32 憧憬
午前中の用事が全て片付いたのは、十二時半を少し過ぎた頃だった。
東棟の西階段を上がり、二年七組の教室へ向かう。夏休み前に踊り場の壁を工事していた影響か、ほんの少し薬品のような匂いがした。
携帯電話のディスプレイに表示された時計を確認して、一段飛ばしに階段を駆け上がる。
四階まで上がったところで、矢口に出くわした。両手をポケットに入れたまま「おう」と声をかけると、矢口が片手を上げてにこりとする。
「お疲れ。大変そうだな、実行委員」
「まったくだよ、夏休みにこんなに学校に来ることになるとは思わなかったぜ」
大袈裟にため息をつきながら、今日の予定が書かれたメモをひらひらと振って見せる。「どれどれ」と伸びてきた手にメモを渡すと、矢口はさっと目を通して苦笑した。
「大人気だな、高谷くん」
「ああ、人気者はつらいぜ。矢口は? 今日はどうしたんだ?」
「放送委員会。ついさっき会議が終わって、午後からは舞台担当と打ち合わせだ」
矢口は今しがた通ってきたばかりの渡り廊下を親指で指した。確か、放送室は西棟の四階だ。
「笹山さんから小野くん宛の書類を預かってるんだけど、教室にいるかな?」
「今日はクラス企画に集中するっていってたから、たぶん教室にいると思う。昼飯にはまだ出てないし」
「そっか、よかった。笹山さんから急ぎでって頼まれちゃったからさ」
校舎中探さなきゃいけないかと思ったよ、と矢口が肩をすくめる。確かに、あの笹山からの頼みとなれば断れない。
「ご苦労様ですなあ」
「いえいえ、高谷くんほどでは」
軽口を叩きながら並んで廊下を進む。二年七組の教室の前まで来ると、中から賑やかな声が響いてきた。
「だから、それなら富士山と茄子もつけた方がおめでたくてお得じゃん?」
「おめでた過ぎんだよ。それじゃあ面白くなっちまうだろうが。こっちはお前に合わせて、かっこよくきめようとしてんだぞ」
ドアを開けると、クラスメイトたちが相変わらず賑やかに騒いでいた。活気に満ちた輪の中心には、いつも通り小野の姿がある。
「今度は何の話だ?」
輪の端で呆れた顔をしている内田に訊ねる。
「応援旗のデザイン。七組は小野がリーダーだから、応援団ならぬ〈小野援団〉ってことでテーマを決めようってなったんだけど、話が全然まとまんなくてさ」
まいったぜと笑う内田の前では、久保が頭を抱えていた。
「このままじゃ埒が明かねえ」
久保が膝をぱしりと叩いて立ち上がる。
「おい、小野。お前、芸術の美と笑いならどっちを取るんだよ」
「笑い」
「なぁんでぇ!?」
がくりと肩を落とす久保に、教室が笑いに包まれた。
「盛り上がるのはそこまでにして、そろそろ昼飯にしようぜ」
内田が笑いながら立ち上がる。
「そうだな。事務室の前で用務員のおじさんがワックスがけの準備してたし、飯に行くなら早めに済ませた方がいいかもな」
両手を上げて賛成の意を示すと、騒いでいたクラスメイトたちも次々に立ち上がった。
一時間後に集合ということにして、それぞれ教室を出る。
廊下に並ぶロッカーを開けた内田が、顔を顰めて舌打ちをした。
「やっべ、部室に財布忘れて来た」
「マジかよ。陸上部の部室って西棟の向こうだろ? 正門と真逆じゃねえか」
呆れた顔で「間抜けめ」という久保に、内田が「うるせ」と返す。
「すぐ取ってくるから、先に行っててくれ」
そういい残すと、内田は渡り廊下の方へ駆け出して行った。去っていく背中に「上履きでグラウンド下りたら叱られんぞ」と久保が笑う。
「タカちゃんは昼どうする?」
「俺は持って来てるから、適当なとこで食うよ。小野は外に出るだろ? また後でな」
「おう。帰ったらTシャツのデザイン見てくれよ」
「わかった。楽しみにしてるぜ」
階段を下りていく小野に手を振り、ロッカーの奥からカロリーメイトを取り出してポケットに押し込む。
少し迷って、北棟へ向かうことにした。
いつもと同じ、北棟四階外階段。二年になってから、ここで昼を食べるのが習慣になってしまった。
カロリーメイトを口に放り、自販機で買ったいちごミルクで流し込む。もそもそと食べていると、軽い足音がして矢口が顔を出した。
「なんだ、みんなと外に行かなかったのか?」
少し驚きながら訊ねる俺に、矢口がビニール袋を掲げてみせる。
「来る時にコンビニでパンを買ってきてたから。高谷くんこそ、昼飯それだけ?」
「ああ、まあな」
最後のかけらを口に放り込み、空き箱をくしゃりとつぶす。
「ダイエット中なのよね、僕」
おどけた調子で返すと、矢口がくすりと笑った。
「よかったら一つ食べてくれるか? 朝が遅かったから、あんまり腹は減ってないんだ」
「やだ太っちゃう」とふざけながら、矢口が投げたメロンパンを受け取る。階段に腰掛けてあんパンをかじる矢口を前に、ぼんやりと空を見上げながら袋を開けた。ここに航一がいれば、いつも通りの昼休みだ。
「矢口ってさ、どんな曲を聴いてるんだ?」
階段の手すりにもたれてメロンパンをかじりつつ、何となく気になった疑問を口にする。
「いつもヘッドフォンをつけてるだろ? 何を聴いてんのかなってさ」
普段の矢口の印象だと、洋楽とか聴いてそうだ。それか英語のリスニングとか。意外と落語とかかもしれない。
顔を上げた矢口が、気まずそうに頭をかいて俯いた。
しまった。
「あ、いや、ごめん。いいたくないならいいんだ、ちょっと気になっただけだから。悪い、不躾だった」
慌てて頭を下げると、矢口が違う違うと首を振る。
「違うんだ、ごめん、大丈夫。なんていおうかと思っただけだ」
少しだけ黙った矢口が、考えるようにゆっくりと先を続ける。
「別に隠すようなことじゃないよ。ロックバンドの曲だ。日本の。俺の……」
そこで、矢口は少し言葉を濁す。
「まあ、うん、気に入ってるバンドの曲」
珍しく歯切れが悪い。
「好きなバンドの曲ってことか? 矢口がロックを聴くとか、ちょっと意外だな。クラシックの方が似合いそうだ」
「クラシックは授業以外ではほとんど聴かないよ」
ペットボトルの烏龍茶を飲んだ矢口が、小さく息をはく。
「好きってわけじゃない、と思う。よく聴いてるってだけで」
呟くようにこぼして、矢口はもう一度ペットボトルに口をつけた。
「いつも同じバンドの曲なんだろ? そんなに聴いてんなら、それは好きだってことなんじゃないのか?」
むしろ好きでもない曲を繰り返し聴いたりはしないだろう。
「ほんとに、ただ聴いてるだけなんだ。俺は音楽に詳しくないから、この曲の何がいいとか説明できないし。あのリフがかっこいいとか、スネアがどうとかいわれても、いまいちピンとこない。高谷くんが絵のことを話すみたいに、はっきり好きだとはいえない。俺みたいにセンスのないやつがどうこういうのも、なんか悪い気がするしさ」
曖昧に笑う矢口に、胸の奥が騒つく。
何だよそれ。何で矢口がそんなふうに笑うんだ。
「俺だって絵のことに詳しいわけじゃねえよ。技法とか構図とか勉強してねえし」
気づいた時には、大きな声が出ていた。
「好きに理由がいるのかよ。好きなものは好きでいいだろ。矢口がいいなと思ったんなら、それはもう矢口のもんだ。知識がなけりゃ好きだといえないなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。これは俺が好きな音楽なんだって、胸張っていやあいいんだよ」
まずいと思いながらも、口から出る言葉は止まらなかった。
矢口は足も速いし、勉強もできる。人当たりもいいし、まわりに気を配れるし、優しくて物知りで頼りになる。
なのに、何で。
何で、そんな諦めたみたいな顔をするんだ。
もう一度何かをいおうと口を開いたところで、矢口の驚いた顔が目に入った。
「ごめん、なんか、余計なこといった」
我に返って慌てて謝る。俺なんかが矢口に偉そうにいえることなんか何もない。
身の程知らずな言葉を思い返し、恥ずかしさで顔が熱くなる。居た堪れなさを誤魔化すためにそっぽを向くと、ふ、と空気が揺れる音がした。
「うん、そうだな。ほんと、その通りだ」
振り向くと、矢口が肩を震わせて笑っている。
「そういうの、高谷くんらしいよな。羨ましいよ」
目尻に涙を浮かべながら、腹を抱えて矢口が笑う。矢口は普段からよく笑うけど、爆笑している姿を見るのは初めてかもしれない。いつも見せる穏やかな笑みや皮肉混じりの苦笑とは違って、ずいぶんと幼く見えた。
「俺も高谷くんの素直さを見習わないとな」
大きく伸びをした矢口が天を仰ぐ。
「悪かったな、単純で」
「褒めてるんだよ。素直に受け取れって」
にこりと笑った矢口は、見慣れたいつもの笑顔だった。
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