第二章

1 母

 魔力を与えるとき、どんなに分けたとしても互いの魔力が均等になるまでしか、魔力は動かせない。

 朝に目が醒めて身体がだるいときは、身体にあまり魔力が残っていないとき。身体が軽いときは、魔力が十分に残っているとき。夜の間に均等になるまでセシルに魔力を与えているフィオナは、朝起きたときの体調で、彼にどの程度魔力を与えたのかを判断している。


「フィオナ、起きて」


 眠りと覚醒の間。とろとろと瞼が重くなり、意識をふわりと手放そうとした時、肩をゆすられた。


「起きて」


 夏を目の前にしているといってもまだ朝は涼しく、薄い掛布の中は温く心地良い。まだこの中にいたいと掛布を引きよせたとき、手首を掴まれる感触がした。


「起きてってば」


 引き起こされる。彼の片手が背中に回され、なかなか眠りから抜け出せなかったフィオナを起き上がらせた。


「いっぱい魔力とっちゃってごめんね」


 身体が重い。座ったままでいるのがやっとで、このままベッドに沈み込みたくなる。


「でも朝ご飯は食べようね。回復遅くなっちゃう」


 うつらうつらしながら、フィオナは頷いた。


 多分、昨日の彼の魔力は尽きかけていたのだと思う。夜遅くに帰ってくるなり、倒れ込むようにフィオナに抱き着いてきたのは覚えている。ただ、それからどうなったのかはよく分からないのだ。急激に魔力が彼に流れていく感覚があったのは薄っすら記憶に残っているから、自分も半ば気絶するように眠ってしまったのだと思う。


「昨日、何があったの」


 枕元に置いておいた砂糖菓子を口に含むと、多少だるさが楽になったような気がした。重たいまぶたをこすって彼の方を見ると、彼はバツが悪そうに顔を逸らした。

 何かトラブルに巻き込まれたわけではなさそうだ。こういう表情をするときの彼は、自らの行いが自業自得だと理解している。大方、憂さ晴らしに魔法を使いすぎたのだろう。


「そんな自棄を起こすって、何かあったんでしょう」


 セシルは馬鹿ではない。普段から魔力を温存しながら魔法を使っているし、鍛錬のときも、魔力が尽きる前に戦線を離脱するように心がけているとも言っていた。学園での鍛錬は楽ではないらしいが、それでも魔力が尽きかけて帰ってきたことはない。


「子どものとき以来でしょう。こんなこと」


 彼の目が一度こちらを向いて、フィオナの喉元を見た。そして目を見ることもないまま、再びそっぽを向いた。

 どうしても、言いたくないらしかった。


「学園は行けそうなの」


 仕方なしに話題を変えてやると、彼はほっとしたように息を吐いた。後悔するくらいならやらなければいいのに、なんて思わないわけではないが、彼の内側にフィオナの知らない何かが眠っているのは伺えた。きっとこれは、フィオナが知ってはいけないものなのだと思う。


「今日は元々休み。ゆっくりするよ」

「それが良いわ」


 うとうとしながら使用人に着替えさせられ、ぼんやりしながら食事をとった。起きたばかりの時はしっかりしていたセシルだったが、どうやらそれは虚勢だったらしい。食事の時に一度スプーンを落としていて、彼も自分も同じなのだと気が付いた。

 なんだか安心した。


 昼過ぎまで二人で泥のように眠って、夕方近くまで眠りに落ちたり本を読んだりして過ごした。時折二人とも目が醒めている時間が重なって、その時は他愛のない話をして笑い合った。


 夕方になってようやくまともに動けるようになり、小屋の薬草を見に行くことにした。毎日水をやらねばならない薬草ではないとはいえ、初夏の気温では萎れないか心配にもなる。

 薬草たちは、セシルの情報収集とフィオナの試行錯誤のおかげで茎をのばし、葉を広げるようになっていた。立派な成長とは言い難いのだろうけれど、萎れる心配も枯れる心配も少なくなっていて、毎日その成長を見つめるのが楽しみになっていた。


 庭に出ると強い日差しがフィオナの皮膚を刺してきて、陽射しの眩しさを思い知らされる。目が慣れるまで、瞼を閉じて開いてと繰り返し、下を向きながら進んでいく。

 下を向いているのは、夏ばかりではない。優しい陽射しの春も、太陽の光を目いっぱいに受けたくなる冬も、フィオナは下を向いて歩いている。眩しいから下を向くのは、都合の良い理由があるからに過ぎなくて、本当は、自分の心の問題なのだ。


 下ばかり向いていると大切なことを見落としてしまうと教えてくれたのは誰だったか。優しい面立ちだった女性だったのは覚えているが、母ではないのは確かだ。大方侍女の誰かなのだろう。

 ぼんやりとしながら庭を歩いていると、すぐ先に人影があるのに気が付く。慌てて顔を上げると、そこにいたのは日傘を差した母だった。


「お前、セシルに何をしたの」


 母はフィオナに厳しい。ただ無関心な父とは違い、母は明確にフィオナを恨んでいる。普段は憎き者には近づかないとばかりに関わってもこないけれど、セシルに何かあったときは別だった。


「いいえ、何も」


 フィオナが慌てて首を振るも、母は鋭い目でこちらを見てくるだけだ。

 こうなったら、母は話を聞いてくれない。彼女の気が済むまで怒鳴られて、数度頬を打たれるのを我慢すれば、それ以上のことはされない。


「あの子が魔力を切らして帰ってくるなんて」


 前日にきちんと魔力を与えたのか。母が疑っているのはそれだった。


「お前がセシルから何もかも奪っていくのよ」


 母はセシルを愛している。息子に傾ける愛としておかしなものはないのかもしれないけれど、フィオナに同じだけのものは与えてはくれなかった。それどころか、セシルが普通に生きられないのはフィオナのせいだと罵り、彼に何かあると責任をフィオナに押し付けてくる。


 彼から大切なものを奪って生まれてきたのは事実だ。だけどそれは、望んでそうしたわけではない。それを知ってか知らずか、母はただフィオナだけを嫌った。


「申し訳ありません」


 下手に言い返せばもっとひどいことをされるから、言い訳はできない。悪くなくても謝るのが、母の怒りを収める分かりやすい方法だ。

 心が閉じていくのを感じる。ここしばらくの生活で温かみを取り戻していた気持ちが、冷えて固まっていく。


「お前なんか生まれなければよかったのに」


 普段よりひどく頬を張られて、フィオナは地面に崩れ落ちた。母の顔を見上げようと思ったけれど、できなかった。これ以上蔑みを含んだ視線を、憎しみのこもった表情を見たくなかった。

 母はさらに何か罵って、気が済んだのかフィオナの前から去っていった。

 後に残されたフィオナは、地面の暑さに皮膚を傷めつけられながらも、立ち上がることができなかった。

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