第4話

 少しずつ、変化を遂げる日常が微かな音を立てて、何かが、男を、そこへ誘う。

―――……じ。

声が、そこへ男を誘う。

―――し…う……。

不明瞭に聞き取れない声は、若い女のものだった。声に誘われ、先に渦巻くのは、どこかの社。緑濃いまだらの空間。そして、きらきらと光る何か。

―――誰だ?

 目を刺激してやまない光は、男の視界を、奪う。

―――………来い…………。

 男がはっきりと意識する前に、呼び声と景色は溶解する。

 ……男はまだ、微かな日常の変化に、気付いていない。


***


 朝方7時。修治はぼんやりと目覚めて、重い頭を振った。酔いは覚めているはずだが、体はなんとなくだるい。酒の臭いが漂う部屋には、男どもが伏していた。


「まだ早いか…」


 修治は少し笑って早々に帰る支度を始める。寝ている奴らを起こさないように、静かに鞄を取り上げて、修治はそっと部屋から抜け出した。


 アパートを出た修治に襲うのは、昇ったばかりのまぶしい太陽の光と、つんと凪ぐ冷たい空気。ゆっくりと伸びをしてから、修治は歩き出した。


 大学すぐそばのアパートは、修治の家からもかなり近い。修治の家の近くには、小さな川があり、川をはさんで小さな山、川沿いに歩くとちょっとした店の群れがあり、その店の群れを抜けると、大学が位置する。自転車で移動しても良いのだが、歩けば十分な距離である。


 飲み会のあったアパートは大学の裏にあったので、修治は大学を通り抜けて、いつもの歩きなれている川沿いの道に出た。


 7時という時間もあって、まだずいぶんと気温が低い。冬独特のキンと澄んだ空気に、白い息が吸い込まれていくようだ。朝の町はとても静かで、修治の歩く足音以外の音がない。


 しん、とした町に、修治の足音ばかりが響く。修治は黙って、自分の足音を聞きながら、家に向かって歩いていた。


 そのときである。


 修治は最初、それに気づかなかった。


―――……じ。


 足音に、ノイズが混じる。

 朝焼けの町には、修治以外、歩いている人はいない。車は店を挟んだ道の向こうに、時折走っているが、修治の足音よりも小さな音だった。

 ノイズは、車の音とは別の周波数で、修治の耳に届く。


―――…ぅ…。


 また、ノイズが走る。


 ぶぅん、と遠くを走る車の音と、足音に混じって、聞こえるその音。修治はまだ、気付かない。


―――……ぅ、じ……。


 それは小さな声のようだった。耳元で、かすかにささやかれるような、小さな音。3度目に耳に届いたとき、修治は、ただ雑音だと思った。しかし、次の瞬間、修治は耳を疑う。


―――しゅうじ。


 耳に直接響くような声。確かにそれは、修治の名を呼んでいた。


「……!?」


 訝しく思って、修治は思わず足を止める。ここにくるまで、誰ともすれ違っていない。誰かに呼ばれる筈が、ない。


「しゅうじ」


 今度は、後ろからの声だった。思わず修治は振り向いて、見たものに目を見張る。

 女が、立っている。たった今修治が歩いてきて、先ほどまで誰もいなかったはずの川べりに、女が立っているのだ。その姿が、修治には妙に気になった。


 白く丈の長いワンピースを着た、黒髪の長い女の人だ。今どき珍しく、前髪も後ろ髪もまっすぐに切り揃えている。着物でも着せてやれば、日本人形のような人だった。


 修治が振り向いて、何も言えずにじっと見ていると、女は少し首を傾げて、もう一度、名を呼ぶ。


「……しゅうじ……?」


 女は、まるで修治が旧知の友人であるかのような親しみを感じさせる声音で呼びかける。その顔には少しの驚きの表情も浮かべながら。けれど修治は。


「……誰だ?」


 言って修治は、眉間に皺を寄せた。それは理解できないことが起きたから、ではない。


「……私が、見えるのか……?」


 更に驚いた顔で、女は修治に語りかける。

 理解できないこと…急に日本人形のような女が現れたこと。それは、修治にとって、お化けがでたなどと騒ぎ立てるような、大事ではなかった。何故、女が自分を知っているのか、ということが、修治には問題だった。呼び捨てにされるような日本人形の知り合いは、修治の記憶の中にいない。


「聞いているのは、俺だ。何だ、お前は」


 一歩、女が足を踏み出しかけたのを、修治は声の威圧で、それを止める。二人の間に、ぴり、と空気が張っているようだ。冬の空気とは、違う、もっとぴりぴりとした空気が。


「……っ」


 女は、一瞬口を開きかけて、黙る。そして、まっすぐ見つめていた修治から、そこで初めて目を逸らした。


「……駄目、か…」


 女の言葉に、ぴり、と空気が揺れ、凪にさわさわと冷たい空気が混じる。


「しゅうじ…約束…。今はまだ、忘れているか…?」


 冷たい空気に、さらりと女の黒髪が揺れる。日本人形が悲しい笑みを浮かべて、修治をもう一度見て言った。その言葉が、妙に修治の耳にまとわりつく。まるで耳が焼け爛れてしまったか、もしくは脳みそがいかれてしまったかのように、うまく人形の言葉が理解できなかった。ただ、目だけが人形を捕らえていて、さらりと揺れる黒い髪と、その下のやけに白い肌が光に混じる。


「な、に…?」


 言葉を吐きながら、容赦なくぶつけられる日本人形のまなざしに、修治は急に、酒がまわったような目眩を感じる。耳がおかしいのも、人形の言葉が理解できないのも、二日酔いのせいだと、修治は思いこもうとする。急に世界が傾いだように視界が揺れるのも、女が急に現れたのも、傾いだ視界に光が走るのも、きっとすべて、酔いのせいだと。


 足元をふらふらとさせ始めた修治に、また少し悲しそうな顔をして、人形は一歩、修治から離れる。


「やくそく、だ」


 もう一度つぶやいて、日本人形の女は、とろり、と空気に消えた。


「やく、そく…」


 同時に、修治は視界を光に奪われ、その場に昏倒した。


***


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