」


 扉越しにフィオナの反応を聞き、まだ無事であると確かめることで、セシルはどうにか気持ちを落ち着かせた。会うたびにフィオナは泣いていて、早く助けてあげたいという気持ちが募った。

 やがて夕食の時間も過ぎたとき、やっとカールに話しかける機会を見つけた。


「ものおきのかぎ、ちょうだい」

「坊ちゃんが何でもしてくれるんならいいですよ」


 これは随分時が経ってから知ったのだが、夕食の時にはすでに、カールはフィオナを物置から出して良いと言われていたらしかった。彼はその上でフィオナを閉じ込め続け、セシルで遊ぶような真似をした。


「なんでもする。するから、フィオナをたすけて」

「そうだな。じゃあ私にも、大人になったフィオナを可愛がらせてくださいよ」


 彼の言う「可愛がる」の意味は、その時は分かっていなかった。意味が分かる歳になって言われていたら確実に彼の命を奪っていただろうが、当時は「いじめない」という意味にうけとって、喜んだ。フィオナを閉じ込めたことを許したわけではなかったが、解放してくれるのであれば良かった。


「うん。みんなでなかよくしよう」


 渡された鍵を持って、物置まで走る。重たい扉を開けると、フィオナがはっと顔をあげて、泣きはらした目でこちらを見た。光のある場所を求めて、月の光が差す場所で膝を抱えている様子は、セシルの胸をぎゅうと締め付けた。


「たすけるのがおそくなってごめんね」


 もうだいじょうぶだよ。そう言って抱きしめると、フィオナはセシルを抱きしめ返した。縋るような、安心したような抱きしめられ方だったのを、まだ覚えている。


「フィオナのことはぼくがまもるよ。ずっとまもる」


 母に叩かせるようなことはさせない。物置に閉じ込められるようなことにはさせない。子どもの約束なんて、守れるかどうかも分からない戯言でしかない。だけどフィオナはその戯言にようやく笑顔を見せて、涙を拭いた。


「わたしを外に出してくれる?」

「うん。いますぐ出してはあげられないけれど、きっと、大人になったら」


 月明りが差し込む物置で、交わした約束。絡めた小指。この契りは、今後セシルが生きる上での道しるべとなる。

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