45 バイバイ

「たかやくんは、どこまでわかっているの?」

 静かな声で、百瀬が問う。

「しおちゃんと私が知り合いで、私が生徒のふりして烏山高校に入るために、しおちゃんに協力してもらった。その様子だと、私が何の目的でここに来ているのかもわかってるみたいね。他には?」

 まっすぐな目で俺を見る百瀬は、いつもよりどこか大人びて見えた。

「俺が知ってることは、もうほとんど話したよ。他に気づいたことといったら、百瀬が本当は大学生ってことくらいだ」

 くすりと百瀬が笑う。

「まいったな、そこまでバレちゃってるの?」

「よその高校に平日に何度も出入りするのは、他校の高校生には難しい。やろうと思えば、できないことはないけどね。それと、前に吉祥寺で小野と会ったんだろ? 私服だとずいぶん大人っぽく見えるって、小野がいってた」

 百瀬は化粧も上手だ。百瀬が烏山生ではないと気づいた時、すぐに年上だろうなと思った。それから、たぶん。

「百瀬は、写真部の桜井先輩の知り合いだろ?」

 はっと顔を上げた百瀬は、すぐに視線を落とした。

「……どうして、知っているの?」

「先週、美術部の知り合いから聞いたんだ。大学で桜井先輩に会ったって。その時に女性と一緒にいたと話していたから、もしかしたら百瀬かなと思った。確信があったわけじゃないけど」

 檜山先輩は、相手の女性の顔は覚えていないといっていた。ずっと俯いていて、つむじしか見えなかったとも。ずいぶん小柄な女性なんだなという感想とともに、俺の頭に真っ先に浮かんだのは、桜色が似合う女の子だった。

「百瀬が探している〈あるもの〉は、桜井先輩の写真だろ? 去年の文化祭で展示された〈真珠の髪飾りの少女〉」

 去年、写真部と美術部のあいだで騒ぎになった、城崎涼子の写真。それを探すことが、百瀬が烏山に来た目的だ。

 百瀬の目が、一瞬、暗い光を帯びた。

「夏休みに会った時、百瀬に実行委員のことを訊ねられて、去年の文化祭の作品を美術倉庫へ運んだと話したよね。だから百瀬は、美術倉庫を探そうと思ったんだ。倉庫から出てきた一年生に、真木の名前を使って鍵を借りた。百瀬の名では借りられない。もし後で問題になったら、無許可で校内に立ち入っていたことが知られてしまうかもしれないから」

 百瀬は、ゆっくりと頷いた。

「しおちゃんには悪いと思ったの。でも、倉庫の近くを通ったら、美術部の子を偶然見かけて。目の前に探している作品があるかもしれないと思ったら、我慢ができなくなっちゃった。写真部の部室も探したんだけど、見つけられなかったの。もう他に手掛かりもないし、これで最後にしようと思って声をかけたのよ。……結局、探していたものは見つけられなかったけど」

 そういって、百瀬はそっと目を伏せた。

「全部、わかっちゃうのね、名探偵さんには」

 小さな呟きに、首を振ってこたえる。

「全部じゃないよ。百瀬がやろうとしたことを繋ぎ合わせて、無理やり理屈をつけただけだ。そんなこと知らないとはねつけられたら、お手上げだった」

「その時はどうしたの? 私が突っぱねちゃったら」

「それは……そうだね、困るかな、すごく」

 百瀬がおかしそうに笑う。

「ダメよ、たかやくん。そういう時は、証拠を突きつけて『あなたが犯人です』ってやらなきゃ。いったでしょう? 探偵さんがぴしっと決めなくちゃ、犯人に逃げられちゃう。私を疑ったのなら、クラス名簿を確認すればよかったのに」

「それは、まあ、そうなんだけど……」

 呆れた顔に苦笑を返す。笑いをおさめると、百瀬はふうと息をはいた。

「ううん、違うの。ごめんね、たかやくん、いじわるいって。たかやくんがそういうことをしない人だって、私、知ってるわ。だから甘えたの。最初に会ったのは偶然だったけど、そのあとは全部、たかやくんの優しさにつけ込んだ。人の良いたかやくんなら、きっと私のお願いを聞いてくれるんじゃないかと思って。写真を探す手伝いをしてもらうつもりで、声をかけたのよ」

 百瀬が俺にバレッタ探しを頼んだ日。あの日の再会は、やはり必然であったらしい。……俺が期待したような、ロマンチックな必然ではなかったかもしれないが。

 両手を強く握りしめて、百瀬はそっと目を伏せた。

「そして今も、私はたかやくんを利用しようとしてる。私が探している写真の場所を、たかやくんは知っているんでしょう? ううん、むしろ、この図書室に持ってきていると思う。たぶん、このカウンターの下に。話をしている時、何度か目が向いていたから」

 百瀬の目が俺を捉えた。

「たかやくん、お願い。その写真を私に見せて」

 大きな瞳の奥にゆらめく、紅い光。その正体を、俺は知らない。執着、怯え、それとも――?

 百瀬が、大きく息をはいた。

「ひどいよね、わかってる。でもね、止められないのよ。桜井くんが残した作品を、どうしても見たい。大学で出会ってから、ずっと桜井くんを見てきたの。なのに」

 細い声に雨音がまじる。かすかな吐息が空気を揺らした。

「私の中には桜井くんしかいないのに、桜井くんの中にはあの子がいるの。私の知らない、真珠の髪飾りのあの子が。どれだけ写真を撮っても、桜井くんの目は私を見てない。彼が見ているものを知りたいのよ」

「百瀬は、桜井先輩の恋人なのか?」

 訊ねるべきか、最後まで迷った質問を口にする。俺の問いに、百瀬は静かに微笑んだ。その口元を見て、質問したことを後悔する。

 少しの沈黙の後、百瀬はポケットから何かを取り出した。

「これね、桜井くんにもらったの」

 カウンターにそっと置かれたそれは、百瀬が探して欲しいといっていたピンク色のバレッタだった。百瀬の明るい髪によく似合う、やわらかな光のローズクォーツ。

「だから、お願い、たかやくん」

 深く頭を下げる百瀬の身体は、小さく震えていた。

「百瀬は、写真が欲しいわけじゃないんだよね?」

 俺の問いに、百瀬はすぐに首を振る。

「違うわ。私は写真を見たいだけ」

「わかった。見せるだけなら、協力する」

 カウンターから立ち上がる俺を、百瀬の視線が追いかける。

「その代わり、美術倉庫荒らしの犯人は真木じゃないと証明するのに協力して欲しい」

「わかったわ」

 カウンターをのぞいて、布を巻いた額縁を取り出す。百瀬が予想した通り、写真は事前に美術部から借りていた。百瀬が写真を欲しいといい出したら考えものだったけれど、見せるだけならば問題ない。

 丁寧に巻かれた布をはずして、カウンターの上に作品を置く。薄暗い天井の照明が、額装された写真に反射した。

 漆黒の髪に輝く純白の珠。白い薔薇を手に、どこか儚げな表情で佇む、美しい少女。

 今はもうどこにもいない、城崎涼子の写真。

「きれいね」

 百瀬の声が、雨粒のようにぽつりとこぼれた。

「ねえ、たかやくん。私のバレッタと彼女の髪飾り、どっちがきれいかなあ?」

 震える声から、そっと目をそらす。正面の瞳を見ることができなくて、城崎の写真に目を落とした。

 写真の中で、美しく咲き誇るブーゲンビリアの赤。石畳に絡むアイビーの深い緑があまりにも鮮やかで、胸が苦しくて呼吸がしづらい。

「俺はアクセサリーのことはよく知らないけど」

 無意味な前置きの後、急いで言葉を続ける。

「真珠の石言葉は〈健康〉と〈富〉。ローズクォーツは〈真実の愛〉。桜井先輩の気持ちがどこにあるかは、百瀬自身が決めればいいんじゃないかな」

 小さく笑みをこぼして、百瀬は両手で顔を覆った。震える肩にかける言葉がなくて、ただ黙ってその場に佇む。

 俺はまだ誰かを愛したことはない。胸をかきむしられるような気持ちで誰かを思ったこともない。だから百瀬の想いも、桜井先輩の気持ちも、俺にはきっとわからないんだろう。たぶん、今は、まだ。

 やがて、百瀬はゆっくりと顔を上げた。

「しおちゃんに、謝らなくちゃ」

 長い睫毛を人差し指で拭って、小さく息をはく。

「前に話したでしょう? 二つ年下のはとこがいるって」

「それが真木か?」

 細い首がこくりと頷いた。

「烏山高校で探したいものがあるから、生徒のふりをして中に入りたいって、ずいぶんと無理をいったの。しおちゃんは反対したけど、私が押し通した。制服を貸してくれたら、あとは黙っていてくれればいいって。お願いを聞いてくれないなら、あの写真を学校の人に見せるぞって、意地悪なことまでいって」

「写真?」

「そう、とっておきのあの子の写真。もう必要ないから、たかやくんから返してくれる?」

 そういうと、百瀬は鞄から白い封筒を出して俺に差し出した。

「もし気になるなら、ちょっと覗いちゃってもいいわ」

「そんなことしないよ」

 うふふと百瀬が笑う。

「私、たかやくんみたいな人を好きになれていたらよかったのに」

 そう呟いて、百瀬はすっと背筋を伸ばした。

「たかやくん、最後にもう一つだけ、お願い聞いてくれる?」

 思わず視線を合わせた先に、百瀬の囁くような声がした。

「夏休みの告白の返事を聞かせて」

「だって、それは……」

「ちゃんと、バイバイさせてね」

 その明るい声に、はっと息を呑んだ。

 そうだ。わかっていたはずだ。百瀬は、もう二度と俺の前には現れないだろう。たぶんそれが、百瀬なりの誠意なんだと思う。

「ごめん、百瀬」

 頭を下げた俺に小さく笑みを返して、百瀬は静かに首を振った。

「ダメよ、たかやくん。女の子をふる時は、冷たくしてあげなくちゃ。中途半端な優しさは毒になるわ」

 少しイタズラっぽい笑みに、こちらも精一杯の笑顔を返す。

 俺は、まだ、誰かを愛したことはない。胸をかきむしられるような気持ちで誰かを思ったことも。けれど。

 それでも、俺の中には、確かに君がいたんだ。

 記憶の中から、あの日の味がよみがえる。喉の奥で交わる、白と琥珀。甘い甘いチョコレートにとける、ほんのわずかな苦み。

 きっと俺は、あの味を忘れることはないのだろう。この先も、ずっと。

 正面の大きな瞳を、まっすぐに見つめ返す。痛む喉と心臓を無理やり押さえ付けて、ゆっくりと笑顔を作った。色を持たない声が、喉の奥を震わせる。

「俺、ホワイトチョコレート嫌いなんだよね」

 桜色の口元が、ふわりとゆるんだ。

「よくできました」

 天使のようなやわらかな笑みで、百瀬がそっと呟く。

「バイバイ、たかやくん」

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